論文 140 12 人の聖別式

   
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論文 140

12 人の聖別式

西暦27年1月12日、日曜日の正午直前、イエスは、王国の福音の公の伝道者としての聖別式のために使徒を集めた。12人は、いつでも呼び出されることを期待していた。それで、この朝、岸から遠くへの漁には出なかった。そのうちの数人は、網の修理をしたり、漁具をもてあそんだりして岸近くに長居していた。

イエスは、使徒を呼びながら海岸へ下り始めると、まず岸近くで釣をしていたアンドレアスとペトロスに手を振った、を呼んだ。次に、父親ゼベダイを訪ね、ほど近い船の中にいて網の修理をしていたジェームスとヨハネに合図した。かれは、他の使徒も二人ずつ呼び集め、12 人全員が集まると、カペルナム北部の高地に彼等と旅行し、そこで正式の聖別式に備え彼らに教え始めた。

使徒の12人全員が一度だけ静かであった。ペトロスさえ熟考する雰囲気であった。長く待たれていた時が、ついに来たのであった。父の王国の接近の宣言のために、あるじを代表する神聖な仕事への個人と集団の献身とある種の厳粛な儀式に参加するためにあるじと供に出発しようとしていた。

1. 事前の指導

正式の聖別式の前に、イエスは、自分の周りに座る12 人に話した。「同胞よ、王国のこの時が来た。私は、王国の大使として父に紹介するためにそなた達をここに連れて来た。そなた達の何人かは、最初に呼ばれたとき、私が会堂でこの王国について話すのを聞いた。各人が、ガリラヤ湖やその周辺都市で私と共に働いてきたので、父の王国についてさらに学んできた。だが、たった今、私は、この王国についてさらに話すことがある。

「私の父が、地上の子等の心に設立しようとしている新たな王国は、永遠に続く統治である。神性意志を為すことを望む者の心における父のこの支配にはいかなる終わりもないはずである。父は、ユダヤ人の神でも非ユダヤ人の神でもないと、そなたたちに断言する。アブラハムの子の多くは、人の子の心の聖霊支配のこの新たな兄弟関係に入ることを拒否する間、多くは、父の王国に我々と座を供にするために東西から来るのである。

この王国の力は、軍隊の強さや富の力においてではなく、むしろこの天の王国の生まれ変わった住民、つまり神の息子の心に教え、情を支配するようになる神の精神の栄光の中にある。これは、正義がそなた臨する兄弟関係であり、そしてその掲げる合い言葉は、地の上には平和が、全ての者には善意がある。そなた達が直ちに宣言しにいくことになっているこの王国は、あらゆる時代の善人の望み、地球全体の希望、全予言者の賢明な約束の遂行なのである。

だがそなた達には、子供等よ、この王国へとそなた達について来る他の全ての者にも厳しい試練が設定される。信仰だけがその入り口を通させるが、前進する神性親交の人生で昇り続けようとするならば、そなたは、父の霊に実をつけなければならない。誠に、誠に言っておく。『主よ、主よ、』と言う者すべてが、天の王国に入るわけではないのだ。むしろ天にいる父の意志を為す者が、入るのである。

世界へのそなた達の知らせは次の通りである。最初に神の王国とその正義を求めよ。これを見つけることにより、永遠に生き残りに不可欠の他のすべてのものが、共に確かとなる。そして、私は今、父のこの王国が見せ物とも、見苦しい実演会とも共には来ないということを、明らかにしておく。因ってそなた達は、『ここにある』とか『そこにある』とか言って、この王国の宣言に向かうのではない。そなた達が説教するこの王国は、そなた達の中にいる神であるのだから。

誰でも父の王国で優れてくる、好きになる、と全ての者への公使となる。また、そなた達の中で1 番になる誰であろうと、その同胞に仕える者にさせよ。しかし、天の王国でいったん国民として実際受け入れられると、もはや使用人ではなく、息子、生きる神の息子なのである。そして、それが、すべての障壁を壊し、すべての人間に父を知らせしめ、また私が宣言しにきた救済の真実を信じさせるまで、この王国は、世界で発展していくのである。今でさえ、王国は手元にあり、そなた等の一部は、神の治世の偉大な力を見るまでは死なないであろう。

そして今、やがて地球全体が父の称賛で満たされるまで、そなた等が見ているこれが、すなわち12人の平凡な男のこの小さな始まりが、増大し成長するのである。そして、人はそなたらが私といて、王国の真実を学び知ったということを、その言葉でよりも送る生活によりよく分かるのである。そなた等の心に苛酷な重荷を横たえるつもりはなく、今、肉体をもって送っているこの生活で父の代理を私がしているように、私がほどなく去るとき、世界で私の代理をする厳粛な責任をそなた等の魂に置いていこうとするところである。話し終えると、かれは、立ち上がった。

