論文 176 オリーヴ山の火曜日の夕べ

   
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論文 176

オリーヴ山の火曜日の夕べ

この火曜日の午後、イエスと使徒がゲッセマネ寺院から宿営所へと行く途中、マタイオスが寺院の工事に注意を促して言った。「あるじさま、これらの建物の様子をご覧ください。大きな石と美しい装飾を見てください。これらの建築物が破壊されることがあり得ましょうか。」オリーヴ山の方へ進みながら、イエスは言った。「君は、これらの石とこの大規模な寺院を見ている。本当に、本当に、言っておく。1つの石の上に他の石が残されることがなくなる日がやがて来るであろう。それらは、全て崩されるであろう。」神聖な寺院の破壊を表現するこれらの言葉は、あるじの後ろに続いて歩いていた彼らの好奇心を刺激した。かれらは、寺院の破壊を引き起こす世の終わり同然のいかなる出来事も急には想像できなかった。

キドローン谷に沿ってゲッセマネに向け通過していく群衆を避けるため、イエスと仲間は、オリーヴ山の西斜面の短い距離を登り、次に、公共の野営場の上の近距離に位置するゲッセマネ近くの自分達の私設の宿営所への道に続くつもりでいた。彼らが、ベサニアに通じる道へ向きを変えたとき、落日の光線に栄える寺院を見た。そして、山上に留まる間、かれらは、都に明かりが現れるのを見たり、照らされた寺院の美しさに見入った。そして、イエスと12人は、そこで、満月の柔らかい光の下に座った。あるじは、彼らと話していた。まもなく、ナサナエルが、この質問をした。「教えてください、あるじさま。これらの出来事がいつ起ころうとしているかを私達はどのように知るのでしょうか。」

1. エルサレムの破壊

ナサナエルの質問に答えて、イエスは、言った。「よし、この民族が彼らの不正行為の杯を満たした時代について、正義が我々の祖先のこの都に急襲する時について話そう。私は君達を残して行くところである。私は父の元に行く。私が去った後、多くの者が救出者だと称してやってきて多くを迷わせるので、誰にも騙されないよう注意を払いなさい。戦争や戦争の噂を聞いても、煩わされてはいけない、全てのこれらが起こりはするが、エルサレムの最後は、まだ間近ではないのであるから。飢饉や地震に混乱すべきではない。民間当局に引き渡されたり、福音のために迫害されても心配すべきではない。君達は、会堂から放り出され、私のために投獄されるであろう。その上、君達のうち何人かは殺されであろう。君が長官と支配者の前に連れて行かれるとき、それは、君の信仰証言のためであり、王国の福音への自身の不動性を示すためである。そして、裁判官の前に立つとき、前以って何を言うべきか心配しなくて良い、なぜならば、敵に答えるべき事をまさにその時、精霊が君に告げるのであるから。労苦のこれらの日々、親族さえ、人の息子を拒絶した人々の先導の下に、君を牢獄へ、そして死へと届けるであろう。しばらくは、君は、私のためにすべての人に嫌われるかもしれないが、これらの迫害でさえ、私は、君達を見捨てはしない。私の精霊は、君を見捨てない。我慢強くありなさい。この王国の福音が、遂には、すべての敵を打ち負かし、万国へと宣言されるということを疑ってはならない。」

イエスは、都を見下ろしながら、一息入れた。救世主の精霊的な概念の拒絶、期待された救出者の物質的な任務に対する持続的に、盲目的にしがみつく決断は、やがて、ユダヤ人を強力なローマ軍隊との直接的な衝突に導くということ、そしてそのような争いが、ユダヤ人の国家の最終的かつ完全な打倒をもたらし得るということが、あるじには分かっていた。彼の民族が、精霊的な贈与を拒絶し、それほどまでに慈悲深く彼を照らす天の光の受け入れを拒否するとき、その結果、かれらは、地球での精霊的な特別任務をもつ独立した民族としての自分達の運命を封じた。ユダヤ人の指導者達さえ、後には、それが、遂には彼らに破壊をもたらした不穏へと直接に導く救世主についてのこの世俗的な考えであると認めた。

エルサレムが初期の福音運動の揺りかごになろうとするところであったので、イエスは、エルサレムの破壊に関係してユダヤ民族に対する凄まじい打倒の際、その教師と説教者が、滅ぶことを望まなかった。それゆえに、かれは、追随者にこれらの指示をした。イエスは、弟子の何人かが、やがてやってくるこれらの反乱に関与し、エルサレムの没落でこうして死ぬことのないようにと大変心配した。

