論文 195 五旬節後

   
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論文 195

五旬節後

五旬節の日のペトロスの説教の結果は、王国の福音を宣言する努力において大多数の使徒の将来の方針を決め、計画を決定するようなものであった。ペトロスは、キリスト教会の本当の創始者であった。パウーロスは、キリスト教の教義を非ユダヤ人に伝え、ギリシア人信者は、それを全ローマ帝国へと届けた。

因襲に捕らわれ、祭司の支配を受けているヘブライ人は、1民族として、神の父性と人の兄弟愛についてのイエスの福音、それと復活についてのペトロスとパウーロスの宣言とキリスト(以降のキリスト教)の上昇のいずれも受け入れることを拒否したが、残りのローマ帝国は、進化するキリスト教の教えに受容的であることがわかった。西洋文明は、このとき知的であり、戦争に疲れ、すべての既存の宗教と宇宙哲学にまったく懐疑的であった。西洋世界の民族、すなわちギリシア文化の受益者には、偉大な過去の崇められた伝統があった。かれらは、哲学、芸術、文学、政治上の進展において大きな成果の遺産に目を向けることができた。しかし、これらの全業績にもかかわらず、魂を満足させる何の宗教もなかった。かれらの精霊的な切望は満たされないままであった。

キリスト教の主旨に盛り込まれたイエスの教えは、人間社会のそのような舞台に突然に押し出された。生活の新秩序は、これらの西洋民族の飢える心にこのようにして提示された。この状況は、古い宗教的実践と、新しいキリスト教化されたイエスの世界への趣意との即時の対立を意味した。そのような対立は、新旧いずれかの明らかな勝利、さもなければ、幾分の妥協をしなければならない。歴史は、闘いが妥協で終わることを示して2世代で同化することは無理であった。それは、イエスが人の魂に提示してきたような単なる精霊的な訴えではなかった。それは、宗教儀式、教育、魔術、医療、芸術、文学、法律、政府、徳義、性的な規制、複婚、そして限定された度合での奴隷制にさえ関わる明確な態度を早くも取った。キリスト教は、単に新しい宗教—全ローマ帝国と全東洋が待っていた何か—として到来したのではなく、人間社会の新秩序として到来したのであった。それは、そのような主張として、時代の社会的風紀の衝突を突如として引き起こした。イエスの理想は、ギリシアの哲学により再解釈されたり、キリスト教に社会化されるとき、西洋文明の倫理、道徳、および宗教に表現される人類の伝統にそのとき大胆に挑戦した。

最初キリスト教は、下層の社会経済階級のみを転向者とした。しかし2世紀初頭までには、最高のギリシア・ローマ文化は、キリスト教信仰のこの新しい秩序、生きる目的と生活目標のこの新概念へと変わっていった。

その生誕の地においてはほぼ失敗に終わったユダヤ人の起源のこの新しい知らせは、どのようにローマ帝国の最良の心をそれほどまでに急速に、効果的に捕らえたのか。哲学的な宗教と神秘礼拝集団に対するキリスト教の勝利は、次の理由からであった。

1. 組織。パウーロスは、立派な組織者であり、その後継者達は、パウーロスの定めた歩調を維持した。

2. キリスト教は、完全にギリシア化された。それは、ヘブライ神学の神髄はもちろん、ギリシア哲学の最良部分をも受け入れた。

3. しかし、それは、新たでおおきな理想、すなわちイエスの生命贈与の反響と全人類のための救済に関するイエスの趣意の反映を最もよく包含した。

4. キリスト教の指導者達は、支持者の半分の良い方をアンチオケの礼拝集団にうまく引き入れたようにミスラ主義との妥協をする気でいた。

5. 同様に、次とその後のキリスト教指導者の世代が、異教思想とのそのようなさらなる妥協をしたので、ローマ皇帝コンスタンティーヌさえ新しい宗教に引き入れられるほどであった。

しかし、キリスト教徒は、ギリシア化されたパウーロスのキリスト教の受け入れを異教徒に強制する一方で、異教徒の儀礼的な華やかさを取り入れたという点において、異教徒との抜け目のない取り引きをした。かれらは、ミスラ派との間よりも異教徒との間でより良い取り引きをしたのだが、その初期の征服者達との妥協においてさえ、ペルシアの神秘宗教の甚だしい不道徳、さらには多数の他の不届きな習慣を排除することに成功したという点において征服者以上であった。

賢明にも、または浅はかにも、キリスト教のこれらの初期の指導者は、イエスの考えを保持し、推進する努力において故意にイエスの理想について妥協した。かれらは、目ざましい成功を収めていた。しかし、誤ってはいけない、これらの妥協的な理想は、あるじの福音にまだ潜在しており、その理想は、やがては完全な力を世界に明らかにするであろう。

キリスト教のこの異教徒化により、古い秩序は、多くの儀式的な性質の重要でない勝利を得たが、キリスト教は、次のような優位性を獲得した。

1. 人間の品行徳義の新しく、非常に高度の調子を盛り込んだ。

2. 神の新しく、大きく拡大した概念は、世界に与えられた。

3. 不死の望みは、認められた宗教の保証の一部になった。

4. ナザレのイエスは、人の空腹の魂に与えられた。

イエスによって教えられたすばらしい真実の多くは、これらの当初の妥協においてもう少しで失われるところであったが、それらは、人の息子の人生と教えに関するパウーロスの解釈に入れ替わった異教徒化されたキリスト教のこの宗教の中にまだ眠っている。そして、キリスト教は、それが異教徒化される前にさえ、最初に完全にギリシア化された。キリスト教は、多く、非常に多く、ギリシア人に負うところがある。それは、ニカイアでとても勇敢に立ち上がり、まったく恐れることなくこの集会に挑戦したので、世界は、彼の贈与の本当の真実を失わうという危険に晒したかもしれないイエスの資質の概念を曖昧にしなかったのが、エジプト出身のギリシア人であった。このギリシア人の名前は、アサナシオスで、この信者の雄弁さと論理がなければ、アレイオスの説得は、成功していたことであろう。

1. ギリシア人の影響

キリスト教のギリシア化は、使徒パウーロスが、アテネでアレイオスパゴスの議会の前に立ち、「知られざる神」についてアテネ人に伝えたその波乱の日に本格的に始まった。そこで、アクロポリスの影で、このローマ市民は、ガリラヤのユダヤ人の土地に起源をもつ新しい宗教の自説版をこれらのギリシア人に宣言した。ギリシア哲学とイエスの教えには、多くの点で妙に似ている何かがあった。これらには、共通の目標—双方共に個人の発現を目的とした—があった。ギリシア人には、社会的、政治的発現において。イエスには、道徳的、精神的発現において。ギリシア人は、政治的な自由につながる知的な自由主義を教えた。イエスは、信仰の自由につながる精霊的な自由主義を教えた。まとめられるこれらの2つの考えは、人間の自由のために新しくて強力な憲章を構成した。それらは、人の社会的、政治的、精神的な自由の前兆となった。

