論文 180 送別の訓話

   
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論文 180

送別の訓話

最後の晩餐の終わりに詩篇を吟じた後、使徒達は、イエスがすぐ宿営所に戻る意向だと思っていたが、かれは皆に座るように指示した。あるじは言った。

「 巾着も財布も持たず、その上、余分な衣服も携帯しないよう助言して君達を送り出したときのことをよく覚えているであろう。そして、君達は全員、何も不足しなかったと思い出すであろう。しかし、今は、やっかいな時節に遭遇してしまった。もはや、群衆の好意を当てにすることはできない。今後、巾着を持っている者には、それを持たせなさい。この福音を宣言しに世の中に出かけるとき、最善と思われる状態で備えなさい。私は、平和をもたらすためにやって来たが、それは、しばらくは来ないであろう。

「人の息子が賛美される時が今来た。そして、父は、私の中で賛美される。友よ、私は、ほんのあと少しだけ君達といることになっている。君達はすぐ、私を捜し求めるであろうが、見つけられないであろう、なぜなら、私は、君達がいまは来られない場所に行くのであるから。しかし、私が今私の仕事を終えたように、君達が地球での仕事を終えるとき、私が今父のところへ行く準備をするように、君達は私のところに来るであろう。私は、ほんの短時間のうちに君達を後に残し、君達は、もはや地球で私には会えないが、父が私に与えられた王国に昇る時代には私に会えるであろう。」

1. 新たな戒め

少しの間の打ち解けた会話の後に、イエスは、立ち上がって言った。「君達にいかに進み、互いに仕え合うべきであるかを示す寓話を演じたとき、私は、新たな戒めを与えたいと言った。だから、君達を後にしようとしている今、私は、そうしたい。君達は、互いを愛すようにと、自分を愛するように隣人を愛すようにと、教える戒めをよく知っている。しかし、私は我が子等によるその心からの献身にさえも完全には満足していない。私は、信じる兄弟愛の王国の愛からくるより大きい行為を君達にさせたい。そこで、私は、この新しい戒めを君達に与える。私が君達を愛したと同じように、君達は互いに愛し合いなさいと。そして、もしこのように互いが愛し合うならば、これにより、すべての人は、君達が私の弟子であるということを知るのである。

「新たな戒めを示すとき、私は、君達の魂に少しの新たな負担も課してはいない。それどころか、新たな喜びを君達にもたらし、そして、君達が、仲間である人々へ君達の心の愛情を振り撒く喜びを知ることで新たな喜びの経験を可能にしているのである。私は、君達やその仲間である死すべき者達への愛情の贈与において外面的には悲しみに耐えているが、最高の喜びを経験しようとしている。

「私が、君達を愛したように、君達が互いに愛し合うようにと誘うとき、私は、君達の前に最高規準の真の愛情を明らかにしており、誰も、これよりすばらしい愛を得ることはできないからである。つまり、友のために自分の命を捨てるということ。そして、君達は、私の友なのである。私が君達に教えたことを自発的に実行を望みさえすれば、君達は、私の友であり続ける。君達は、私をあるじと呼んできたが、私は、君達を下僕とは呼ばない。私が君達を愛するように互いを愛し合いさえすれば、君達は、私の友になるであろうし、私は、父が私に明らかにするそれを君達にいつも話すのである。

「君達は単に私を選んだのではなく、私もまた君達を選び、私が君達と暮らし父を明らかにしたように、私は、君達が、仲間へ愛情の奉仕のその成果をもたらすために世界へ送り出すために、君達を叙階したのであった。父と私は君達と共に働くのであり、私が君達を愛したように、互いを愛するという私の戒めに従いさえすれば、君達は、神性の喜びの充満を経験するであろう。」

君達は、あるじの喜びを分かち合うならば、彼の愛を共有しなければならない。そして彼の愛を共有するということは、彼の奉仕を分かち合うことを意味する。愛のそのような経験は、この世の困難から君達を救い出しはしない。新世界を創造しはしないが、それは、確かに古い世界を新しくはする。