2. 聖別式

イエスは、王国に関する表明を聞いたばかりの12 人の死すべき者にそのとき、自分の周りに輪になって跪くように言った。それから、あるじは、それぞれの使徒の頭に手を置き、ユダ・イスカリオテに始まり、アンドレアスで終わった。かれは、皆を祝福すると、手を伸ばして祈った。

「父よ、私は今、これらの者、使者をあなたの元に連れて参ります。地上の我々の子供の中から、あなたの代理をしに私が来たように、私は、私の代理をしに旅立つこの12 人を選びました。私を愛し共にいてくださったように、これらを愛し共にいてやってください。そして、いま、父よ、私が来たるべき王国のすべての事柄を彼らの手に置くとき、これらの者に叡知を与えてくださいますように。そして私は、それがあなたの意志であるならば、この者達の王国のための仕事の手助けのため地球に留まります。そして、父よ、これらの者のために感謝いたします。また、与えられた仕事を私が続けていく間、この者達をあなたの保護にゆだねます。」

イエスが祈り終えたとき、使徒はそれぞれがその場で俯したままであった。そして、ペトロスでさえ、あるじを見るために敢えて目を上げるまでには何分もかかった。一人ずつイエスを抱きしめたが、誰も何も言わなかった。天の軍勢がこの厳粛で神聖な光景を見下ろす間、大いなる沈黙がこの場所に瀰漫した—人間の心の指示の元に人間の神性の兄弟関係に関する事柄を委ねる宇宙の創造者。

3. 聖別式の説教

それからイエスは話した。「父の王国の大使である今、そなたらはそれによって地球の他のすべての者とは別の異なった人間の種類となった。そなたらは、今や人の間にいる人としてではなく、この暗い世界の無知な生物の中にいる別の、天の国の開眼している国民としてある。これ以前のそなた等の生き方では十分ではない。今後は、より良い人生の栄光を味わった者として、新たな、より良い世界のそなた主の大使として、地球に送り戻された者として生きなければならない。教師は、生徒よりも期待される。あるじは、下僕よりも期待される。天の王国の国民は、地上の王国の国民よりも必要とされる。今から伝えようとする事柄の幾つかは、困難に思えるかもしれないが、私が今父の代理をしているように、この世界で私の代理をすることは、そなたらが選んだことである。そして、地球の私の代理人として、そなたらは、私が理想とする空間世界での人間生活を反映し、また我が地上生活で天にいる父を明らかにする私が例示する教えと習慣を受け入れ期待に応える義務がある。

「精霊的に捕虜となっている者達へ自由を、つまり恐怖に捕われた者へ喜びを宣言し、天の父の意志に従い病人を癒すためにそなた達を送りだす。私の子供が困っているのを見掛けたら励まして次のように話し掛けなさい。

「心の貧しい者、へりくだる者は幸いである。天の王国の宝物は彼等のものであるから。

「義に飢え渇く者は幸いである。満たされるであろうから。

「柔和な者は幸いである。地を相続するであろうから。

「心の清い者は幸いである。神を見るであろうから。

「そして、たとえそうだとしても、精神の安らぎと約束のこれらの更なる言葉を私の子供等に伝えなさい。

「悲しむ者は幸いである。慰められるであろうから。涙する者は幸いである。悦びの霊を受けるであろうから。

「哀れみ深い者は幸いである。哀れみを受けるであろうから。

「平和を作る者は幸いである。神の子と呼ばれるであろうから。

「義のために迫害される者は幸いである。天の王国は彼等のものであるから。罵られ迫害され、ありもしない事で悪口雑言を言われるときそなた等は幸いである。喜び、殊のほか、喜びなさい。天におけるそなた等の報いは大きいのであるから。

「我が同胞よ、そなた等を送り出す、そなた等は地の塩である、味を助ける塩である。しかし、もしこの塩がその味を失ったならば、何をもって塩味を付けるのであろうか。それは、何の役にも立たず、捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。

「そなた等は世界の光である。丘の上にある町は隠されることができない。蝋燭を点けても、誰も升の下には置かず、燭台に立てる。そうすれば、それは家にいる全員を照らす。このようにそなた等の光を人々の前で輝かせ、人々がそなた等の良い行いを見て天にいる父を崇めるようにしなさい。

「私は、私の代理をし、父の王国の大使として務めるようにそなた等を世界へ差し向ける。そして、良い知らせを公布しに行くに当たり、そなた等を使者として送る父を信頼しなさい。不正に対し無理に抵抗してはならない。肉の腕に頼ってはならない。隣人が右頬を打つならば、他方も向けなさい。自分達の間で法に訴えるよりも進んで不正に苦しみなさい。苦しんだり必要としているすべての者へ優しさと情けの奉仕をするように。

「言っておく。敵を愛し、そなた等を嫌う者に善を施し、呪う人々を祝福し、悪意をもって利用する者のために祈りなさい。私が人にするであろうとそなたが信じることは何でもしなさい。

