論文 137 ガリラヤでの滞在期間

   
   Paragraph Numbers: On | Off
 印刷用 印刷用

論文 137

ガリラヤでの滞在期間

西暦26 年2 月23 日、土曜日の早朝、イエスは、ペラで露営していたヨハネの仲間に再び加わるために丘から下りてきた。イエスは、その日、ずっと群衆と交じわった。かれは、転んでけがをした若者に力を貸し、そして安全に両親の手元に連れて行くためにペラ近くの村へと旅をした。

1. 最初の4 人の使徒選出

この安息日の間、ヨハネの先導的主要な弟子の二人は、イエスと多くの時間を過ごした。ヨハネの全追随者のうち、アンドレアスという者が、最も深くイエスに感銘を受けた。かれは、負傷した少年をペラに連れて行くイエスに同行した。ヨハネとの合流のために戻る途中、アンドレアスは、イエスに多くの質問をし、目的地到着の直前に、二人は会話をするために立ち止まった。その際アンドレアスは、「カペルナムに来られてからずっとあなたを観てきて、あなたは、新しい師であると思っています。あなたのすべての教えを理解をしてはいないのですが、断然あなたに従って行くと決心しました。謙虚な生徒となり、新しい王国について全ての真実を学びたいのです。」と言った。そこでイエスは、人の心の中に新しい神の王国を設立する仕事で共に働くことになる12 人の1団の1 番目の使徒として、アンドレアスを歓迎した。

アンドレアスは、ヨハネの寡黙な観察者、忠実な信者でもあり、また彼にはシーモンというヨハネの傑出した弟子の一人の非常に有能で熱心な兄弟がいた。シーモンがヨハネの主要な支持者の一人であったと言うのは誤ってはいないであろう。

イエスとアンドレアスがキャンプに戻るとすぐに、アンドレアスは、兄弟のシーモンを捜し出し、脇へ連れていき、自身はイエスが偉大な師であるという思いに落ち着いたこと、また弟子として誓約したことを告げた。続けて、イエスが自分の奉仕の申し出を受け入れたこと、新しい王国のための奉仕をする仲間に彼(シーモン)も同様に参加の申し出をすることを提案した。シーモンが言った。「この方がゼベダイの店で働くようになってから神が送られた方だと信じてきたのだが、ヨハネはどうするのか。彼を見捨てることになるのだろうか。これは正しい行為なのだろうか。」 そこで、二人は、すぐにヨハネに相談しに行くことにした。ヨハネは、有能な助言者と最も有望な弟子二人を失うという思いに悲しんだが、敢然として質問に答えて言った。「これはほんの始まりである。やがて私の仕事は終わり、我々は皆、あの方の弟子になるであろう。」そこで、アンドレアスは、兄弟が新しい王国のための奉仕に加わることを望んでいることを取り次ぐと同時に、イエスには傍らに引っ込むように合図した。そして、2 番目の使徒としてシーモンを歓迎するにあたり、イエスは、「シーモン、そなたの熱意は立派であるが、王国の仕事にとっては危険である。言論に関してはもっと考え深くなるように訓戒しておく。そちの名前をペトロスとしたい。」と言った。

ペラに住む負傷した若者の両親は、イエスにその夜我が家のつもりで泊まるようにと懇願し、イエスはその約束をしていた。アンドレアスとその兄弟を後にする前に「明日早くに、我々はガリラヤに行く。」と、イエスが言った。

イエスが夜ペラに戻った後、アンドレアスとシーモンが、来たるべき王国の設立における奉仕の性格について依然として検討中、ゼベダイの息子のジェームスとヨハネは、丘での長くて無益なイエスの探索からちょうどその場に戻り着いたところであった。シーモン・ペトロスが、いかにして彼と彼の兄弟(アンドレアス)が新しい王国の最初に受け入れられた助言者になったか、また翌朝、新しいあるじと二人がガリラヤにむけて発つことになっていると聞き、ジェームスとヨハネの二人は悲しんだ。ジェームスとヨハネは、しばらくの間イエスを知っており、愛してもいた。二人は丘で何日も彼を捜していて、戻ってみると自分達よりも他の者達が優先されていたことを知ったのである。かれらは、イエスがどこに行ったかを尋ね、急いで捜しに行った。

住まいに達すると、イエスは眠っていたが、二人は、彼を起こして言った。イエスは、「大層長い間共に暮らしてきた我々が丘であなたを探している間、他のものを贔屓にし、新しい王国でのあなたの最初の仲間としてアンドレアスとシーモンを選ぶというのはどういうことですか。」イエスは、「心を穏やかにして、『人の息子が父の用向きに携わろうとするとき、誰がお前達に捜さねばならないと指示したか』自分に尋ねなさい。」と応じた。丘での長い探索の詳細を語ると、イエスはさらに悟して言った。「丘ではなく、自身の心の中に新しい王国の秘密を捜し求めることを学ぶべきである。探していたものは、すでにお前達の魂の中に存在していた。お前達は実に私の同胞であり、—私に受け入れられる必要はなく—すでにお前達は王国の者であった。だから、元気を出し、明日我々と一緒にガリラヤに行く準備をもすべきである。」「しかし、ご主人様、アンドレアスとシーモンと時を同じくして、ジェームスと私は新しい王国の仲間になるのですか。」と次に、ヨハネが敢えて尋ねた。そこで、イエスはそれぞれの肩に手を置いて言った。「兄弟よ、他のこれらの者が受け入れられる要求をする前にさえ、王国の精神においては、お前等はすでに私と共にいたのであるぞ。友よ、王国に入るのに要請は必要ではない。お前達は最初から私と共に王国にいた。人の目には、他の者達がお前達よりも先んじているかもしれないが、お前達がまだこの要請をする前に、私も王国の協議会において心でお前達を数に入れたのである。そして、そうであったとしても、善意だが、独り決めの任務の迷っていない者の探索に従事していなかったとしたならば、人の目にはお前達が先んじて見えるかもしれない。来たるべき王国においては、心配を助長するような事柄に留意せず、むしろ絶えず天にいる父の意志をすることだけに関わるように。」

