論文 167 フィラデルフィア訪問

   
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論文 167

フィラデルフィア訪問

少なくとも2人の使徒が、ペラ宿営地での群衆への教えのために残されるのが習慣であるので、ペライア任務のこの期間中、原則として、10人しか彼と共にいなかったということが、70人が働いていた様々な場所を訪れるイエスと使徒の訪問の言及に関しては、思い出されるべきである。イエスが、フィラデルフィアに進む準備をする一方で、シーモン・ペトロスとその兄アンドレアスは、ペラ宿営地に集合する群衆に教えに戻っていった。あるじが、ペライア周辺の訪問のためにペラ宿営地を出発するとき、300人から500人の野営する者が、あるじに続くことは、珍しくなかった。フィラデルフィアに到着の際には、600人以上の追随者がいた。

奇跡は、デカーポリス内での最近の説教旅行では起こらず、また、10人の癩病患者の浄めを除いては、これまでのところ、このペライアでの任務には何の奇跡もなかった。これは、福音が、奇跡を伴わず、直接イエスか、あるいは使徒さえ居合わせずに、力で宣言された期間であった。

イエスと10人の使徒は、2月22日、水曜日にフィラデルフィアに到着し、この最近の旅と労働からの寛ぎのために木曜日と金曜日を費やした。その金曜日の夜、ジェ ームスは、会堂で話し、総合協議会は、次の晩に招集された。皆は、フィラデルフィアとその近郷での福音の進展に非常に喜こんだ。ダーヴィドの使者も、アレキサンドリアとダマスカスからの朗報と同様にパレスチナ中の王国の一層の前進の知らせをもたらした。

1. パリサイ派との朝食

アブネーの教えを受け入れた非常に裕福で有力なパリサイ派の一人が、フィラデルフィアに住んでおり、この人は、安息日の朝イエスを朝食に招いた。このときイエスがフィラデルフィアにいる予定であるということが知れていたので、たくさんのパリサイ派を交じえた多くの訪問者は、エルサレムと他の場所から来ていた。従って、およそ40人のこれらの主な男性と数人の律法学者は、あるじに敬意を表し、事前に申し合わせたこの朝食に招待された。

イエスがアブネーと話しながら戸のそばに佇み、そして、主人役が着席した後、シネヅリオン派の構成員であるエルサレムの指導的パリサイ派の一人が、部屋に入って来た。そして、自分の習慣通りに主催者の左側の上座に真っ直ぐ向かって行った。しかし、この場所はあるじに、またその右にはアブネーが予定されていたので、この家の主人は、このエルサレムのパリサイ派の人物には4席左へ座るように合図した。そこで、この高位聖職者は、上座を受けなかったので非常に怒った。

全員は、間もなく席に着き、そして出席者の大部分がイエスの弟子であり、そうでなくても福音に好意的である者で占めていたので、互いの交わりを楽しんでいた。敵だけは、食べに座る前に儀式的な手の洗浄をイエスが順守しなかったという事実に注意を払った。アブネーは、給仕中ではなく、食事前に手を洗った。

食事の終わり近く、長い間の慢性の病気と現在は水腫疾患で苦しんでいる男性が通りから入って来た。この男性は、最近アブネーの仲間により洗礼された信者であった。イエスに治癒のための何の要求もしなかったが、この苦しんでいる男性は、イエスに群がりくる群衆から逃げることにより、おそらくイエスの注意を引きつけるであろうと望みつつ、この朝食にこうして来たということが、あるじにはすっかり分かっていた。この男性は、そのときは奇跡があまり起こされていないことを知っていた。しかしながら、かれは、心では、自分の哀れな苦況がことによるとあるじの同情を引くかもしれないと推論した。そして、彼に間違いはなかった、なぜなら、彼がその部屋に入ったとき、イエスとエルサレムからの独りよがりのパリサイ派の人物の両者がこの男性に注意を向けたので。パリサイ派の人物は、そのような者が部屋に入ることが許されるということへの憤懣を声に出すのにぐずぐずしていなかった。しかし、イエスは、病気の男性を見て、非常に親切に微笑んだので、病の男性は、近づいてき床に座った。食事が終わると、あるじは、客の仲間をざっと見回し、次に水腫の男性を意味ありげに見てから言った。「友よ、イスラエルの教師と学問のある律法学者よ、あなた方に尋ねたい。安息日に病で苦しめられている者を癒すのは合法であるか、あるいは不合法であるか。」だが、そこに出席している者達は、イエスを知り過ぎていた。皆は黙っていた。質問に答えなかった。

