論文 148 ベスサイダでの伝道者の訓練

   
   Red Jesus Text: On | Off    Paragraph Numbers: On | Off
 印刷用 印刷用

論文 148

ベスサイダでの伝道者の訓練

西暦28年5月3日から10月3日まで、イエスと使徒の一行は、ベスサイダのゼベダイオス邸に居住していた。この乾期の5カ月間を通して、ゼベダイオスの屋敷近くの海辺に巨大な野営が維持されており、それは、イエスの増加する家族の収容のために大幅に拡大されてきた。真実探求者、治療志願者、好奇心に動機づけられた信奉者などの変わり続ける人口に占拠され、この海辺の野営は、500 人から1,500 人の数にのぼった。天幕でなりたつこの町は、ダーヴィド・ゼベダイオスの全般的監視下にあり、アルフェウスの双生児が、支援した。野営地は、その全般的管理はもとより、規律、衛生において一つの模範であった。異なった種類の病人は、隔離され、信者である医師エルマンというシリア人の指揮下に置かれた。

この期間、使徒は、少なくとも1 週間に1 日は漁に行き、その獲物を海辺の野営地での消費のためにダーヴィドに販売するのであった。このようにして受領される金は、集団の資金に回された。12 人は、家族か友人と毎月1 週間を過ごすことが許された。

アンドレアスは、使徒の活動の全般的監督を続けたが、ペトロスは、伝導者の学校の全てを任された。使徒は皆、毎日午前中、伝導者集団の教育を分担し、午後は教師と生徒の両方が民衆に教えた。夕食後、1 週間に5 夜、使徒は、伝導者のために質問中心の授業をした。1 週間に1 度、イエスは、この質問の授業を取り仕切り、前回の授業から持ち越されてきた質問に答えた。

5カ月のうちに、数千人がこの野営地に出入りした。関心をもつ人々が、ローマ帝国全地域とユーフラテス川の東の国々から頻繁に出席した。これは、あるじの教えで最も長く定住し、また、よく組織された期間であった。イエスの近親は、この時期ナザレかカナで大部分を過ごした。

野営地の集団は、使徒の家族のようには、共通の利害の共同体として実行されなかった。それは、ダーヴィド・ゼベダイオスがこの大天幕都市を管理したので、誰も一度も追い払われることなく自己持続型の企業となった。この変わり続ける野営は、ペトロスの福音伝道者の訓練学校の不可欠な特徴であった。

1. 予言者のための新たな学校

ペトロス、ジェームス、アンドレアスは、伝道者の学校への入学志願者を判定するためにイエスによって任命された委員であった。ローマ世界と東洋、遠くはインドまでの全民族と国々が、この新しい予言者の学校の生徒達に見受けられた。この学校では、学習と実行の計画に基づき指導された。学生は、午前中に学んだことを午後には海辺で会衆に教えた。夕食後、かれらは、午前の学習と午後の教育の両方について形式ばらずに議論した。

各々の使徒教師は、自身の王国の福音の視点を教えた。かれらは、同様に教えるためのいかなる努力をしなかった。標準化された、あるいは教義化された神学理論の定式化もなかった。各使徒は、同じ真実を教えたが、あるじの教えに関する自身の個人的な解釈を提示した。そして、イエスは、王国の事柄の個人的経験この多様性の提示を是認しており、週ごとの質疑の時間で福音についてのこれらの多くの、異なる視点を絶えず調和し、調整した。教育問題におけるこの大幅な個人の自由の度合にもかかわらず、シーモン・ペトロスは、伝道者の学校の神学において優位を占めがちであった。ペトロスについで、ジェームス・ゼベダイオスが最大の個人的影響を及ぼした。

100人以上の伝導者がこの海辺での5カ月間に訓練された人材であり、後にその中から(アブネーとヨハネの使徒達を除く)70人の福音の教師と伝道者が選ばれた。伝道学校においては、12 人のようには、全てを共有しなかった。

これらの伝導者は、福音を教えて説きはしたが、イエスに王国の70人の使者として後に任命され委嘱されるまで信者を洗礼を施さなかった。この場所の日没の場面には、数多く癒されたうちの7人だけが、これらの福音伝道者の間に見受けられた。カペルナムの貴族の息子は、ペトロスの学校で福音活動のために訓練された者の1 人であった。