心に留めておきなさい。イエスが要求していることは、犠牲ではなく、忠誠である。犠牲の意識は、そのような情愛深い奉仕を最高の喜びとする心からの愛情の欠如を意味する。義務の考えは、君達が使用人気質であり、したがって、友人としての奉仕、または友人のための奉仕をする素晴らしい心の震えを逃していることを意味する。友情の衝動は、任務へのすべての信念を越え、友人への友人の奉仕を犠牲とは呼ばない。あるじは、使徒が神の息子であることを教えた。かれは、彼らを同胞と呼んできた。そして、いま使徒達を後にする前に友と呼ぶ。

2. 葡萄の木と枝

それから、イエスは、再び立ち上がり使徒への教えを続けた。「私は、真の葡萄の蔓であり、私の父は、農夫である。私は葡萄の蔓であり、君達はその枝である。父は、君達がたくさんの実をつけることだけを私に要求される。葡萄の蔓は、その枝での豊饒を増すためにだけ剪定される。父は、私から出て来て結実しないすべての枝を取り除くであろう。実をつける全ての枝を、父は、さらに実をつけるようにきれいにするであろう。すでに、君達は、私が話した言葉を通して清いのであるが、清いままでいなければならない。君達は私の中に、私は君達の中に留まらなければならない。枝は、蔓から切り離されたならば死ぬであろう。枝は、蔓に留まらなくしては実をつけることができないし、君達は、私の中にいる者を除き、愛の果実をもたらすこともまたできない。覚えていなさい。私は、本当の葡萄の蔓であり、君達は、生ける枝である。私の中に生きる者は、また、私がその者の中に生き、多くの精霊の果実をもたらし、この精霊の収穫をもたらす最高の喜びの経験をするであろう。私とのこの生ける精霊的な関係を維持するならば、君達は、豊富に実をつけるであろう。私の中に留まり、また私の言葉が君達の中に住むならば、君達は、私と自由に親しく交わることができ、そこで、私の精霊が意図することを何でも尋ねることができ、父が我々の陳情を許すという保証でこの全てをすることができるように私の生ける精霊が君達に注ぐのである。このようにして父が讃えられる蔓には、多くの生ける枝があるということ、そしてあらゆる枝にたくさん実がなるということ。世界が、これらの実をつける枝—私が彼等を愛したように互いを愛し合う我が友人—を見るとき、すべての人は、君達が本当に私の弟子であることを知るであろう。

「父が私を愛されたように、私は君達を愛してきた。私が父の愛に生きるように私の愛に生きなさい。私が君達に教えた通りにするならば、私が父の言葉に従い、その愛に変わることなく留まるように、君達は、私の愛に留まるであろう。」

長い間ユダヤ人は、救世主が、ダーヴィドの祖先の「蔓から出てくる茎」であると教えていた。そして、この昔の教えの記念のために、葡萄と附随するその蔓の大きい表象が、ヘロデの寺院の入り口を飾っていた。この夜あるじが階上で自分達に話す間、使徒は皆、これらの事を思い出した。

しかし、あるじの祈りに対する言及への曲解の結果、後に大いなる憂いが、生じた。もし彼の正確な言葉が記憶されており、その後ありのままに記録されていたならば、これらの教えにさほど困難はなかったであろうに。しかし、記録されたように、信者達は、求めるものは何でも父から受け取ると考えた一種の最高の魔法を、やがてはイエスの名前における祈りと考えた。何世紀もの間、正直な魂をもつ者は、この躓きの石に向かいその信仰を破壊させ続けた。信者の世界は、祈りとは、自分の思い通りにする過程ではなく、むしろ父のやり方を取り入れる目論見であること、いかに父の意志を認識し、実行するかを知る経験であるということを理解するのにどれだけ時間が掛かるのであろうか。君の意志が、彼のものと本当に連合するとき、君は、その意志連合によって心に抱くことは何でも要請することができるし、叶えられるということはまったくもって本当である。そして、そのような意志連合は、蔓の命が生ける枝へと、そして、その枝を通して流れるように、イエスにより、またイエスを通して生じる。