「天のあなたの父は、善人の上と同じように悪人の上にも太陽を照らす。同様に正者にも不正者にも雨を降らせる。そなた等は、神の息子である。さらに、今は父の王国の大使である。神が慈悲深くあるように、情け深くありなさい。そうして、天の父が完全であるように、王国の永遠の未来において、あなたは完全になるのである。

「そなた等は人を裁くためにではなく、救うために任命された。地球での人生の終わりに、そなた等は、皆慈悲を期待するだろう。したがって、必滅の運命にある人生の中で肉体をもつ同胞のすべてに慈悲を示すことをそなた等に要求する。光線が目に当たっているときに同胞の目の中の塵を取り出そうとする過ちを犯さないように。目の光線を除けてはじめて同胞の目の中の塵の粒子が見えて取り除くことができる。

「はっきりと真実を見分けなさい。恐れずに正しい生活を送りなさい。そうしてそなた等は私の使徒となり、私の父の大使となる。そなた等は、こう言われているのを聞いた。『もし盲人が盲人を導くならば、両者は穴に落ちこむであろう。』王国に他のものを案内するのならば、そなた自身が、生きた真実の透明な、明るい光の中を歩かなければならない。王国のすべての仕事において、私は、そなた等に正しい判断と鋭い知恵を示すことを強く勧める。聖なるものを犬に与えてはならない。また豚に真珠を投げやるな。珠玉を足で踏みにじり、向き直りそなた等を引き裂きにくるであろうから。

羊の衣を着て近づいてくるが、その内側は強欲なオオカミである偽の予言者について警戒する。そなた等は、その実によって彼等を見分けるであろう。人は、茨からブドウを、あざみからイチジクを採取するであろうか。たとえそうだとしても、このように、あらゆる良い木は良い実をつけるが、腐った木は悪い実をつける。良い木が悪い実を結ぶことはないし、腐った木が良い実を結ぶことはできない。良い実を結ばない木は、やがてことごとく切り倒され、火に投げ込まれる。天の王国への入り口を獲得するには、動機こそが肝心である。父は、人々の心の中を見て、彼等の内側の切望と至誠の意志により判断をする。

王国の大いなる判決の日に、多くの者は、『私達はあなたの名前で予言し、あなたの名前で多くの立派な働きをしませんでしたか。』と私に言うであろう。だが私は、『お前達を決して知らなかった。偽教師共、行ってしまえ。』と言わざるを得ないであろう。しかし、ちょうど私が父の代理をしたように、この批難を聞き入れ、私の代理をする任務を誠実に実行する者は、我が奉仕と天の父の王国への大きく開いた入り口を見つける。」

使徒達は、これまでイエスがこのように話すのを一度も聞いたことがなかった。というのは、かれは、最高権威を持つ者のように話したので。かれらは、日没頃に山を下りたが、誰もイエスに質問をしなかった。

4. そなた等は地の塩である

いわゆる「山上の垂訓」はイエスの福音ではない。多くの助けとなる訓示を含んではいるが、それは、12人の使徒に対するイエスの聖別の委託であった。それは、ちょうど自分が父をそれほどまでに雄弁に、また完全に代表したように、人間の世界で福音を説き、自分の代理を切望し続けようとしている者へのあるじの個人的委任であった。

「そなた等は地の塩である、味を助ける塩である。しかし、もしこの塩がその味を失ったならば、何をもって塩味を付けるのであろうか。それは、何の役にも立たず、捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」

イエスの時代、塩は貴重であった。金の代用とさえされた。現代の言葉「給料」は、塩に由来する。塩は食物に風味をつけるばかりでなく、防腐剤でもある。それは、他のものをよりおいしくするし、このように消費されることにより役目を果たす。

「そなた等は世界の光である。丘の上にある町は隠せない。蝋燭を点けても、誰も升の下には置かず、燭台に立てる。そうすれば、家にいる全員を照らす。このようにそなた等の光を人々の前で輝かせ、人々がそなた等の良い行いを見て天にいる父を崇めるようにしなさい。」

光は、暗黒を晴らすと同時に、混乱させ挫折させるほどに非常に「目をくらます」こともできる。仲間が、高められた生活の新しくて、神を敬う道へと導かれるために、我々は、光をとても輝かせるように悟される。我々の光は、自己に注意を引きつけないために、ように輝きを放つべきである。人の職業でさえも、人生のこの光の普及のために有効な「反射鏡」として利用されることができる。

強い性格は、悪事を働くことからではなく、むしろ正行から得る。利己心の無さは、人間の偉大さの徽章である。自己実現の最も高い段階は、崇拝と奉仕により到達できる。幸福で有能な人は、悪行の恐怖にではなく、正行への願望に動機づけされる。

