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論文 165 ペライアの任務始まる

論文 165

ペライアの任務始まる

西暦30年1月3日、火曜日、洗礼者ヨハネの12人の使徒のかつての長、ナズィール派であり、以前はエーンゲディーのナズィール派の学校の代表であり、そのときは王国の70人の使者の長であったアブネーは、仲間を集め、彼らをペライアの都市と村々すべてへの任務に送るにあたっての最終的な指示を与えた。このペライア任務は、ほぼ3カ月続き、あるじの最後の活動であった。イエスは、人の姿での最終的な体験をするためにこれらの活動からエルサレムに直接向かった。イエスと12人の使徒の定期的な作業の補助を受ける70人は、ツァフォウン、ガダラ、マカヅ、アーベラ、ラマス、エヅレイ、ボソーレ、カスピン、ミツペ、ゲラーサ、ラガバ、スッコス、アマスス、アダ ーム、ペヌエル、カピトーリアス、ディーオン、ハチタ、ガッダ、フィラデルフィア、イオーグベハ、ギラード、ベス-ニムロー、ティーロス、エレアレー、リーヴィアス、ヘシュボン、カッリッロン、ベス-ペウル、シッティーム、シブマ、メデバ、ベス-メウン、アレオポリス、アロウエルのこれらの市や町、それにおよそ50の村落で働いた。

ペライアのこの巡歴を通して、そのとき62人を数える女性部隊は、病人の世話の大部分を受け持った。これは、王国の福音のより高い精霊面開発の最後の一区切りであり、依って、奇跡の業は不在であった。パレスチナの他のいかなる地域もイエスの使徒と弟子による徹底した扱いをうけなかったし、また善い市民の階級が、全般的にあるじの教えを受け入れたのは、他の地域ではなかった。

ユダ・マッカベーウスの時代のユダヤ人は、これらの地域から一般的には移動を余儀なくされており、このときペライアでは、非ユダヤ人とユダヤ人は相等しい数であった。ペライアは、全パレスチナで最も絵のように美しい地方であった。それは、通常、「ヨルダンの向こうの陸」とユダヤ人に呼ばれた。

イエスは、この期間を通してペラでの宿営と、教え説いて廻る様々な都市での70人の補助に当たる12人との旅に時間を費やした。イエスが託した訳ではなかったが、70人は、アブネーの指示の下にすべての信者に洗礼を施した。

1. ペラの宿営地にて

1月半ばまでには1,200人以上の人がペラに集められ、イエスは、宿営所に住んでいるときは、雨に防げられない限り通常午前9時にはあ話を始め、毎日少なくとも一度はこの群衆に教えた。ペトロスと他の使徒は、毎日午後に教えた。イエスは、12人と他の上級の弟子との通常通りの質疑応答のために夜はあけておいた。夜の集団は、平均して50人ほどであった。

3月中旬までには、すなわち、イエスがエルサレムへの旅を始めるときまでには、イエスかペトロスの説教を聞く大聴衆は、毎朝4,000 人以上いた。自分の知らせに対する人々の関心が頂点に達したとき、あるじは、王国の進展のこの第2、または奇跡を伴わない段階の下での最頂点において地球での仕事を終えることを選んだ。群衆の3/4は、真実探求者であったのだが、たくさんの懐疑者や難癖をつける者と共にエルサレムや他の場所からの多くのパリサイ派が、居合わせていた。

イエスと12人の使徒は、ペラ宿営地に集まった群衆に多くの時間を注ぎ込んだ。12人は、時々アブネーの仲間の訪問のためにイエスと出掛ける以外、野外の仕事にはまず注意を向けなかった。アブネーは、これが、元主人である洗礼者ヨハネがその仕事の大部分をした地域であったので、ペライア地区には非常に馴染み深かった。ペライア任務開始後、アブネーと70人は、ペラ宿営地には二度と戻らなかった。