神性と人類とのこの生きた繋がりがあるとき、人類が軽率に、無知に利己的な寛ぎや虚栄の成果を祈っても、神性の答えはただ1つ、精霊の実が、生きている枝の茎に一層の、そして増加の結実をもたらす以外の何もあり得ない。蔓の枝が生きているとき、そのすべての願いにはただ1つの答え、増加した葡萄の結実しかあり得ない。実際のところ、枝の唯一の存在目的は、実をつけ、葡萄をもたらす以外に何もない。真の信者もまた、精霊の実をつける目的のため、彼が神に愛されるように、人を愛するためだけに存在する。—ちょうどイエスが我々を愛したように、我々が互いを愛し合うべきであるということ。

そして、父の規律の手が蔓に置かれるとき、それは、愛をもって、枝に多く実をつけることができるようにされる。そして、賢明な農夫は、死んで実りのない枝だけを切り取る。

イエスは、使徒にさえ、祈りが、精霊に支配される王国において精霊生まれの信者の機能であると認めさせることに非常な困難を伴った。

3. 世界の敵意

11人が、やっと蔓と枝の訓話に関する議論をやめると、あるじは、さらに話すことを望んでいたこと、また自分の時間の短いことを知って彼らに言った。「私が君達を去った後、世界の敵意に落胆してはいけない。気の弱い信者が、背をむけ、王国の敵と手を握り合っても意気消沈してはいけない。世界が君達を嫌っても、それは君達を嫌う前にすでに私を嫌っていたと思い出さなければならない。君達がこの世界のものであるならば、世界は、君達を愛するであろうが、そうではないのであるから、世界は、君達を愛することを拒否するのである。この世界にいるが、君達の人生は、俗世間らしいものではない。私は、君達が選ばれた世界にすら別の世界の精霊を代表させるためにこの世界から君達を選んだ。しかし、私が君達に話してきた言葉をいつも覚えていなさい。使用人は、その主人より偉くはない。あえて私を迫害するというのなら、かれらは、君達をも迫害するであろう。私の言葉が不信心な者を怒らせるというのなら、君達の言葉も不敬者を怒らせるであろう。そして、かれらは、私も私を送られた方をも信じてはいないのであるから、この全てを行うであろう。そして、君達も、私の福音のために多くの事で苦しむであろう。しかし、これらの苦難に耐えるとき、私もまた、天の王国のこの福音のために君達の前で苦しんだということを思い出すべきである。

「君達を襲う人々の多くは、天国の光を知らないが、今我々を迫害する者達には、これは本当ではない。我々が真実を彼らに教えていなかったならば、かれらは、有罪宣告を受けることなく多くの奇妙なことをするかもしれないが、現在、かれらは、光を知っており、それを敢えて拒絶したので、自らの態度に何の弁解もない。私を嫌う者は、父を嫌う。そうでないはずがない。もし受け入れるならば君を救うその光は、故意にそれを拒絶するとき、必ず君を咎める。それほどに凄まじい憎しみをもって私を嫌うほどに、私がこれらの人間に一体何をしたというのだ。地上での親交と天での救済の提供以外には何もしてはいない。それにしても、君達は、聖書に『理由なくして私を嫌った。』とあるのを読んだことはないのか。

「だが、君達をこの世に放っておくつもりはない。すぐ、私が去った後、精霊の助手を君達に遣わす。真実の道を君達に教え続け、慰めさえする者が、私の代りに君達の間にいて君達とともにいるであろう。