「その実によって、あなたがたは彼らを知るであろう。」人格は基本的に不変である。変化する—成長する—ものは、徳性である。現代宗教の主な誤りは、否定主義である。実を結ばない木は切り倒され、「火に投げ込まれる。」単なる抑圧—「すべきではない」という命令に従うこと—から道徳的価値は得られない。恐れと恥は、宗教生活には価値のない動機である。神の父性を明らかにし、人の兄弟愛を高めるときにだけ、宗教は有効である。

生活ための実効的な哲学は、宇宙洞察の組み合わせと社会、経済環境への人の感情的な反応の統合により形成される。忘れるでない。継承した衝動が基本的に修正されることはできないが、そのような衝動への感情的な反応を変えることはできる。従って、道徳的な性質は、変更されることができ、性格は改善することができる。強い性格において、感情的反応は、統合され、調整されるし、その結果、統一された個性が生み出される。不十分な統一は、道徳的性質を弱め、不幸を生む。

立派な目標がなければ、人生は、無目的で無益になり、多くの不幸が結果として生じる。12人の聖別式でのイエスの講義は、長としてふさわしい人生哲学を構成する。イエスは、経験に基づく信仰を行使するように追随者に勧めた。かれは、単なる知的な同意、軽信、確立された権威を頼りにしないように訓戒した。

教育は、我々の自然で、引き継がれた衝動を満足させるより良い方法を学ぶ(発見する)ための手段となるべきである。そして、幸せは、感情的な満足感のこれらの強化された方法の結果として起こるものである。望ましい境遇は、大いにそれに貢献するかもしれないが、幸せは、境遇にほとんど依存していない。

あらゆる死すべき者は、実に完全な人間であること、父が天で完全であるように同じく完全であること、を切望する。そして、そのような達成は、結局「宇宙は本当に父親のようである」が故に可能なのである。

5. 父親らしく、兄弟らしい愛

山上の説教に始まり最後の晩餐の講話まで、イエスは、追随者に兄弟の愛よりむしろ父親らしい愛を表明することを教えた。兄弟愛は、自分自身を愛するように隣人を愛するであろうし、それは、「黄金律」の適切な遂行となる。しかし、父親らしい愛情は、イエスがあなたを愛するようにあなたが仲間の人間を愛することを要求する。

イエスは二元的な愛情で人類を愛する。二つの人格—人間であり神である—として地球に住んでいた。かれは、神の息子として、父性愛をもって人を愛する—かれは、人の創造者であり、宇宙の父である。人の子の息子として、イエスは兄弟として死すべき者を愛する—かれは、実に人間の人であった。

イエスは、追随者に兄弟愛の不可能な顕現を達成することを期待はしなかったが、神に似るように努力すること—天の父が完全であるように完全であること—を実に期待し、神が彼の創造物を見るように、彼らが人を見始めることができ、それにより、神が彼らを愛するように人を愛し始めることができるようにということ。12人の使徒へのこれらの勧告の中で、イエスは、多数の環境社会的な調整をするに当たり、ある種の感情的な態度に関連して父性愛のこの新概念を明らかにしようとした。

あるじは、単なる兄弟愛の限界に対比させて、父性愛に関する卓越し、かつ至高の反応の次の4項の描写への前触れとして、4種類の信仰態度への注意を促すことによりこの重要な講話を紹介した。

彼はまず、精神的に自信のない、正義に飢えた、素直に忍従している者、そして心の純粋である者について話した。そんな精霊明察の死すべき者は、父のような愛情の驚くべき威力を奮うことができるほどに神の無我のそのような段階に達することが期待できる。嘆き悲しむ状態にあってでさえ、かれらは、慈悲を示し、平和を促進し、迫害に耐える力を与えられ、そして、これらの苦しい状況のすべてを通して、父性愛で魅力のない人間さえ愛するであろうということ。父の愛情は、兄弟の愛情を測り知れないほど超える献身の段階に到達することができる。

信仰とこれらの至福の愛は、徳性を強化し幸福を生む。恐れと怒りは、品格を弱め、幸福を破壊する。この重大な説教は、幸福の主題で始まった。

1.「心貧しき者—へりくだる者—は、幸いである。」子供にとり、幸せは、即座の快楽の熱望を満たすことである。大人は、増大された幸せのその後に収穫するために自制の種子をまくことを望む。イエスの時代とその後ずっと、幸せは、あまりにも頻繁に富の所有の考えに関連づけられてきた。寺院で祈るパリサイ人と居酒屋の主の話では、一人は精神が豊かであると感じた― 利己的。他方は、「心が貧しい」と感じた― 謙虚。一人は自給自足していた。もう一方は教えやすく、また真実を求めていた。心の貧しい者は、精神的な豊かさの目標を—神を—捜し求める。。そして、そのような真実探求者は、遠い将来に報酬を待つ必要はない。報酬は、いま与えられる。かれらは、自身の心の中に天の王国を見つけ、いまそのような幸せを経験する。