2. 良い羊飼いについての説教

エルサレムの人々、パリサイ派と他の人々からなる300人を超える一行は、イエスが奉献の終わりにユダヤの管区から遠くへと急ぎ離れたとき、ペラのある北へとイエスの後を追った。そして、イエスが「良い羊飼い」について説教をしたのは、これらユダヤ人の教師と指導者が出席し、12人の使徒も傍聴している時であった。30分間の非公式の議論の後、イエスは、およそ100人の集団に話した。

「今夜あなた方に伝えることがたくさんある。そして、あなた方の多くが私の弟子であり、またある人達は仇敵であるので、それぞれが自分のために心に受け入れられるように私の教えを寓話で提示するつもりである。

「今宵、ここには、私の前には、私のために、そして王国のこの福音のために喜んで死ぬであろう者、また、数年のうちに自らを提供するであろう者がおり、そして、伝統の奴隷であるあなた方の一部は、エルサレムから私を追ってきたり、陰欝で、欺かれたあなた方の指導者達と共に人の息子を殺そうとしている。私が今肉体で送る人生は、本当の羊飼いと偽の羊飼いのあなた方の両方を判断する。もし偽の羊飼いが盲目であるならば、その者に罪はない。だが、あなたは、目が見えると主張する、あなたは、イスラエルの教師だと公言する。従って、あなたの罪はあなたにある。

「本物の羊飼いは、危険に際し夜は群れを囲いの中に集める。そして、朝が来ると、かれは、出入り口から囲いに入り羊を呼ぶと、羊はその声を知っている。羊の囲いへの進入を門からではなく、いかなる他の方法によって為すあらゆる羊飼いは、泥棒であり強盗である。本物の羊飼いは、門番が彼のために門を開けた後に囲いに入る。そして、羊は、その声を知っているので言葉に従って出てくるし、このようにして自分の羊が連れ出されると、本者の羊飼いは、それらの前に行く。彼は道を示し、羊は彼について来る。それらの羊は、彼の声を知っているので、彼について来る。それらは、見知らぬ人にはついていこうとはしない。羊は、その声を知らないので見知らぬ人からは逃げようとする。我々の周りのここに集うこの群衆は、羊飼いのいない羊のようなものである。しかし、我々が話し掛けるとき、彼らは、羊飼いの声を知っており、我々のあとに続く。少なくとも、真実に飢え、正義に渇きをおぼえている人々はそうする。あなた方のうちのある者は、私の囲いのものではない。私の声も知らないし、私についても来ない。また、偽の羊飼いであるので、羊は、あなた方の声も知らないし、あなた方に続かないであろう。」

イエスがこの寓話を話し終えたとき、誰も質問をしなかった。しばらくして、かれは、再び話し始め寓話について検討し続けた。

「私の父の群れの見習いの牧人になろうとする者は、相応しい指導者であるばかりでなく、良い食物を群れに食べさせなければならない。緑の牧草地と溜まり水へと群れを導かないようでは、あなたは本物の羊飼いではない。

「今、あなた方の一部が、あまりに簡単にこの寓話を理解するといけないので、私は、父の羊小屋への門であると同時に私の父の群れの本物の羊飼いでもあると断言する。私なしで囲いに入ろうとするすべての羊飼いは失敗するし、羊はその者の声を聞かないであろう。私は、ともに奉仕する人々といる私は、戸である。私が作成し、定めた手段で永遠の道に乗り出すあらゆる人間は、救われ、楽園の永遠の牧草地到達へと前進できるであろう。