2. ベスサイダの病院

海辺の野営地に関しては、シリア人の医師のエルマンが、25人の若い女性と12人の男性部隊の援助で、王国の最初の病院と見なされるべきものを組織し、4カ月間運営した。主な天幕の町の南にほど近い距離に位置するこの診療所において、かれらは、祈りと信仰奨励の精霊的な実行を初めとし、すべての既知の物理的な方法に従って病人の手当てをした。イエスは、少なくとも1 週間に3 回この野営地の病人を訪問し、苦しむ者それぞれとの個人的接触をした。我々が知る限り、快方に向かったり、または回復してこの診療所から去った1,000 人の中の煩ったり病んだりする者達に、超自然的な治療のいかなる、俗にいう奇跡も起こらなかった。しかしながら、恩恵を被ったこれらの個人の大多数は、イエスが癒したと宣言するのを止めなかった。

イエスが、エルマンの患者のために自身の活動の一部に関連してもたらした治療の多くは、本当に、奇跡の業に似ているように見えたが、聖職活動の恐怖を払いのけ、不安を破壊する、強いかつ積極的で慈悲深い人柄の直接的で、鼓舞する影響のもとにいる期待に満ち、信仰に支配される人々の経験で起こる場合があるかもしれないように、我々は、それらが、ちょうど心と精神のそのような変化にすぎないということを教えられた。

エルマンとその仲間は、「悪霊の憑依」に関してこれらの病める者に真実を教える努力をしたが、あまり成功を収めなかった。いわゆる不浄な霊の居住により、肉体の病と精神の錯乱が病人の心、もしくは身体に引き起こされるという信念は、ほとんど一般的である。

病人や苦しんでいる者とのすべての関係において、処置技術または未知の疾患原因の顕示に関しては、イエスは、ユランチアへの肉体化の冒険に乗り出す前に与えられた楽園の兄イッマーヌエルの指示を無視しなかった。これにもかかわらず、病人の世話をした者達は、イエスが病人や受難者の信仰と自信を奮い立たせる様子を観測することにより多くの有用な教訓を得た。

寒気と高熱の拡大する季節が近づく少し前、野営は解散した。

3. 父の用向き

この期間、イエスは、野営地で12回足らずの一般礼拝を行い、ガリラヤへの公開説教に際し、新たに教習を受けた伝導者達との出発前の2 度目の安息日に1度だけカペルナムの会堂で話した。

洗礼以来、あるじは、ベスサイダでのこの伝導者の教習の野営地のこの期間ほどには、それほど一人でいたことはなかった。使徒のうちの誰かが、なぜそれほどまでに自分達から遠のいているのか思い切ってイエスに尋ねるたびに、「父の用向きに関して」と必ず答えるのであった。

この不在期間中、イエスは、2 人の使徒だけを伴った。かれは、100 人以上の数にのぼる新しい福音伝道の候補者達を訓練する仕事に参加できるように、一時的にペトロス、ジェームス、ヨハネを個人秘書としての任務から解放した。あるじが、父の用向きに関し丘に行くことを望むときは、同行のためのたまたま暇な使徒二人を呼び寄せるのであった。このようにして、12 人はそれぞれにイエスとの身近な関係と密接な接触の機会を楽しんだ。

この記録の目的のためには明らかにされてはいないが、我々は、あるじが、丘でのこの孤独な時期の多くを宇宙業務に関する多くの統轄者との直接的かつ行政的な関係にあったという判断に導かれた。おおよそ洗礼の時以来ずっと、我々の宇宙のこの肉体を与えられた君主は、ますます、しかも意識的に特定の宇宙行政の局面にむけて積極的になってきていた。地球の業務への参加が減少したこの数週間、かれは、彼の側近の仲間には何かしら明らかにされていないが、広大な宇宙の営みに従事するそれらの高い精霊の有識者達の指導に従事しており、また人間イエスは、彼のそのような活動を「父の用向き」と称することを選んだという意見を、我々は、常に保持してきた。

何時間も一人でいるとき、それでもいつも近くには2人の使徒がいるとき、かれらは、イエスが言葉を聞きはしないのだが、その相貌が、急速にしかも多様に変化をするのを観測した。そのうちの何人かが、その後に目撃したようなあるじとの意思疏通があったかもしれない天に存在体のいかなる可視的徴候の観察もしなかった。

4. 悪、罪、邪悪

ゼベダイオスの庭のある閑静で雨覆いされた片隅において、話しを望む個人達と1 週間に2 晩、特別の会話をするのが、イエスの習慣であった。トーマスは、非公式のこれらの晩の会話の中であるじにこう質問した。「人が王国に入るためになぜ精霊が生まれる必要があるのですか。悪の支配から逃げるのに生まれ変わることが必要なのですか。あるじさま、悪とは何ですか。」イエスは、これらの質問を聞くとトーマスに言った。