2. 「義に飢え渇く者は幸いである。満たされるであろうから」。精霊的に貧しいと感じる者だけは、つねに正義を切望するであろう。謙虚な者だけは、精霊のの強さを捜し求め、精霊的な力を切望するのである。だが、精霊的な資質への自己の欲望増進のために故意に精霊的な断食に従事することは、最も危険である。肉体的断食は4、5日後には危険に陥る。人は、食物に対するすべての欲求を失う傾向がある。長期の断食は、肉体的にせよ、精神的にせよ、飢えを破壊する傾向がある。

体験的正しさは、義務ではなく、喜びである。イエスの正しさは、動的な愛—父親らしい、兄弟らしい愛情—である。それは、否定でも、汝してはならぬ型の正義でもない。人はどうして何か否定的なこと—何か「しない」こと—を切望できようか。

この最初の2つの至福を子供の心に教えることは、それほど簡単ではないが、成熟した心は、その意味を理解すべきである。

3. 「柔和な者は幸いである。地を相続するであろうから。」真に柔和な者は、恐怖とは関係がない。それはむしろ神との人の協力の態度である—「あなたの意志は為される。」それは忍耐と慎みを迎え入れ、合法的、友好的宇宙への固い信頼によって動機づけられる。それは神の導きに対して反逆するすべての誘惑を支配する。イエスは、ユランチアの理想的に柔和な男性であり、広大な宇宙を引き継いだ。

4. 「心の清い者は幸いである。神を見るであろうから。」精神の純度は、否定的な性質がない、疑念と報復を欠くということ以外に。純粋さについて議論する際、イエスは、人間の性に対する態度に対処つもりは全くなかった。かれは、人がその仲間である人間に持つべき信頼についてより多く言及した。親が子に抱く信頼、そしてその信頼は、父親が彼らを愛するように、人に仲間を愛することを可能にするということ。父性愛は、甘やかす必要はなく、悪を容赦せず、それでいて常に反冷笑的である。父性愛には、単一目的があり、いつも人にとっての最善を探す。これこそが、本当の親の態度である。

神を見るということ—信仰により—は、本当の精神的な洞察力を取得することを意味する。そして、精神的な洞察力は、調整者の指導を強化し、これらは結局、神-意識を増大させる。そして、父を知るとき、人は、神性の息子の資格への自信が確実となり、単なる兄弟としてではなく—兄弟愛で—しかし、同時に父親として—父親らしい愛情で—生身の兄弟のそれぞれをますます愛すことができる。

子供にさえこの注意を教えることは、簡単である。子供は自然に人を信じており、そこで両親は、子供がその素朴な信頼を失わないようにしなけばならず、子供を扱う際に、すべてのごまかしを避け、疑念の暗示を差し控えるべきである。彼らが、自身の英雄を選び、彼ら自身の一生の仕事を選択するのを賢明に助けよ。

そして、イエスは、奮闘している人間のすべての闘いの主要な目的の理解—完全性—神性到達さえも、に関し追随者に教授し続けた。かれは、つねに彼らに訓戒した。「完全でありなさい。天の父が完全であるように。」かれは、12人に、彼ら自身を愛すると同じように隣人を愛するようには勧めなかった。それは、価値ある達成となったではあろうが。それは、兄弟愛の成就を示すことになったであろうが。かれは、むしろ、自分が使徒達を愛したように人々を愛するように—兄弟らしい愛情だけでなく父親らしく愛すること—訓戒した。そして、かれは、父性愛の4 つの最高の反応を指し示してこれを説明した。

1. 「悲しむ者達は、幸いである。慰められるであろうから。」いわゆる常識、あるいは最善の論理は、幸福が悲しみから得られるとは決して示唆しない。しかし、イエスは、外面の、または、これみよがしの悲しみについて言及はしなかった。かれは、思いやりの感情的な態度について触れた。優しさを表したり、あるいは心情的感覚や肉体的な苦しみの形跡を示すことは男らしくないと少年や青年に教えることは、重大な誤りである。同情は、女性と同様に男性にとっても立派な属性である。男らしくあるために、無感覚である必要はない。これは勇敢な人間を形成するには間違った方法である。世界の偉人は、嘆くことを恐れなかった。モーシェ、嘆く者は、シムソンやゴリアテよりも偉大な男性であった。モーシェは、ずば抜けた指導者であったが、素直な男性でもあった。人間の必要性に対して感じ易く敏感な反応を示すことは、本物で長続きする幸福を生み出す一方、そのような親切な態度は、怒り、憎しみ、猜疑の破壊的な影響から精神を保護する。

2. 「哀れみ深い者達は、幸いである。哀れみを受けるであろうから。」ここでいう哀れみとは、真の友情の高さ、深さ、幅—慈愛—を意味する。哀れみは、時折受け身であるかもしれないが、ここでは、それは活発で豪快—最高の父親らしさ—である。愛する親は、何回であろうとも、子供を許すことにほとんど困難を感じない。そして、甘やかされていない子供においては、苦しみを和らげようとする衝動は、自然である。実際の状況を評価するに十分の年齢に達しているとき、子供は、通常親切で、同情的である。