その時、イエスは、病気の男性のところに行き、手を取って言った。「立ち上がって行きなさい。あなたは、癒すことを頼みはしなかったが、あなたの心の願望と魂の信仰が私には分かる。」イエスは、男性が部屋を出る前に席に戻り、食卓にいる者達に話し掛けた。「父は、王国にあなたを誘い入れるためではなく、既に王国にいる者達に自分を明らかにするためにそのような働きを為されるのである。あなた方は、まさにそのようなことをすることは、父に似ていると認めることができる、なぜなら、もし好きな動物が安息日に井戸に落ちたなら、あなた方の誰が、すぐに引き上げに行かないことがあろうか。」そして、だれも答えないので、また主人役が起きていることに明らかに賛成しているので、イエスは、立ち上がってすべての出席者に話した。「我が同胞よ、結婚の宴に招待される時は、主だつ席に座ってはいけない。おそらく、あなたより名誉を与えられた人が招待されていて、主人があなたの座っている場所をこの名誉ある客人に与えることを要求しなければならないことのないように。この場合、あなたは恥じつつ下座の場所に移ることを要求されるであろう。祝宴に招待される時、主人が客を見渡し『友よ、なぜ末席に座っているのか。もっと上座の方に来なさい。』ということができるように祝いの席に到着し、最も低い場所を捜し、そこにあなたの席を取ることは、知恵というものであろう。このようにすると、相客の前でそのような人にとっては栄えあることとなる。忘れてはならない、自分を引き上げる者は誰でも、低くされるが、自分を本当に低くする者は、引き上げられるであろう。だから、あなたが、響応したり夕食を提供するときは、返礼に宴に招待されることを考えに入れ、いつも友人、同胞、血族、あるいは、金持ちの隣人を招待することのないようにしなさい。宴を設けるときは、時々、貧乏人、不具者、盲人を招きなさい。このようにして、あなたの心は、祝福されるのである、なぜならば、あなたは、足の不自由な者が、情愛深いあなたの活動に報いることはできないということを、よく知っているのであるから。」

2. 豪華な夕食の寓話

イエスが、パリサイ派に属する者の朝の食卓で話し終えると、出席している律法学者の一人は、沈黙を破りたいと思い、その当時一般的に言われていること「神の王国でパンを食べるものは祝福される。」と軽率に言った。すると、イエスは、好意的なその家の主人さえ肝に銘じざるをえなかった寓話を話した。

「ある支配者は、多くの客を招待し豪華な夕食を設けた。招待された者達に『お越しください。すべて準備ができましたので。』と言いに夕食時に使用人を遣わせた。すると皆がこぞって弁解を始めた。最初の人は言った。『私はちょうど農場を買ったところで、それを調べに行く必要があります。願わくば、失礼させていただきたい。』別の人は、『5頭の雄牛を購入し引き取りに行かなければなりません。願わくば、失礼させていただきたい。』また別の人は、『妻をめとったばかりで、お伺いできません。』そこで使用人は、これを報告しに主人の元に戻った。家の主は、これを聞くと、非常に立腹し、使用人に言った。『私はこの結婚の宴を用意した。肥畜は殺され、すべては客のために準備されているが、かれらは、私の招待をはねつけた。彼らは、あらゆる人の土地と商品を求めて、祝宴に来るように言う私の使用人への礼さえ欠いた。早く町の大路小路、街道や間道に出かけ、婚儀の饗宴に客が参席するように、貧者や浮浪者、盲人や足が不自由な者達をこちらに連れて来なさい。』そこで使用人達は、主人の言いつけ通りにしたが、それでもまだ多くの客のための場所があった。その時、使用人達へ主人が言った。『今度は、道路と田舎に出かけ、私の家が一杯になるほどにそこにいる者達を強制的に連れてきなさい。最初に招待された者の誰も私の夕食を口にしないと断言する。』そして、使用人達は、主人の命令に従い、家は一杯となった。」