ジェームスとヨハネは、快く叱責を受け入れた。かれらは、アンドレアスとシーモンをもう決して妬むことはなかった。そして、彼らは、2 人の仲間の使徒と翌朝のガリラヤへの出発の準備をした。この日から、使徒という用語は、後に彼に追従した信じる弟子の夥しい数の群衆からイエスの助言者の一門を区別をするために用いられた。

その夕方遅く、ジェームス、ヨハネ、アンドレアス、シーモンは、洗礼者ヨハネと親しく談話をし、頑強なユダヤの予言者は、涙ぐんだ目ではあるが、ゆるぎない声で、自分の主要な弟子二人を来たるべき王国のガリラヤの王子の使徒になるために行かせた。

2. フィリッポスとナサナエルの選出

西暦26年2月24日、日曜日の朝、イエスは、ペラ近くの川のそばで洗礼者ヨハネと別れ、その後生身の姿では彼に二度と会うことはなかった。

その日、イエスと4人の弟子の使徒がガリラヤに出発したとき、ヨハネの追随者の野営ではかなりの騒ぎがあった。最初の大きな分裂が起ころうとしていた。その前日、ヨハネは、イエスが救出者であるという積極的な見解をアンドレアスとエズラにしたのであった。アンドレアスはイエスに続くと決めたが、エズラは、ナザレの温厚な大工を拒絶して、仲間に宣言した。「予言者ダニエルは、人の息子が、力と素晴らしい栄光において、天の雲と共に来ると断言している。このガリラヤの大工、このカペルナムの船大工が、救出者であるはずがない。神のそのような贈り物がナザレから来るようなことがあるだろうか。このイエスは、ヨハネの親類であり、我々の師は、心の優しさ故に騙されているのである。この偽の救世主から遠のいていようではないか。」ヨハネが、これらの発言のためにエズラを叱責すると、彼は多くの弟子と共に離れて南へと急いだ。そして、この1団は、ヨハネの名の下に洗礼し続け、やがてヨハネを信じイエスの受け入れを拒否した人々の宗派を創設するに至った。この名残の1団は、今日までメソポタミアに存続している。

この問題がヨハネの追随者の中でふつふつと起ころうとする一方で、イエスとその4 人の弟子の使徒は、ガリラヤへのかなりの距離を行く途中であった。ナイン経由でナザレへ行くためにヨルダン川を横断する前、道のはるか前方を見ていたイエスは、ベツサイダのフィリッポスという者が友と自分達の方にやってくるのを目にした。イエスは、フィリッポスを以前から知っており、またフィリッポスも新しい使徒4 人全員によく知られていた。かれは、噂の来たるべき神の王国についてさらに学ぶためにペラにいるヨハネを訪問するために、友人ナサナエルと行く途中であり、喜んでイエスに挨拶をした。フィリッポスは、イエスが初めてカペルナムに来て以来その賛美者であった。しかし、ガリラヤのカナに住んでいたナサナエルは、イエスを知らなかった。フィリッポスは、ナサナエルが道端の木陰で休む間、自分の友人達への挨拶のために進み出た。

ペトロスがフィリッポスを脇に連れて行き、全員、つまり自分自身、アンドレアス、ジェームス、ヨハネは、来たるべき王国のイエスの仲間になったところだと説明し始め、フィリッポスに奉仕を志願するよう強く促した。フィリッポスは困惑した。何をすべきなのか。ここで—ヨルダン川近くの路傍において—何の予告もなくして、生涯で最も重大な問いへの即座の決断に直面した。イエスは、この時まで、ガリラヤ経由のカペルナムへの旅行についてジェームスに略述をしており、フィリッポスは、ペトロス、アンドレアス、ヨハネとの熱心な会話をしていた。最後に、アンドレアスが、「先生に尋ねないか。」とフィリッポスに提案した。

イエスが本当に偉大な人物、ことによると救世主であるかもしれないと、フィリッポスは、突然に気づき始め、この件でイエスの決定を受け入れると決めた。そこで、真っ直にイエスのところに行き「先生、ヨハネの元に行くべきでしょうか、それともあなたに続く友に加わるべきでしょうか。」と尋ねた。そこで、イエスは、「私についてきなさい。」と答えた。フィリッポスは、救済者を見つけたという確信にぞくぞくした。

フィリッポスは、そのとき仲間の全員には今の場所に留まるよう合図し、自分が耳にした洗礼者ヨハネ、来たるべき王国、期待される救世主に関する多くの事柄をあれこれと心の中で考えながら、まだ桑の木の下にいる友人ナサナエルに新たな決心を打ち明けるために、急いで戻った。フィリッポスは、これらの思索を遮り、大声で「救世主を見つけた、モーシェと予言者が書き、ヨハネが宣言した方を。」と言った。ナサナエルは、見上げて、「この師はどこから来られるのか」と問い質した。そこでフィリッポスは、「ナザレのイエス、ヨセフの息子、最近カペルナムに住んでいる大工である。」と答えた。そこでいくらか衝撃を受けたナサナエルは、「そのような何か良い事がナザレから来るはずがあろうか。」と尋ねた。しかし、フィリッポスは、ナサナエルの腕を取り、「見に来なさい。」と言った。

フィリッポスがナサナエルを連れて行くと、イエスは、誠実な懐疑者の顔を穏やかに見つめがら「本物の、偽りのないイスラエル人を見なさい。私についてきなさい。」と言った。そこで、ナサナエルは、フィリッポスの方を振り向いて言った。「君は正しい。あの方は本当に人のあるじである。私もついていく。もし私がそれに値するなら。」そこでイエスは、ナサナエルに頷いて再び「私についてきなさい」と言った。

イエスは、そのとき将来の近しい仲間の半分の人数を、知り合いの5 人と見知らぬ1 人ナサナエルを集めた。更なる遅滞なしで、その夕方遅く、皆は、ヨルダン川を渡り、ナインの村のそばを行き、ナザレに到着した。

