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論文 122 イエス誕生と幼少期

論文 122

イエス誕生と幼少期

マイケルの贈与のための地としてパレスチナを選択に導いた多くの理由、特にこの神の息子のユランチア出現のための直接の場として、ヨセフとマリヤの家族が選ばれた正確な理由を完全に説明することは、およそ不可能であろう。

ガブリエルとの協議において、メルキズィデクにより用意された隔離された世界の状態についての特別報告の研究の後、マイケルは、かれの最終贈与を実施する惑星としてようやくユランチアを選んだ。この決定の後にガブリエルは、ユランチアを私的に訪れ、人間の集団についての研究とその世界とその民族の精神的、知性的、人種的、地理的特徴の調査の結果、ヘブライ人が贈与民族として選択を正当化したそれらの相対的な利点を備えていると決定した。この決定へのマイケルの同意を受けて、ガブリエルは、ユダヤの家庭生活調査の任務を依託される宇宙の人格の高序列の中から選ばれた12名の家庭委員を任命し、ユランチアへ急派した。この委員会がその役務を終えた時、ガブリエルは、ユラアンチアにおり、マイケルの予定されている具現のための贈与家族として、3組の可能な夫婦、委員会の意見で、等しく好ましいとの推薦報告をうけた。

ガブリエルは、候補にあげられた3組の夫婦からヨセフとマリヤを選んだ。続いてマリヤの前に自ら現れ、贈与する子の地上の母に選ばれたという喜ばしい知らせをその際彼女に伝えた。

1. ヨセフとマリヤ

イエス(ヨセフの息子ヨシュア)の人間の父ヨセフは、その祖先の女系から時々家系図に加えられた多くの非ユダヤの民族的な血筋をもたらしたが、純粋なヘブライ人であった。イエスの父方の祖先は、アブラハムの時代へ、そしてこの敬うべき家長からシュメール人やノド人へ繋がる継承の初期の家系ノウダイツ族へ、また古代青色人種の南の種族からアンドンとフォンタへと遡った。ダヴィデとソロモンは、ヨセフの家系の直系でもなく、アダムまで直接遡るヨセフの家系でもない。ヨセフの直接の祖先は建築業者、大工、石工、鍛冶屋などの職人であった。ヨセフ自身は、大工で後には請負人であった。その家族は、庶民の高潔で長く続いた傑出した家系に属しており、ユランチアの宗教進化に関連して際だち、非凡な人物達の出現により時おり目立っていた。

イエスの人間の母マリヤは、ユランチアの人種的な歴史における最も注目に値する女性の多くを有する類希な祖先の長く続いた子孫であった 。マリヤは、かなり通常の気質をもつ当事の世代の平均的な女性ではあったが、 祖先の中には、アノン、タマラ、ルツ、バテシバ、アンシエ、クロア、エバ、 エンタ、ラッタのようなよく知られた女性がいた。共通の、あるいは1祖先のより幸運な血筋の始まりまで遡っても、当時のユダヤ人の女性の誰一人として、より歴々たる血筋を持っている者はいなかった。マリヤの家系は、ヨセフの家系と同様、強いが平均的な個人の優性により特徴づけられており、文明の行進と宗教の漸進的進化において数多くの傑人達が時おり際だっていた。人種的に考えて、マリヤをユダヤ人とみなすのはまず妥当ではない。文化と信仰面において、彼女は、ユダヤ人であったが、遺伝的付与においては、シリヤ、ヒッタイト、フェニキア、ギリシア、エジプトよりであり、人種的遺産は、ヨセフのそれよりさらに一般的であった。

マイケルの計画された贈与の時代、ヨセフとマリヤは、パレスチナに住む全ての夫婦の中で、広範にわたる人種的な関係と平均をはるかに越える人格付与の最も理想的な組み合わせを有していた。一般人が、彼を理解し受け入れることができる普通の人間として地上に現れるのがマイケルの計画であった。それ故に、ガブリエルは、ちょうどヨセフとマリヤのような人が贈与の両親となることを選んだ。

2. ガブリエル、エリザベスに現われる

ユラチアでのイエスの一生の仕事は、事実上は洗礼者ヨハネによって始められた。ヨハネの父ザカリヤは、ユダヤ人の僧職にあり、一方母のエリザベスは、イエスの母マリヤも属する同じ大家族集団の最も盛んな分家の一員であった。ザカリヤとエリザベスは、長年連れ添っていたが子なしであった。