「私も、羊のために喜んで我が命を捨てさえする本物の羊飼いである。泥棒は、単に盗み、殺し、破壊するために囲いに押し入る。だが、私は、あなた方が皆命を得られるように、しかも、それをより豊かに持つことができるようにとやって来た。金銭ずくで働く者は、危険が起こると逃げ、羊は散り散りになり全滅されるがままにするであろう。しかし、本物の羊飼いは、オオカミが来ても逃げない。かれは、群れを保護し、必要なら、羊のために自分の命を捨てるであろう。誠に、誠に、あなた方友人にも敵にも言う、私は、本物の羊飼いであると。私は、私自身を知っており、私自身は私を知っている。私は、危険に際し、逃げはしない。私は、私の父の意志成就のこの仕事を終えるつもりであり、父に保つことを委ねられたこの群れを見捨てるつもりはない。

「私にはこの囲いに属さない他の多くの羊がいるが、これらの言葉は、この世に限って当て嵌まるのではない。これらの他の羊も私の声を聞き、私を知っている。私は、彼らの全てが1つの囲いの中に、神の息子の1つの兄弟愛の中に連れて来られることを父に約束をした。そして、あなた方は全員、1人の羊飼い、本物の羊飼いの声を知り神の父性を知るのである。

「そこで、あなたは、父がなぜ私を愛し、この領域の群れの全ての保護を私の手に委ねたかが分かるであろう。父は、私が羊小屋の保護にたじろがず、羊を見捨ず、必要ならば、多種多様の群れの仕事に私の命を捨てることを躊躇わないということ知っているからである。しかし、もし私が命を捨てるなら、私は、再びそれを取り上げるということを心しなさい。誰も、他のどんな被創造物も、私の命を奪い去ることはできない。私には、自分の命を横たえる権利と力があり、再びそれを始める同じ権威と力がある。あなたはこれを理解することができないが、私は、この世界が存在する以前にさえ私の父からのそのような権威を授かった。」

彼らがこれらの言葉を聞くと、使徒は混乱し弟子は驚き、一方エルサレムやその周辺からのパリサイ派の人々は、夜道へと出ていき、「気が狂っているか、または彼には悪魔がいる。」と言った。しかし、エルサレムの教師の何人かさえ、「彼は権威を持つ者のように話す。そのうえ、生まれついての盲人の目を開いたり、この男がしてきたような全ての驚くべき事をする者を、一体誰が、見たことがあるか。」と言った。

翌日、これらユダヤ人教師のおよそ半分は、イエスを信じると明言し、残る半分は、狼狽しエルサレムの各自の家に戻った。

3. ペラでの安息日の説教

安息日の午後の群衆の数は、1月の終わりまでにはおよそ3,000人に達した。1月28日、土曜日、イエスは、「信用と精霊的準備」について注目すべき説教をした。まずシーモン・ペトロスが所見を述べた後、あるじは言った。

「何度も使徒と弟子に言ってきたことを、私は、今しもこの群衆に宣言する。これらのパリサイ派の多くは、心が正直で、そのうちの何人かが私の弟子としてここに留まるが、偽善で、偏見をもつ親から生まれ、伝統の束縛で養育されるパリサイ派のパン種、すなわち偽善に気をつけなさい。現在、明らかにされないものは何もないのであるから、やがて、あなた方すべてが、私の教えを理解するであろう。人の息子が、肉体での地上の任務を完了したとき、今はあなたから隠れているものは、すべて明らかにされるのである。

「すぐ、本当にすぐ、我々の敵が今秘かに暗闇で計画していることが、明るみに引き出され、屋根で言い広められるであろう。しかし、言っておく、友よ。彼らが人の息子を滅ぼそうとするとき、彼等を恐れてはいけない。肉体を殺すことはできるかもしれないが、その後、あなたに対するどんな力を及ぼすことのないそれらの者を恐れることはない。私は、あなたが天においても地においても何をも恐れず、すべての不正からあなたを救い出し、宇宙の裁判席の前に非のうちどころがないあなたを呈する力を持つ方を知ることを喜ぶように訓戒する。