かれらは全員、イエスの少年時代の家でヨセフと夜を過ごした。イエスの仲間は、見い出さればかりの師が、家のまわりに残る十戒、他の標語、諺のすべての自筆の痕跡を完全に破壊することに何故それほどまでにこだわるのかほとんど理解しなかった。しかし、この処置は、皆がその後イエスの書くところを—埃か砂以外には—決して見なかったという事実とともに心に深い印象を与えた。

3. カペルナム訪問

皆がその町の際だった若い女性の結婚式に招待されたので、イエスは、翌日使徒をカナに行かせ、自分は弟ユダに会うためにマグダラに寄り、カペルナムの母を急いで訪問する準備をした。

ナザレを経つ前、イエスの新しい仲間達は、つい最近の素晴らしい出来事についてヨセフと他のイエスの家族に話し、イエスが長く期待されている救世者であるという自分達の確信をを自由に表した。イエスの家族は、このすべてを徹底的に話し合った。そして、ヨセフが、「多分、とどのつまり、母は正しかった—おそらく、我々の奇妙な兄は、きたるべき王なのであろう。」と言った。

ユダは、兄ジェームスとイエスの洗礼の場に居合わせて、イエスの地上での任務の確固たる信者になった。ジェームスとユダの両者は、兄の任務の性質に関して非常に当惑したが、母は、救世主、ダーヴィドの息子としてイエスに関する彼女のすべての初期の望みを復活させた。そして、かのじょは、イスラエルの救済者として兄を信じるように息子達を奨励した。

イエスは、月曜日の夜カペルナムに到着したが、ジェームスと母の住む自宅には帰らず、直接ゼベダイの家に行った。カペルナムの友人の全員が、彼にすばらしい、快い変化を認めた。もう一度、比較的に愉快であり、ナザレでの早年の彼自身のようであった。ちょうど洗礼前後の孤立期間までの長年、彼はますます真剣で打ち解けない感じであった。皆には今、全く以前の彼に見えた。いくぶん厳然とした重要性と高められた様相が見られたが、再び気軽で楽し気であった。

マリアは期待にぞくぞくした。かのじょは、ガブリエルの約束の遂行に近づいていると予期した。かのじょは、ユダヤ人の超自然的な王として我が息子の奇跡的な顕示に全パレスチナ人が間もなくびっくり仰天するのを待ち望んだ。しかし、母、ジェームス、ユダ、ゼベダイからの数多い質問のすべてに、イエスは、ただ微笑んで答えるだけであった。「私は、しばらくここに滞在した方が良い。天にいる父の意志をしなければならない。」

その翌日、火曜日に、かれらは全員、ナオミの結婚式のためにカナに旅した。式はその明くる日行われることになっていた。そして、「父の時間が来る」まで何人にも自分のことを話さないというイエスの度重なる警告にもかかわらず、皆は、救世主を見つけたという知らせをこっそりと方々へ広めると言って譲らなかった。かれらは各々、イエスがまじかのカナでの結婚式でメシアの権威の就任を開始する、また偉大な力と崇高な威厳でそれを為すだろうという確信をもって期待した。かれらは、イエスの洗礼の際に起きた現象について話されてきたことを覚えていたし、超自然の驚くべき事柄と奇跡の実演の徴候を増加することにより、地上でのイエスの将来の進路が示されるであろうと信じた。それに応じて、田舎全体は、ナオミとナサンの息子ヨハブの婚礼の祝宴にカナに集まる準備をしていた。

マリアは、長年あまり楽しくなかった。彼女は、息子の戴冠式を目撃するために向かう皇太后の思いでカナに旅した。イエスの13 歳以来ずっと、家族や友人は、仲間の願いや要求に対しとても思いやりがあり理解があり、また心に触れるほど同情的であり、屈託のないほどに幸福な風を見ていなかった。そんな訳で、彼らは全員、何が起こるのかと疑問に思い、小さい群れになって囁いた。この不思議な人は、次に何をするのだろうか。来たるべき王国の栄光、栄光の到来をどのように開幕、告げるするのか。彼らは全員、イスラエルの神の威力と迫力の顕示を目撃するために出席しているという考えに興奮していた。

4. カナでの婚礼

水曜日の正午までには、婚礼の祝宴に呼ばれた4 倍以上の数に達するほぼ1,000 人の客がカナに到着した。水曜日に婚礼を祝うことがユダヤの習慣であり、招待は式の一ヶ月前に方々に送られていた。午前と午後の前半は、結婚式よりもイエスための公の歓迎会のように見えた。誰もが、この最近有名なガリラヤ人に挨拶をしたがり、イエスの方も、老いも若きも、ユダヤ人、非ユダヤにもとても誠心誠意で対応した。そして、イエスが、予備結婚行式の行列を率いるのに同意すると、皆は歓喜するのであった。

イエスは、そのとき自身の人間生活、自身の先在の神性、そして自身の人性と神性の結合、または融合の状態に関し、完全に自意識があった。かれは、完全な平静さで、一瞬のうちに人間の役を演じるか、または即座に神性の人格特権を引き受ける、みなすことができた。

時間、日が経つにつれ、イエスは、自分が何らかの驚きに値いする行為を演じることを人々が期待していることをますます意識するようになった。特にかれは、家族と6 人の弟子である使徒が何らかの驚異的で超自然の顕現によって来たるべき王国を適切に発表することを楽しみに待っているのに気づいた。

午後早々、マリヤは、ジェームスを呼び出し、そこで皆は一緒に、結婚式に関連して、自分を明白にする計画をたてていた「超自然の者」としていつ、どの時点でどの程度までの自信で秘密を彼等に打ち明けるかを問うために大胆にもイエスに近づいた。かれらが、これらの事柄について話すやいなや、イエスの独特の憤りを刺激してしまったのを皆は見た。彼は、「私のことを思うなら、私が天にいる父の意志を待つ間、喜んで共にいてもらいたい。」とだけ言った。だが叱責の雄弁さは、その表現にあった。