かれらは、これらの話を聞き終えると去った。全員がそれぞれの家に帰った。その朝出席していて嘲笑ったパリサイ派の中で少なくとも一人は、この寓話の意味するところを理解していた、なぜならば、かれは、当日洗礼され王国の福音における自分の信仰を公表していたので。アブネーは、その夜、信者の総合協議会でこの寓話を説いた。

翌日、使徒は全員、すばらしい夕食のこの寓話の意味を解釈しようと哲学的課題に取り組んだした。イエスは、興味をもってこれらの異なる解釈のすべてを聴いたが、寓話の理解における更なる助けを提供することは固く拒否した。「あらゆる人に、自分のために、そして自身の魂でその意味を見い出させなさい。」と、言うだけであった。

3. 虚弱の精神をもつ女性

アブネーは、シネヅリオン派の言いつけにより彼の教えにすべてが閉ざされて以来のこの安息日に、あるじが会堂で教える手筈を整えていた。イエスが初めて会堂に現れた。礼拝の終わりに、イエスは、自分の前に萎れて、塞ぎ込んだ気配の年配の婦人を見た。この婦人は、長い間恐怖に支配されていて、すべての喜びはその人生から去ってしまっていた。イエスが演台を降り、その婦人のところに行き、曲げられた恰好のその肩に触れて言った。「ご婦人よ、信じさえすれば、その虚弱な精神から完全に放たれることができるであろう。」すると、18年以上もの間恐怖からくる鬱病に屈し、縛りつけられてきたこの婦人は、あるじの言葉を信じ、信仰により体が真っ直ぐになった。自分が真っ直ぐにされたのが分かると、この女性は、声を上げ神を賛美した。

この女性の苦悩は、完全に精神的なものであったにもかかわらず、彼女の曲がった様は、塞ぎ込んだ心からくるものであったので、人々は、イエスが本当の身体の障害を癒したと思った。フィラデルフィアの会堂の会衆は、イエスの教えに対して好意的ではあったが、会堂管理者は、友好的でないパリサイ派であった。そして、かれは、イエスが身体の障害を癒したことに会衆と同じ意見であったが、イエスが、安息日にそのようなことを敢えてしたことに憤慨し、会衆の前に立ち上がって言った。「人が凡ゆる労働をするのは6日間ではないのか。安息日にではなく、これらの労働の日に来て治してもらいなさい。」

友好的ではない管理者が話し終えると、イエスは、この話し手のいる壇上に戻って言った。「なぜ偽善者の役割を演じるのか。あなた方は誰でも、安息日であっても雄牛を放ち、水を飲ませに連れていくではないか。安息日にそのような活動が許されるならば、18年もの間悪に縛られていたアブラーハームの娘であるこの女性をこの安息日にさえその束縛から解いてやり、自由と命の水を相伴すべきではないのか。」そして、女性が神を賛美し続けたので、管理者は、自分のした批評で恥をかかされ、会衆は、婦人の回復に大喜びした。

公でのこの安息日のイエスに対する批判の結果、会堂管理者は、免職となり、イエスの追随者がこの地位につけられた。

イエスは、頻繁にそのような虚弱の精神から、心の落ち込みから、恐怖の束縛からくる不安に戦く犠牲者を救った。しかし、人々は、そのようなすべての苦悩は、身体障害か悪霊の憑拠のいずれかであると考えていた。

イエスは、日曜日に会堂で再び教えた。そして、多くの人が、その日の正午、町の南を流れる川でアブネーによる洗礼をうけた。エルサレム近くのベサニアの友人達からのイエスへの急報を持って来たダーヴィドの使者の一人が到着しなければ、イエスと10人の使徒は、翌日ペラ宿営地へ戻るところであったが、そうはならなかった。

4. ベサニアからの知らせ

2月26日、日曜日の夜もかなり遅く、マールサとマリアからの「主よ、あなたが愛する者が重病であります。」と言う知らせを携えたベサニアからの伝令者が、フィラデルフィアに到着した。この知らせは、夕べの会議の終わりに、しかも使徒に夜の暇乞いをしているときにイエスに届いた。最初イエスは、何の返事もしなかった。自分の外の、および自分を超えた何かとの意志伝達をはかっている時のような奇妙な合間の1つが起きた。そして、次に、上を見ながら、使徒に聞こえるように使者に言った。「この病気は、本当に死に至るものではない。それは、神を賛美し、息子を高めるのに役立つということを疑うでない。」