「心を煩わせるでない。君達は神を信じている。私をも信じ続けなさい。私は、去らなければならないが、君達からは遠くないところにいる。父の宇宙には滞在する場所が多くあると、私は、すでに君達に言ってきた。これが真実でなければ、私は、それについて繰り返し話しはしなかったであろう。私は、これらの光の世界に、君達がいつか昇る父の天国の拠点へと戻っていくのである。私は、これらの場所からこの世界に来た。そして、私が天界での父の仕事に戻らねばならないその時は、真近である。

「このようにして、私が、君達より先に父の天の王国に行ったとしても、この世界の存在以前に神の人間の息子等のために用意された場所に君達が私といられるように、きっと君達を呼びに来させる。君達を後にしなければならないが、私は精霊の形で君達と共にいるであろうし、私がより大きい宇宙にいる父の元に昇ろうとしているように、君達は、結局私の宇宙にいる私の元に昇ってきたとき、私と居るようになる。そして、君達は、完全には理解できないとしても、私が君達に言ったことは本当であり、永続する。私が父のところに行き、そして君達は、今私について来ることはできないが、来る時代には確かに私に続くのである。」

イエスが座ると、トーマスが立って言った。「あるじさま、我々はあなたがどこに行かれるのか分かりません。勿論、その道が分かりません。でも、道を示してくだされば、まさしく今夜、我々は、あなたについて行きます。」

トーマスの言葉を聞いたイエスが、答えた。「トーマスよ、私がその道であり、真実であり、命である。私を通さずして、誰も父の元へは行かない。父を見つける者全てが、まず私を見つける。私を知るならば、父への道を知る。そして、共に暮らしてきて、いま私を見ているのであるから、君は私を知っている。」

しかし、この教えは、使徒の多くにとり、特にフィリッポスには深過ぎ、かれは、ナサナエルと二言三言交わした後に立ち上がって言った。「あるじさま、父をお見せください。そうすれば、あなたの仰っしゃったことが全てはっきりします。」

フィリッポスが話し終えると、イエスは言った。「フィリッポス、私は長い間君と一緒にいなかったか、それでも今だに私を知らないのか。再びしかと言っておく。私を見た者はすでに父を見た。なのに、父を見せろなどと何故言えるのか。私は父の中におり、父は私の中にいるということを信じないのか。私の話す言葉は、私のものではなく、父の言葉であるということを教えてはこなかったか。私は、父のために話すのであって、自分のためではない。私は、父の意志を為しにこの世界に来たし、それを為した。父は、私に留まり、私を通して働かれる。父が私の中に、また私が父の中にいると言うときの私を信じなさい。でなければ、私が送ったその生活そのものに基づいて—仕事に基づいて—私を信じなさい。」

あるじが喉を潤すために脇に行くと、11人は、これらの教えに関する活発な議論に入り、イエスが戻り皆に席につくよう合図すると、ペトロスは、長い自分の意見を述べ始めた。

4. 約束された助手

イエスは教え続けた。「私が父の元へ行ったとき、私が君達のためにした地球での私の仕事を父が完全に受け入れた後、私自身の領域での最終的な主権を受け取った後、私は、父に伝えるつもりである。地球に私の子等を残してきて、彼らに別の教師を送ることが、私の約束に順じていますと。そうして、父が承認するとき、私はすべての肉体に真実の聖霊を注ぐのである。すでに、父の精霊は君達の心にあり、また、その日が来るとき、ちょうどいま君達に父がいるように、君達には私もいるであろう。この新しい贈り物は、生ける真実の精霊である。不信心者は、この精霊の教えを初めは聞かないであろうが、光の息子は皆、喜んで心の底から彼を受け入れるだろう。そして、ちょうど君達が私を知ったように、彼が来るとき、君達は、この精霊を知るであろうし、心にこの贈り物を受け取り、そして、彼は、君達と留まるであろう。私は、助けと導きなしには君達を置き去りにするつもりでないということが、このようにして分かるであろう。今日、私本人が、君達といることができる。そのうちに、君達が何処にいようとも、私は君達と、また私の臨場を望む他のすべての人々と共に、しかも同時にそれぞれの者と共にいるであろう。私が立ち去る方が良いとは見極めないのであるか。私が精霊の中でより良く、さらに完全にいることができるように君達を肉体のままで残すことが良いというということ。