人間イエスにとり母のこの行動は大きな失望であり、また彼自身がいささかの神性示威を楽しむという母の思わせ振りの提案に対する自分の反応に非常に冷静になった。丘でのつい最近の孤立の際、自分がしないと決めた中の1つがまさしくそれであった。数時間、マリヤは、非常に落胆していた。かのじょは、「あの子が分からない。全てはどういうことなの。あの子の奇妙な行動に終わりがないのだろうか。」と、ジェームスに言った。ジェームスとユダは、母を慰めようとしたが、イエスは、1 時間の隔離のために引き下がった。しかし、かれは、参集に戻り、もう一度快活に楽しんだ。

婚礼は期待の静寂のうちに続いたが、全体の儀式は、貴賓からの動きも言葉もなく終わった。そうすると、ヨハネが「救世主」として発表した大工であり、船大工が、その手の内を晩のお祭り騒ぎの際、おそらく結婚式の夕食で見せるという噂が流れた。しかし、かれが、結婚披露宴の直前に使徒を集め、「好奇のもの満足感のためや疑うものの思い込みのために何らかの奇跡的な業をしにこの場所に来たと思わないでくれ。むしろ、我々は天にいる我々の父の意志を待つためにここにいるのである。」と真剣に言ったとき、そのような全ての示威への期待は、6 人の弟子の使徒の心から有効に取り除かれた。しかし、イエスが仲間と相談しているのを見ると、マリヤと他のものは、驚異的な何かが起ころうとしていると思い込んでしまった。そこでかれら全員は、結婚式の夕食と祝いの親交の夕べを楽しむために座った。

花婿の父は、婚礼の祝宴に招かれたすべての客のために沢山のワインを用意していたのだが、息子の結婚が、メシアの救世者としてのイエスの期待される顕現と密接に関連づけられることになるなどとどうして知り得ることができたであろうか。客の中に名の知れたガリラヤ人を含む名誉を喜んだが、婚礼の食事の終了前に、使用人達は、ワインが不足してきているという狼狽する知らせを伝えた。正式の食事が終わり、客が庭のあたりを遊歩していた頃、花婿の母は、ワインの供給が尽きることをマリヤに打ち明けた。そこでマリヤは、自信をもって言った。「息子に話すので心配しないで。力を貸してくれます。」ほんの数時間前の叱責にもかかわらず、かのじょは、大胆にもこのようにしたのであった。

何年もの間ずっと、ナザレでの家庭生活のあらゆる危機に面しイエスに助けを求めてきたので、今回も彼を思い浮かべることはマリヤにとって自然なことに過ぎなかった。しかし、この野心的な母には、このとき長男に訴えるさらに他の動機があった。イエスが庭の角に一人立っていると、「息子よ、ワインが無いよ。」と近づいて言った。イエスが答えた。「善良な女よ。それが私にどう関係があるのか。」マリヤは、「でも、私は、あなたの時間が来たと思う。私達を助けられないの。」と言った。イエスは、「私は、このような事をするために来たのではないと再度断言する。なぜまたこれらの問題で私を煩わすのか。」と答えた。するとマリヤは、わっと泣き崩れ、懇願した。「でも、息子よ。私は、あなたが助けてくれると彼らに約束した。私のために何かしてくれないか。」そこで、イエスが言った。「女よ。そのような約束などして一体どうしたのか。二度とそれをしないように頼むよ。我々は、全ての件に関して天の父の意志を待たなければならない。」

イエスの母マリヤは、打ちひしがれた。唖然とした。かのじょが、顔に涙を流しながら動かずに自分の前に立っていると、イエスの心は、肉体をもつ自分を生んだ女性への同情に襲われた。そして、かれは、前屈みになり、彼女の頭に優しく手をのせて言った。「まあ、まあ、母マリヤよ、私の明らかにきつい言葉に嘆かないように。天の父の意志をするためにだけ私が来たということをあなたにしばしば話さなかったかな。それが父の意志の一部であるならば、あなたが私に言いつけることは何でも大いに喜んでするよ。」そこで、イエスは急に止まり、躊躇った。マリヤがは、何かが起こっていると感じているようであった。飛び上がって、かのじょは、イエスの首の周りに腕を素早く回し、口づけをし、使用人の宿舎へ急いで立ち去り、「息子が何を言っても、それは起こる。」と言った。ところが、イエスは何も言わなかった。かれはそのとき気づいた。すでに言ってしまった—あるいは、むしろ望みたっぷりに考えた—考え過ぎたと。

マリヤは、歓喜に小躍りした。ワインがどう生産されるのかは知らなかったが、彼女は、彼の権威を主張すること、敢えて進みでて身分を主張し、メシアの力を示すことを長子の息子を説得したと自信をもって思った。そして、特定の宇宙の力と人格の臨場と連合のため、それについては出席者全員が完全に無知であったが、彼女が失望することにはなっていなかった。マリヤが望み、、神-人であるイエスが人間らしい思いで、また同情的に望んだワインは、まさに現れようとしていた。間に合った。

すぐ近くに、それぞれにほぼ70リットルの水で満たされた石の水瓶が、6 個あった。この水は、引続く婚儀の祝賀における最後の清めの儀式に使用される予定であった。活発な母の指揮の下でのこの巨大な石の容器についての使用人達の騒動は、イエスの注意を引いたので、かれが、行ってみると皆が水差し満杯にワインを次々に汲み出しているのが観えた。

何があったのか、イエスには徐々に分かってきた。カナの結婚の祝宴の全出席者のうち、イエスが最も驚いた。他の者は、彼が驚くことをすると期待していが、それは目標にしていないことであった。そこで、人の息子は、丘での専属思考調整者の訓戒を思い出した。時間から解放された創造者の特権を奪ういかなる力、または人格の不能であることに関して、いかに調整者が、彼に警告したかを考え直した。力の変換者達、中間者達、および他のすべての必要とされる人格が、この時その水や他の必要な要素の近くに集合し、宇宙創造君主の発露の願望のもとに、ワインの瞬時の存在が起こるのは逃がれようのないことであった。また、専属調整者が、息子の願望の実行は、決して父の意志に違反でないことを示したことから、この出来事は二重に確実になった。