キリスト教は、主に2つの事から競い合うすべての宗教に打ち勝った。

1. ギリシア人の心は、ユダヤ人からさえ新しく、良い考えを借り受けることを望んだ。

2. パウーロスとその後継者達は、自発的だが、鋭く、賢明な妥協者達であった。かれらは、熱心な神学の交換者であった。

パウーロスが、「キリストと磔にされたあの方」を説いてアテネで立ち上がったとき、ギリシア人は、精霊的に飢えていた。かれらは、質問し、興味を持ち、精霊的な真実を実際に探していた。ギリシア人がそれを迎え入れる一方で、ローマ人は、最初キリスト教と戦ったということ、そして後にローマ人に文字通りこの新しい宗教を受け入れるように強要し、それからギリシア文化の一部として修正したのが、ギリシア人であったということを、決して忘れてはいけない。

ギリシア人は美を、ユダヤ人は神聖さを崇敬したが、両民族は、真実を愛した。何世紀ものあいだ、ギリシア人は、人間のすべての問題, 宗教を除く、—社会的、経済的、政治的、哲学的—を真剣に考え、本気で議論してきた。ほとんどのギリシア人は、宗教に多く注意を払わなかった。かれらは、自身の宗教でさえそれほど真剣には受け止めなかった。何世紀もの間ユダヤ人は、宗教に心を捧げはしたが、他のこれらの分野についての考えを無視してきた。かれらは、自分達の宗教を非常に真剣に、あまりに真剣に受け止めた。イエスの趣意の内容に照らし出されているように、これらの2つの民族の何世紀もの間の考察の連合の所産は、そのとき、人間社会の新しい秩序と、ある程度は、人間の宗教的な信念と習慣の新しい秩序の推進力となった。

アレクサンダーが、ヘレニズム文明を近東の世界に広げたとき、ギリシア文化の影響は、すでに西地中海の地に浸透していた。小都市国家に生活する限り、ギリシア人は、宗教と政治を非常にうまく扱ったが、マケドニアの王が、アドリア海からインダス川まで伸ばし、ギリシアを帝国へとあえて拡大したとき、問題は始まった。ギリシアの芸術と哲学は、完全に帝国の拡大の課題に堪えたが、ギリシアの政治的支配、または宗教についてはそうではなかった。ギリシアの都市国家が、帝国へと拡大した後、度量の狭い神々は、むしろ、少々風変わりであった。ギリシア人は、古いユダヤ人の宗教のキリスト教化がギリシア人に入ってきたとき、 1柱の神、より偉大で、より優れた神を本当に捜し求めていた。

ヘレニズム帝国は、そういうものとして持ちこたえることができなかった。その文化的な支配は続いたが、それは、帝国管理のため、そしてローマの政治的な光彩を西洋から確保した後にだけ、そして、東洋から一柱の神が帝国の尊厳を備えた宗教を得た後にだけ、持ちこたえた。

キリスト後の1世紀に、ヘレニズム文化は、すでにその最高水準に達した。その後退は、始まっていた。学問は進んでいたが、光彩は減退しつつあった。キリスト教に部分的に具体化されたイエスについての考えと理想が、ギリシアの文化と学問の救難の一部になったのは、まさしくそんな時であった。

アレクサンダーは、ギリシア文明の文化的な贈り物をもって東洋に突進した。パウーロスは、イエスの福音のキリスト教版で西洋を強襲した。そして西洋の至るところ、ギリシア文化が波及するところはどこでも、ギリシア化されたキリスト教が根づいた。

イエスの趣意の東洋版は、その教えにより忠実なままであったにもかかわらず、アブネーの妥協しない態度に従い続けた。それは、ギリシア化されたものが進歩したようには決して進歩せず、結局は、イスラム運動において失われていった。

2. ローマの影響

ローマ人は、政府の代わりに投票により代議政治を置いてギリシア文化を丸ごと引き継いだ。そして、やがてこの変化は、ローマが、不慣れな言語や民族、そして宗教に対してさえ新しい寛容性を西洋全体にもたらしたという点において、キリスト教を支持した。

ローマのキリスト教徒の早期の迫害の多くは、単に彼らの説教における用語「王国」の不運な用法によるものであった。ローマ人は、ありとあらゆる宗教において寛容であったが、政治抗争の趣をもつものは何に対しても非常に憤慨した。そういう訳で、主に誤解が原因であるこれらの早期の迫害が、立ち消えしたとき、宗教的な宣伝の領域は、大きく開いていた。ローマ人は、政治的支配に興味があった。芸術も宗教もあまり好まなかったが、異常なまでに両方に寛容であった。

東洋の法律は、厳しく専横的であった。ギリシアの法律は、流動的で芸術的であった。ローマ法は、荘厳で敬意を育成していた。ローマの教育は、前代未聞の、また鈍い忠誠心を養った。初期のローマ人は、政治に忠実で、崇高的に献身する個人であった。かれらは、正直で、熱心で、理想にひたむきではあったが、その名に相応しい宗教をもってはいなかった。彼らのギリシア人の教師が、パウーロスのキリスト教を受け入れるように彼らを説得することができたことは、少しも驚きではない。

これらのローマ人は、偉大な民族であった。かれらは、自らを治めたので、西洋を治めることができた。そのような他に類のない清廉さ、献身、頑強な自制心は、キリスト教の受容と成長には理想的な土壌であった。

これらのギリシア・ローマ人が、国家に政治的に尽くすのと同様に、組織的な教会に精霊的に尽くすようになることは容易であった。ローマ人は、国家の競争相手として教会を恐れるときにだけ、それと戦った。ローマは、国家の哲学、あるいは自国の文化をあまり持っていなかったことから、ギリシア文化を自身のものとして採用し、また、キリストを道徳哲学として大胆に受け入れた。キリスト教は、ローマの徳育とはなったが、そのような十把一絡げの態度で新宗教を迎え入れた人々の精霊的な成長における個々人の経験の意味での宗教ではなかった。誠に、いかにも多くの個人は、この国教すべての表面下に浸透し、自分達の魂の養分のためにギリシア化され、異教徒化されたキリスト教の潜在する真実に保持される隠された意味の真の価値を発見した。

ストア学派的である者と「自然と良心」への彼の強い働き掛けが、少なくとも知的意味において、キリストをより良く受け入れる準備だけを全てのローマ人にさせた。ローマ人は、生来的に訓練によっても法律家であり、自然法則さえも崇敬した。さてキリスト教において、彼は、神の法を自然法則で見分けた。キケローとヴェルギリウスを生み出すことができた民族は、パウーロスのギリシア化されたキリスト教において熟した。

したがって、これらのローマ化されたギリシア人は、宗教を哲学化すること、その考えを調整し、その理想を体系化すること、宗教的実践を生活の既存の趨勢に適合させることをユダヤ人とキリスト教徒の両方に強いた。そして、このすべてが、ヘブライの聖書のギリシア語への翻訳と、ギリシア語への新約聖書の後の記録によって大いに助けられた。

ギリシア人は、ユダヤ人や他の多くの民族と対照的に長い間不死を、死後のある種の生存を幾らか信じており、またこれがイエスの教えのまさに核心であったので、キリスト教が強い魅力となったことは確かであった。

ギリシア文化の継承とローマの政治の勝利は、1言語と1文化で地中海地域を1帝国に統合し、また西洋の世界を1神への用意をさせた。ユダヤ教は、この神を提供はしたが、ローマ化されたギリシア人への宗教としては受け入れられなかった。フィロンは、それらの反論を緩和する手助けをいくらかはしたが、キリスト教は、1神より一層好ましい概念を示し、ローマ化されたギリシア人は、それを容易に迎え入れた。