後にマリヤに知らせに立ったように、ある日の正午ガブリエルがエリザベスの前に現れたのは、ヨセフとマリヤの結婚からおよそ3ヶ月後の紀元前8年、6月下旬であった。ガブリエルは言った。

「 そなたの夫ザカリヤが、エルサレムの祭壇の前に立ち、集った人々が救出者の到来を祈る傍ら、私ガブリエルは、程なくこの神性の師の先触れ人となるべく息子をそなたが産むことを知らせに来た、そなたは、その息子をヨハネと呼ぶように。その子は、そなたの神である主に生涯を献じて成長するであろうし、また機が熟した時には多くの魂を神へ向けさせるので、そなたの心を喜ばせるであろうし、そなたの民族の魂を癒す者、全人類の精霊解放者の到来をも布告するであろう。そなたの親類のマリヤは、この約束の子の母になるはずだし、私はその者にも現れる。」

エリザベスは、この光景に大いに恐れた。ガブリエルが去った後、この経験を心の中で熟考し、威厳のある訪問者の言葉について長らく考え込んだが、翌年の2月初旬に、マリヤを次に訪れるまで夫のほかには誰にも天啓について話さなかった。

しかしながら、エリザベスは、夫にさえも5ヶ月のあいだ秘密を漏らさなかった。ザカリヤは、ガブリエルの訪問について明かすことに対して非常に懐疑的で、何週間も経験全体を疑った。ただ子を待ち設けている妻をもはや見咎めることが出来なくなってから、あまり気乗りのしないままガブリエルの訪問を信じると納得した。ザカリヤは、エリザベスが将来の母であることに関して大変に惑わされたが、自身の高齢にもかかわらず妻の清廉さを疑わなかった。ザカリヤが、エリザベスが来たるべきメシアのための道を開くはずの宿命の息子の母となることを、印象的な夢の結果として、完全に納得するには、ヨハネ誕生の6週間前までかかったのであった。

ガブリエルは、紀元前8年11月中旬、ナザレの家で働いているマリヤに現れた。マリヤは、自分が母になるところだということを疑いなく知って後、エリザベスを訪ねるためエルサレムの6.4キロメートル西の丘にあるユダの町へ旅させるようにヨセフを説得した。ガブリエルは、妊婦の各々に自分の出現を知らせておいた。当然ながら二人は、会合を念じ、経験を照らし合わせ、また息子達のあり得べき未来について語った。マリヤは、この遠戚の元に3週間留まった。エリザベスは、ガブリエルの出現に関するマリヤの信念を多いに強め、その結果、マリヤは、この世界の平均的で普通の幼児、いたいけな幼子としてもうすぐ世に提示する運命の子の母の招請に応じて充分専念するために帰宅した。

ヨハネは、紀元前7年3月25日、ユダの町で生まれた。ザカリヤとエリザベスは、ガブリエルの予言通りに息子が誕生したことを大いに喜び、8日目にその子を割礼に出した際、事前に指示されていた通り正式にヨハネと命名した。ザカリヤの甥は、ヨハネと名付けられるはずの息子が生まれたとエリザベスからマリヤへの伝言をたずさえてすでにナザレへ出発していた。

ヨハネは、最も初期の幼少から、精神的な指導者であり宗教の師となるように成長するという考えを両親から巧みに刻みつけられていた。ヨハネの心の土壌は、そのような暗示的な種を撒くことにずっと応えたのであった。子供の時でさえ父の礼拝期間中、かれは、寺院でしばしば見掛けられたし、自分が目にしたもの全ての重大さにとてつもなく感動した。