「悪と悪者を、より正確には、邪悪な者とを取り違えてはならない。君が悪者と呼ぶ者は、利己心の息子であり、故意に、父とその忠誠な息子の律法に対して入念な反逆に及ぶ高地位の管理者である。しかし、私は、すでにこれらの罪深い反逆者を征服した。父とその宇宙に対するこれらの異なる態度を心の中で明らかにしなさい。父の意志へのこれらの法の関係を決して忘れてはいけない。

悪は、神の法への、つまり父の意志への、無意識の、または意図しない違反である。悪は、同様に父の意志の服従に対する不完全性の尺度である。

罪は、神の法、つまり父の意志を意識し、知った上での作為の違反である。罪は、神の力に導かれ、精霊的に指導されることへの不本意の尺度である。

「邪悪は、神の法、つまり父の意志への意図的で、断固とした執拗な違反である。邪悪は、人格生存のための父の情愛深い構想と救済のための息子の慈悲深い活動に対する持続的拒絶の尺度である。

精霊の再生に当たり、必滅の人間は、生来の悪の傾向を受け易いのであるが、そのような自然な素行欠陥は、罪でもなく邪悪でもない。人間は、楽園の父の完全さへの長い上昇を始めたばかりである。本来の資質においての不完全であることや、部分的であることは、罪ではない。人は、実に悪の影響をうけるが、知りつつ、しかも故意に、罪の道と邪悪の人生を選ばない限り、決して悪の子ではない。悪は、この世の自然な秩序に固有であるが、罪は、精霊的な光から真の闇に落下した者によってこの世にもたらされた意識的反逆の態度である。

「トーマス、君は、ギリシア人の教義とペルシア人の誤りに惑わされている。悪と罪の関係を理解していないというのは、君が、完璧なアダームと共に地球が始まり罪により現在の嘆かわしい状態に急速に堕落したと人類を見ているからである。なぜ君は、アダームの息子カインが、ノドの国に行き、そこで妻を得たという記録の意味を理解することを拒否するのか。まなぜた、神の息子が人間の娘の中で妻を見つけると描く記録の意味を解釈することを拒否するのか。

人間は、実に、本来悪であるが、必ずしも罪深いというわけではない。新たに生まれること—精霊の洗礼—は、悪からの救出に不可欠であり、天の王国への入国に必須であるが、このいずれによっても人が神の息子であるという事実が損なわれはしない。人は、何らかの不可解な方法で、異星人、外国人、または継子として天の父から遠ざかっているので、父による法的縁組を何らかの手段で捜し求めなければならないというこの潜在的悪の固有の存在もまた意味しない。すべてのそのような考えは、まず、父に対する誤解、次に人間の起源、本性、および運命に対しての無知から生まれた。

「ギリシア人や他の者達は、人が、信心深い完全性から忘却または破壊の方向へ着実に下降していると君達に教えてきた。私は、人が、王国への入国により、確かに神と神性の完全性へと上昇しているということを示しに来た。どんな方法であろうが、神的、かつ精霊的な永遠の父の意志の理想に達しないものは誰でも、悪の可能性を秘めてはいるが、そのような者が必ずしも罪深いわけではないし、まして邪悪であるわけではない。

トーマス、聖書でこのように書かれているのを読んだことはないのか。『あなた方は、神である主の子である。』『私は、彼の父になるであろうし、彼は私の息子になるだろう。』『私の息子になるように、彼を選んだのである。私は彼の父になる。』『私の息子等を遠くから、私の娘等を地の果てから連れて来なさい。私の名で呼ばれるあらゆる者さえも、私の栄光のために私が彼等を創造したのであるから、』『あなたは生きる神の息子である。』『神の精霊を持つ者は、本当に神の息子である。』自然の子には人間の父の物質的な部分があるが、王国のすべての信仰の息子には天なる父の精霊的な部分がある。」

イエスは、このすべてと、より多くのことをトーマスに言い、またその多くを使徒は理解した。尤もイエスは、「私が父の元に戻る後まで、これらの問題に関する事を他のものに話さないように」と訓戒した。そして、あるじがこの世から出発する後まで、トーマスは、この会談について言及しなかった。

5. 苦悩の目的

ナサナエルは、庭での別の私的な会談の中で、イエスに尋ねた。「あるじさま、あなたが、やたらに治療の実施を拒否する訳は分かりかけてきたのですが、私は、あまりにも多くの地上の子が、数々の苦悩を受けるのをなぜ天の情愛深い父が放っているのか理解に苦しんでいます。」あるじは、ナサナエルに答えて言った。