「5羽の雀は、2ペニーで売れられているではないか。しかも、これらの鳥が食物探索のために飛び廻るとき、その1羽として父に忘れ去られて存在しているものはない。熾天使の後見人には、あなたの頭のその髪の毛さえ数えられている。そして、このすべてが真実であるならば、あなたは、なぜ日常生活で出合う多くの些細なことを恐れて生きなければならないのか。恐れるではない。あなたには沢山の雀よりはるかに価値がある。

「人の前で私の福音への信仰を公表す勇気を持つあなた方のすべてを、私は、やがて天の天使達の前で認めるつもりである。しかし、人の前で故意に私の教えの真実を否定する者は、天の天使達の前で天命の後見者によって否定されるであろう。

「人は、人の息子について何を言おうが、許されるであろう。しかし、大胆に神を冒涜する者は、決して許されないであろう。人が、神の行いと知りつつ、断然悪の力の所為にする場合、そのような周到な反逆者は、その罪への許しを全く求めないであろう。

「そして、我々の敵が、会堂の支配者や高い権威者の前にあなたを連れて行くとき、何を言うべきかを心配せず、また質問にどう答えるべきかに煩わされてはいけない、あなたに宿る精霊が、王国の福音の名誉において何を言うべきかを他ならぬその時に確かに教えてくれるのであるから。

「あなたは、決断の谷間にいつまでぐずついているのか。なぜ2つの意見にどっちつかずでいるのか。なぜユダヤ人または非ユダヤ人は、彼が永遠の神の息子であるという良い知らせの受け入れを躊躇わなければならないのか。嬉々として精霊的な相続への参加をあなたを説得させるのに我々はどれだけ掛かるのであろうか。私は、あなたに父を明らかにし、あなたを父に導くためにこの世に来た。私は、最初の事をしたが、しかし、最後のことはあなたの同意なしにはできない。父は、どんな人にも王国に入ることを決して強要しない。招待は、今までずっとあり、これからも常にある。誰でも望む者は、来させて自由に命の水を相伴させなさい。」

イエスは、話し終えると、彼が残っている人々の質問を聞いている間、多くの者は、使徒の洗礼を受けにヨルダン川へ向かった。

4. 遺産の分配

使徒が信者を洗礼する間、あるじは留まった人々と話した。ある青年が言った。「あるじさま、私の父は、多くの財産を私と兄弟に残して死にましたが、兄弟達は、私の取り分をくれようとしません。そこで、この遺産を分配するように兄弟に言ってくれませんか。」イエスは、この物質に執着する若者が議論の場にそのような質問をするということに憤りを覚えたが、更なる訓示の提示のためにその機会を利用しようとした。イエスは、「私をあなたの調停人にしたてた人、私がこの世の物質的な事象に注意を向けるという考えをどこで得たのか。」と言った。それから、周りにいる者達に向いて言った。「欲深さに注意を払い、自由でありなさい。人の命は、所有しているかもしれない豊かさにはないのである。幸福は財産の力からは来ず、また、喜びは財宝から起こらない。財産は、本来、呪いはないが、富への執着は、しばしばこの世事での執着へと導くので、魂は、神の王国の美しい精霊的な現実の魅力や天上における永遠の命の喜びが判別がつかなくなる。

「豊作をもたらす土地を持つある金持ちの話をしよう。この人は、大金持ちになったとき、あれこれと考え始めた。『私のすべての富をどうしようか。収納する場所もないくらい豊富にある。』と言った。『こうしよう。倉を取り壊しより大きいのを建てれば、収穫物や財産を格納するゆったりした場所ができる。そこで自分の魂に言える。魂よ、長年にわたり沢山の富を蓄えてきた。さあ、安心せよ。食べて、飲んで、陽気でいなさい、お前は豊かで食糧も増えたのだから。』