「世界は、わずか数時間で私をもう見ないであろう。しかし、私がこの新しい教師、真実の精霊を遣わす前にさえ、君達は、心で私を知り続けるであろう。私が自ら君達と生きてきたように、私は君達の中に生きる。私は、精霊の王国での君達の個人的な経験をもって君達と1つになるであろう。そして、これが起こるとき、君達は、私が父の中にいることを、また、君達の命が父と共に私のうちに隠されている間、私が君達の中にもいるということを確かに知るであろう。私は、父を愛し、父との約束を守ってきた。君達は、私を愛してきたし、私との約束を守るであろう。父がその精霊を私に与えてくれたように、私は、私の精霊を君達に与える。そして、私が君達に与えるこの真実の聖霊は、君達を導き、慰め、遂にはすべての真実へと導くのである。

「今まさに我々を襲いくるそれらの試練に君達が耐える用意ができるようにと、私がまだ君達と居る間に、私は、これらのことを伝えているのである。そして、この新たな日が来るとき、君達には父だけでなく息子が住まうであろう。そして、1人の人間として、人の息子として、地上で、しかも君達のちょうど目の前で父と私が働いたように、天のこれらの贈り物は、ずっと他の贈り物とともに働くであろう。そして、この精霊の友は、君達の記憶に私が君達に教えたすべてを持って来るであろう。」

あるじがしばらく休止すると、ユダ・アルフェウスが、兄弟のどちらかがかつて人前でイエスに尋ねたことのある数少ない質問の1つを大胆にした。ユダは、言った。「あるじさま、あなたは友人として我々の中でいつも生きてこられました。この精霊による手段を除き、もはや我々に姿を見せないとき、どのようにあなただと知るのでしょうか。世界があなたを見ないのであれば、我々は、あなたのことをどのように確信するのでしょうか。いかように我々にあなた自身見せてくださるのですか。」

イエスは、彼らを見下ろし微笑んで言った。「幼子達よ、私は立ち去る、父へと戻っていくところである。間もなく、君達は、生きた人間としてここで見ているようには私を見なくなる。私は、すぐに、この有形の肉体を除いた、ちょうど私のような私の精霊を君達に送るつもりである。この新しい教師は、心の中で君達各自と同居する真実の精霊であり、それ故、すべての光の子供が1つになり、互いに引き合うようになる。そして、まさしくこの方法で、父と私は、君達それぞれの魂のなかに、また互いを愛し合うことにより、ちょうど私がいま君達を愛しているように、自身の経験でその愛を本物にする全ての者の心の中でも生きることができる。」

ユダ・アルフェウスは、あるじの言ったことを完全に理解したという訳ではないが、新しい教師の約束を把握し、アンドレアスの表情から、自分の質問が満足に答えられたと悟った。

5. 真実の精霊

イエスが信者の心に送る、すべての肉体に注ぐと約束した新たな助手は、真実の精霊である。この神性の贈与は、真実の形式でもなければ法律でもなく、いずれも、真実の形、あるいはその表現としては機能しない。新しい教師は、つまり真の精霊の基準における真の意味の意識であり保証である真実の確信である。そして、この新しい教師は、生きた、発達する真実、すなわち拡大し、展開し、適応できる真実の精霊である。