しかし、これは、いかなる意味合いからも奇跡というものではなかった。自然の法則は、改変されたり、廃棄されたり、または超越されたりはしなかった。ワイン生産に必要な化学要素の超人による組み合わせに関連して、時間の抑止以外は、何も起こりはしなかった。この時カナでは、創造者の代理人達は、時間に関係なく、また必要な化学成分の空間の組み合わせにおける超人の介入によりそれをしたことを除いては、ちょうど彼らが普通の自然の過程によってするようにワインを作った。

その上、このいわゆる奇跡の実施が、楽園の父の意志に反しなかったということは明白であった。さもなくば、イエスがすでにすべての事で父の意志に服従していたので起こりはしなかったであろう。

使用人が、この新しいワインを汲み、新郎の付き添い役に運んだとき、「祝宴のきまり」、そして彼がそれを味見したとき、かれは、花婿に呼びかけて言った。「最初に良いワインで始まり、客がすっかり酔っぱらうと劣った葡萄の実のワインを持って来るのが習慣である。だが、君は極上ワインを祝宴の最後まで取って置いた。」

マリヤと弟子達は、イエスが意図しそれを実行したと考えた勘違いの奇跡に大いに喜んだが、イエスは、庭の木々の覆い被さった隅に引き下がり、しばらく重大な考えに従事した。この出来事は、現情況下では自分個人で抑え切れないことである、父の意志に反しないことであり、必然であると、イエスは、最終的に踏ん切りをつけた。彼が皆のところに戻ると、人々は畏敬をもってかれを見た。かれらは全員、彼を救世主と信じた。しかし、イエスは、彼らが今うっかり見てしまった異状な出来事のためだけで自分を信じるというのを知り、ひどく当惑した。イエスは、全体を考えられるようしばらくの間また屋根に退いた。

このような度重なる事件の原因となる同情や哀れみに耽けることのないように、かれは、絶えず警戒しなければならないということをそのとき完全に理解した。けれでも、人の息子が肉体での人生の最終的な別れまでには多くの同様の出来事が起きた。

5. カペルナムに戻る

客の多くは、結婚の祝いの週の間中留まったが、イエスと新しく選ばれた弟子である使徒—ジェームス、ヨハネ、アンドレアス、ペトロス、フィリッポス、ナサナエル—は、誰にも別れを告げずに翌朝極めて早くカペルナムへ出発した。イエスの家族やカナの全ての友人は、かれが突然に皆のもとを去ったので非常に心を痛めた。そこで 、イエスの一番下の弟ユダが彼を探しに出発した。イエスと使徒は、直接にベスサイダのゼベダイの家に行った。この旅行でイエスは、選ばれたばかりの仲間と来たるべき王国の多くの重要な事柄について論議し、特に水がワインに転じたことに言及しないように警告した。かれはまた、今後の仕事においてセフォーリスとティベリアスの都市を避けるように忠告した。

その晩の夕食後、イエスの地球での全経歴で最も重大な会議の1つが、ゼベダイとサロメのこの家で開催された。この会議には6 人の使徒だけが出席していた。ユダは、彼らが解散しようとするときに到着した。この6 人の選ばれた男達は、カナからベスサイダまでをまるで空中を歩いているかのようにイエスと旅をした。皆は、期待で生き生きとし、また人の息子の親密な仲間として選ばれたという思いに感動した。しかし、イエスが自分は誰であり、地上での任務が何であるか、またそれがどう終わりそうであるかということを明らかにすると、皆は呆然とした。かれらは、彼が話していることを理解できなかった。皆は口もきけないでいた。ペトロスでさえ、表現し難いほどに押し潰された思いであった。ただ深く考えるアンドレアスだけは、イエスの勧告の言葉に思い切って応じた。イエスは、皆が自分の趣意を理解していないと気づいたとき、ユダヤの救世主に関する彼らの考えがあまりに完全に具体化されたのを見たとき、自分は弟ユダと歩いて話す傍ら皆には休ませた。ユダは、イエスに暇乞いをする前に強い感情で言った。「父であり兄である人よ、私はあなたを一度も理解したことがない。母が教えてくれたあなたかどうか確かには分からない。また私は、来たるべき王国についても完全に理解したいうわけではないが、あなたが神のような強力な人であることは分かります。私は、ヨルダン川であの声を聞きましたし、あなたが誰であろうとも私はあなたの信者です。」かれは、話し終えるとマグダラの自宅に向けて出発した。

その夜、イエスは眠らなかった。かれは、夜用の肩掛けを纏い、翌日の明け方まで考えながら湖岸に座った。その夜の思索の長い時間の中で、かれは、長く期待された救世主として以外に追随者達に自分を見せることは決してできないということを明確に理解した。ついに、彼は、ヨハネの予言の実現として、またユダヤ人が探し求めている者としてあること以外には、王国に関する自分の主旨発信の開始をする方法はないと気づいた。結局、彼は、ダーヴィドのような救世主の型ではなかったが、より精神的に気を配る実に昔の予言者の予言的発言の実現であった。決して二度と、かれは、救世主であることをまったく否定しなかった。かれは、父の意志の仕事を果たすことにこの複雑な状況の最終的な解決を委せることに決めた。

翌朝、イエスは、友人達との朝食に合流したが、皆は、元気のない集団であった。かれは、雑談し、食事の終わりに自分の周りに皆を集めて言った。「このあたりにしばらく留まるのが父の意志である。お前たちは、ヨハネが、王国への道を開きに来たと言うのを聞いている。従って、ヨハネの説教の成就を待ち受けることが、我々に相応しい。人の息子の前触れをする者が彼の仕事を終えたとき、我々は、王国の良い知らせの宣言を始めるつもりである。」イエスは船の作業場にゼベダイと行く用意をする一方で、使徒達にはそれぞれの漁仕事に戻るよう指示し、自分が話すことになっている会堂で翌日会うことを約束し、その安息日の午後かれ等との会合をもつことを決めた。