イエスは、マールサ、マリア、その兄弟ラーザロスがとても好きであった。熱い愛情をもって彼らが好きであった。イエスの最初の、そして人間的な思考は、すぐに彼らの援助に行くことであったが、別の考えがその結合した心に起きた。かれは、エルサレムのユダヤ人の指導者達が、王国を受け入れるという望みをもう少しであきらめるところであったが、それでもかれは、自分の人々を愛しており、そして、その時、それによってエルサレムの筆記者とパリサイ派が彼の教えを受け入れるもうひとつの機会があるかもしれない計画が浮かんだ。そこで、かれは、父が望んでいるならば、地球での全経歴の最も深遠かつ素晴らしい外に向けての業であるこの最終的な働きかけをエルサレムに対してすることを決意した。ユダヤ人は、驚異的な業を為す救出者の考えに執着した。そして、物質的な驚きの業、あるいは政治力の一時的な表示の実践に身を落とすことは拒否したが、彼は今や、自分がこれまでに披露したことのない生死に関わる力の顕現のために父の同意を求めた。

ユダヤ人には、逝去のその日に死者を埋葬する習慣があった。これは、そのような暖かい気候に必要な習慣であった。墓に単に昏睡状態である者を置いておくと、2日目に、あるいは3日目にさえそのような者が、墓から出て来るようなことがい度々起きた。しかし、霊か魂が、2日か3日間、体の近くに長居するかもしれないが、それは、3日目以後は決してとどまらないということ、腐敗は、4日目までにはかなり進んでいるということ、またそのような期間の経過の後に墓から戻ってきた者は、かつてなかったというのが、ユダヤ人の信念であった。そして、これらの理由からベサニアへの出発準備をするまでに、イエスは、まる2日間フィラデルフィアに滞在した。

このため、イエスは、水曜日の朝早く、「すぐに、再びユダヤに入る準備をしよう。」と使徒に言った。使徒は、あるじがこうを言うのを聞くと互いに相談をするためにしばらく単独で引き下がった。ジェームスは、会議の指揮の任につき、そして彼らは皆、イエスに再びユダヤに入ることを許するのは愚か以外の何でもないと同意し、一丸となってそのように知らせに戻った。ジェームスは言った。「あるじさま、あなたは、数週間前エルサレムにおられました。指導者達は、あなたを死においやろうとしましたし、人々は、あなたに投石をしようとしました。その時あなたは、真実を受け入れる機会をこれらの者達に与えました。ですから、我々は、あなたが再びユダヤに入ることを認めるつもりはありません。」

その時、イエスは言った。「だが、1日に12時間という安全に仕事ができる時間があると君達は思わないか。人が昼歩くならば、光がある限り躓くことはない。夜歩くならば、かれは、光をもっていないので躓きやすい。私の日の続く限り、私は、ユダヤに入ることを恐れるものではない。私は、これらのユダヤ人のためにもう1つ強力な仕事がしたい。私は、彼等が信じるためのもうひとつの機会、彼等の言う通りの条件であろうとも—目に見える栄光状態と父の力と息子の愛の可視の顕現—を彼らに与えたい。「それに、我々の友人ラーザロスは、寝入っており、私が彼をこの睡眠から起こしに行くとは君達は思わなのか。」

その時、「あるじさま、ラーザロスが寝入ってしまっているのでしたら、確実に回復します。」と使徒の一人が言った。当時、睡眠の型として死について話すのがユダヤ人の習慣であったが、この使徒は、ラーザロスは、すでにこ世を去ったということをイエスが意味したとは理解しなかったので、今度は分かり易く、「ラーザロスは死んでいる。そして、私は、君達のために、つまり君達が、私を信じる新しい理由が今はあるということを、私がその場に居合わせなかったことを喜んでいる。そして、他の人がそれによって救われなくとも、君達のために、私は喜んでいる。そして、君は、目撃することによって、私が君にいとまごいをして、父の元へ行くその当日に備えて君達は皆、強くなるべきである。」とイエスは、言った。