次に、アンドレアスが質問した。「しかし、あるじさま、聖都と寺院が破壊されることになっているならば、そして、あなたが、私達の指示のためにここにいないのであるならば、私達は、いつエルサレムを見捨てるべきでありましょうか。」イエスは言った。「私が行った後、苦悩と厳しい迫害のこれらの時にもかかわらず、都に留まることができるが、偽の予言者達の反乱後、ローマ軍に包囲されるエルサレムを遂に見るとき、君達は、都の最後が近いということを知るであろう。君達は、そのときは、山に逃げなければならない。都やその周辺にいる何かを救うために留まらせてはいけないし、外にいる者を中に入れる危険を犯させてもいけない。これらの日々は、非ユダヤ人の復讐の日になるのであるから、格段の苦難となろう。そして、君達が都を捨てた後、この反抗的な民族は、刃に倒れ、捕虜となり、万国に連れて行かれるであろう。そして、エルサレムは、非ユダヤ人に踏み荒らされるであろう。その間、誤魔化されてはならないと警告しておく。『見よ、ここに救世主がいる。』とか、『見よ、あの方だ。』とか言って誰かが来ても、それを信じてはならない、多くの偽教師が現れ、多くの者が惑わされようとしているのであるから。だが、君達は、私が予めこのすべてを告げたのであるから、騙されるべきではない。」

あるじのこれらの驚くべき予言が、途方に暮れる彼らの心にしみ込む間、使徒は、月下に黙してかなりの時間座っていた。実際に信者と弟子の集団全体が、ローマ軍の初めての出現にエルサレムから逃げ、北の方角にあるペラでの安全な避難所を見つけたのは、実にこの警告と一致していた。

イエスの追随者の多くは、この明白な警告の後にさえ、救世主の再現が、新しいエルサレムの樹立、そして世界の首都になるための都の拡大をもたらすとき、エルサレムに明らかに起こる変化について言及していると、これらの予測を解釈した。これらのユダヤ人の心では、寺院の破壊を「世の終わり」であると決めつけていた。かれらは、この新しいエルサレムが、全パレスチナを占領すると信じた。世の終わりには、「新しい天と新しい地球」の即座の出現が続くということを。そこで、「あるじさま、私達は、新しい天地が現れるとき、万物が去るということを知っていますが、このすべてを引き起こすためにあなたがいつ戻られるのかをどのように知るのでありましょうか。」とペトロスが言っても、奇妙ではなかった。

これを聞いたイエスは、しばらく深く考えてから言った。「君は、常に新しい教えを古い教えに取りつけようとするので間違える。君は、私の全ての教えを誤解するつもりでいる。自分の確立した信念に則って、福音を解釈すると言ってゆずらない。それでも、私は君を教化する。」

2. あるじの再臨

イエスは、やがてこの世を去るつもりではあるが、聞き手が、天の王国の仕事を完了するために必ず確かに戻るであろう、と推し測るような声明を幾度もした。彼が自分達を後に残そうとしているという確信が、追随者の間で拡大するにつれ、そしてイエスがこの世を去った後、全信者が、戻るというこれらの約束を確実なものにしようとすることは、自然なことであった。キリストの再臨の教義は、キリスト教徒の教えにこのように早く取り込まれ、弟子のその後のほとんどあらゆる世代が、この真実を心から信じ、イエスがいつか来ることを秘かに心待ちにしていた。

師であるあるじを手放すことになっているのならば、これらの最初の弟子と使徒は、戻るというこの約束をないっそう掴み、また時を移さずに、エルサレムの予測される崩壊とこの約束された再臨とを結びつけた。そして、あるじが、まさにそのような誤りを防ぐための特別の苦心をしたにもかかわらず、かれらは、オリーヴ山でのこの夜の教示の間、イエスの言葉をこのように解釈し続けた。