3. ローマ帝国の下

キリスト教徒は、ローマの政治支配の併合の後、そしてキリスト教の普及後、重要な宗教概念である一つの神をもつが、帝国をもたない自分達ことに気づいた。ギリシア・ローマ人は、偉大な帝国にいる、だが帝国崇拝と精霊統一の適切な宗教概念として仕えるための神をもたないことに気づいた。キリスト教徒は、帝国を受け入れた。帝国は、キリスト教を採用した。ローマ人は、政治支配の統一を、ギリシア人は、文化と学問の統一を、キリスト教は、宗教思想と実行の統一を提供した。

ローマは、国家主義の伝統を帝国普遍主義により克服し、歴史上初めて、少なくとも名目上は、異なる民族と国々が、1つの宗教を受け入れることを可能にした。

ストア学派の活発な教えと密儀宗派の救済保証の間の大きな論争中、キリスト教は、ローマにおいて迎えられた。キリスト教は、「非利己主義」にあたる言葉を持たない精霊的に飢えた人々に爽快な安らぎと解放する力を携えてやって来た。

キリスト教に最も優れた力を与えたものは、その信者が奉仕生活を送る態度であり、抜本的な早期の迫害の間にその信仰のために死に至る態度でさえあった。

子供に対するキリストの愛の教えは、望まれない子供、特に女児を死にさらすという蔓延的な習慣に早速終止符を打った。

キリスト教崇拝の初期の構想は、主にユダヤ教の会堂から引き継がれ、ミスラ派の儀式によって変更され、後には、多くの異教の華やかな催しが加えられた。初期のキリスト教会の中枢は、キリスト教化したギリシア人のユダヤ教への改宗者から構成されていた。

キリストの後の2世紀は、優れた宗教が西洋世界において前進する世界の全歴史上での最盛期であった。1世紀のキリスト教は、闘争と妥協により、それ自体が、定着し急速に広がる準備をしていた。キリスト教は、皇帝を採用し、その後、彼がキリスト教を採用した。これは、新しい宗教の普及にとり素晴らしい時代であった。信仰の自由があった。旅行は自在であり、思考は制約されなかった。

ギリシア化されたキリスト教を名目上受容する精霊的な刺激は、かなり進んでいた道徳的な低下を防止するか、すでに確立し、増加している人種的堕落を補正するにはあまりに遅くローマに到来した。この新宗教は、帝国のローマに文化的に必要であったので、より大きい意味における精霊的な救済の手段とならなかったことは極めて不運である。

優れた宗教といえども、国家の情勢への個人の参加不足が招いた当然の結果から、過度の家父長主義、重税と著しい虐待的徴収、レヴァント地方との金排出の不均衡な通商、狂乱的な娯楽、ローマ化、女性の退廃、奴隷制と民族の退廃、身体の疫病、そして精霊的な不毛地点近くまで制度化されようとしていた国教から偉大な帝国を救うことはできなかった。

しかしながら、アレキサンドリアでの状況は、それほど悪くなかった。初期の学校では、イエスの教えの多くを妥協のない状態に保ち続けた。パンタイノスは、クレメントを教え、その後インドでキリストを宣言するためにナサナエルに続いた。キリスト教の構築の際、イエスの理想のいくらかは犠牲にされる一方、2世紀末までには、実際にはギリシア・ローマ世界のほとんどすべてのすばらしい心が、キリスト教徒になったということが公正を期して記されるべきである。勝利は、成就に近づきつつあった。

そしてその崩壊後でさえ、このローマ帝国は、キリスト教の生存を保証するために十分に長く続いた。しかし、我々は、王国の福音が、ギリシアのキリスト教の代わりに受け入れられていたならば、ローマや世界で起こったであろうことを、しばしば億測してきた。

4. ヨーロッパの暗黒時代

社会の付属物であり、政治の味方である教会は、いわゆるヨーロッパの「暗黒時代」の知性と精霊の低下を分担する運命にあった。この間に、宗教は、ますます禁欲化され、苦行化され、合法化された。精霊的な意味において、キリスト教は冬眠していた。この期間を通して、微睡みと非宗教化するこの宗教とともに、神秘主義、つまり非現実性に近く、哲学的に汎神論と同類の空想的かつ精霊的な経験の連続した流れが、存在した。

これらの暗黒で絶望的な世紀の間にまたもや宗教は、実質的に受け売り的になった。個人は、支配的な教会の権威、伝統、命令の前にもう少しで失われるところであった。そして、神の法廷で特別な影響を持つと思われ、また、それゆえに、有効に求められるならば、神々の前で人間のために仲裁することができる「聖者」の華やかな集まりの創造において新たな精霊的な脅威が起きた。

しかし、キリスト教は、暗黒時代の接近を過ごすには無力である一方、道徳的な暗闇と精霊的な淀みのこの長い期間を耐え抜く準備のために十分に社会的になり、異教徒的になった。そして、それは、西洋文明の長い夜を通して持続し、文芸の復興の際、世界において道徳的な影響としてまだ機能していた暗黒時代の通過後のキリスト教の甦りは、キリスト教の教え、人間の人格の知的、感情的、そして精霊的な特別な型に適している信条をもつ数多くの宗派をもたらす結果となった。これらの特別なキリスト教集団、または宗教家族の多くは、この発表の作成時点でまだ持続している。

キリスト教は、イエスの宗教をイエスについての宗教への意図しない変化から始まった歴史を示している。それは、経験豊かなギリシア化、異教徒化、世俗化、制度化、知性の低下、精霊的な退廃、道徳的な冬眠、消滅への恐怖、後の若返り、分裂、そしてより最近の相対的な回復をした歴史をさらに提示している。そのような経歴は、固有の活力と回復させる膨大な資力の保持を示している。そして、この同じキリスト教は、今、西洋民族の文明世界に存在し、支配のためのその過去の戦いを特徴づけたそれらの盛り沢山な危機よりもさらに不吉な存在協創に直面している。

宗教は、現在、科学的な心と実利主義的な傾向の新時代の挑戦に直面している。世俗的な傾向と精霊的な傾向とのこの巨大な争いにおいて、イエスの宗教は、ついには、勝利を収めるであろう。

5. 現代の問題

20世紀は、キリスト教と他のすべての宗教が解決すべき新たな問題をもたらした。文明が、より高まるにつれ、社会を安定させ、その物質的な問題解決を容易にする人の努力の全てにおいて、「最初に天の現実を探す」義務が、ますます必要となる。

真実は、切断され、分離され、孤立し、分析され過ぎるとき、しばしば混乱が生じ、紛らわしくさえなる。生きる真実は、物質科学でも介在する芸術の閃きとしてでもなく、完全かつ生きた精霊的な現実として迎え入れられるときにだけ、真実探求者に正しく教える。

宗教は、人間にとっての神性で、永遠の目標の顕示である。宗教は、純粋に個人的で精霊的な経験であり、次のような人の他の高い思索の型とは永遠に区別されなければならない。