「だが、この金持ちもまた愚かであった。心と身体の物質的な必要性に備えるに当たり、精霊の満足と魂の救済のために天の宝物を蓄え損ねた。それでも、かれは、蓄えた財産を消費する喜びを楽しむことはなかった、なぜならば、まさしくその夜、その人の魂は彼から取り去られたので。その夜、山賊が、彼を殺しに家に押し入ってやって来て、倉を略奪し、残りは燃やした。そして、強盗から免れた財産は、相続人の間で争われた。この男性は、自分のために地球の宝物を蓄えたが、神に向かっては豊かではなかった。」

青年の問題は、翌深さにあると分かっていたので、イエスは、青年とその遺産にこのように対処した。もしこれが本当でなかったとしても、あるじは、使徒は言うに及ばず、弟子の世事にさえ決して干渉しなかった。

イエスが話し終えると、別の男性が立ち上がって尋ねた。「あるじさま、あなたに続くために使徒達が自分のすべての俗世の所有物を売り払い、またエッセーノス派のように全ての物を共有しているということを知っていますが、あなたは、我々皆を弟子と同様にさせたいのですか。正直な財産を持つことは罪でありますか。」すると、イエスはこの質問に答えて「友よ、立派な財産を持つことは罪ではない。しかし、物質的な財産が、あなたの関心を吸収し、また王国の精霊的な探索からあなたの愛を変えるかもしれない宝物に変換するならば、それは罪である。あなたの宝が天にあるならば、地球にまともに手にした所有物があることには何の罪もない、なぜならば、あなたの宝があるところには、あなたの心もあるのだから。欲深さと利己主義に繋がる財産、そして世俗的なものをふんだんに持つ者の豊かさと、王国の仕事にすべての活力を捧げる者の指示にまったく惜しみなく貢献する人々による慈善事業の精神で保持され分与される富との間には、大きな違いがある。財産のある気前のよい男女が、そのような目的のためにあなた方の主催者ダーヴィド・ゼベダイオスに資金を与えたので、ここにいて、金を持たないあなた方の多くは、あちらの宿営生活をしている町で食べさせてもらい宿を与えられた。

「しかし、財産は、詰まるところ、持続しないということを決して忘れてはならない。財産への執着は、あまりにも頻繁に精霊的な洞察力を被い隠し、破壊さえする。財産が、あなたの使用人ではなく、あなたの主人となる危険性を認識し損うことのないようにしなさい。」

イエスは、浪費、怠惰、家族のために物理的な必需品を提供することへの無関心、または施し物への依存などを教えもせず、是認もしなかった。しかし、物質的で一時的なものは、天の王国での魂の福祉と精霊的な性質の進展に従属しなければならないということを教えた。

それから、人々が洗礼を目撃するために川の側に降りて行くと、遺産に関しイエスが厳しく自分を扱ったと思ったので、最初の男性は、イエスのところに秘かにやって来た。そして、あるじが再び彼の声を聞くと答えた。「息子よ、強欲な気質を満足させるためにこのような日に命のパンを食べるる機会をなぜ逃すのか。あなたが会堂の法廷に苦情を持ち込めば、ユダヤ人の遺産に関する法が公正に執行されるということを知らないのか。私の仕事は、あなたの天の遺産に関してあなたが知るということを確実にすることと関係があるということが、あなたには分からないのですか。聖書を読みませんでしたか。『慎重さと相当の締め付けで富を増す者がおり、そして、その富はその人の報酬分である。この人は、私は休らぎを見つけ、今は絶えずに食べることができると言うが、自分に何が起こるのか、そのうえ死ぬ時にはこれらのすべてのものを他の者に残さなければならないということが分かっていない。』『欲しがってはならない。』と戒律にあるのを読んではいないのですか。また、『彼らは食べて、満ち足り、肥え太り、そして他の神々に振り向いた。』とある。詩篇に『主は、強欲な者を嫌う。』とあり、『一人の正しい者のもつ僅かな物は、多くの悪者の豊かさにまさる。』とあるのを読みましたか。『富が増えても、それに心を奪われてはならない。』イレミアスが、『富める者はその富を誇るな。』と言うところを読んでいないのですか。そして、『彼等は、口では愛しているふりをするが、心では利己的利得を追っている』と、イェゼケイルが真実を語っている。」