3. マリヤへのガブリエルの告知

ある日没時、ヨセフの帰宅前、ガブリエルは、低い石台の側のマリヤに現れ、彼女が落ち着きを取り戻すと、「私のあるじであり、そなたが愛し育てるはずの方の使いで私はきた。マリヤよ、天において定められてそなたが受胎すると、そしてそのうち時がきて息子の母になるであろうとそなたに嬉しい知らせを持ってきた。その子をヨシュアと呼びなさい。その子は、地上と人々の間に天の王国を開始するはずである。そなたの親類のエリザベスとヨセフの外には、この一件について語るでない。私はエリザベスにもすでに姿を見せて、彼女もまた、ヨハネと名付けられ、そなたの息子が、偉大な力と深い信念で人々に宣するはずの救済の知らせのための道を構える息子を間もなく産むであろう。マリヤよ、私の言葉を疑うでない。このために運命の子が命を持つ者の住いとしてこの家が選ばれた。私の祝福をそなたに申し渡す。いと高きものの力がそなたを強くするであろう。 そして全ての地上の主がお前を見守るであろう。」と言った。

マリヤは、身ごもっていると確信するまで、夫にこれらの尋常でない出来事をあえて明かす前に、何週間も秘かにこの訪問について考えを思い巡らせた。ヨセフはこの全てを聞いた時大いに悩み、マリヤに大きく信頼を置きつつも幾夜も眠れなかった。ヨセフは、最初ガブリエルの訪問を疑った。それからマリヤが、本当に神の使者の声を聞き、その姿を見たということをほぼ納得した時、そのような事がどうしてありうるかと考え込んでしまい、心は千千に乱れた。何で人の子が神の運命の子でありうるのか。来たるべき救済者には、神の資質があるということはユダヤの概念にはまず無かったものの、ヨセフは、数週間の考えの後、自分達二人とも、メシヤの両親に選ばれたのだという結論に至るまで、決してこれらの相反する考えを受け入れることが出来なかった。この重大な結論に到達し、マリヤは、エリザベスを訪れるべく出発を急いだ。

マリヤは、帰宅すると両親のヨアヒムとハナを訪ねた。勿論この時点でガブリエルの訪問について誰も何も知らなかったが、2人の兄弟と2人の姉妹達も両親同様に、常にイエスの神性の任務について非常に懐疑的であった。しかしマリヤは、サロメには自分の息子は偉大な師になると思うと打ち明けた。

マリヤへのガブリエルの告知は、イエスの受胎の翌日になされ、約束の子の妊娠と分娩という全経験に関する超自然の唯一つの出来事であった。

4. ヨセフの夢

自分が非常に印象的な夢を経験をするまでヨセフは、マリヤが人並外れた子の母になるという観念を受け入れることができなかった。この夢で燦々たる天界の使者が、ヨセフに現れ、あれこれ言ったうえに、「ヨセフよ、私は、今天に君臨する神の命令で現れ、 またマリヤが産み偉大な世の光となる子についてお前に教えるよう申しつけられた。その子は命を得て、その生涯は人類の光となる。かれは、まず自身の人々の元にやってくるが、かれらは、それをまず受入れないであろうが、受け入れる者達には神の子等であるということを明かすであろう。」と言った。この経験の後、ヨセフは、ガブリエルの訪問とまだ生まれていない子が、地上への神の使者になるという約束のマリヤの話を決して二度と疑わなかった。

これらの訪問の中でダヴィデの家については、何も言及されなかった。イエスが、「ユダヤ人の救済者」になる、長く待望まれたメシアになるということさえ、何の暗示もされなかった。イエスは、ユダヤ人が予期していたそのようなメシアではなく、地上の救済者であった。その使命は、全ての人種、民族へであって、何か特定の集団へではなかった。

ヨセフは、ダヴィデ王の血統ではなかった。マリヤには、ダヴィデ側からの先祖がヨセフよりもいた。ヨセフは、ローマの国勢調査の登録のために確かにダヴィデの町のベツレヘムへ行ったが、ヨセフの父側の先祖6世代前は孤児であったので、ダヴィデの直結の子孫であったサドクという者に養子にもらわれた。そのゆえに、ヨセフもまた、「ダヴィデ家」として報告されていた。