1. 物質的な現実の問題に対する人の論理的態度。

2. 醜さに対照をなす美に対する人の美的鑑賞

3.社会的義務と政治的義務に対する人の倫理的認識。

4. 人間道徳に関する人の感覚さえ、それ自体、宗教ではない。

宗教は、宇宙で信仰、信用、確信を呼び起こすそれらの価値を見つけるようになっている。宗教は、究極的には崇拝に至る。宗教は、魂のために心によって発見される相対的価値と対照であるそれらの最高の価値を発見する。本物の宗教経験を通じてのみ、そのような超人的な洞察が得られる。

永続的な社会的体制は、重力のない太陽系が、それを維持できないのと同様に、精霊的な現実に基づく道徳なくしては維持できない。

肉体の1つの短い人生で好奇心を満たしたり、魂に押し寄せてくるすべての潜在的な冒険を満足させないようとしてはいけない。我慢しなさい。くだらない、浅ましい冒険への無法な突入に耽ける誘惑に陥ってはいけない。活力を利用して情熱を抑えなさい。進歩的な冒険と感激的な発見の終わりのない経歴の壮大な展開を待ち受ける間、穏やかでありなさい。

人間の起源についての混乱に際して、永遠の目標を見失わないようにしなさい。イエスが、幼子達さえ愛したということ、人間の人格の素晴らしい価値を永遠に明らかにしたということを忘れないようにしなさい。

世界を見るとき、あなたが見る悪の黒点は、究極の善の白い背景に対して示されているということを思い出しなさい。悪の黒い背景に対して惨めに現れる善の白斑だけを見ているのではない。

発表し、厳然と示す非常に多くの善の真実があるとき、ただ事実であるように見えるというだけで、人は、なぜ世界の悪についてくよくよしなければならないのか。真実の精霊的な価値の美しさは、悪の現象よりも楽しくて希望を与える。

ちょうど現代科学が実験技術を追求するように、イエスは、宗教において、経験の方法を主唱して従った。我々は、精霊的な洞察の導きを通して神を見つけるのだが、美への愛、真実の追求、義務への忠誠、神性の善の崇拝を通して魂のこの洞察に接近する。しかし、これらのすべての価値のうち、愛は真の洞察への本当の指針である。取り立て

6. 物質主義

科学者は、人類を物質的な恐怖へと意図せずして陥れた。かれらは、時代の道徳的な銀行の思慮のない取りつけを始めたが、人間の経験のこの銀行には、巨大な精霊的な資源がある。人間の経験のこの銀行は、その要求に耐えることができる。思慮のない人だけが、人類の精霊的な資産に関して恐怖状態になる。唯物の非宗教的な恐怖が終わるとき、イエスの宗教は、破産していないと分かるであろう。天の王国の精霊的な銀行は、「あの方の名」でそれを引き出すすべての者に信仰、望み、道徳的な保全を払い戻すであろう。

物質主義とイエスの教えとの明らかな対立が何であろうとも、人は、来る時代に、あるじの教えが完全に勝利すると安心することができる。実際は、真の宗教は、科学とのいかなる論争にも関与し得ない。それは、物質的なものと決して関係がない。宗教それ自体は、科学者には最高に関心がある傍らで、科学には好意的ではあるもののまったく無関心である。

叡知の付帯的な解釈と宗教経験の精霊的な洞察なくしては、単なる知識の追求は、つまるところ、悲観主義と人間の絶望につながる。少しばかりの知識というものは、実に混乱させる。

この著作の時点では、物質主義の最悪の事態は終わっている。より良い理解の日は、すでに夜が明け始めている。科学世界のより高度の心は、哲学においてもはや完全に物質的ではないが、一般大衆は、以前の教えの結果として今なおその方向に傾いている。しかし、物理的な現実主義のこの時代は、人の地球の生涯のつかの間の短い話にすぎない。現代科学は、真の宗教—イエスの信者達の人生において訳されたようなイエスの教え—を手つかずのままにしてきた。科学がしたすべては、人生に対する曲解の無邪気な幻想を破壊することである。

地球上の人の人生に関しては、科学は量的経験、宗教は質的経験である。科学は、現象を、宗教は、起源、価値、および目標を扱う。物理的な現象の説明として、原因を割り当てるということは、究極についての無知を認めることであり、結局は、科学者を真っ直に最初の大きな原因—楽園の宇宙なる父—に導いているに過ぎない。

奇跡の時代から機械の時代への激しい揺れは、人を全く混乱させるものだと分かった。機械観的な誤った哲学の巧みさと手際の良さは、その機械的な論点と一致しない。唯物論者の心の諦観した機敏さは、宇宙が盲目かつ目的のないエネルギー現象であるという自身の主張を永遠に論破している。

一部のおそらく教養のある人の機械的な自然主義、そして一般人の考えのない世俗主義の双方は、ともに徹底的に物事に関心がある。かれらは、信仰、望み、および永遠の確信に欠けると同時に、すべての真の価値、精霊的な資質の是認、精霊的な満足感に乏しい。現代生活の大きな問題の1つは、人が精霊的な思索と宗教的な献身に乗り出すには、あまりにも忙しいと思うことである。

物質主義は、人を魂のぬけた自動人形へと引きずり下ろし、単に人を不粋で機械論的な宇宙の数式において助けのない場所を見つける算術記号にする。しかし、数学の大家なくして数学のこの広大な全宇宙がどこから来るのか。科学は、質量保存について詳細に述べるかもしれないが、宗教は、人の魂の保護を確実なものにする—それは、精霊的な現実と永遠の価値との人の経験に関している。

現代の物質主義的な社会学者は、共同体を調査し、それについての報告をし、人々を見つけたままに後にする。1,900年前、無学なガリラヤ人は、人間の内面の経験への精霊的な貢献としての自らの命を与えるイエスについて調査し、それから出かけて行き、全ローマ帝国をひっくり返した。

しかし、宗教指導者達が、現代人を中世のトランペットの突発音で精霊的な戦いに呼び掛けようとするとき、重大な誤りを犯している。宗教は、それ自体に新しく現代的な標語を供給しなければならない。民主主義も他の政治的な万能策も精霊的な進歩の代わりはしないであろう。誤った宗教は、現実回避を意味すかもしれないが、イエスは、その福音で必滅者を精霊的な進行の永遠の現実の入り口そのものへと導き入れた。

物質から心が「現れた」と言うことは、何も説明しない。宇宙が単に機械装置であったり、心が物質から区別されていなかったならば、我々には、観察された現象の2つの異なる解釈も決してないであろう。真、美、善の概念は、物理学や化学のどちらにも固有ではない。機械は、知ること、ましてや真実を知ること、正義を切望すること、善を慈しむことができない。

科学は、物理的であるかもしれないが、真実を識別する科学者の心は、同時に超物質的である。物質は、真実を知らず、慈悲を好みもせず、精霊的な現実を楽しむこともできない。精霊的な啓蒙に基づき、人間の経験に根づく道徳的な信念は、物理的な観測に基づく数学的な推論ほどに真実であり確かであるが、それらは別の、またより高い段階にある。

人が単なる機械であるならば、物質的な宇宙に多少なりとも一様に反応するであだろう。個性は、まして人格は、実在しないであろう。

宇宙の中の宇宙の中心の楽園の絶対なる機構の事実は、第二次根源と中枢の制限されない意志の臨場に際し、決定者達が宇宙の唯一の法則でないということを永遠に確かにする。実利主義はあるが、それは、独占的ではない。構造はあるが、それは、制限がない訳ではない。因果関係はあるが、それは、単独ではない。