3. 「平和を作る者は幸いである。神の子と呼ばれるであろうから」イエスの聴衆は、平和を作る者ではなく、軍事的救出を切望していた。しかし、イエスの平和は、穏やかで否定的な種類のものではない。裁判と迫害をものともせず、かれは、「あなた方に私の平安を残して行く」と、言った。「心を煩わさせてはいけない、恐れさせてもいけない。」これは、破壊的な闘争を防ぐ平和である。個人の平和は、人格を統合する。社会的平和は、恐怖、欲深さ、怒りを防ぐ。政治的平和は、民族対立、国家間の不信感と戦争を防ぐ。和平、は不信と疑心の治療である。

子供は、調停者として機能することを容易に教えることができる。かれ等は、集団活動を楽しむ。一緒に遊ぶことを好む。あるじは別の機会に言った。「自分の命を救うものは誰でもそれを失うが、自分の命を失うものは誰でも、それを見つけるであろう。」

4. 「義のために迫害される者は幸いである。天の王国は彼等のものであるから。罵られ迫害され、ありもしない事で悪口雑言を言われるときそなた等は幸いである。喜び、殊のほか、喜びなさい。天におけるそなた等の報いは大きいのであるから。」

非常に多くの場合、迫害は平和に続く。しかし、若者と勇敢な大人は、困難、または危険を決して避けない。「友のために命を捨てる者の愛ほど大きい愛はない。」そして、父性愛は、自在にこれらすべてのことが—兄弟愛がほとんど成就できない事柄をが—できる。そして、進歩は、常に迫害の最終的な報いであった。

子供は、いつも勇気の挑戦に応じる。青春期は、いつも「挑戦に応じる」気がある。そして、あらゆる子供は、犠牲について早くに学ばなければならない。

従って、説教の至福についての山上の説教は、法—倫理と義務—についてではなく、信仰と愛についてであるということが明らかにされる。

父性愛は、悪に対する善の報い—不正に報いる善行—を満悦する

6. 聖別式の晩

日曜日の夕方、カペルナムの北の高地からゼベダイの家に着くと、イエスと12 人は、簡単な食事を相伴した。その後、イエスは海岸沿いに散歩に行ったが、12 人は仲間同志で話した。短い会議の後、双子が暖と灯りをとるために小さな火を起こす一方、アンドレアスは、イエスを探しに出かけた。彼に追いついたとき、言った。「あるじさま、仲間は、王国についてあなたの言ったことを理解することができません。あなたが、さらに指示を与えてくれるまでこの仕事を始めることができないと感じています。庭で我々に合流し、我々があなたの言葉の意味の理解できる助けをお願いしに参りました。」そこで、イエスは、使徒に会うためにアンドレアスと一緒に行った。

庭に入ると、かれは、自分の周りに使徒を集め、さらに教えて次のように言った。「新しい教えを直接古い教えの上に建てようとするから私の趣意の受け入れが難しいのであるが、私は、そなた等は生まれ変わらなければならないと断言する。そなた等は、幼子として新たに出直し、進んで私の教えを信じ、神を信じなければならない。王国の新しい福音を現状に従わせることはできない。そなた等は、人の息子と地上でのその使命について考え違いをしている。だが、法と予言者を除外するために私が来たと思い誤ってはならない。私は破壊するためにではなく、成し遂げ、拡大し、照らすために来たのである。法に背くためにではなく、むしろこれらの新しい戒律をそなた等の心の平板に記しに来たのである。

施し、祈り、断食によって父の恩恵を得ようとする人々の正義を上回る正義をそなた等に要求する。王国に入ろうとするならば、愛、慈悲、真実からの正義—天の父の意志を為すという心からの願望—をもたねばならぬ。」

その時、サイモン・ペトロスが、「あるじさま、あなたに新たな戒律があるならば、私達はそれを聞きたいのです。新たな道を示してください」と言った。イエスはペトロスに答えた。そなた等は、「法を教える人々が、『殺すな。殺す者は誰でも裁判を受けねばならぬ』と言うのは聞いているところである。しかし、私は、動機を見つけるために行為以上のものを見る。兄弟に立腹する者は誰でも、厳しい非難の危険にさらされていると断言する。心に憎しみを抱き、心で復讐を企む者は、裁決の危険性に立つ。そなた等は、仲間をその行為によって判断しなければならない。天の父は、人の意図によって判断する。

「そなた等は、法の教師達が、『姦淫するな』と言うのは聞いているところである。しかし、私は、色欲の意図をもって女性を見る者は、すべてその心の中ではすでに姦淫を犯したと伝えておく。そなた等は、その行為によって人を判断することができるだけであるが、父は、その子供等の心の中を見て、慈悲をもって、彼らの意図と本当の願望に相応して裁く。」