イエスは、「息子よ、全世界を獲得しても、あなた自身の魂を失うのであれば、何の益があろうか。」と言って青年を行かせた。

裁きの日に富はいかに評価されるかを尋ねた近くに立つ別の者に答えて、イエスは、「私は、金持ちも貧しい者も裁きに来たのではなく、人が送る生活が、全てを裁くのである。裁きに際して富者が関わるかもしれないその他の何も、巨大な富を得る全ての者が答えなければならない少なくとも3つの質問があり、これらの質問は次の通りである。

1. どれだけの富を蓄積したのか。

2. どのようにこの富を得たのか。

3. いかにその富を用いたのか。

それから、イエスは、夕食の前にしばらく休むために天幕に入った。洗礼を終えてしまうと、使徒達も、やって来て、地球の富と天での宝物に関しイエスと話したかったのだが、イエスは、眠っていた。

5. 富についての使徒への話

その晩の夕食後、イエスと12人が日課の会議のために集まったとき、アンドレアスは、尋ねた。「あるじさま、我々が信者を洗礼している間、あなたは、長居していた群衆へ我々が聞かなかった多くの話をされました。我々のためにこれらの話を繰り返してもらえますか。」そこで、イエスは、アンドレアスの要求に応えて言った。

「よし、アンドレアス、私は、富と自給のこれらの問題について話そう。だが、君達は、単に私に続くのではなく、王国の大使として定められており、全てを見捨ててしまっているのであるから、私が君達弟子に話すことは、群衆に話した事とはいくらか異なっていなければならない。すでに、君達には、数年の経験があり、君達が宣言する王国の父は、君達を見捨てないということを知っている。君達は、自分の人生を王国の活動に捧げてきた。だから、この世での生活のこと、あるいは身体のことで何を食べるか、あるいは何を着るかと心配したり思い悩んではいけない。魂の福祉は、飲食以上のことである。精霊における進歩は、衣類の必要性をはるかに超えるものである。君達が、パンの確かさを疑いたくなるとき、大烏に思い及びなさい。種子も撒かず、収穫もしない。倉庫も、納屋も持たない。それでも父は、探す一羽一羽に食物を与えられる。そして、君達は、多くの鳥よりもどれだけ価値のあることか。おまけに、心配や苛々する疑問のすべては、物質的な必要性を満たすための何もできない。君達のうちの誰も、心配することでその身長に手幅の長さを、その人生に1日を、加えることはできない。そのような問題は、君達の支配の下にはないのに、なぜこれらを憂慮するのか。

百合が、どのように成長するかを考えなさい。精を出して働かず、紡ぎもしない。それでも、あなたに言っておく。栄華をきわめたセロモでさえ、これらの花の1つほどにも着飾ってはいなかった。もし神が、今日は生き、明日は切り倒され火に投げ込まれる野の草にさえそのように装わせるのであれば、天の王国の大使である君達に、それ以上によく着せないことがあろうか。ああ、信仰薄き者よ。心から王国の福音の宣言に専念するとき、君達は、自分や見捨てた家族の支持に関して疑わしい心でいてはいけない。本当に福音に一生を捧げるならば、君達は、福音で生活するであろう。信じているだけの弟子であるならば、君達は、自身の生計をたて、しかも教えて説教し、癒すすべての者の生計に貢献しなければならない。糧と水が気がかりであるならば、君達は、そのような必要なものを非常に勤勉に探す世界の諸国民とどこで違いがあるのか。父と私の双方は、君達がこれらを必要とするということを分かっていると信じて、自分の仕事に専念しなさい。あなたが人生を王国の仕事に捧げるならば、真に必要なものは全て供給されると、これを最後に保証しておこう。より素晴らしいものを求めなさい、そうすれば、劣るものがそこに見つけられるであろう。天なるものを求めなさい、そうすれば、地球なるものが含まれている。影が実体に続くということは、確かである。