結局は、物質の有限的な宇宙は、結合された心と精霊の臨場を除いては均一で因果関係的になるであろう。宇宙心の影響は、物質界にさえも絶えず自発性を注ぐ。

存在のいかなる領域の自由または独創力も、精霊的な影響と宇宙心の制御の度合いに正比例している。つまり、人間の経験において、「父の意志」をする現実性の度合に正比例している。そして、人がいったん神を見つけに飛び出すとき、それは、神がすでに人を見つけたという決定的な証明である。

真、美、善の真剣な追求は、神に通じる。あらゆる科学的な発見は、宇宙の自由と普遍性の両方の存在を示す。発見者は、発見をすることが自由である。発見されるものは、本物であり、明らかに一定不変であり、さもなければ、それは、ものとして知られるようにならなかったかもしれない。

7. 物質主義の脆弱性

物質志向者が、真の宗教の個人の経験からくる広大な精霊的な資源を奪うような機械論的な宇宙のそのような弱い理論にまかせることは、いかにも愚かである。事実は、真の精霊的な信仰と決して争わない。理論は、そうするかもしれない。科学、宗教的な信仰—精霊的な現実と神性価値への人間の信念—の打倒を試みるよりも、むしろ迷信の破壊に捧げるべきである。

科学は、宗教が人のために精霊的にすることを、人のために物質的にすべきである。生活の地平線を広げ、人格を拡大すべきである。真の科学は、真の宗教との永続的な不和はありえない。「科学的方法」は、物質的な冒険と物理的な業績を測定する知的な物差しに過ぎない。しかし、物質的であり完全に知的であることは、精霊的な現実と宗教的な経験の評価においては全く役に立たない。

現代の機械論者の矛盾は、以下の通りである。もしこれが、単に物質的な宇宙であり、人間がただの機械であったならば、そのような人間は、自分がそのような機械であると見分けることが全くできないであろうし、同様にそのような機械人間は、そのような物質的な宇宙の存在の事実を全く意識していないであろう。機械科学に伴う物質主義的な狼狽と絶望は、科学者の超物質的な他ならぬ洞察が、物質宇宙のこれらの誤りの、自己矛盾の概念を明確に述べる科学者の精霊が宿る心の事実を認識し損ねてしまった。

真、美、善の永遠かつ無限の楽園の価値は、時空間宇宙の現象の事実の中に隠されている。しかし、それは、これらの精霊的な価値を探知し、識別する信仰の目を精霊生まれの必滅者に要求する。

精霊的な進展の現実と価値は、「心理学的な投射」—物質的な心の美化された単なる白昼夢—ではない。そのようなものは、内在する調整者、人の心に生きる神の精霊の精霊的な予想である。そして、かすかに覗かれた「相対性」の発見を弄ぶことにより、神の永遠性と無限性の概念を妨げさせないようにしなさい。そして、自己表現への必要性に関する人のすべての要求において、調整者の表現のために、すなわち真の、またより良い自己の顕現のための備えを怠るという誤りをしてはいけない。

これが物質的な宇宙にすぎないならば、物質的な人間は、そのような排他的に物質的な存在の機械的な特徴の概念に決して到着することはできないであろう。宇宙のこの非常に機械学的な概念は、本来心の物質現象であり、そしてそれが、いかに完全に物質的に条件づけられ、機械的に制御されているように見えても、すべての心は非物質起源である。

必滅の人間の部分的に発展した精霊的な構造には、過剰に一貫性と知恵が与えられてはいない。人の自惚れは、しばしば自身の根拠を上まわっており、また自身の論理を回避している。

最も悲観的な物質主義者のまさしくその悲観主義は、それ自体で、悲観論者の宇宙が完全に物質的ではないという十分な証明である。楽天主義と悲観主義は、双方共に事実だけでなく価値に対する心の気づきによる反応である。宇宙が、本当に物質者がそう見なすものであるならば、人間の機械としての人は、それゆえ、他ならぬその事実についての全ての意識的認知が欠けているということである。精霊生まれの心の価値に対する概念の意識がなければ、宇宙物質主義の事実と宇宙活動の機械学的な現象は、人には完全に認識されていないであろう。1台の機械は、もう1台の機械の性質、あるいは価値を意識するはずがない。

科学は、物質と事実だけを認識し対処するので、人生と宇宙の機械学的哲学は、科学的であるはずがない。哲学は、必然的に超科学的である。人は、自然の物質的事実であるが、その人生は、心の制御的な属性と精霊の創造的な特性を示す点において自然の物質段階を超える現象である。

機械論者になるための真摯な努力は、知的かつ道徳的な自殺行為をする人の空しい努力の悲惨な現象を意味する。しかし、人はそれをすることができない。

宇宙が単に物質であり、人が単に機械であったならば、科学が、宇宙のこの機械化を仮定するために科学者を勇気づけはしないであろう。機械は、それ自体を測定し、分類し、評価することはできない。そのような科学的な作品は、超機械状態の何らかの実体だけにより作成されることができるであろう。

宇宙現実が1台の広大な機械にすぎないならば、人は、そのような事実を認め、そのような評価の洞察を意識するようになるために、宇宙の外にあり、しかも、それから離れていなければならない。

人が単に機械であるならば、この人間は、いかなる手段により自分が単に機械であるということを信じたり、主張したり、あるいは知るようになるのか。自身に関わる自意識評価の経験は、決して単なる機械の属性ではない。自意識と自認の機械論者は、機械主義にとり最良の答えである。物質主義が事実であるならば、自意識の強い機械技師がいるはずがないであだろうに。また、人は、不道徳な行為ができる前に、まず道徳的な人でなければならないないことも本当である。

物質主義のまさしくその主張は、そのような教義をあえて主張する心の超物質的な意識を含意する。構造は悪化するかもしれないが、それは決して進歩することはできない。機械は、考えたり、創造したり、夢見たり、切望したり、理想化したり、真実に飢えたり、また正義に渇きを覚えたりはしない。機械は、他の機械に仕えたり、それらの永遠の進行の目標として神を見つけ、神に似るための高尚な仕事を選ぶために情熱をもって人生を動機づけはしない。機械は、決して知的でも、感情的でも、美的でも、倫理的でも、道徳的でも、精神的でもない。

芸術は、人が機械学的でないと立証するが、それは、人が精霊的に不滅であると立証はしない。芸術は、必滅のモロンチア、人つまり物質の人間と、人つまり精霊的な人間との間に介在する領域である。詩は、物質の現実から精霊的な価値へと逃がれる努力である。

高度文明における芸術は、本当の宗教—精霊的かつ永遠の価値の洞察—により精霊的にされる一方で科学には人間味を添える。芸術は、現実の人間と時空間の評価を表す。宗教は、宇宙価値の神の抱擁であり、精霊的な上昇と拡大における永遠の進行を内包する。この世界の芸術は、永遠が時間の現実の影として映す神の模範の精霊的な基準に盲目になるときだけに危険である。真の芸術は、生活の物質的なものの効果的な扱いである。宗教は、人生の物質的な事実を高潔にする変化であり、それは、芸術の精霊的な評価において決してやむことはない。