「ナサナエル、この世界の自然の秩序が、父の意志に対する特定の手に負えない反逆者の罪深い冒険に幾度となくかき乱されてきたことを理解していないから、君や他の多くの者は、このように当惑している。だから、私はこれらの整理をしに来たのである。しかしながら、宇宙のこの部分を元の軌道に戻し、その結果、罪と反逆の余分の負担から人の子等を解放するには、多くの時代を必要とするであろう。人の上昇には、悪の存在それだけで十分な試練である—生き残りにとって罪は必須ではない。

「しかし、息子よ、父は、子供を故意に苦しめはしないということを知るべきである。人は、神性意志のより良い道に入ることを執拗に拒絶する結果、自分自身に不要な苦悩をもたらす。悪には苦悩が潜在するが、その多くは罪と邪悪によって生みだされる。多くの稀有な出来事が、この世で生じてきたことであるし、思考力のある者皆が、目撃する苦難や苦悩の光景に当惑するのは奇妙ではない。しかし、1つのことを確信してよい。父は、悪行への任意の罰として苦悩を送りはしない。悪の欠点と障害は、内在的である。罪への刑罰は、必然である。邪悪への破壊の結果は変えられない。人は、生きるために選ぶ自然な生活の結果であるそれらの苦悩を神のせいにすべきではない。人は、それがこの世界で送られるような人生の一部であるそれらの経験について不平を言うべきでもない。必滅者が、地球での自分の地位の向上に向かい持続的に一貫して取り組むべきであるということが、父の意志である。賢明な精励は、人が俗世の災いの多くに打ち勝つことを可能にするであろう。

「ナサナエル、人が、様々な物質的な問題の解決をするためによく準備し、心を奮い立たせることができるように、かれらが、精霊的な問題を解決することを助け、こうしてかれ等の心を活気づけることは、我々の任務である。私は、君が聖書を読んだときの混乱を知っている。あまりにも頻繁に、無知な人間が、理解できないすべてに対する責任を神のせいにする傾向が、広まってきた。人が理解しないかもしれない全てに対して、父に直接責任があるわけではない。父の定める何らかの正当で賢明な法が、たまたま人を苦しめるという理由だけで、父の愛を疑ってはいけない、人がそのような神の法令を何気なく、または、故意に破ったのであるから。

しかし、ナサナエル、識別力をもって読みさえすれば、君に教えていたであろう多くのことが聖書には載っている。それが書かれているのを思い出さないのか。『我が子よ、主の懲らしめをないがしろにするな。その叱責をも厭うでない。ちょうど父が我が子を叱るように、主は愛するものを叱る。』『主はすすんで苦しめはしない。』『苦しみに会う前に、私は誤った道に行きました。しかし今は、法に従います。』『神性の掟をそれによって学ぶかもしれませんので、苦悩は私にとって幸いでした。』『私はあなたの悲しみを知っています。永遠なる神は、人の避難所であり、永遠の腕が下方にあります。』『主は虐げられた者の避難所、苦しみの際の休憩所でもある。』『主は病めるものを床で支えられる。主は病人をお忘れにならない。』『父が子供等に情の深さを示すように、主は彼を恐れる者に情け深いのである。主はあなたの身体を知っており、私達が塵であることを心に留めておられる。』『あの方は、心の傷を癒し、傷口に包帯をする。』『あの方は、貧者の希望、心を痛める貧窮者の力、嵐からの避難所、そして、痛烈な熱気を避ける影である。』『あの方は、弱り果てた者には力を与え、力のない者には強さをつける。』『あの方は、傷つく葦を折ることなく、くすぶる亜麻を消すこともない。』『あなたが苦悩の川を過ぎるとき、私はあなたと共におり、逆境の川が氾濫するとき、私はあなたを見捨てはしない。』『あの方は、心傷ついたものを癒すために、捕われ人を解放するために、嘆く者全てを慰めるために私を遣わされた。』『苦しみには是正がある。苦悩は塵からは生まれない。』」

6. 苦脳に関する誤解 ― ヨブについての講話

非常に多くの明らかに罪のない人々が、なぜそれほど多くの病に苦しんだり、それほど多くの苦悩を経験するのか、ヨハネがまたイエスに尋ねたのは、ベスサイダでのこの同じ晩であった。ヨハネの質問に答え、他の多くの事柄も添え、あるじが言った。