ユダヤに行くことを差し控えるように彼を説得できないとき、また、数人の使徒が同伴することさえ好まないとき、トーマスは、仲間に話しかけた。「我々の恐怖をあるじにお伝えしたが、かれは、ベサニアに行くと決心されておられる。私は、それが結論を意味するということで満足する。かれらは、確実にあるじを殺そうとするが、それがあるじの選択であるならば、我々も勇気ある者のように振る舞おう。我々も共に死ぬために行こう。」そして、それは、ずっとそうであった。周到で、持続的勇気を必要とする事柄では、トーマスは、常に12人の使徒の大黒柱であった。

5. ベサニアへの道中にて

ユダヤへの道中では、友と敵のおよそ50人の一団が、イエスの後に続いた。水曜日の昼食時、イエスは、使徒と追随者のこの一団に「救済の条件」について話し、この教えの終わりにパリサイ派と居酒屋の主人(収税吏)の寓話を話した。イエスは言った。「だから、分かるであろう、父は人の子等に救済を与えるということ、そして、この救済は、神性の家族の息子性を受けるという信仰をもつ者全てへの無料の贈り物である。人が、この救済を得るためにできることは何もない。 独善的な働きでは、神の恩恵を買うことはできず、人前でそれほど祈ることは、心の生ける信仰の欠如を埋め合せはしない。人は、外向きの活動によって騙すことができても、神は、人の魂を覗き込んでいるのである。私があなたに話していることは、祈りのために寺院にいったパリサイ派の男性と居酒屋の主の2人の男性によく例示されている。パリサイ派の男性は、立って心で祈った。『ああ、 神さま、私は、他の人のような貪欲な者、無学な者、不正な者、姦淫する者、あるいは、この居酒屋の主のような者でないことに感謝いたします。私は、1週間に2度断食しますし、得る全ての十分の一を税として捧げています。』ところが、居酒屋の主は、遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず胸を打ちながら『 神さま、罪人の私をお許しください。』と言った。神の承認を得て家に帰ったのは、パリサイ派の男ではなく、居酒屋の主であったと君達に言っておく。おおよそ自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。」

その夜イェリーホでは、友好的でないパリサイ派が、その仲間が一度ガリラヤでしたように、結婚と離婚についての議論に誘導し、あるじを罠にかけようとしたが、イエスは、離婚に関する法との葛藤に巻き込む彼らの努力を巧みに避けた。居酒屋の主人とパリサイ派は、よい宗教と悪い宗教を例示したように、友好的でないパリサイ派の離婚の習わしは、ユダヤの法典の良い結婚法とパリサイ派をこれらのモーシェの離婚法令に対するパリサイ派の解釈の恥ずべきゆるみとの対照に役立った。パリサイ派の男性は、最低の基準で自分を判断し、居酒屋の主は、最高の理想で自分を律した。パリサイ派の男性にとっての信心は、独善的な無活動と誤った精霊的な安全性の保証の誘導手段であった。居酒屋の主にとっての信心は、信仰による悔悟、告白、慈悲深い許しの受理の必要性の認識へと魂を奮い立たせる方法であった。パリサイ派の男性は正義を求め、居酒屋の主は慈悲を求めた。宇宙の法とは、求めよ、さすれば与えられ、探せよ、さすれば見つかる、である。

イエスは、離婚に関してパリサイ派の論争に引き込まれることを拒否はしたものの、結婚に関して最高の理想の肯定的な教えを宣言した。イエスは、全ての人間関係の最も理想的で最高なものとして結婚を高めた。同様に、かれは、当時、料理下手であるとか、不完全な主婦であるとかきわめて些細な理由により、または、器量のよい女性に惚れたという以外には別に理由なくして、妻の離縁を男性に許したエルサレムのユダヤ人のいい加減で不当な離婚の習わしに強い難色を仄めかした。

パリサイ派は、ユダヤ人に、特にパリサイ派に、この安易な離婚の種類の恩典があると教えるところまでさえも行った。そこで、イエスは、結婚と離婚問題に関する発表を拒否しながらも、結婚関係におけるこれらの恥ずべき嘲りを非常に激しく非難し、女性と子供達への不当な取り扱いを指摘した。かれは、女性よりも男性への何らかの利点を与える離婚の実践を決して認めなかった。あるじは、男性と女性に平等を与える教えだけを是認した。