自動制御装置が、自動作用の原理を発想できたと推定することがいかに愚かであることか、またそのような他の概念や仲間の自動制御装置を形成すると敢えて考えることがいかに馬鹿げていることか。

然るべき認識を科学者に提供しない限り、物質的宇宙のどんな科学的な解釈も無価値である。芸術家への認識がない限り、芸術の鑑賞は本物ではない。道徳家を含まない限り、道徳評価は価値がない。哲学者を無視するならば、哲学の認識は啓発的ではないし、宗教は、神を探し求め知ろうとしている宗教家のこの経験なくしては、また、経験を通しての宗教家の本当の経験なしには存在し得ない。同様に、わたしはあるというもの、すなわち、それを作り、絶えずそれを管理する無限の神というものから離れた宇宙の中の宇宙には意味がない。

機械論者—人文主義者—は、物流に漂流する傾向がある。理想主義者と精霊主義者は、エネルギーの流れの明らかに純粋に物質的な流れを修正するために知性と活力で櫂を扱う。

科学は、心の数理により生活をする。音楽は、感情の速度を表現する。宗教は、無限のより高く、永遠の旋律との時空間の調和における魂の精霊的律動である。宗教経験は、本当に超数学的である人間の人生における何かである。

言語において、表音文字は物質主義の構造を、表し、一方で、1,000の考え、壮大な思いつき、高尚な理想について—愛と憎しみ、気弱さと勇気について_—意味を表現す言葉が、物質と精霊の法律の両方によって定義され、人格の意志の主張によって指示され、固有の状況での贈与によって制限される範囲のなかで心の働きを表す。

宇宙は、科学者が発見したり、あるいは科学と見なすようになる法測、構造、一様性などではなく、むしろこのように宇宙現象を観察し、創造の物質的な側面の機械学的段階に固有の数学的な事実を分類する好奇心が強く、思慮のある、選択していて、創造的で、組み合わさっていて、識別力のある科学者に似ている。

科学ではなく、科学者は、エネルギーと物質の進化し前進する宇宙の現実を知覚する。芸術ではなく、芸術家は、物体存在と精霊解放とに介在する一時的なモロンチア界の存在を示威する。宗教ではなく、宗教家は、永遠の進行過程で遭遇することになっている精霊現実と神性価値の存在を立証する。

8. 非宗教的な全体主義

しかし、物質主義と機械主義が、多少なりとも打ち負かされた後でさえ、20世紀の世俗主義の破壊的な影響は、まだ用心をしていない何百万人の精霊的な体験を挫くであろう。

現代の世俗主義は、2つの世界的な影響によって促進されてきた。世俗主義の父は、19世紀と20世紀の心が狭く神を信じない態度のいわゆる科学—無神論の科学—であった。現代の世俗主義の母は、中世の全体主義のキリスト教会であった。世俗主義は、制度化されたキリスト教会よる西洋文明のほとんど完全な支配に対する興隆する抗議としての発端があった。

この意外な事実の時、欧米双方の生活の中心的な知的で哲学的な環境は、はっきりと世俗的—人文主義的―である。300年間、西洋の考えは、次第に非宗教化されてきた。宗教は、ますます名目上の影響、主に儀式の役目を果たすようになった。西洋文明の大多数の見せかけのキリスト教徒は、無意識に、事実上は、世俗主義者である。

西洋の民族の考えと生活を全体主義的な教会支配の萎縮させる把握から解放するためには、巨大な力、強力な影響を必要とした。世俗主義は、教会支配の拘束を断ち、いま引き続き、現代人の胸中と心の支配の神を信じない新たな形を設立すると脅かしている。専制的かつ独裁的な政治国家は、科学的な実利主義と哲学的な世俗主義の直接的な結果である。世俗主義は、組織化された教会支配から人を解放するやいなや、全体主義国家への独創性のない束縛へと売りつける。世俗主義は、政治的および経済的な奴隷制度の圧制への裏切りのためだけに人を教会の奴隷制度から解放する。

物質主義は神を否定し、世俗主義は単に人を無視する。少なくともそれが初期の態度であった。最近では、世俗主義は、 より好戦的な態度をとってきており、かつて世俗主義が抵抗した全体主義の農奴的な境遇の宗教を敢えてとった。20世紀の世俗主義は、人は神を必要としないと断言する傾向にある。しかし、用心しなさい。人間社会のこの神を信じない哲学は、不安、憎しみ、不幸、戦争、および世界的な災禍に導くだけである。

非宗教主義は、人類に平和をもたらすことは決してできない。何も人間社会において神の代理をすることはできない。しかし、よく注意しなさい。非宗教的反乱が教会の全体主義にもたらす恩恵的利益を迅速にあきらめてはならない。西洋文明は、今日、非宗教的反乱の結果、多くの自由と満足感を味わっている。世俗主義の重大な誤りは、これであった。世俗主義は、宗教権威による生活のほぼ完全な支配に対して反旗を翻す際に、そして、そのような教会の圧制からの解放に達した後に、神自身に対する反乱を、時としてはそれとなく、またある時には公然と主導し続けた。

アメリカ産業主義の驚くべき創造性と西洋文明の先例のない物質的な進展は、非宗教的な反乱に負うところがある。また、非宗教的な反乱の度が過ぎて神と真の宗教を見失ったが故に、世界大戦と国際的な不安定の予期しない結果も続いた。

現代の非宗教的な反乱からの恩恵、つまり寛容性、社会奉仕、民主的政府、市民的な自由を味わうために神への信仰を犠牲にすることは必要ではない。世俗主義者が、科学を促進し、教育を前進させるために真の宗教を組織することは必要ではない。

しかし、非宗教主義が、生活拡大におけるこれらのすべての最近の進歩の唯一の親ではない。20世紀の利得の背後には、科学と世俗主義だけではなく、認められず、承認されてもいないナザレのイエスの人生と教えによる精霊的な働きもある。

神のない、宗教のない科学的な世俗主義は、その勢いを決して調整できずに、互いに異なり他に勝ろうとする関心、民族、愛国心を調和させることができない。その並ぶもののない物質的な達成にもかかわらず、この非宗教的な人間社会は、ゆっくり崩壊している。対立からくるこの崩壊に抵抗する主な結合力は、愛国心である。そして、愛国心は、世界平和への主な障害である。

世俗主義に固有の弱点は、政治と力のために倫理と宗教を捨てるということである。人は、神の父性を無視したり否定している間、容易く人の兄弟愛を確立することはできない。

非宗教的な社会的かつ政治的な楽天主義は、幻想である。神がなければ、自由も解放も、財産も富も、平和へとは導かないであろう。

科学、教育、産業、および社会の完全な非宗教化は、ただ破壊に通じるだけである。20世紀初頭の1/3の間、ユランチアの人々は、その時までのキリスト教統治の全時代に殺された数以上の人間を殺した。そして、これは、物質主義と世俗主義の恐ろしい収穫の始まりに過ぎない。より残酷な破壊は、いまだ来ていない。

9. キリスト教の問題

数世紀もの間流れ続けている、物質的で非宗教的な時代の不毛の時勢にさえも、真実の川である人の精霊的な遺産の価値を見落としてはならない。過去の時代の迷信的な教義から逃れる人のすべての価値ある努力において、不朽の真実を固く保持することを確実にしなさい。だが、忍耐をもちなさい。現在の迷信への背反が終わるとき、イエスの福音の真相は、新しく、より良い道を照らすために輝かしく持続するであろう。