ペトロスの質問に対する更なる答えで、イエスは言った。「君は、なぜ 人の息子がダーヴィドの王座に着くことを求めたり、ユダヤ人の物質的な夢が実現することを期待するのか。これらの歳月、私の王国は、この世界のものではないと話してはこなかったか。君が現在見下ろしているものは、終わっているが、これは、王国の福音が全世界にむかい、そしてこの救済がすべての民族に広まる新たな始まりになるであろう。そして、王国がその実を結ぶとき、天の父が、この世界に暗黒の王子になった彼を、それからアダームを、次にはメルキゼデク、そして最近では人の息子をすでに授けたように、真実の拡大された顕示と正義の強化された示威で必ず君を訪るということを確信しなさい。私の父は、この暗く、悪である世界にさえ慈悲を明らかにし、愛を示し続けるのである。父が私に全権力と権威を授けたように、私もまた、君の運命に続き、まもなく全ての肉体に注がれる私の精霊の臨場により、王国の事柄において道案内を続行する。精霊の形で君とこのようにいることになるが、私は、肉体でこの人生を送り、神を人に顕示し、同時に人を神に導く経験を達成したこの世界にいつか戻ると約束する。私は、すぐ君のもとを去り、父が私の手に任せた仕事を始めなければならないが、充分な勇気をもちなさい、私はいつか戻ってくるのであるから。そうしているうちにも、宇宙の真実なる私の聖霊が、あなたを慰め、誘導するのである。

「あなたは、弱っている私、そして肉体の私をいま見ているが、私が戻るときは、それは力を備えており、精霊の形である。肉体の目は、肉体の人の息子を見ているが、精霊の目だけは、父に栄光を授けられ、彼自身の名前で地球に現れている人の息子を見るであろう。

「しかし、人の息子の再現の時代は、楽園の委員会にのみに知られている。天国の天使さえ、これがいつ起こるかは知らない。しかしながら、この王国の福音が全民族の救済のために全世界に広められたとき、また時期が熟したとき、君達は、父が、別の配剤の贈与を君達に送るということ、さもなければ時代を宣告するために人の息子が戻るということを理解しなければならない。

「さて、私が君に話したエルサレムの苦悩に関しては、私の言葉が成し遂げられるまでは、この時代さえ過ぎ去らないであろう。しかし、人の息子の再来に関しては、天や地の誰も、あえて話すことはできない。だが、君は、時代の成熟に関して賢明であらねばならない。君は、時代の前兆を明察するために注意深くあらねばならない。君は、イチジクがそのたおやかな枝を現わし、そして葉が芽吹くとき、夏が近いと分かる。同様に、世界が、物質志向の長い冬を越し、君が、新しい配剤の精霊的春の訪れを見分けるとき、君は、新しい夏の訪れが近づくのを知るはずある。

「しかし、神の息子の接近に関係があるこの教えの重要性は、何であるのか。君達一人一人が、人生の戦いを横たえ、死の入り口を通過するために呼ばれるとき、即座の判決に臨むということ、そして、無限の父の永遠の計画の奉仕の新たな配剤の事実に直面するということを悟らないのか。全世界が時代の終わりの事実として立ち向かわなければならないことに、君達は、個人として、自然の生命の終わりに至り、それによって、父の王国の永遠の進行の次の顕示に固有の状況と要求に直面するために進むとき、個人の経験として君達各々が、最も確かに立ち向かわなければならない。」

あるじが使徒にした全講話の中で、エルサレムの崩壊と自身の再来の二つの主題に関するこの火曜日の夜、オリーヴ山で与えられたものほど使徒の心を非常に混乱させるものは、他になかった。したがって、あるじがこの特別の機会に言ったことに関する記憶に基づく以降の記述報告には、ほとんど一致がなかった。依って、その火曜日の夜に言われた多くに関する記録が、空白のままにされたとき、多くの言い伝えが生じた。そして、カリーグラ皇帝の法廷に勤務していたセルタという者が書いた救世主に関するユダヤの黙示録は、2世紀のごく初期に丸ごとマタイオスの福音書に書き写され、その後一部が、マルコスとルカスの記録に加えられた。10人の処女の寓話が現れたのは、セルタのこれらの著作においてであった。福音の記録のいかなる部分も、かつてこの晩の教えのような混乱させる誤解を受けなかった。しかし、使徒ヨハネは、決してこのように混乱はしなかった。

これら13人の男達は、宿営所への旅を再開するに当たり、無言で、かなりの感情の緊張感があった。ユダは、とうとう仲間を捨てるという決断を確認した。ダーヴィド・ゼベダイオス、ヨハネ・マルコス、それに何人かの主な使徒が、イエスと12人を新しい宿営所に歓迎したのは時刻も遅かったが、弟子達は、眠ろうとしなかった。かれらは、エルサレムの崩壊、あるじの出発、そして世の終わりに関しさらに知りたいと思った。