イエスは、他の戒律について議論し続ける気でいたが、ジェームス・ゼベダイが遮って尋ねた。「あるじさま、離婚に関しては何を人々に教えましょうか。モーシェが指示したように、我々は男性に妻との離婚を許しましょうか。」この質問を耳にしたイエスが言った。「私は法を制定するためにではなく、教化するために来た。この世の王国を改革するためにではなく、天の王国を樹立しに来たのである。私が、今日は良いかもしれないが、他の時代の社会には当て嵌まらなくなるであろう政治、通商、社会的行動の規則をそなた等に教える誘惑に負けることは、父の意志ではない。私は、単に心を安らげ、精神を解放し、魂を救うためだけに地上にいるのである。しかし、この離婚の質問に関して、モーシェは、そのようなことを支持したが、アダムの時代やその園ではそうではなかったと、私は言っておく。」

使徒が短い時間話した後、イエスは続けた。「つねに、全ての人間の行為に関し2 つの視点—人と神、肉体の道と精神の道、時間の評価、推定と永遠での視点—を認めなければならない。」教えられたすべてを理解できたというわけではなかったが、12人は、実際この教授に助けられた。

次に、イエスが言った。「しかし、そなた等は、文字通りに私の教えを解釈し慣れているので、私の教えに躓くであろう。そなた等、私の教えの精神を悟るのに時間がかかる。そなた等は、私の使者であるということを再度思い出さなければならない。私が精神で生きたように、そなた等も生きる恩顧を被っている。そなた等は私の個人的、人格代表である。しかし、すべての人が、あらゆる事項について、そなた等がするように生きると期待する間違いを犯してはいけない。また、私がこの群れに属さない羊を連れているということ、また、私が必滅の性質の人生を送る間、その終わりまで、神の意志を為す様式を彼等に提供しなければならいという恩義を受けているということを覚えていなければならない。」

その時、ナザニエルが尋ねた。「あるじさま、正義に場所を与えないのでしょうか。」モーシェの法は、『目には目を、歯には歯を』とあります。「私達は何と言いましょうか。」そこで、イエスが答えた。「悪を善で迎えるべきである。我が使者は、人と争うことなく、すべてに穏やかでなければならない。仕返しがそなたらのやり方であってはいけない。人間の支配者は、そのような法を持つかもしれないが、王国ではそうではない。慈悲は、いつも人の判断の基盤となり、また人の行為を好む。そして、これらが困難に聞こえるなら、そなた等は、今でも、折り返すことができるのである。使徒の資格の必要条件が難し過ぎると思うならば、そなた等は、それほど厳しくない弟子の身分の小道に戻ることができるのである。」

驚くべきこれらの言葉を聞き、使徒達は、しばらく退いていたがすぐに戻り、ペトロスが、言った。「あるじさま、私達はあなたと続けます。我々1 人として折り返しはいたしません。特別、追加価格を払う用意が完全にできています。杯を飲みほします。単に弟子ではなく、使徒になります。」

イエスはこれを聞いて言った。「では、よろこんで自分の責任を引き受け、私についてきなさい。秘かに善行を施しなさい。施しをするとき、右手がすることを左手に分からせてはいけない。そして、祈るときは一人になり、無駄な反復と無意味な句を用いてはならない。尋ねる前に、すでに父は、そなたが必要とすることを知っていることを必ず思い出しなさい。そして、人に見られるための悲しい相貌で、断食しがちになってはならない。選ばれた使徒として、今、王国の奉仕に赴き、地球で自分のための宝物を貯えず、しかも、寡欲な奉仕による、天での自分のための宝物を蓄えなさい。何故ならそこにそなた等の宝物があり、また、そこに、そなた達の心があるのであるから。

肉体の明かりは目である。したがって、目が寛大であるならば、全身は光に溢れるであろう。しかし、目が利己的であるならば、全身は暗闇に満ちるであろう。自身のその明かりそのものが闇に向けられるとならば、その暗闇はどれほどのものであることか。」

そこでトーマスが、自分達は「すべてを共用し続ける」べきであるかどうかを尋ねた。あるじは、「そうだよ。我々同胞は、理解し合う1つの家族として共存すべきである。そなた等には大きな仕事が任されている。だから、私はそなた等の全面的な奉仕を切望する。それがよく言われてきたことは知っているであろう。『人は2 人の主人に仕えることはできない。』人は、心から神を崇拝し、また同時に、心から富の神に仕えることはできない。王国の仕事で無条件に徴募した今、命を危ぶむではない。まして、何を食べ、何を飲むべきか心配するな。また、身体にこだわるな。いかなる衣を身に纏うべきかを。既に、進んでしようとする手とひたむきな心は空腹にならないということを学んだではないか。さて、活力のすべてを王国の仕事に捧げる準備をするとき、父がそなた等の需要に無頓着でないということを確信せよ。まず神の王国を求めなさい。そうすればその入り口を見つけたとき、そなたには、すべての必要なものが与えられるであろう。したがって、明日のことを過度に心配するでない。1 日の苦労は、その日1 日で十分である。」