6. 安息日の出来事

洗礼に続くイエスの最初の公の場への出現は、西暦26年3月2日、安息日のカペルナムの会堂であった。会堂は溢れんばかりに混雑していた。ヨルダン川での洗礼の物語は、そのとき水とワインのカナからのほやほやの報道によりますます増大していた。イエスは上座を6人の使徒に与え、彼らと共に座したのが人間の兄弟のジェームスとユダであった。前夜ジェームスとカペルナムに戻った母も、会堂の婦人の区画に着席していた。全聴衆はいらいらしていた。彼らは、その日話そうとしている者の資質と威権に適する証明である何らかの並はずれた神通力の明示を目撃することを期待した。しかし、かれらは、失望する運命にあった。

イエスが立ち上がると、会堂の主宰は経巻を手渡した。そこでイエスは、予言者イザヤから読んだ。「このように主は言われる。『天は私の王座。地は私の足台。私のためにあなたが建てる家は、いったいどこにあるのか。私の住む場所はいったいどこにあるのか。これらすべては、私の手が造ったもの。』主は言われる。『だが、私が目を留める者は、貧しく、へりくだって心砕かれ、私の言葉におののく者だ。』恐れおののく者達よ、主の言葉を、聞け。『あなた方の同胞は、あなた方を憎み、私の名のためにあなた方を押しのけた。』だが、主に栄光を現させよ。主はあなた方の楽しみを見にこられる。彼等は恥を見る。町からの声、寺院からの声、主からの声が言う。『彼女は、産みの苦しみをする前に身篭もった。陣痛の起こる前に男の子を産み落とした。』誰がそのようなことを聞いたことがあるか。地は1日の陣痛で産み出されようか。また、国は一瞬にして生まれようか。しかし主はこう仰せられる。『見よ、私は、川のように平和を延ばし広げよう。また、非ユダヤ人の栄光さえ溢れる流れのようにしよう。母に慰さめられる者のように、私はあなたを慰める。だから、あなたはほかならぬエルサレムで慰められるようになる。「そして、あなたがこれらのものを見るとき、あなたの心は喜ぶであろう。』」

この朗読を終えると、イエスは、巻き物を持ち主に戻し、座る前に簡単に言った。「辛抱しなさい、そうすれば神の栄光を見るであろう。私と共に居る者達すべても正にその通りで、このようにして天にいる父の意志を為すことを学ぶべきである。」皆は、このすべての意味が何であるのか不思議に思いつつ各々の家に帰った。

イエスは、その午後使徒のジェームスとユダと小舟に乗り、岸に沿って少し漕ぎ、そこで、来たるべき王国について彼らに話すあいだ投錨した。そして二人は、木曜日の夜よりも多くを理解した。

イエスは、「王国の時間が来る」まで通常の義務に着手するように命じた。そして、二人を勇気づけるために、かれは、規則正しく船小屋に戻り働く模範を示した。かれらが今後の仕事のために毎晩3 時間を研究と準備に費やすべきであると説明し、イエスは、さらに言った。「父が、お前達を呼ぶよう私に命じるまで、我々は皆、このあたりに残るつもりである。まるで何も起こらなかったかのように、各人がいつもの仕事に戻らねばならない。私のことを誰にも話してはいけないし、私の王国は騒ぎや魅惑と共に来ないということを銘記しなさい、しかし、むしろ父が、お前達の心と王国の協議会に加わるために召喚される者の心において働く大きな変化を通して来なければならない。そなた等は我が友である。信頼しているし、愛しくも思っている。そなた等は、まもなく私の個人的な仲間になろうとしている。我慢強く、優しくあるように。いつも、父の意志に従順でありなさい。王国の召喚に備えるように。多くの者が王国に入るのは多くの苦難を通してだけであると私が警告するのであるから、父への奉仕における大きな喜びを経験する間、難局に対しても心構えをするように。しかし、王国を見つけた者達にとり、喜びは満たされ、彼等は、全地球上のの祝福されたものと呼ばれるであろう。しかし、誤った望みをいだくでない。世界は私の言葉に躓くであろう。そなた達でさえ、我が友よ、君達の混乱した心に私が繰り広げているものを完全には気がついてはいない。間違うでない。我々は、徴候を求める者の世代のために働きに出て行く。かれらは、私が父によって送られたということの証しとして奇跡的な業を要求するであろうし、父の愛の顕示における私の任務の信任に気づくには時間がかかるであろう。」

その晩、かれらが、岸に戻ると、帰途に向かうに当たり、イエスは、水際に立ち、「父よ、私は、彼らの疑いにもかかわらず、今でさえ信じているこれらの幼い者達のために感謝いたします。そして、彼らのために、私は、あなたの意志をするため自分を引き離してきました。そうして、いま私達が一つであるように、彼らが一つであることを学びますように。」と祈った。

7. 4カ月の修行

4ヶ月間—3月、4月、5月、6月—の長い待機期間が続いた。イエスは、これらの6 人の仲間と自分の弟ジェームスとの愉快で楽しくはあったが、100回 以上にも及ぶ長い熱のこもった会合をもった。家人の病気のために、弟のユダは、これらのクラスにあまり出席することができなかった。イエスの弟ジェームスは、彼への信頼を失わなかったが、マリヤは、遅れと無活動のこの数カ月間に、もう少しで息子をあきらめるところであった。カナでそのような高さにまで上げられた彼女の信念は、そのとき新たな低レベルに沈んだ。彼女は、「彼を理解できない。すべては何を意味するのか分からない。」と、しばしば繰り返す突発の言葉に頼ることしかできなかった。しかし、ジェームスの妻は、マリヤの勇気への肩入れのために多くのことをした。