3. 宿営所での後の議論

20人程が焚き火の周りに集まっているとき、トーマスが、尋ねた。「あなたは父の仕事を終えに戻られようとしていますので、あなたの留守中、我々の態度はどうあるべきでしょうか。」イエスは、焚火に映える皆に目をやって答えた。

「君さえも、トーマス、私が言ってきたことを理解していない。王国との君の関係は、精霊的かつ個人的であると、君が神の息子であるという信仰-認識による精霊における個人的な経験の問題であると、私は、ずっと教えてはこなかったか。この上何を言おうか。国家の転落、帝国の急落、不信心なユダヤ人の破滅、時代の終わり、世の終わりですら、この福音を信じる者、そして永遠の王国の保証における人生を隠す者にこれらの事が何の係わりがあるというのか。神を知り福音を信じる君達は、すでに永遠の命の保証を受け取った。君の人生は、精霊で、しかも、父のために送られてきたのであるから、何も深い憂慮はあるはずがない。王国の建設者、天界の公認の民は、一時的な大変動、あるいは、この世の大災害に混乱させられることにはなっていない。君の命は、息子からの贈り物であり、それは、永遠に父の中で安全であるということを知っているのであるから、もし国々が覆り、時代が終わっても、あるいは、目に見える全てが滅んでも、この王国の福音を信じる君にとって何ということがあるものか。信仰をもって現世の人生を送り、仲間への愛ある奉仕の正義として精霊の果実をもたらしたのあるならば、君は、神との息子性における君の最初の、そして地球での冒険で切り抜けてきた同じ生存の信仰をもって、永遠の経歴における次の段階へと自信をもって楽しみにすることができる。

「人の息子のあり得る帰還に関して、ちょうど、個々の信者が、必然の、絶えず切迫した自然死を考慮して一生の仕事を進めるように、信者の各世代が、各々の仕事を進め続けるべきである。君は、神の息子として信仰により一度自分を確立しするとき、生存の保証には他の何も、重要ではない。だが、誤ってはいけない、この生存の信仰は、生ける信仰であり、人間の心で最初にそれを奮い立たせたその神霊の果実をますます明らかにする。一度天の王国の息子性を受け入れたという事は、肉体をもつ神の息子達による進歩的な精霊の結実と関係のあるそれらの真実を意識的かつ執拗な拒絶に直面しては、君を救いはしないであろう。地球での父の仕事において私と共にいた君は、人類への父の奉仕の道が好きでないと気づけば、王国を今でも見捨てることができるのである。

「個人として、そして信者の世代として私が話す寓話を聞きなさい。ある偉人がおり、他国への長旅に経つ前に任せられる全使用人を呼び、全商品を手に託した。1人に5タラントを与え、別の者には2タラント、また別の者には1タラントを与えた。名誉を与えられた執事全体にこのようにして、それぞれが持つ幾つかの能力に応じて商品を委ね、旅に出た。主人が出発してしまうと、使用人は、任せられた財産から利益を得るために仕事に取り掛かった。5タラントを受け取った者は、すぐにそれで取り引きを始め、やがて5タラントの利益を上げた。同様に、2タラントを受け取った者は、間もなくもう2タラントを得た。1人の使用人を除いては、これらの全員が、同様に主人のために利益を得た。この使用人は、一人で出掛け地面に穴を掘り主人の金をそこに隠した。ほどなく、主人が、不意に戻り、執事達に決算を求めた。主人の前に全員が召喚されたとき、5タラントを任せられた者が追加の5タラントをも持参して進み出て言った。『ご主人様、5タラントを投資のために私に与えられました。そして、私は、 私の利益としてもう5タラント差し出せますことを嬉しく存じます。』すると、主人が言った。『でかした、良い忠実な僕だ、そなたは、僅かなものに忠実であった。これからは多くのものを任せよう。ただちに主人の喜びをともに喜んでくれ。』2タラントを受け取った者が、進み出て言った。『ご主人様、私には2タラントが与えられました。ご覧ください、私は、 さらに2タラントを得ました。』そこで、主人が言った。『でかした、良い忠実な僕だ、そなたもまた僅かなものに忠実であった。これからは多くのものを任せよう。ただちに主人の喜びをともに喜んでくれ。』今度は、1タラントを受け取った者の決算の時がやってきた。この使用人は、進み出て、『ご主人様、私は、あなたを知っており、あなたは自分で働かない場所で利得を期待される抜かりのない方であると分かっておりました。それゆえ、私は、任された何にせよ危険を冒すことを恐れました。私は、あなたのタラントを安全に地中に隠しました。これが、あなたのお金がございます。』と言った。だが、主人は、言った。『そなたは、怠惰でものぐさな僕である。私が、勤勉な仲間の僕がこの日報いたそのような理に適った利益決算を要求するだろうと、自身の言葉で知っていたと認めた。だったら、私の帰還の際、私の金と利息を受け取れるように少なくとも金を金融業者の手に委ねるべきであった。』それから、この主人は、執事長に『この無益な使用人からこの1タラントを取り上げ、それを10タラントを持つ者に渡しなさい。』と言った。