旧約聖書のいわゆるメシヤに関する予言は、その地上生活のずっと後、イエスに当てはまるように作られた。何世紀もの間、ヘブライの予言者達は、救済者の到来を公言し、歴代を通してこれらの約束は、ダヴィデの王座に座る、モーゼの奇跡的だといわれる手段によって、全ての外国支配からの自由、力強い国家としてパレスチナにユダヤの設立を始めるであろう新任のユダヤ人の支配者に言及し、解釈されてきた。また、ヘブライ教典に見られる多くの比喩的文章は、イエスの生涯の任務に、後に誤用された。多くの旧約聖書の引用は、あるじの地上での生涯の幾つかの挿話に当て嵌まるように歪められた。イエス自身、ダビデの王室へのいかなる関係もかつて公的に否定した。 「乙女が、息子を産むであろう。」というこの件さえ、「処女が、息子を産むであろう。」と作られた。これも、マイケルの地上での経歴の後に作り上げられたヨセフとマリヤの双方の多くの系図についても同様に事実であった。これらの血統の多くは、あるじの家系の多くを含むが、概して本当ではなく、事実に基づいていないかもしれない。イエスの初期の追随者のすべてが、主君で、あるじの生涯において全ての昔の予言的な語調の誘惑に余りにもしばしば屈した。

5. イエスの地上の両親

ヨセフは、物柔らかな男で頗る誠実で、かつ宗教的慣習や民族習慣のあらゆる点において忠実であった。無口で黙考であった。ユダヤ民族のひどい窮境は、ヨセフを深く悲しませた。8人の兄弟姉妹の中の若者として、かれは、陽気な方であったが、結婚生活の初期(イエスの幼児期)は、軽度の落胆期にあった。これらの気質の表れは、自身の早世の直前、それと家族の経済状態が、大工から順調な請負人への自己の栄進により強化された後、改善された。

マリヤの気質は、夫のそれとは正反対であった。彼女は、常に陽気で滅多に鬱に落ち入らず、常に明るい気性であった。マリヤは、自己感情の自由で頻繁な表現を思いのままにし、ヨセフの突然の死後まで悲嘆に暮れているところは決して見られなかった。そして、この衝撃から立ち直るやいなや、彼女には、驚嘆している目前で実に急速に繰り広げられていく長男の途方もない使命によって起こされる懸念や疑問が押し寄せた。しかしマリヤは、このようなすべての変わった経験の間、風変わりでよく理解されていない長男とその生き残りの弟妹達との関係において落ち着き、勇ましく、かなり賢明であった。

イエスは、自己の人間資質の中の希な穏やかさと信じられないほどの思いやりのある理解を父から受けた。かれは、偉大な師として、そして義憤への途方もなく大きな度量の贈り物を母から受け継いでいた。イエスは、成人期の生活環境に対する感情的な反応において、ひところは父のようであり、黙想的で敬虔的で、時にはあきらかな悲しみにより特徴づけられた。だが、しばしば母の楽観的で断固たる気性にならって突き進んだ。全般的に見て、成長し、成人期の重要な段階へ突入するにつれてマリヤの気質が、神の子の経歴を支配し勝ちであった。ある点においては、イエスは、両親の特徴の混合であった。他の点においては、一方の親の特質をみせた。

イエスは、ヨセフからはユダヤ人の儀式の習わしにおける厳しい教育とヘブライ経典の並外れの知識を、マリヤからは信仰生活のより幅広い視点と個人の精霊的な自由のより進歩主義の概念を得た。

ヨセフとマリヤの双方の家族は、その時代としては立派な教育を受けた。ヨセフとマリヤは、時代と身分のわりには、はるかに平均以上の教育を受けていた。前者は思考家であった。後者は計画家であり、適合性に優れており、即時の実行において実践的であった。ヨセフは黒目で褐色肌、マリヤは茶目のほとんど白肌であった。

ヨセフが生きていたならば、疑いなく天命の任務の長男の断固たる信者となっていたであろう。マリヤは、他の子供、友達、親戚の取る立場に大いに影響され、信じることと疑うことを繰返したが、常に、その子を宿した直後のガブリエルの出現の記憶に最終的には落ち着くのであった。

マリヤは、機織りの名手で、その当時の家事全般にわたって平均以上の手腕をもち、誠に良い家政婦であり、最高の主婦であった。ヨセフとマリアは、共に良い先生であり、子供等が、その時代に学習可能な事柄を熟知するように配慮した。

ヨセフは若い時、マリヤの父が家の増築工事をする際に雇われていた。そしてイエスの両親になるべきこの二人の求愛関係が実際に始まったのは、マリヤが中食時にヨセフに1杯の水をもたらした時であった。