イエスは、結婚と離婚を決定する新しい指図を提供はしなかったが、ユダヤ人に彼ら自身の法とより高い教えに従うことを促した。これらの社会的次元に沿って習慣を改善する努力において、かれは、記された経典に繰り返し言及した。イエスは、このように高く理想的な結婚の概念を支持しながら、成文法、または彼らの非常に大事にしてきた離婚の特権に表された社会的習慣に関して質問者との衝突を巧みに避けた。

あるじが、科学、社会、経済、政治上の問題に関して積極的な公式見解の発表に気乗りしないことを理解することは、使徒達にとり非常に難しいことであった。かれらは、あるじの地球での任務が、もっぱら精霊的な真実と宗教の真実の顕示に関係するものだとは十分に理解していなかった。

イエスが結婚と離婚に関して話した後、使徒は、その夜更けに個人的にさらに多くの質問をし、これらの問いに対する彼の答えは、彼らの心の多くの誤解を取り除いた。イエスはは、この会議の終わりに言った。「結婚は尊重すべきであり、すべての人に望まれることである。人の息子が地球の任務だけを追求するという事実は、願わしい結婚を全く非難してはいない。そのように働くということが父の意志であり、しかもこの同じ父が、男女の創造を指示したということであり、また男女が、子供を授かり、そして躾けるための家庭の確立に当たっては、天地の製作者と共同者になるこの両親の創造において、最高の奉仕、それに伴う喜びを見い出すことが神性の意志である。このために男は父母から離れ、妻に愛情深く結びつき、そして、2人は1つとなるのである。」

このように、イエスは、使徒の結婚についての多くの心配事を取り除き、離婚に関する多くの誤解を除いた。同時に、かれは、社会的な結びつきの理想を高め、女性と子供と家に対する彼らの敬意を増大させるために多くのことをした。

6. 幼子を祝福すること

結婚と子供の幸福についてのイエスの言葉は、その晩イェリーホ中に広まり、そのため、翌朝、イエスと使徒が出発準備をするずっと前、朝食の前にさえ、何十人もの母親が、子供を抱いたり、手を引いたりしてイエスの宿泊所にやって来て、幼子達の祝福を望んだ。使徒は、子供連れのこの母の集まりを見に出てきた時、追い払おうと努力したが、これらの女性は、あるじが子供等に手を置き祝福するまで出発を拒否した。そして、使徒が声高にこれらの母を窘めると、騒ぎを聞いたイエスは、憤然として出て来て、彼らを叱責して、「子供達をこさせなさい。止めてはならない、天の王国は、そのような者の国である。まことに、まことに、言いきかせておこう。幼子のように王国を受け入れる者でなければ、精霊的に完全に大人として成長するためには、誰も、決してそこには入れない。」

あるじは、使徒に話し終えると、母親達に勇気と希望の言葉を掛ける一方で、子供の頭に手を置き子供全員を受け入れた。

イエスは、しばしば天の大邸宅について使徒に語り、神の前進する子供は、この世で子供が肉体的に成長し、そこで精霊的に成長しなければならないということを教えた。この日にこれらの子供と母が、イェリーホの子供達が宇宙の創造者と遊んでいることにほとんど気づかなかったように、ネバドンの観察中の有識者達が、見ているような神聖な出来事は、しばしば通常の出来事のように見える。

パレスチナの女性の地位は、イエスの教えにより非常に改善された。したがって、彼の追随者が、苦心して教えられたことからそれほどまでに外れることがなかったならば、世界中がそうなったことであろうに。

神の崇拝の習慣における子供の初期の宗教教育の議論に関連して、イエスが、礼拝への衝動に、特に子供を導く影響として、美の大きな価値を使徒に銘記させたのも、イェリーホであった。あるじは、教訓と例により創造の自然環境の中で創造者を崇拝することの価値を教えた。かれは、木立ちの中で、自然界の低級の生物の間で、天なる父との親交を好んだ。かれは、創造者たる息子の星の領域の奮い立たせる光景を通して父に深い思いを馳せることを喜んだ。