「持てる者にはさらに与えられ、豊かになる。持たざる者からは持てる物までも取り上げられるであろう。あなたは永遠の王国の問題において静止していることはできない。父は、恩恵と真実に関する知識で成長することをすべての子に要求している。これらの真実を知るあなたは、精霊の果実の増加をもたらし、仲間の使用人の寡欲な奉仕への増加する献身を示さなければならない。そして覚えていなさい、私の同胞の最も小さい者の一人に奉仕する限り、あなたは、私に対してこの奉仕をしているのであるということを。

「また、今、そしてこれから先、さらには未来永劫に、あなたは、父の用向きについてもそのように取り組むべきである、私が来るまで続けなさい。任せられたことを忠実に行いなさい、そうすることにより、あなたは、死の精算のための呼び出しへの用意ができるであろう。そして、このように父の栄光と息子の満足のために生きて後、あなたは、喜びと非常に大きい楽しみをもって永続する王国の永遠の奉仕へと入るのである。」

真実は生きている。真実の聖霊は、光の子を精霊的な現実と神性の奉仕の新しい領域に導いている。君には、決まった、安全かつ名誉ある形に結晶化するために真実を与えられてはいない。君の真実の顕示は、君個人の経験によって強化されなければならず、その結果、新たな美と実際の精霊的な獲得が、あなたの精霊的な果実を目にするすべての者に明らかにされ、それによって天にいる父を讃えるように導かれるのである。真実の認識においてこのようにして成長する者、またそれによって精霊的な現実に対する神性評価の能力を高めるそれらの忠実な使用人だけが、「完全に主の喜びに加わる」ことをいつでも望むことができる。後続する世代のイエスの見せかけの追随者が、神性の真実の執事職に関して次のように言うことは、何とも残念な光景である。「ここに、あるじさま、100年、あるいは1,000年も前にあなたが私達に委ねられた真実があります。私達は何も無くしてはいません。与えてださった全てを忠実に保ちました。教えてくださったことに何の変更もしてはいません。ここに、あなたが与えてくださった真実があります。」しかし、精霊的な怠惰に関するそのような請願は、真実の実を結ばない執事をあるじの面前で正当化はしない。君の手に委ねられた真実に従って、真実のあるじは、計算を要求するであろう。

君は、来世においてこの世界での賦与と執事職の報告を求められるであろう。生まれつきの才能が、多かろうが少なかろうが、正当で慈悲深い清算に直面しなければならない。賦与が利己的な追求にだけ用いられ、それらが、人の絶えず広がる奉仕と神の崇拝において示されるような、精霊の果実の増加した収穫を得るための高い義務に何の考慮も与えられないならば、そのような利己的な執事は、自らの故意の選択の結果を受け入れなければならない。

自分の怠惰を直接支配者の所為にした1タラントのこの不誠実な使用人は、利己的な多くの必滅者に何とよく似ていたことか。人は、自身の犯した誤りに対峙するとき、他の者に、しばしばそれに最も当て嵌まらない者に責任を負わせがちであることよ。

その夜皆が眠りにつこうとしたとき、イエスは言った。「君達は、自由に受け入れてきた。だから、君達は、惜しげなく天の真実を与えなければならない、そして、この真実が、与えることで、まさに君達が、それを与えることで、増加し、救済の恵みの増加する光を示すのである。」