ヨセフが21歳の時、二人は、ナザレ近郊のマリアの家でユダヤの習慣に則って結婚した。この結婚は、およそ2年間にわたる通常の求愛関係を締めくくった。程なく二人は、ヨセフが二人の兄弟の助力を得て建てたナザレの新しい家に引っ越した。その家は、近郷を魅惑的に見渡す高地の麓近くに位置していた。特別に用意されたこの家で、待ち望んでいる若い両親は、ユダヤのベツレヘムの家を留守にしている間、宇宙のこの重大な出来事が起ころうとしているとは気づかず、約束の子を歓迎しようと考えた。

ヨセフの家族の大部分は、イエスの教えの信奉者となったが、マリヤの身内は、イエスがこの世を去るまで信じる者は極めて少なかった。ヨセフは、待ち臨まれるメシアの信仰理念の方により傾いていたが、マリヤとその家族、特に父親は、現世の救済者であり、政治的統治者であるメシアの考えにしがみついていた。

ヨセフは、東方またはバビロニヤよりのユダヤ宗教を強烈に信じていた。マリヤは、より自由の、幅広い西方の、またはギリシアの律法と予言者の解釈の方に強く傾倒していた。

6. ナザレの家

イエスの自宅は、町の東の地域に位置する村の泉から少し離れ、ナザレの北寄りにある高い丘からそう遠くない所にあった。イエスの家族は、市の郊外に住み、これが後に、彼が、郊外での頻繁な散策を楽しんだり、東方へ続くタボル山脈とほぼ同じ高度のネイン丘陵を除くガリラヤ南方の全丘陵の中で最も高いこの近くの台地の頂への旅を容易にした。家は、この丘の南の岬の少し南東寄りに、そしてこの高台のふもととナザレを経てカナに続く道のおよそ中間に位置していた。この丘に上る以外のイエスの好んだ散策は、セフォリスへの道路へ繋がる地点へむかう北東方向の丘の麓をくねる狭い小道を辿ることであった。

ヨセフとマリヤの家は、平屋と動物を収容する建物と隣合わせの1部屋の石造りであった。家具の内訳は、低い石の食台、陶器、石皿、壷、織機、灯火台、幾つかの少さな腰掛け、それに石の床で眠るため敷物であった。動物小屋近くの裏庭には、かまどと穀物を挽く臼を被った小屋があった。この型の臼を扱うには、1人が臼を回しもう1人が穀物を入れる操作で2人の人間を要した。少年だったイエスは、母が引く側でしばしば穀物をこの臼に注ぎ足した。

後年家族が増えるに従い、かれらは、同じ皿や壺からの食べ物を取って食事を楽しむために拡大された食台の周りに皆が据わったものだった。冬期、夕食の食台にはオリーブ油を満たした少さくて平らな陶磁の明かりが、灯されたものだった。マルタの誕生後ヨセフは、昼間は大工仕事、夜間は睡眠用の大きな部屋の増築をした。

7. ベツレヘムへの旅

紀元前8年3月 (ヨセフとマリヤが結婚した月) に、アウグストゥス皇帝は、国勢調査が有利な課税をもたらすように、ローマ帝国の全住民は、番号を付されなければならないと布告した。ユダヤ人は、「人民番号制度」のいかなる形にもつねに大いに偏見をもっていた。ユダヤの王ヘロデは、これと深刻な国内問題とも関系して、1年間ユダヤ王国におけるこの国勢調査実施の延期を企んだ。紀元前7年に行われたヘロデのパレスチナ王国を除き、この人口調査は、1年後の紀元前8年に全ローマ帝国でなされた。

マリヤは、登録のためにベツレヘムに行く必要はなく—ヨセフが、家族の登録を許可された—だが、冒険的で積極的であるマリヤは、同行をすると言って譲らなかった。彼女は、ヨセフの留守中に子が生まれはしないかと一人残されるのを怖れ、その上ベツレヘムはユダの町からそう遠くないこともあり、縁戚のエリザベスとのありうる楽しい会話を期待した。

ヨセフは、実際にマリヤの同行を禁じたが、無駄であった。3、4日分の旅用の食料が用意され詰め込まれた時、彼女は、2倍の食べ物を用意し、旅仕度はすでにできていた。しかし現実には出立前、ヨセフは、マリヤの同伴は仕方がないと考え、二人は、夜明けにナザレを陽気に出発した。