しかし、異教徒化され、社交的にされたキリスト教は、妥協のないイエスの教えとの新しい接触を必要としている。それは、地球のあるじの生涯への新たな展望がないために萎れている。イエスの宗教の新しく、より完全な顕示は、物質的な世俗主義の帝国を征服し、機械学的な自然主義の世界支配を打倒する運命にある。ユランチアは、現在、社会的な対応、道徳の奮起、および精霊的な啓蒙の最も驚くべき魅惑的な時代のその1つのまさにその縁で揺れている。

大いに変更されてはいるが、イエスの教えは、密儀宗派の誕生の時、そして暗黒時代の無知と迷信を乗り切り、そのうえ今でも、20世紀の物質主義、機械主義、世俗主義をゆっくりと打ち負かしている。そして、大いなる試練と敗北に瀕したそのような時代は、常に偉大な顕示の時代なのである。

宗教は、新しい指導者達、単にイエスと並ぶもののないその教えにあえて頼る精霊的な男女を必要とする。キリスト教が、社会的問題や物質的問題に忙しくし続けている間、その精霊的な使命を怠り続けているならば、精霊的な復興は、人の精霊の再生にもっぱら専念するイエスの宗教のこれらの新しい教師の到来を待ち受けなければならない。そして、これらの精霊生まれの者は、世界の社会的、道徳的、経済的、政治的な再編成に必要な統率力と閃きをすばやく供給するであろう。

現代は、事実に矛盾して真、美、善のその最高の概念と調和しない宗教を受け入れることを拒否するであろう。現代の歪められ妥協したキリスト教—イエスの本当の人生と教え—の本当の、最初の基盤の再発見の時は、告げられている。

原始人は、宗教的な恐怖に捕われた迷信深い生活を送った。現代の、文化的な人間は、強い宗教的な信念の支配を受けるという考えを恐れる。思慮ある者は、つねに宗教に掴まれることを恐れてきた。強く、しかも心を動かす宗教が、自分を支配する恐れがあるとき、人は、合理化し、伝統化し、制度化しようとし、その結果、その制御を得ようとする。そのような手順によって、啓示宗教でさえ、人によって作られ、また人によって支配されるようになる。知性ある現代の男女は、それが、自分達に—そして自分達と共に—何をするかの恐れのためにイエスの宗教を回避する。すべてのそのような恐れは、根拠が十分にある。イエスの宗教は、まことに、人が、天の父の意志に関する知識を捜し求めて生きることに捧げることを要求し、生きる活力が、人の兄弟愛への寡欲な奉仕に奉げられることを要求して、その信者を支配し、変えさせる。

利己的な男女は、今までに人間に提供された最もすばらしい精霊的な宝にさえそのような代価を簡単に支払いはしないであろう。人は、利己主義の愚かで誤魔化しの探求に付帯する悲しい当て外れに十分に幻滅し始めるときにだけ、そして形式化された宗教の不毛の発見の後にだけ、心から王国の福音、ナザレのイエスの宗教に振り向く気になるのである。

世界は、より直接的な宗教を必要とする。キリスト教—20世紀の最高の宗教—でさえ単にイエスについての宗教ではなく、人が大幅に間接的に経験する宗教である。人は、受け入れた宗教教師達により完全に渡されたままに宗教を取る。世界は、もしイエスが地球に本当に住んでいるのを見たり、生命を与えるその教えを直接に知ることができさえしたら、目を覚ます経験をするであろうに。美しいものを描写する言葉は、見ることのようには感動させることができないし、信仰に関する言葉も、神の存在を知る経験のようには人の魂を奮い立たせることはできない。しかし、期待に満ちた信仰は、人の魂の望みの扉を向こうの世界の神の価値の永遠の精霊的な現実の入り口へと開いたままにするであろう。

キリスト教は、人間の欲深さ、戦争の狂気、力に対する欲望への挑戦の前に敢えてその理想を低くした。だが、イエスの宗教は、人の中にある最善なものに、動物進化のこれらのすべての遺産を超越すること、そして神の恵みにより本当の人間の運命の道徳的な高さに達することを呼びかけて、汚れなく、優れた精霊的な召集としてある。

キリスト教は、形式主義、過度の組織化、知性偏重、および他の非精霊的な傾向による緩やかな死に脅かされている。現代のキリスト教会は、イエスが、人類の後の世代の精霊的な変化に絶えず作用することを注文した活力に満ちた信者の兄弟関係にはない。

いわゆるキリスト教は、社会的で文化的運動、ならびに宗教的な信条と習慣になってしまった。現代のキリスト教の流れは、多くの古代の異教徒の沼沢池と多くの未開の沼地から排出している。古い文化の多くの分水嶺は、その唯一の源流であると考えられるガリラヤの高い台地と同様にこの現代の文化的な流れに排出している。

10. 未来

キリスト教は、誠にこの世界のために大きな貢献をしたが、現在最も必要とするものはイエスである。世界は、すべての人にあるじを効果的に示す精霊生まれの必滅者の経験において、イエスが再び地球で生きていることを見る必要がある。原始のキリスト教の復活について話すことは空しい。人は、自分を見つけるところから進まなければならない。現代文化は、イエスの人生の新しい顕示で精霊的に洗礼され、そしてイエスの永遠の救済の福音に関する新しい理解で明るくされなければならない。そして、このように持ち上げられるようになるとき、イエスは、すべての人を自分に引きつけるであろう。イエスの弟子は、征服者以上でなければならないし、すべての人にとり溢れんばかりの閃きの源であり、増強された生活でさえなければならない。宗教は、それが、個人の経験における神の存在の現実の発見によって精霊的になるまでは、単に高められた人道主義にすぎない。

地球でのイエスの人生の美と崇高性、人間性と神性、素朴さと特異性は、全ての時代の神学者と哲学者が、人の姿でのそのような超自然的な贈与からあえて教義を形成するか、または精霊的な束縛の神学体系を作成することを効果的に制止されなければならないというそのような衝撃的かつ魅力的な人-救済と神-啓示の絵を提示している。宇宙は、愛の精霊が物質的困難に打ち勝ち、物理的起源の事実に打ち勝つ人間をイエスにおいて形成した。

いつも心に留め置きなさい—神と人は互いを必要とすることを。双方は、宇宙の究極の神性の目標における永遠の人格の経験の完全で最終の到達に互いに必要である。

「神の王国は、あなたの中にある」は、父が、生きており愛している精霊であるという宣言の次に、イエスの表明の中でおそらく最大のものであった。

あるじのために魂を勝ちとることにおいて、それは、人とその世界を変える強制的な最初の1キロメートル、すなわち義務または慣例ではなく、むしろ愛で同胞を理解し、また人間存在のより高い、しかも神性の目標に向かう精霊的な指導にしたがって押しやるために手を伸ばすイエスの信奉者を示す無料の奉仕と自由を好む献身の2キロメートル目である。キリスト教は、今でも進んで最初の1キロメートルを行くが、少数の本物の2キロメートル走者—生きて、愛し、そして仕えることを弟子達に教えたように本当に生きて、愛するイエスの追随者と名乗る僅かな者—しかいないので、人類は、道徳的な暗闇で苦しみ躓いている。