「息子よ、君は、逆境の意味または苦悩の目的を理解していない。セム文学のかの傑作—ヨブの苦悩の聖書の物語—を読んだことがあるのか。神の下僕の物質的繁栄の詳述から始まるこの素晴らしい訓話を思い出さないのか。ヨブは、子供、富、尊厳、身分、健康、それに人がこの一時的人生で重んじる他の何もかもにおいて祝福されていたのを君はよく覚えている。アブラーハームの子孫の古くからの教えによると、そのような物質的繁栄は、神の引立てのすべての十分な証拠であった。しかし、そのような物質的所有と現世の繁栄は神の引立てを示していない。天の父は、金持ちを愛するのと全く同様に貧乏人を愛している。父は人間を差別をしない。

神の法への違反は、遅かれ早かれ罰の報いに則るが、人は、確かに撒いた種子をとどのつまりには刈り取りはするが、人間の苦悩がいつも先行する罪に対する処罰罰ではないということを知るべきである。ヨブとその友人達のいずれもが、自分達の難問に対しての本当の答えを見つけることができなかった。そして、現在光を享受している君は、この独特の訓話の中で演じる役をまずサタンか神のいずれにもほとんど割り当てないであろう。ヨブは、苦しみを通して、知的問題の解決、あるいは、哲学上の困難の解決策を見つけはしなかったが、見事な勝利を成し遂げた。自己の神学弁護の行き詰まりに直面してでさえ、かれは、『自分を憎悪する』、と心から言うことのできる精霊的な高さに昇った。その時、神の姿の救済がヨブに下された。このように苦しみの経験から、ヨブは、誤解したが、道徳的理解と精霊的な洞察の超人的段階に昇った。神に忠実なこの苦脳する者が神の姿を目にするとき、すべての人間の理解を超える魂の平和があとに続く。

「ヨブの友人の最初のものエリーファズは、自身の繁栄の日々に他の者達に処方した同じ不屈の精神を示すように苦しむ者に勧めた。この間違った慰安者は言った。『あなたの宗教を信じなさい、ヨブ。苦しむ者は、邪な者であり正しい者ではないということを思い出しなさい。あなたはこの罰に相当するに違いない。さもなくば、苦しめられはしないであろう。神の目にはいかなる人間も正しくあるはずがないことを君はよく知っている。悪者は決して本当に繁栄しないことを君は知っている。とにかく、人は、憂悶する運命のようであるし、恐らく主は、君自身のために制裁しているに過ぎない。』哀れなヨブは、人間の苦脳の問題そのような解釈から多くの安らぎを得られなかったのは当然である。

「しかし、2人目の友人ビルダデの助言は、当時受け入れられた神学の見地からのその堅実さにもかかわらず、さらに憂鬱であった。ビルダデが言った。『神は不当であるはずがない。君の子供達は死んだので罪人であったに違いない。君は、間違っているにちがいない。でなければ、それほどまでに苦しめられはしないだろう。また、君が本当に正しければ、神は苦悩から間違いなく救い出すであろう。人間との神の関係の歴史から、全能者は、悪人だけを滅ぼすということを学ぶべきである。』

「そこで、君は、ヨブがどのように友人達に答えたかを思い起こす。『私は、神が助けを求める私の叫びを聞かないということのをよく分かっている。どのように神は公正であり、同時に私の無実をそれほどまで完全に無視できるのか。私は、全能者に哀願することからは、いかなる満足も得られないことを思い知っている。君達は、神が悪人による善人の迫害を許容するということを認識することはできないのか。そして、人は非常に弱いものであるから、全能の神の手からの斟酌のどんな見込みがあるというのか。神は、私が今あるように造られ、神が私を急に襲うとき、私は無防備である。なぜ神はこんな惨めな恰好で苦しむためだけに私を創造されたのか。』

「そこで、友人等の助言と彼の心を占めた神についての誤った考えを考慮して、誰が、ヨブの態度に挑戦することができるか。あなたは、ヨブが、人間の資質をもつ神を切望したということ、つまり、公正な者が、人の死を免れない状況を知っており、また長い楽園上昇のこの最初の人生の一部として、しばしば頑是なく受難しなければならないことを理解している神性存在者と親しく交わることをヨブが熱望したということが分らないのか。そういう訳で、人の息子は、今後ヨブの苦悩に耐えることを要求されるそれらの全ての者を慰め、救援することができるように、そのような肉体での生涯を送るために父のもとからきたのである。