ヨセフとマリヤは、貧乏で、たった一頭の役畜しか持っておらず、ヨセフが、動物を曳いて歩き、身重であったマリヤは食料を載せたこれに乗った。父が最近身体障害者になったので、両親への援助もあり、家の建築と調度は、ヨセフにとり大変な経済負担であった。こうしてこのユダヤの夫婦は、紀元前7年8月18日早朝、ベツレヘムへの旅へと質素な家を発った。

旅の初日は、ギルボア山麓の丘あたりまで行き、ヨルダンの川岸で夜を過ごすべくそこで野宿をし、ヨセフは、宗教の師の考えに固執し、マリヤは、ユダヤ人のメシア、ヘブライ国家の救世主の考えを持続し、二人にどのような子が生まれてくるのかあれこれと億測に耽けった。

8月19日の明るい早朝、ヨセフとマリヤは、再び旅路にあった。二人は、ヨルダン渓谷を見下ろすサータバ山の麓で昼食をとり、夜までにエリコに辿り着くよう旅を続け、そこで町の郊外の街道沿いの宿をとった。夕食後、ナザレの旅人は、ローマ支配の圧政、ヘロデ、国勢登録、それとユダヤ人の学問と文化の中心地としてのエルサレムとアレクサンドリアの相対的影響を多いに討論した後、その夜の眠りに就いた。8月20日早暁、かれらは、旅を再開し、昼前にエルサレムに到着し、寺院を訪問して目的地に向けて進み、午後の半ばにベツレヘムに着いた。

宿は込み合っていた。そこでヨセフは、遠戚との同宿を求めたが、ベツレヘムのどの部屋も超満員であった。その宿の中庭に戻る途中、かれは、岩石の横腹を削りとって造った丁度宿の下に位置する隊商用の厩が、宿泊人受け入れのために動物が追い出され、掃除されていると知らされた。ヨセフは、驢馬を中庭に放置し、衣類と食料の入った二人の袋を担いでマリヤと宿舎へと石段を下りた。二人は、厩舎と飼葉小屋の前に通じるかつては穀物倉庫であった場所にいた。天幕は吊るされており、そのような心地良い休息場所を得て幸だと考えた。

ヨセフは、すぐ外に出掛けて登録することを考えたが、マリヤは、疲労し、かなり苦しんで側にいるように嘆願したので、ヨセフは、そうした

8. イエスの誕生

その夜マリヤは、一晩中落ち着けず、二人ともよく眠れなかった。夜明けまでには出産の激痛は明らかで、紀元前7年8月21日、正午、マリヤは、女性の旅の道連れの援助と懇切な介添えで男児を出産した。ナザレのイエスが世に生まれ、マリヤがそのような非常事態に備えて携えてきた布に包まれて近くの飼い葉桶に横たえられた。

その前後の全ての稚児が、この世に生まれてきたのと同じ様に、約束された子は、生まれた。八日目、ユダヤの習慣に則り、かれは、割礼をうけ、正式にヨシュア(イエス)と名付けられた。

イエス誕生の翌日、ヨセフは登録をした。以前エリコで二晩語った男に出会い、ヨセフは、その宿に部屋を取っていた裕福な友のところへ連れていかれると、この者は、ナザレの夫婦と快く部屋を交換すると言った。その日の午後夫婦は、宿に上がって行き、ヨセフの遠戚の家に宿泊先を得るまでの約3週間ここに住んだ。

イエス出生後の二日目、マリヤは、子が生まれたとエリザベスに伝言をすると、エルサレムまで来てザカリヤとこの問題全般について話そうというヨセフへの誘いの返事をもらった。ヨセフは、翌週ザカリヤに相談するためにエルサレムに行った。ザカリヤとエリザベスの双方共に、イエスは、誠にユダヤ人の救済者メシヤになり、自分達の息子ヨハネは、側近の長、運命の右腕の男となるはずだという真摯な確信の虜となった。そしてマリヤは、同様の考えを持っていたので、イエスが、全イスラエルの王座のダヴィデの後継者になるように成長していけるように、ダヴィデの町のベツレヘムに留まるようヨセフを説き伏せるのに苦労はなかった。そいう訳で、ヨセフが大工業に携わり、1年以上ベツレヘムに留まった。