4. マイケルの帰還

あるじのすべての教えのうち、自分でいつかこの世界に戻るという約束ほど、非常に誤解された事は他にない。領域の死すべき者として、マイケルが、7番目の、最後の経験をした惑星へいつか戻ることに関心を持つということは不思議ではない。今は広大な宇宙の主権を有する支配者であるナザレのイエスが、そのような特異な人生を送り、宇宙の力と権威の父の無限な贈与を遂に勝ち得た世界へ1度ならず幾度も戻ってくることを信じるということは、実に自然である。ユランチアは、永遠に宇宙主権の勝利におけるマイケルの7つの生誕球の1つになる。

イエスは、多くの機会に、また多くの個人に、この世界に戻る自分の意志を明言した。あるじがこの世の救出者として機能しないつもりだという事実に目覚めたとき、また、エルサレム打倒とユダヤ国家没落の予言を聞いたとき、追随者は、最も自然にイエスの約束の帰りをこれらの壊滅的な出来事に連想し始めた。しかし、ローマ軍が、エルサレムの壁を崩し、寺院を破壊し、ユダヤのユダヤ人を分散させ、そしてその時でさえ、あるじが、その力と栄光で自分を明らかにしようとはしなかったとき、追随者は、結局、キリストの再臨を時代の終わりと、世界の終わりとさえ、関連づけたその信仰の公式化を開始した。

父の元に昇った後、そして天と地における全権限が自分の手に置かれた後、イエスは、2つのことをすると約束した。まず世界に別の教師を、別の真実の聖霊を自分の代わりに送ると約束し、これを五旬節の日にした。次に、かれは、いつかこの世界に自らが戻ると追随者に確かに約束した。だが、かれは、肉体での贈与の経験のためのこの惑星の再訪を、いつ、どこで、どのようにするかは言わなかった。あるとき、かれは、肉体でここに生きたとき肉体の目が彼を見たのに対し、帰還(少なくとも彼のありうる訪問のうちの1つ)に関しては、精霊的な信仰の目によってのみ認められる、ということを仄めかした。

我々の多くが、イエスは、来る時代にしばしばユランチアに戻ると信じがちである。我々にはこれらの複数の訪問の明確な約束はないが、携えている幾つもの宇宙称号のうちユランチアの惑星王子という称号をもつ者が、そのような独自の称号を与えた自らが征服した世界を何度も訪れるということは、最もありえそうである。

我々は、マイケル自らが、再びユランチアに来ると断じて信じてはいるが、いつ、いかなる方法で来ることを選ぶかということに関してはまったく何の考えもない。地球への2度目の降臨は、この現代の終末の審判に関連して、司法の子の出現に関係して、あるいは関係なくして、起こるように調節されるのであろうか。かれは、いつか後のユランチア時代の終末に関連して来るのであろうか。来訪を告げることなく、しかも孤立した出来事として来るのであろうか。我々は知らない。確信するただ1つのことは、彼が戻るとき、かれは、宇宙の最高支配者として来るのであり、ベツレヘムの名もない赤子として来るのではないので、全世界がそれを知るようであるということである。しかし、あらゆる目がイエスを見て、そして精霊的な目だけが彼の臨場を明察するのであるならば、その降臨到来は、長らく延期されなければならない。

あなたは、したがって、地球へのあるじの個人の帰還をありとあらゆる設定された出来事、あるいは一段落した時代からの分離を首尾よくやるであろう。我々には1つだけ確信がある。かれは、戻ると約束した。我々はいつ、または、何に関連してこの約束を実現するのか分からない。我々が知る限り、かれは、いつでも地球に現れるかもしれないし、幾つもの時代が過ぎ、そのうえ、楽園部隊の連合する息子達による正しい判決が下されるまで来ないかもしれない。

マイケルの地球の再臨は、中間者と人間双方にとり相当に感傷的な価値のある出来事である。それ以外では、それは、中間者への差し迫った機会ではなく、死を免れない人間をこの同じイエス、我々の世界の主権を有する統治者の臨場につながる一連の宇宙の出来事の即時の把握へと必滅の人間をあまりに突然におとしいれる自然死の一般の出来事と同様に人間に対する実際的な重要性がある。光の子等は皆、イエスに会う運命にあるし、我々がイエスのところに行くか、または、まず彼が我々のところに来るかどうかは深く憂慮することではない。したがって、彼が、天であなたを歓迎する準備ができているように、いつでもイエスを地球に歓迎する準備をしておきなさい。我々は、自信を持ってイエスの栄光の出現を、度重なる降臨さえ予期するが、我々は、彼が、どのように、いつ、あるいは、何に関連して現れる予定であるのか完全に無知である。

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