神性の真実は、精霊により明察された、しかも生きた現実である。真実は、神性の実現と神との親交意識の高い精霊的な段階にだけ存在している。人は、真実を知ることができるし、真実に生きることができる。人は、真実の成長を魂で経験し、その啓発の自由を心で楽しむことはできるが、真実を公式、規則、教義、あるいは人間の行為の知的な規範に封じ込めることはできない。人は、人間が神性の真実の公式化を請け合うとき、それは即座に死ぬ。封じ込められた真実の死後の残存物は、よくても結局は、知的に扱われ賛美された知恵の実現に終わるに過ぎない。静止の真実は、死んだ真実であり、死んだ真実のみが、学説として保持できる。生きた真実は、動的であり、人間の心で経験的な存在だけを楽しむことができる。

知性は、宇宙の心の臨場に照らされる物質的な存在から起こる。知恵は、意味の新段階に高められた知識の意識、そして知恵の援助である宇宙贈与の臨場により活動的にされた意識からなる。真実は、宇宙意識の超物質段階で機能する精霊受領者達が、そして真実の実現の後に、魂の中で生きて支配するためにその精霊起動を可能にする精霊受領者達だけが経験する精霊的な現実価値である。

宇宙洞察の本物の子は、あらゆる名言に真実の精霊を探す。神を知る個人は、神性到達の生ける真実の段階へと絶えず知恵を高める。精霊的に進歩的でない魂は、生ける真実を知恵の死ぬ段階へと、また単なる高尚な知識の領域へと引き摺っている。

黄金律は、真実の精霊の超人的な洞察が剥ぎ取られるとき、高い倫理的行為の規則にしかならない。文字通り解釈されるとき、黄金律は、仲間への大きな違反手段になるかもしれない。人は、すべての人が心中にある全てを隠すことなく話すことを願ってやまないので、知恵に対する黄金律の精霊的な洞察がなければ、自身も遺憾なく赤裸々にその心の全思考を仲間の人間に話すべきであると理由づけるかもしれない。黄金律のそのような非精霊的な解釈は、明かされない不幸や終わりのない悲しみの結果をもたらすかもしれない。

一部の人間は、人間の友愛の純粋に知的な確認として黄金律を裁量し、解釈する。他の人間は、人間の人格の穏やかな感情を心情的な満足感として、人間関係のこの表現を経験する。別の人間は、この同じ黄金律が全ての社会的な関係を判断するための尺度、社会的行為の基準であると認める。さらに他の人間は、この言葉に表現される道徳上の義務に関する最高の概念を全友愛関係と見なすので、それを偉大な道徳的教師の明確な命令であると見る。そのような道徳的な人間の人生において黄金律は、彼等の全哲学の賢明な中心であり外周になる。

神を知る真実の愛好者の信仰深い兄弟愛の王国においては、この黄金律は、信者間の接触から生まれる最高に可能な善を受ける仲間に自身を関連づけ合うことを要求して、あるじのこの命令を神の人間の息子達に見させる解釈のより高いそれらの段階において、精霊的な認識の生きた性質を引き受ける。これは、自分を愛するように隣人を愛するという真の宗教の本質である。

しかし、黄金律の最高の実現と最も正しい解釈は、そのような神性の宣言の持続し、生きた真実の精霊の意識にある。宇宙における関係の広大無辺の意味は、その精霊的な認識に、つまり必滅者の魂に宿る父の精霊への息子の精霊の行為の法解釈においてのみ明らかにされる。そして、そのような精霊に導かれた必滅者が、この黄金律の真の意味を認識するとき、好意的な宇宙における市民権の保証に満たされ、イエスが、我々皆を愛したように、皆が仲間を愛する場合に限り、精霊現実の彼等の理想は、満たされ、そしてそれは、神の愛の実現の現実である。