自然の会堂で神を崇拝することができないとき、人は、人間の感情の最高のものが、神との精霊的な交わりへの知的な接触に関連して起こされるように、美の家、すなわち魅力的な単純さと芸術的な装飾の聖域を提供するために最善をつくすべきである。真実、美、神聖さは、真の崇拝への強力で効果的な援助である。しかし、精霊的な親交は、人の入念かつ仰々しい芸術による単なる大規模な華麗さと過剰な装飾によって押し進められない。美は、最も単純で自然らしくあるときに最も宗教的である。美の魅力を完全に欠き、元気のある歓声と奮い立たせている神聖のすべての提案が全く空である冷たくて味気ない部屋で、幼子が、公共の崇拝についての概念への最初の導入を受けろということは何と不幸なことであろうか。子供は、自然の屋外で、日々居住する家でのように、後には親に伴われて少なくとも物質的に魅力的で公的宗教の集会のための家屋で、また、芸術的に美しい家として崇拝に導かれるべきである。

7. 天使に関する講話

かれらが、イェリーホからベサニアまで丘を旅したとき、ナサナエルは、道中のほとんどをイエスの横を歩き、そして、天の王国に関する子供の議論は、間接的に天使の任務の考察になった。ナサナエルは、あるじにこの質問をようやくした。「高僧がサッヅカイオス派であるので、しかも、サッヅカイオス派は天使を信じないので、我々は、天の聖職者に関し、人々に何を教えればよいのでしょうか。」すると、イエスは、他の事柄と合わせて言った。

「天使の軍勢は、被創造者の別の体制である。必滅の生物の物質体制とは似ても似つかないもので、宇宙有識者の異なる集団として機能する。天使は、聖書で「神の息子」と呼ばれるその被創造者の集団ではない。かれらは、天の大邸宅を進歩し続けた人間の栄光を授かった精霊でもない。天使は、直接的創造であり、繁殖はしない。天使の軍勢には、人類との精霊的な関係しかない。人は、楽園の父に向けての旅で進歩するのに応じ、ある時点で天使の状態に似た状態を縦断するが、決して天使にはならない。

「天使は、決して人が死ぬようには死なない。天使は、たまたま、ルーキフェレーンスの欺瞞に巻き込まれた一部がそうであったように、罪に巻き込まれない限り、不滅である天使は、天の精霊の奉公者であり、完全に賢くもなく、また全能でもない。しかし、忠誠な天使は全員が、本当に純粋で、神聖である。

「そして、もし精霊的な目を浄められたならば、あなたは次には、天が開かれるのを見て、そして神の天使達の上昇や下降が見えるということを、かつて私があなたに言ったことを覚えていないのか。1つの世界が他の世界との接触を保っていられるということは、天使の働きによるものであり、それゆえ、私は、この囲いに属さない他の羊を連れていると繰り返し言わなかったか。そして、これらの天使は、あなたを監視し、父にあなたの心の考えを告げたり、肉体の行為に関して報告をしに行く精霊界の諜報者ではない。彼自身の精霊があなたの中に生きるので、父にはそのような奉公は不要である。しかし、これらの天使の精霊は、宇宙の他の、しかも遠い場所での行ないに関係がある天の創造の一部を知らせ続けるために機能している。そして、天使の多くは、父の施政と息子の宇宙で機能している間、人類への奉公に配置されている。私は、これらの熾天使の多くが手を貸す精霊であると教えるとき、比喩的な言い回しでも詩的な旋律で話したのでもない。そして、そのような問題の理解に対するあなたの困難さには関係なく、このすべてが真実なのである。

これらの天使の多くは、人の救出の仕事に従事しており、それゆえ、私は、1つの魂が罪を犯すことを止め、神を求め始めることを選ぶときの熾天使の喜びについてあなたに言わなかったか。私は、悔悟する1人の罪人に天の天使の臨場でもたらす喜びについてあなたに伝えさえし、そうすることで、同様に、精神の幸福に参加し、人間の神性の進歩に関わる他の高い天の存在者達の体制の存在を示した。

「また、これらの天使は、人の精霊が、肉体の仮の小屋から解放され、そして、彼の魂が、天の中継所へと護衛されていくその方法に大いに関わりがある。天使は、人の魂が、肉体の死と精霊の住まいの新しい命に介在する未知で、不確定の期間の天の確実な案内人である。

そしてかれは、天使の働きについてナサナエルにさらに話したことであろうが、東の丘を昇っている彼を観測した友人達に、イエスがほぼベサニアに近づいていると知らされたマールサに遮られた。マールサは、すぐさま挨拶をしようと急いだ。

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