監督者達のもとに集合したユランチアの熾天使は、イエスの正午の誕生に、ベツレヘムの厩舎の上方で栄光を讃え聖歌を歌ったが、これらの讃賞の発声は、人間の耳には聞こえなかった。ザカリヤに遣わされたウルからのある僧達が到着する日まで、羊飼いも他の人間も誰としてベツレヘムの稚児に敬意を払いにきた者はいなかった。

メソポタアミアからのこれらの僧は、「命の光」が赤ん坊として地上に、そしてユダヤ人の間に出現しようとしていると、夢の中で知らされたのだと、以前その国の見知らぬ宗教の師に言い聞かされていた。そこでこれらの3人の師は、その方角へこの「命の光」を探しに出た。エルサレムでの何週間もの空しい探索の後、ウルに戻ろうとしているところで、ザカリヤは、その者達に出会い、イエスこそが探し求めているものであると明かし、ベツレヘムヘ彼らを向かわせたのであった。そこで3人は、赤ん坊を見つけ、地上の母マリヤに自分達からの贈物を残していった。彼らの訪問の際、その赤ん坊は、生後ほぼ3週間であった。

これらの賢者は、ベツレヘムに案内する星見なかった。ベツレヘムの星の美しい伝説は、このようにして始まった。イエスは、紀元前7年8月21日、正午に生まれた。紀元前7年5月29日、魚座の配列の中で木星と土星の並みはずれた連結が起きた。そして同年9月29日と12月5日に類似の結合が発生したということは、注目に値する天文事実である。これらの驚異的であるが、全く自然の出来事の基盤に、それ以降の善意の熱狂者達が、ベツレヘムの星の魅力的な伝説を作り、敬慕する東方の三博士は、それにより飼葉小屋へと導かれ、そこで稚児を見て、崇拝した。東方や近東の心は、お伽話を楽しみ、かれらは、宗教指導者や政治上の英雄の生涯についてのそのような美しい作り話を絶えず紡ぎ出しているのである。印刷物がなく、一世代から別世代へとほとんどの人間の知識が口伝えされる時、作り話が伝統となり、伝統が、次第に容認された事実となることは、誠に容易いであった。

9. 寺院いおける献上

モーゼは、どの長男も主に属すると、そして異教徒の習慣であった犠牲の代わりに、もし親が公認の僧に5シケルを支払い、その子を買い戻せば、そのような息子は生きることが許されると、ユダヤ人に教えた。また一定の期間を過ごした後、清めのために母自身(あるいは代わって適当な捧げものをする誰か)が、寺院に参ることを指導したモーゼの条例もあった。同時にこの双方を行なうのが慣例であった。依ってヨセフとマリヤは、イエスを僧達に渡し、その買い戻しの実行とマリヤのいわゆる分娩の汚れからの浄めのための適切な犠牲を払うためにエルサレムの寺院へ参った。

寺院の中庭あたりを絶えず俳廻する唄い手シメオンと詩人アナの注目に値する二人の人物がいた。シメオンは、ユダヤ人であったが、アナは、ガリレア人であった。この一組は、しばしば一緒にいて、そして両者とも、僧ザカリヤの親友であり、この僧は、二人にヨハネとイエスの秘密を打ち明けた。シメオンとアナの両者は、メシアの到来を待望み、ザカリヤに対する信頼は、イエスが期待されるユダヤ民族の救済者だと二人に思わせた。

ザカリヤは、ヨセフとマリヤが、イエスと寺院にみえる予定の日を知っており、真っ直に挙げた手で、長子の行列の中のイエス指し示すことをシメオンとアナとに事前の手はずを整えた。