「ヨブの3番目の友人ツォファーは、その時、さらに慰めの少ない言葉を掛けた。『このように苦しめられているのだから、君が正しいと主張するのは愚かである。だが、私は、神のやり方を理解するのは不可能であることを私は認める。おそらく君の全ての災いには何らかの隠された意図がある。』そして、ヨブは3人全員の友人の言うことを聞くと、かれは、直接神に助けを求めて、『女から生まれる人は、わずかの時と難儀に満ちている』という事実を訴えた。

それから2回目の友人達との話し合いが始まった。エリーファズは、より厳しくなり、批難し、皮肉たっぷりであった。ビルダッドは、友人達へのヨブの軽蔑に憤慨するようになった。ツォファーは、沈鬱な忠告を繰り返した。ヨブは、この時までには友人達に嫌悪感を覚えるようになり、再び神に訴えた。そのとき、かれは、友人達の哲学に表現され、彼自身の宗教態度においてさえ守られている不公平な神に対して、公平な神に訴えた。次にヨブは、人間生活での不公平が、より公正に調整されるかもしれない来世の安らぎに逃避した。人間からの助けの失敗は、ヨブを神へと追いやる。次には、心の中の信仰と疑念の間での大いなる闘いが起きた。遂には、人間の苦しむ者は、命の光を見始める。拷問された魂は、望みと勇気の新しい高さに昇る。苦しみ続け、そして死にさえするかもしれないが、開眼した魂は、今その勝利の叫び『私の擁護者は生きている。』を発するのである。

「両親を罰するために子供を苦しめるという教義に挑んだとき、ヨブは、全く正しかった。ヨブはかつて、神が公正であることを認める用意があったが、何らかの魂を満足させる永遠なるものの人格的特質の顕示を切望していた。そして、それは地球上の我々の任務である。苦しむ人間は、これ以上神の愛を知り、天の父の慈悲を理解する安らぎを否定されることはないのである。つむじ風から話される神の言葉は、その発言された時代には厳然とした概念であったが、君は、父が自らを明らかにせず、むしろ人間の心の中で、『これが、道である。そこを歩きなさい。』とかすかな細い声で、話すということをすでに学んだ。神が人の中に住むということ、彼があなたのようになるということ、あなたが彼のようにするということをあなたは理解していない。

それから、イエスは、この最終的な声明した。「天の父は、好んで人の子を苦しめはしない。人は、まず、時間の偶然性と不完全な物理的存在の悪の欠点に苦しむ。次に、かれは、容赦のない罪の結果—生命と光の法則への違反—に苦しむ。そして、最後に、人は、地球上で天の公正な規則に反抗して、自己の邪悪な持続性の報いを収穫する。しかし、人の惨めさは、神の裁決からくる直接的な天罰ではない。人は、現世の苦しみを大いに減少できるし、するであろう。しかし、これを最後に、神が悪者の命令を受けて人を苦しめるという迷信から開放されなさい。良い人でさえ、どれだけ多くの間違った考えを抱くかもしれないということを単に発見するために、ヨブ記を検討しなさい。そして、そのような誤った教えにもかかわらず、痛々しいほどに苦しんだヨブでさえ、どのように安らぎと救済の神を見つけたかに気づきなさい。ついに、彼の信仰は、癒しの慈悲と永遠の正義として父から溢れくる命の光を見分けるための苦しみの雲を突き通した。」

ヨハネは、これらの言葉を心で何日も熟考した。あるじとの庭でのこの会話の結果、彼の余生全体が、著しく変わり、彼は、平凡な人間の苦悩の源や、特質、それに目的に対する使徒の観点に変化をもたらすために後に多くのことをした。だが、ヨハネは、あるじが立ち去る後までこの会議について決して話さなかった。

7. 手の萎えた男

イエスは、使徒と新しい伝道者の一団が、再度ガリラヤへの説教旅行に立つ2週間前の安息日に、「正しい生活の喜び」についてカペルナムの会堂で話した。イエスが話し終えると、不具になったり、足が不自由であったり、病気であったり、苦しんでいる者の大集団が、治療を求めて彼の周りに混みあった。この集団には、使徒、多くの新しい伝道者、それにエルサレムからのパリサイ派の諜報者達もいた。イエスのいく所はどこでも、(丘での父の用向きに関する時以外) エルサレムの6人の密偵が、必ず後を追った。