王国に関するイエスの兄弟愛の精霊的な再生によって新しい、変容する人間社会を築く冒険への呼び掛けは、肉体の仲間として地球を歩き回った日々から人が奮起していなかったようにではなく、イエスを信じるすべての者を感動させなければならない。

神の現実を否定する社会的、あるいは政治的体制は、人間の文明の前進にどのような建設的かつ永続的方法でも貢献できない。しかし、キリスト教は、今日それが、細分され俗化されるとき、その一層の進歩に最も重大なただ一つの障害を提示する。これは、特に東洋に関して真実である。

教会主義は、天の王国の精霊的な交友において人の兄弟愛というイエスの信仰仲間のその生きた信仰、発達する精霊、および直接の経験とすぐには、また永遠に相容れない。過去に達成された伝統を保存するという賞賛に値する願望は、しばしば時代遅れの崇拝体系の防衛に通じる。古代の考えの仕組みを促進する善意の願望は、現代人の拡大し、前進する精霊的な切望を満たすように考案された新しい、適切な手段と方法の提供を効果的に阻む。同様に、20世紀のキリスト教会は、立派に、しかし真の福音—ナザレのイエスの教え—の即座の進歩に対する完全に無意識の障害として立っている。

福音のキリストに忠誠を快く与える多くの熱心な人々は、キリストの人生やその教えの精神をあまり示さず、またキリストが築いたと誤って教えてきた教会を熱狂的に擁立することが、非常に困難であるとわかる。イエスは、いわゆるキリスト教会を設立しなかったが、自分の本質と一致するあらゆる方法で、地上での生涯の仕事の最良の実在する主唱者としてそれを育てた。

もしキリスト教会が、敢えてあるじの取り組みを支持しさえすれば、何千人もの明らかに無関心な若者は、そのような精霊的な仕事に参加するために殺到し、この大いなる冒険をずっとなし遂げていくことを躊躇わないであろう。

キリスト教は、自身の標語の1つに表現される運命に深刻に直面している。「分かれ争う家は、立っていられない。」非キリスト教世界は、分派したキリスト教世界に決して降伏しないであろう。生きているイエスは、キリスト教のありうる統一の唯一の希望である。真の教会—イエスの同胞—は、見えない、精霊的な、そして必ずしも均一性によってではなく、統一によって特徴づけられる。均一性は、機械学的な自然の物質界の目印である。精霊的な統一は、生きているイエスとの信仰統一の産物である。見える教会は、神の王国の不可視の、精霊的な兄弟関係の進展を長く妨げることを拒否しなければならない。そして、この兄弟関係は、組織化された社会的な体制とは対照的に生体となるように運命づけられている。それは、そのような社会的な組織を利用するであろうが、それらによって取って代わられてはならない。

しかし、20世紀のキリスト教でさえ侮ってはいけない。それは、多くの時代の多くの民族の神を知る人間の道徳的な複合的洞察の所産であり、そしてそれは、本当に、善に対する地球の最も優れた力の1つであり、それゆえに、その固有の、後天性の欠陥にもかかわらず、誰もそれを軽視すべきではない。キリスト教は、いまだに強力な道徳感情で反応する人の心を何とかして動かしている。

しかし、商業と政治における教会の係わり合いには、弁解の余地はない。そのような邪悪な提携は、あるじへの極悪の裏切りである。そして、真実の本物の愛好者は、この強力な制度化された教会が、しばしば平気で新生の信仰を窒息させたり、正統でない衣類でたまたま現れた真実運搬者達を迫害してきたことを長らく覚えているであろう。

人が世界に崇拝のそのような様式を好んでこなかったとしたならば、そのような教会は、残存しなかったということは、残念なほどに本当である。精霊的に怠惰な多くの人間が、儀式的かつ神聖な伝統をもつ古代の、権威ある宗教を切望する。人間の進化と精霊的な進展は、すべての人が、宗教権威を不要とするにはとても十分ではない。そして、王国の目に見えない兄弟関係は、人が本当に神の精霊に導かれる息子になることを望みさえすれば、様々な社会的、気質的な階級のこれらの家族集団を容易に包むかもしれない。しかし、イエスのこの兄弟関係においては、宗派の対立も集団の怨みも、さらには道徳的な優越性と精霊的な確実性の主張の場所はどこにもない。

キリスト教のこれらの様々な分類は、西洋文明の様々な民族の間で信者志望の多数の異なる種類に役立つかもしれないが、東洋の民族にイエスの福音を伝達しようとするとき、キリスト教世界のそのような分割は、深刻な弱点を提示する。これらの民族は、ますますイエスについての宗教となっているキリスト教から、やや違った、いくらか離れたイエスの宗教があるということをまだ理解していない。

ユランチアの大きな希望は、現代の自称の追随者の多くの家族を愛の奉仕において精霊的に結びつけるイエスの救いの知らせの新しく、拡大された提示によるイエスの新しい顕示の可能性にある。

いかに生活設計と性格発達に従事するかを若者に教える仕事により多く注意を向けようとするならば、非宗教的な教育さえ、このすばらしい精霊的な復興を助けることができる。全ての教育目的は、人生の最高の目的、堂々とし、均衡のとれた人格開発を促進することでなければならない。道徳的な規律の教育が、多大の自己満足の代わりにかなり必要である。そのような基盤に、宗教は、その精霊的な誘因を人間生活の拡大と質向上に、さらには永遠なる人生の保安と強化にとってさえ貢献するかもしれない。

キリスト教は、即席に作られた宗教であり、したがって、それは、低速ギアで作動しなければならない。高速ギアの精霊的な作動は、イエスの真の宗教の新しい啓示とより一般的な受け入れを待たなければならない。しかし、磔にされた大工の平凡な弟子達が、300年でローマ世界を征服し、次には、ローマを打倒した野蛮人に勝利し続けたそれらの教えを広めたことを見るにつけても、キリスト教とは、強力な宗教である。この同じキリスト教は、ヘブライの神学とギリシアの哲学の全体の流れを征服した—吸収し、高めた。そして、次には、このキリスト教の宗教が、神秘と異教の過剰投与の結果1,000年以上もの昏睡状態になったとき、それ自体を復活し、実質的に全西洋世界を再奪取した。キリスト教は、イエスの教えを不滅にする教えを十分に含んでいる。

キリスト教がより多くのイエスの教えを把握することができさえすれば、現代人の新しく、ますます複雑な問題の解決の援助に当たり、それは、さらに多くのことができるであろうに。

全世界の心に、西洋文明の社会制度、産業生活、道徳的な規範の一部として同一視されるようになってきたことから、キリスト教は、大きな悪条件の下で損なわれている。このように、キリスト教は、理想主義のない科学、主義のない政治、仕事のない富、抑制のない娯楽、人格を持たない知識、良心のない権力、道徳のない産業を黙認している罪の意識にぐらつく社会を無意識のうちに後援してきたように見える。

現代のキリスト教の希望とは、キリスト教が、西洋文明の社会制度と産業政策の後援をやめ、同時にキリスト教が、非常に勇敢に賞揚する十字架の前に恐れ入って額づき、そこで必滅者がこれまでに聞くことができる最も偉大な真実—神の父性と人の兄弟愛に関する生きた福音—をナザレのイエスから新たに学ぶということである。

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