「君達は、小さい集団にすぎないが、信仰があるならば、恐怖で躓かないならば、私は、この王国を君達に与えることが父にとっての喜びであると断言する。君達は、財布が古くならないところで、泥棒が奪い取ることができないところで、そして蛾が台無しにすることができない宝物を蓄えてきた。そして、私が人々に告げたように、君達の宝物があるところに君達の心もまたある。

「しかし、我々のすぐ前にある仕事、そして私が父のもとに行った後、君達のために残っている仕事で、君達は、傷ましいほどに裁かれるであろう。君達は全員、恐怖と疑問に用心しなければならない。君達一人一人が、心の腰に帯を締め、明かりを灯し続けなさい。主人が婚宴から帰りきて戸を叩くとき、すぐ開けてあげようと待つ者のようにしなさい。それほどまでに行き届いた使用人は、そのような大切な瞬間に忠実であることを見抜く主人に祝福される。そして、その主は、使用人を座らせ、主人自らが、給仕をするであろう。君達の人生には危機が迫っていると、本当に、本当に、言っておく。そして、君達にはそれを待ち受けて用意をしておく必要がある。

「君達は、泥棒がいつ来るか分かっていれば、誰も家への侵入に悩まないということをよく理解している。君達も心構えをしておきなさい、思いがけない時に思いがけない様で、人の息子は、出発するのであるから。」

数分間、12人は沈黙して座った。これらの警告の幾つかは、以前に聞いていたが、この時に提示された内容ではなかった。

6. ペトロスの質問への答え

彼らが考えながら座っていると、シーモン・ペトロスが、尋ねた。「この寓話を話されるのは、あなたの使徒である我々にですか、それとも、全ての弟子のためですか。」すると、イエスが答えた。

「試煉に際し、人の魂は、明らかにされる。試煉は、本当に心にあることを明らかにする。使用人が試され、合格するとき、家の主人は、そのような使用人を世帯の中に置き、自分の子供等が食事を与えられ、保育されると安心して委せることができる。同様に、私は、私が父のところに帰るとき、私の子供の福祉をだれに任せられるか直に分かる。一家の主が、真の、そして試された使用人に家事を委ねるように、私は、私の王国の情勢に関し、この試煉の時に耐える者達をこそ賞揚するのである。

「しかし、使用人が怠惰であり、心で、『主人の帰りが遅い。』と思い、仲間の使用人を虐待し、酔っ払い達と飲食し始めるならば、主人が、予想もしていないときにやってきて、その使用人が不誠実であることが分かり、不名誉のうちに彼を追放するであろう。したがって、君達は、突然に、そして予想外の方法で訪れるその日のために十分に備えなければならない。覚えていなさい、君達には多くが与えられてきた。したがって、多くのことが要求される。火のような試煉が、君達に近づいている。私には、受けねばならない洗礼があり、それを受けるまでは警戒をしている。君達は、地球の平和を説くが、私の任務は、人の物質的な情勢に平和をもたらしはしない—少なくとも、しばらくは。家族のうちの2人が私を信じ、3人がこの福音を拒絶するような結果からは、分裂しか起こらない。友人、親類、愛する者達は、君達が説く福音に相対するように運命づけられている。これらの信者の各々には心に素晴らしくて持続する平和があるが、地球の平和は、すべての者が進んで信じ、神との息子の資格の栄光の遺産を受け入れるまでは来ないということは本当である。それでも、全ての国に、あらゆる男性、女性、子供にこの福音を宣言しに全世界に向かいなさい。」

これが、盛り沢山で忙しい安息日の1日の終わりであった。翌日、イエスと12人は、アブネーの指揮下にこれらの地域で働いていた70人を訪れるために北ペライアの町々に入った。