密偵中のパリサイ派の指導者は、イエスが人々と話して立っていたので、萎える手の男にイエスに近づき、安息日に癒されるのは合法であるかどうか、あるいは他の日に頼むべきか尋ねるように誘導した。イエスは、この男性を見て、その言葉を聞き、また彼がパリサイ派に送られてきたと察知して言った。「質問をするので進み出て来なさい。もし君が羊を飼っていて、安息日にそれが穴に落ちたなら、手を伸ばし、それを掴んで、持ち上げて外に出しますか。安息日にそのようなことをすることは、合法ですか。」そして、男が答えた。「はい、あるじさま、安息日にこのように良いことをするのは合法です。」その時、イエスは皆に向かって言った。「君が、なぜこの男性を私の前に寄こしたか分かっている。安息日に慈悲を示す気にさせることができるならば、君は、私に違反の原因を見つけるであろう。君は、安息日にさえ、穴から不運な羊を救い出すのは合法であると、あなた方は皆、同意した。君達が、安息日に慈愛を動物に示すだけでなく、人にも示すことは合法であると証言することを求める。人は、どれだけ羊より貴重であることか。私は、安息日に人に善行を施すことが合法であると宣言する。」そして、彼ら全員が、イエスの前に黙って立っていると、イエスは、手の萎えた男に向けて言った。「皆が見えるように私の側にきてここに立ちなさい。そして、あなたは、今、安息日に良い行いをすることは、父の意志であることを知ることができる。癒されるという信仰をあなたがもつならば、手を伸ばしなさい。」

そして、この男性が萎えている手を差し伸ばすと、それは癒された。人々はパリサイ人を襲いたいと思ったが、イエスは、静まるように言い、「安息日に良い行いをすること、命を救うことは、合法的であると言ったばかりであるが、危害を加えたり、殺す欲情に屈するようにとは教えなかった。」怒ったパリサイ人達は、立ち去った。安息日であったにもかかわらず、彼らは、直ちに、ティベリアスへと急ぎ、ヘローデスと相談し、イエスに対する味方としてヘローデス一党を抱き込み、ヘローデスの偏見をそそろうとできる限りのことをした。ところが、ヘローデスは、エルサレムに苦情を持ち込むようにと忠告して、イエスを阻止しようとの働きかけを拒否した。

敵の挑戦に応じて、イエスが為した初めての奇跡がこれであった。そして、あるじは、自分の治療の力量の誇示としてではなく、全人類に、宗教の安息日の休養を無意味な制限の真の束縛にすることに対する効果的な抗議として、このいわゆる奇跡を実行した。この男性は、石工の仕事に戻り、感謝と公正の生活による治癒が持たらされた者達の一人であることを証明した。

8. ベスサイダでの最後の週

ベスサイダ滞在の最後の週、イエスとその教えに対するエルサレムの密偵の態度は、大きな分裂が生じるようになった。これらのパリサイ派の3 人は、自分達の見たり聞いたりしたことに甚だ感動した。一方、エルサレムでは、若くて有力なサンヘドリンの一員アブラーハームが、公然とイエスの教えを信奉し、シロアーの池でアブネーの洗礼を受けた。エルサレム中がこの出来事に興奮し、密偵中のパリサイ派の6人の召喚のために、即座に、使者が遣わされた。

前回のガリラヤ巡歴の際、王国へと説き伏せられたギリシア人の哲学者は、アレキサンドリアのある裕福なユダヤ人と戻ってきた。そして、もう一度、彼らは、診療所とともに哲学と宗教併設の学校の設立目的でイエスに街に来るように誘った。しかし、イエスは丁重に招待を断った。

この頃、バグダッドから恍惚状態の予言者キルメットがベスサイダの野営に到着した。この予言者と思われていた者は、恍惚状態のとき特異な光景を見たり、睡眠が妨害されるとき、空想的な夢を見た。かれは、野営地でかなりの騒動を引き起こし、シーモン・ゼローテースは、自己欺瞞の詐称者をかなり手荒く扱いをしかったのだが、イエスが介入し、数日間完全な行動の自由を容認した。キルメットの説教を聞いた者すべては、その教えが、王国の福音によって判断されるような健全なものではないことが分かった。彼は、まもなく6人の情緒不安定で突飛な者だけを連れて、バグダッドに帰った。しかし、イエスがバグダッドの予言者のために取りなす前に、自薦の委員会の助けをかりたダヴィド・ゼベダイオスが、キルメットを湖へと連れ出し、繰り返し水中に突っ込んだ後、そこから発つように—自身の野営隊を組織し設立するよう—忠告した。