この4カ月を通して、人間の弟を含む7 人の信者が、イエスと知り合うようになった。彼等はこの神-人と一緒に暮らすという考えに慣れてきた。かれらは、彼を律法学者と呼びながらも、彼を恐れないことを学び取っていた。イエスは、皆がその神性にうろたえることなく、かれが皆の間で生きることを可能にする並ぶもののない人格的気品を持ち合わせていた。彼らは、必滅の姿の似せた神、「神と親しい友」であることが実に簡単であることが分かった。この待機の期間は、信者の全集団を厳しく試した。何事も、断じて奇跡的な何事も、起こらなかった。かれらは、日増しに、自分達の通常の仕事に取り組み、同時に連夜、イエスの足元に座った。かれらは、彼の優れた人柄により、またくる夜もくる夜も彼が話した仁愛深い言葉により、結合された。

この待機と教育期間は、特にシーモン・ペトロスにとって困難なものであった。彼は、ヨハネがユダヤで説教し続ける間、イエスにガリラヤで王国を説くこと始めるように繰り返し説得しようとした。しかし、ペトロスへのイエスの返事は、いつも次の通りであった。「辛抱せよ、シーモン。進歩せよ。父に呼び出されるとき、我々は少しも準備をし過ぎたということはない。」アンドレアスは、自分のより熟練した、また哲学的な助言でペトロスを時おり宥めるのであった。アンドレアスは、イエスの人間らしい自然さに甚しく感動した。神にそれほどまでに近く生きることのできる者が、何故そのように人に親しみ深く思いやりがある得るのか方法を考えることに、かれは決して飽きることがなかった。

この全期間中、イエスは、二度しか会堂で話さなかった。この何週間もの終わるまでには、彼の洗礼とカナでのワインにまつわる噂が静まり始めた。また、イエスは、この期間、明白な奇跡がそれ以上起こらないように気をつけた。ベスサイダで全く静かに暮らしていたのだが、イエスの奇妙な行ないについての報告は、アンティパス・ヘロデまで届けられており、彼はイエスが何をしようとしているのか見定めるためにスパイを次々と送った。ところが、ヘロデは、ヨハネの説教の方がより心掛かりでありイエスには危害を加えないと決め、イエスの仕事は、カペルナムで非常に静かに続行していた。

この待機の期間、イエスは、彼の仲間の態度が、様々な宗教団体とパレスチナの政党に対してどうあるべきかを教えようと努力をした。イエスの言葉は、つねに、「我々は、彼等全部を説き伏せようとしているが、我々は彼等の何者ものでもない。」ということであった。

筆記者と律法学者は、まとめてパリサイ人と呼ばれた。彼らは、自らを「仲間」と呼んだ。様々な意味で、彼等は、ユダヤ人の中の進歩的集団であり、後の予言者であるダニエルのみが言及した主義、たとえば死者復活の教義などのヘブライ経典の中には明確に見つけられない多くの教えを採用した。順番

サドカイ人は、聖職と特定の裕福なユダヤ人から成った。彼らは、法執行の詳細にそれほどまでの喧し屋でなかった。パリサイ人とサドカイ人は、宗派というよりは、むしろ党派であった。

エッセネ派は、本当の宗派であり、マカバイ戦争中に始まり、その必要条件は、いくつかの点でパリサイ人のそれより厳しいものであった。彼らは、多くのペルシアの信仰と習慣を採用していたし、僧院では兄弟関係として生活し、結婚は、控えて、全ての物を共有した。かれらは、天使についての教えを専門とした。

ゼロテ派は、猛烈なユダヤ人の愛国者の集団であった。ローマ帝国の支配の束縛から逃げるための戦い、努力においてはありとあらゆる方法が正当化されると主張した。

ヘロデ党は、ヘロデ王朝の回復により直接のローマ支配からの解放を主唱したまぎれもない政党であった。

パレスチナのまさしく真ん中で、ユダヤ人の教えと多くの同様の視点を保持しながらも「ユダヤ人が全然関わりをもたない」サマリア人が住んでいた。

小規模のナザレの同胞を含むこれらの党派のすべてが、いつか来る救世主を信じた。彼らは皆、国家の救済者を探した。しかし、イエスは、自分と弟子達が、これらの教えや習慣の学校のいずれにも関連するようにはならないと断言することに、非常に積極的であった。人の息子は、ナザレ人の一員にもエッセネ派の一員にもなるつもりはなかった。

ヨハネがしたように、イエスは、使徒達に福音を説き、信者に教えて出て行くすべきだと後に指示して、「天の王国の良い知らせ」の公布を強調した。「愛、哀れみ、同情を示さ」なければならないということを仲間に絶えず認識させた。天の王国とは、人の心における神の崇拝、着座と関係がある精霊的な経験であると、早期に信奉者に教えた。

積極的な公の説教に乗り出す前にこのように待機している間、イエスと7 人は、ヘブライ経典の研究において各週に2 晩会堂で過ごした。激しい公の仕事の季節からの後年、使徒達は、この4カ月間があるじとの全交流において最も貴重で有益なものであったと振り返った。イエスは、これらの者が同化することのできるすべてを教えた。教育過剰の誤りを犯さなかった。かれは、彼らの理解能力をはるかに超える真理の提示による混乱を引き起こさなかった。

8. 王国についての説教

彼らが6月22日の安息日に初の説教の巡歴に出掛ける直前、そしてヨハネ投獄のおよそ10日後、イエスは、使徒達をカペルナムに連れて来てから2 度目の会堂の説教壇に立った。

「王国」についてのこの説教の数日前、イエスが船小屋で仕事をしていると、ペトロスが、ヨハネの逮捕に関する情報をもたらした。イエスは、もう一度道具を置き、前掛けをはずし、ペトロスに言った。「父の時間が来た。王国の福音を公布する用意をしよう。」