神のあらゆる息子の個々の必要性と能力への神性の真実の生きた柔軟性のと広大無辺の適応性のこの同じ哲学は、あるじの教えと悪への無抵抗の実践を適切に理解できる前に理解されなければならない。あるじの教えは、基本的に精霊的な表明である。彼の哲学の物質的含意さえも、精霊的なそれらの相関関係から離れては、有用的には考えられない。あるじの命令の精神は、宇宙に対するのすべての利己的な反応の無抵抗にあり、真の精霊的な価値—神性美、無限の善、永遠の真実の価値—神を知り、ますます神のようになること—の正義の積極的かつ進歩的な段階への到達と結びつく。

愛、私心の無さは、真実の精霊の先導に従い、関係性についての不断の、生きた、再度適応できる解釈に従わなければならない。それにより、愛は、愛される個人の最高の広大無辺の善の変化し続け、拡大する概念を把握しなければならない。それから愛は、宇宙の他の公民への精霊主導の人間の愛からくる成長し、生ける関係によって影響を及ぼすことができた他のすべての個人に関してこの同じ態度をとり続ける。そして、愛の全てのこの生きた適応性は、現在の悪の環境、そして神性の運命の完全の永遠の目標の両方の光の中で作用しなければならない。

そして、我々は、黄金律も無抵抗の教えも、教義、あるいは教訓として適切に理解することができないと明らかに認めなければならない。それは、ただ生きることにより、すなわち、1人の人間を他の人間への愛ある接触へ向ける真実の精霊による生きた解釈での意味の理解によってのみ把握することができる。

そして、このすべては、旧宗教と新宗教の違いを明確に示す。古い宗教は自己犠牲を教え、新しい宗教は、ただ無私を、社会奉仕と宇宙理解に結合された自己実現を教える。古い宗教は、恐怖の意識により動機づけられた。王国の新しい福音は、真実の確信、永遠かつ普遍の真実の精霊により支配される。そして、いかなる敬虔の度合い、あるいは宗派の忠誠の度合いも、生きた神の精霊生まれの息子を特徴づける自発的な、思いやりのある、心からの友情のある王国の信者の人生経験における欠落を埋め合せることはできない。伝統も形式的な崇拝体系のいずれも、仲間への正真正銘の思い遣りの不足を償うことはできない。

6. 去ることの必要性

ペトロス、ジェームス、ヨハネ、マタイオスからの多くの質問後、あるじは、送別の訓話を続けた。「君達が遭遇しようとしていることに備えができるように、重大な誤りに躓くことのないように、私が去る前にこのすべてを話しているのである。当局は、君達を単に会堂から追い出しても満足しないであろう。神に仕えていると考えるであろう者たちが君達を殺す時間が切迫していると、私は警告する。彼等は、父を知らないが故に君達や君達が天の王国に導こうとしている者達にこのすべてをするのである。彼らは、私を受け入れることを拒否することにより父を知ることを拒否した。そして、私が君達を愛したように、君達が、互いに愛し合うという私の新しい戒めを守るならば、彼らは、君達を拒絶し、私の受け入れを拒否するのである。私の時間がいま来たように、君達の時間が来るとき、私にはすべてが分かっているということ、そして、私と福音のための君達の受難のすべてには私の精霊が君達と共にいるという知識で君達が力づけられるようにこれらについて前もって教えているのである。私は、この目的のために、そもそも最初から非常に明らかに君達に話している。人の敵は、その人自身の家庭の者であるかもしれないとさえ警告してきた。王国のこの福音は、たがうことなく個々の信者の魂にすばらしい平和をもたらしはするが、人が心から私の教えを信じ、必滅の運命にある人生を送る上での主な意図として父の意志を為す習慣を定めるまでは、それは、地球に平和をもたらさないであろう。

「今私が去るということ、私が父の元に行こうとするその時が来たことを知り、君達の誰一人として、何故去るのかを私に尋ねなかったことに驚いている。それでも、私は、各人の心ではそのような質問をしているのが分かる。私は、1人の友としてはっきりと言おう。私が離れていくということは、君達には誠に有益なことである。もし私が離れていかなければ、新しい教師は、君達の心に入ることができない。君の魂で生き、君の精霊を真実に導くためにこの精霊の師を送り出すことができる前に、私は、この必滅の肉体を剥奪し、天の自分の場所に復位されなければならない。そして、私の精霊が君に宿ると、かれは、罪と正義の違いを照らし、それらに関して君の心で賢明に判断することを可能にするであろう。