アナは、この機会のために詩を書き、シメオンが歌うと、ヨセフ、マリヤ、そして寺院の中庭に集った者全員が、大いに驚いた。またこれは、長男買い戻しの讃美歌であった。

主なるイスラエルの神は讃むべきかな

神はその民を顧みてこれをあがなわれたのだから。

私達全員のために救いの角を

下僕ダヴィデの家にお立てになった。

聖なる予言者達の口によってお語りにもなったように―

敵から、また私達を憎む全ての者の手からの救済を。

私達の父祖達に慈悲を示され、その聖なる盟約を覚えていられて―

父祖アブラハムにお立てになった誓い

私達を敵から救い出し

恐れなく仕えさせてくださるのである

生きている限り清く正しく。

おお、幼子よ、約束の子よ、いと高きものの予言者と呼ばれるであろう。

その王国を築くため主のみ前に先立って行き、

罪の許しによる救いを

その民に知らせるのであるから。

神の優しい慈悲を喜べ

今、啓示の光が上から私達を望んだのであるから。

暗黒と死の陰とに住む者を照らし

私達の足を平和の道へ導くであろう。

主よ、今こそあなたはみ言葉通りにこの下僕を安らかに去らせてくれますように

この救いはあなたが万民の前にお備えになったもので

異邦人をも照らす啓示の光

み民イスラエルの栄光であります。

ベツレヘムへの帰途、ヨセフとマリヤは、混乱し威圧され、沈黙していた。マリヤは、年老いた詩人アナの別れの挨拶に大変当惑し、ヨセフは、イエスが待ち臨まれているユダヤ民族のメシヤだと印象づけるこの時期尚早の努力に調和していなかった。

10. ヘロデ行動す

しかしヘロデの監視人達は、行動をとらずにはいなかった。監視人達が、ウルからの僧達のベツレヘム訪問を通報すると、ヘロデは、これらのカルデア人に出頭するよう命令を出した。ヘロデは、これらの賢者にしきりと「ユダヤの王」について尋ねたが、かれらは、赤ん坊を産んだ母は、夫と共に国勢調査登録にベツレヘムに下りてきたものだと説明したが、彼に些さかの満足も与えるものではなかった。ヘロデは、この返事に満足せず、賢者達が、その子の王国は宗教的であって現世のものではないと宣言したのであるから、自分もその子に会って崇めることができるよう探し出すようにと彼らに財布を与え、指示をして送り出した。だが賢者たちが戻らないので、ヘロデは疑い始めた。これらを心に思い起こしていると、通報者達が、戻ってきて、イエスの買い戻しの儀でシメオンが歌った部分の写しを持参し、寺院での最近の出来事の全てを報告をした。だが彼らは、ヨセフとマリヤを追うことができず、夫婦が、稚児をどこへ連れていったのか応答できずにいると、ヘロデは、非常に怒った。そこでヨセフとマリヤの居場所を突き止める捜索隊を派遣した。ナザレ家族のヘロデの探策を知り、ザカリヤとエリザベスは、ベツレヘムから遠のいたままでいた。男の稚児は、ヨセフの親戚に隠された。

ヨセフは、仕事を探すことを怖れたし、僅かな貯えは急激に消えていった。寺院での浄めの儀式の際でさえ、ヨセフは、モーゼが窮民の母達の清めの儀式に指示したように、マリヤのために2羽の小鳩の供え物を正当化するほどに自分は貧乏であると考えた。

1年以上の探索の後、へロデの密偵は、まだイエスの居所が掴めずにいた時、その上幼児は、まだベツレヘムに隠されているという疑惑から、組織的なベツレヘムの各家の捜索がなされ、2歳以下の全ての男の幼児は殺すようにとの命令を準備し、そしてこの方法により「ユダヤ人の王」にならんとするこの子供が滅ぼされることを確実にしたかった。こうしてユダのベツレヘムでは1日に16人の男の幼児が殺された。しかし、陰謀と殺人は、当の彼自身の家族内でさえ、ヘロデの宮廷においては当り前であった。

これらの幼児の大殺戮は、イエスが1歳を少し過ぎた紀元前6年の10月の半ばに起きた。しかしヘロデの宮廷の随行員の中にさえメシヤの到来を信じる者がおり、そのうちの一人は、ベツレヘムの男の幼児虐殺命令を知ると、ザカリヤに伝え、続いてザカリヤは、ヨセフに使いを送り、ヨセフとマリヤは、幼児と共に殺戮前夜エジプトのアレクサンドリアに向けて出発した。注意を逸らすために、かれらは、イエスと単独でエジプトへの旅をした。かれらは、ザカリヤが与えてくれた資金でアレクサンドリアへ行き、そこでマリヤとイエスが、ヨセフの裕福な家族に身を寄せている間、ヨセフは、自分の仕事をした。かれらは、アレキサンドリアにまる2年逗留し、ヘロデの死後までベツレヘムには戻らなかった。