イエスは、西暦26年6月18日のこの火曜日に、大工台での最後の仕事をした。ペトロスは、大急ぎで仕事場を飛び出し、昼下がりまでにすべての仲間を集め、岸辺の木立に皆を残してイエスを探しに入った。しかし、かれは、祈りのために違う木立に行っていたあるじを見つけることができなかった。かれらは、イエスがその夜遅くゼベダイの家に戻り食物を求めるまで彼に会わなかった。その翌日、イエスは、次の安息日に会堂で話す特権を得るために弟ジェームスを行かせた。会堂の主宰者は、イエスが、礼拝式を再び行なう気があることを非常に喜んだ。

イエスは、神の王国についてこの忘れ難い説教の前に、すなわち公的な経歴の最初の野心的な努力に際し、経典の中からこれらの章句を読んだ。「皆は、私のとっての祭司の王国、聖なる国民となる。ヤハウェは、我々の裁判官であり、立法者であり、王である。我々を救う。ヤハウェは私の王であり私の神である。すべての地球上の大王である。この王国において慈愛は、イスラエルの上にある。主の栄光を祝福せよ。彼は王であるから。」

読み終えたとき、イエスは言った。

「私は父の王国の設立を宣言するためにやって来た。そして、この王国は、私の父が偏ることをせず、その愛と慈悲が全ての上にあるので、ユダヤの、そして非ユダヤの、貧富の、自由の身や拘束の身の、これらの礼拝している者達を含んでいる。

天の父は人の心に宿るように彼の精霊を送り、私が地上での仕事をし終えるとき、同様に、真実の聖霊も全ての者に注がれるであろう。そして、父の精霊と真実の聖霊は、あなたを精霊的理解と神の正義の来たるべき王国に定着させるのである。私の王国はこの世のものではない。人の息子は、権力のための王座、または世俗的栄光のための王国の設立のために軍隊を戦いに導かない。私の王国が来るとき、あなたは、人の息子を平和の王子、永遠の父の啓示として知るであろう。この世界の子供等は、この世界の王国の設立と拡大のために戦うが、私の弟子は、彼らの道徳的な決定と精神の勝利によって天の王国に入るであろう。そして、一度そこに入ると、彼らは、喜び、正義、永遠の命を見つけるであろう。

このように父のそれのような特質の気高さを求めて努力し始めて、王国に入るろうとする人々は、必要である他の全てをやがて手にする。しかし、私は、嘘偽りなく言う。幼子のような信頼と疑うことのない依存で王国への入り口を探さない限り、入場獲得はあり得ないであろう。

王国がここにある、王国がそこにあると言って来る者達に誤魔化されてはいけない、なぜならば、父の王国は、目に見えるものや物質的なものには関係ないのである。この王国は、今でさえあなた達の中に存在する、なぜならば、神の精霊が人の魂に教え導くところには実際には天の王国があるから。そして、神のこの王国というものは、正義、平和、そして聖霊の喜びである。

なるほどヨハネは、悔悟の象徴として、そして罪の許しのために洗礼を施したが、あなたは、天の王国に入るとき、聖霊で、と、洗礼されるであろう。

父の王国には、ユダヤ人も非ユダヤ人もなく、ただ奉仕による完全性を追い求める者達がいるであろう、なぜならば、父の王国で立派である者は、まずすべての者達への奉仕者でならなければならないと私が宣言するから。もし仲間に仕えることを望むならば、あなたは、私がやがて父と共にその王国で座るのと同様に、被創造者のような姿での奉仕により私と共に私の王国に座るであろう。

この新しい王国は、良い土壌の畑に芽を出す種子に似ている。それはすぐには完全な果物にはならない。人の魂の王国の設立と、王国が発展し永遠の正義と永遠の救済の完全な成就に至るその時までには時間の隔たりというものがある。

そして、私が宣言するこの王国というものは、力と豊かさの治世ではない。天の王国は、肉や飲み物の問題ではなく、むしろ天にいる父への向上する奉仕における進歩的な正義と増加する喜びの人生である。なぜならば、父は、『私が完全であるように、皆もついには完全になることが私の意志である。』と地上の子供等について言ったのではなかったか。

私は王国のうれしい知らせを説くために来た。この王国に入る人々に重い負担を加えるために来たのではない。私は新たでより良い道を宣言し、来たるべき王国に入ることのできる者達は、神性の安静を味わうであろう。また、世事に関する問題でいかなる犠牲を払おうとも、また、たとえ天の王国に入るためにいかなる犠牲を払おうとも、あなたは、この世での、また永遠の命の時代においても一層の喜びと精神的進歩を受けるであろう。

父の王国への入り口は、行進する軍隊も、この世の滅ぼされた王国も、繋がれたくびきの破壊も待ってはいない。天の王国は真近であり、そこに入る者はすべて豊かな自由と悦ばしい救済を得るであろう。

この王国は永遠の統治である。王国に入る人々は父へ向かって上昇するのである。かれらは、楽園において確かに父の栄光の右側に達するであろう。また、天の王国に入るすべての者は、神の息子となり、来たる時に父の元に昇るのである。私は、独り善がりの公正な者ではなく、罪人と、神の完全な正義に飢え渇望するすべての者を呼びにきたのである。

ヨハネは、そなた達に王国への準備をさせるために悔悟を説いてやって来た。今度は、私が、天の王国への入国代価としての神の贈り物である信仰を公布しにやってきた。父が無限の愛であなたを愛しているということだけを信じるならば、あなたは、神の王国にいるのである。」

このように話すと、かれは座った。彼の言葉を聞い者は皆、非常に驚いた。弟子達は驚嘆した。ところが、人々は、この神-人の唇から朗報を受け入れる用意ができていなかった。完全にそれを理解できたというわけではないが、話を聞いた者のおよそ1/3が彼の知らせを信じた。およそ1/3は、心の中で期待される王国がそれほどまでに純粋に精神的である概念を拒絶するために身構え、これに反して残りの1/3は、その教えを理解することができない一方で、この中の多くが、イエスは、「少しおかしい」と思っていた。

Foundation Info

 印刷用 印刷用

Urantia Foundation, 533 W. Diversey Parkway, Chicago, IL 60614, USA
Tel: +1-773-525-3319; Fax: +1-773-525-7739
© Urantia Foundation. All rights reserved