「更に言うことはたくさんあるが、君達は、今はもはや耐えられないであろう。とは言え、彼が、真実の精霊が来るとき、君が父の宇宙の多くの住まいを通り抜ける間、かれは、遂には君をすべての真実に導くのである。

「この精霊は、自分について話しはしないが、父が息子に明らかにしたことを君達に宣言し、来るものを君達に教えさえするであろう。」まさに私が父を賛美したように、かれは、私を賛美するであろう。この精霊は、私から来るのであり、君達に私の真実を明らかにする。父がこの領域に持つすべては、現在、私のものである。それゆえに、私は、この新しい教師が、私のものを取り、それを君達に明らかにすると言ったのである。

「もう少しで、君達を少しの間置いて行く。その後、君達が、再び私と会うとき、私は、すでに父の元へ行く途中であろうから、その時でさえ、君達は、私に長くは会わないであろう。

イエスが息継ぎをする間、使徒は、互いに話し始めた。「我々に言っている事は何なのか。『もう少しで、君達を置いて行く。』そして、『君達が、再び私と会うとき、私は、すでに父の元へ行く途中であろうから、長くは私に会わないであろう。』とはどういうことであろうか。我々に何を言っているのか分からない。」

イエスは、皆がこれらの質問をすることが分かっていたので言った。「私が間もなく君達とはいないであろうと、君達が再び私を見るときは、私は父の元に行く途中であると言ったとき、君達は、私が、何を意味したのかと互いに訊き合っているのか。私は、人の息子は、死ななければならないが、再び蘇るとはっきりと言った。君達は、私の言葉の意味を悟ることができないのか。君達は、最初は悲しくなるであろうが、後には、事が起きた後、これらの出来事を理解する多くの者と共に喜ぶであろう。女性というものは、苦悩の時には本当に悲しむが、一度子供を産むと、人というものが世界に生まれたという認識の喜びに自分の苦悶をすぐにを忘れる。だから、君達も私の出発を悲しむであろうが、私は、すぐ再び君達に会うし、次には、君達の悲しみは、悦びに変えられるであろうし、その上、誰も決して君達から取り上げることのできない神の救済の新しい顕示が君達に来るであろう。そして、全世界は、死の克服をもたらす際の命のこの同じ顕示に祝福されるであろう。これまで、君達は、父の名においてすべての要求をしてきた。再び私に会った後は、君達は、私の名において求めることができ、そして私は、君達の声を聞くのである。

「ここ地球において、私は、君達に諺を教え、寓話を話してきた。私は、君達が精霊においては子供に過ぎなかったので、そうした。しかし、私が父とその王国に関して明らかに話す時が近づいている。そして、父自身が、君達を愛し、より完全に自分を君達に明らかにされることを望むので、私はこうするのである。必滅者は、精霊の父を見ることができない。だから、私が、君達被創造者の目に父を見せるためにこの世界に来たのである。しかし、精霊の成長が完成するとき、その時、君達は、父自身に会うであろう。」

11人は、話を聞き終わると互いに言った。「ほら、分かり易く話されている。確実に、あるじは、神から来られた。しかし、なぜ父の元に戻らなければならないと言われるのか。」そして、イエスは、皆が未だに理解していないことが分かった。この11人の男性は、ユダヤ人の救世主の概念に関する長く抱いてきた自分達の考えから逃がれることができなかった。救世主としてイエスを信じれば信じるほど、地球の王国の栄光の物質的な勝利に関するこれらの根深い概念は、ますます厄介になるのであった。

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