この同じ日に、フェニキア女性のベス・マリオンが、非常に熱狂し気が狂い、水上を歩行しようとして溺れそうになった後、友人達に遠ざけられた。

エルサレムの新しい転向者であるパリサイ派のアブラーハームは、この世での財産のすべてを使徒の基金に寄附し、この寄附は、100人の新たに訓練された伝道者の即座の派遣を可能にするほどの大きなものであった。アンドレアスは、すでに野営地の閉鎖を発表したので、皆は家に帰るか、伝道者に続きガリラヤ行きの準備をした。

9. 中風患者の治癒

10月1日、金曜日の午後、イエスが、ゼベダイオス邸の広々とゆったりした表の部屋で、この集会の前列に着席するエルサレムからのパリサイ派の6人、それに使徒、伝道者、野営解散作業時の他の指導者達と最後の会合をしているとき、イエスの地球の全生涯において最も奇妙で特異な挿話の1つが生まれた。あるじは、この時、雨季のこれらの集会に対応するために作られたこの大きい部屋に立って話していた。家は、イエスの講話の何らかの部分を聞き取るために耳を澄ましている夥しい人の群れで完全に囲まれていた。

家にはこのように人々が群がり、また、切望する聴者に完全に囲まれていたが、長い間中風に苦しんでいる男性が、カペルナムから小さい寝椅子に乗せられ友人達に運ばれてきた。この中風患者は、イエスがベスサイダを去るところだと聞き、併せて、つい最近快癒したばかりの石工のアーロンと話したことでもあり、治療を頼めるイエスの前に連れていってもらおうと決意した。友人達は、ゼベダイオスの表と裏の双方の出入り口に辿り着こうとしたが、あまりに多くの人が空き間のないほどに混み合っていた。しかし、中風患者は、諦めようとはしなかった。かれは、イエスが話している部屋の屋根に昇るための梯子を調達するように友人に指示し、彼等は、瓦を外し、患っている者があるじの目前の床に届くまで大胆にも寝椅子の上のこの病める男を縄で下げた。彼らがしでかしたことを見ると、イエスは、話すのをやめた。一方、部屋にいた人々は、病気の男とその友人等の根気に驚嘆した。中風患者が言った。「あるじさま、あなたの教えの邪魔をしたくはありませんが、私は、完全な身体にしてもらうと決心しています。私は、治療を受けてもすぐにあなたの教えを忘れた人々とは違います。天の王国で仕えることができるように完全な身体にしていただきたいのです。」さて、この男の苦悩は彼自身の無駄に送った人生によってもたらされたにもかかわらず、その信仰を見てとり、イエスは、麻痺患者に言った。「息子よ、恐れるでない、そなたの罪は許される。そなたの信仰がそなたを救うであろう。」

座している他の筆記者や法曹達といたエルサレムからのパリサイ派の者達等が、イエスのこの宣告を聞くと、彼等は、それぞれ次のように思い始めた。「この男は、よくもこのような口をきくことだ。そのような言葉が、冒とくであることが分からないのか。誰が、神以外に罪を許すことができるものか。」かれらののそれぞれの心の中や自分達同志でこのように理由づけているのをイエスの中の精霊が知覚して、彼らに話しかけた。「なぜそのように心の中で理由づけているのか。私を批判するとは一体何者であるのか。私がこの中風患者に、罪は許される、あるいは、立て、床をとりあげて歩け、と言おうが、何の違いがあるというのだ。しかし、このすべてを目撃するあなた方が、人の息子にはこの世で罪を許すための権威と力があるということを遂に知ることができるように、私は、この苦しむ男に、立て、床をとりあげて歩け、と言うつもりである。」そして、イエスがこのように言うと、中風患者は立ち、彼らが道をあけると、皆の前を大股で退いた。この出来事を目にした者達は、驚くばかりであった。ペトロスは、散会させたが、多くの者は神に祈り、賛美するとともに、そのような奇妙な出来事を一度も見たことがないことを告白するのであった。

そして、サンヘドリンからの使者達が、6人の間者にエルサレムへの帰還を命じるために到着したのは、およそこの頃であった。この知らせを聞くと、彼等の間でまじめな討論が始まった。そして、議論が終わると、首領とその2人の仲間は、使者とエルサレムに帰った。そして、探っていたパリサイ派の3人は、イエスに対する信仰を認め、すぐ湖に行き、ペトロスの洗礼をうけ、使徒等は、王国の子として兄弟の交わりをした。

Foundation Info

 印刷用 印刷用

Urantia Foundation, 533 W. Diversey Parkway, Chicago, IL 60614, USA
Tel: +1-773-525-3319; Fax: +1-773-525-7739
© Urantia Foundation. All rights reserved