かれらが、質問するために徹夜をする気でいるのを見ると、イエスは言った。「同胞よ、そなた等は土製の船である。翌日の仕事ができるように、休息するのが最良である。」しかし、睡眠は彼らの目から去っていた。ペトロスは、「ほんの少し個人的な話があります。」とあるじの要請に相対して言った。「同胞に秘密にしたいというわけではないのですが、心が煩わされているのです。おそらく、もしあるじさまからの叱責に値するならば、 二人きりのほうがそれに耐えられるでしょうから。」そこで、家へと先導し「ペトロス、共に来なさい。」と、イエスが言った。ペトロスが、あるじの元から戻ると、大いに元気づき励まされており、ジェームスは、イエスに話しに行くと決めた。そこで、早朝の数時間まで、他の使徒達は、あるじと話すために一人つずつ入っていった。寝入ってしまった双子を除き、皆が個人的な相談をしたとき、アンドレアスが入っていってイエスに言った。「あるじさま、双子は庭の火の側で寝入ってしまいました。二人が話したいかどうか尋ねるために起こしましょうか。」そこでイエスは、「二人は大丈夫である。煩わすでない」と、微笑んで言った。その時、夜は明けようとしていた。明くる日の陽光が差すところであった。

7. 聖別式の翌週

数時間の睡眠後、12 人がイエスとの遅い朝食に集められたときかれは、「今や、そなた等は、喜ばしい知らせを説いて、信者を導く仕事を始めなければならない。エルサレムに行く用意をせよ。」と言った。イエスが話した後、トーマスは、勇気を奮い起こして言った。「今、仕事を始める準備ができていなければならないと、あるじさま、分かってはおりますが、私は、我々が、この大きな仕事をまだ実行にうつすことができないと恐れるのであります。王国の仕事を始める前に、あと数日このあたりでの滞在に同意してください。」イエスは、使徒のすべてがこの同じ恐怖に襲われているのを見て言った。「要求通りになる。我々は安息日が終わるまで、ここに留まろう。」

数週間、熱心な真実探求者の小さな幾つかの集団は、好奇心の強い観衆とイエスに会いにベスサイダにてい来た。すでに、イエスに関する話は田舎にまで広がっていた。詮索好きな者達は、テュロス、シドーン、ダマスカス、ケーサレーア、エルサレムの遠くの都市からやって来た。イエスは、これまで、このような人々に挨拶して、王国に関して教えてきたのだが、そのときあるじは、この仕事を12 人に任せた。アンドレアスは、使徒の一人を選び、訪問者の一集団に割り当てるのであるが、時には12人全員が同じように従事した。

かれらは、日中は教え、夜遅く個人的な談合をもち、2日間働いた。3日目、「釣りをしに行くか、呑気な気分転換を探すか、あるいは、家族を訪問する」ようにと使徒を送り出し、イエスは、ゼベダイとサロメを訪ねた。木曜日、かれらは、更に3日間の教育に戻った。

この予行演習の週、イエスは、自分の地球での洗礼後の任務の2つの大きな動機について使徒に何度も繰り返した。

1.父を人に明らかにすること。

2. 人を息子としての自覚をもつように導くこと—いと高きものの子供であると信仰により気づかせること。

この様々な経験の1 週間は、12人に多くのことをもたらした。数人は、自信過剰になりさえした。最後の談合、安息日後の夜には、ペトロスとジェームスがイエスのところにやって来て、「準備ができています—すぐに、王国を手に入れに先へ進みましょう。」と言った。それに対し「皆の知恵が熱意に吊り合い、勇気が無知を埋め合わせられますように。」と、イエスが答えた。

使徒達は、その教えの多くを理解しなかったが、彼がともに暮らした魅力的に美しい人生の意味は把握した。

8. 湖の木曜日の午後

イエスは、使徒達が自分の教えを完全には我がものにしていないことを心得ていた。かれは、ペトロス、ジェームス、ヨハネにいくらかの特別な教授を与えることに決め、かれらが、仲間の考えをはっきりさせてくれることを望んだ。かれは、12 人が精霊的な王国の理念に関するいくつかの特徴を理解している一方で、これらの新しい精霊の教えを直接ダーヴィドの王座の回復として天の王国、それに、地球での一時的威光としてのイスラエルの再建という古くて不動の文字通りの概念に縛りつけることに頑として固執するところを見た。従って木曜日の午後、イエスは、王国の諸事について論議するために、ペトロス、ジェームス、ヨハネとボートで岸を離れた。これは、何十もの質問と答えを含む4 時間にわたる教育的会談であり、サイモン・ペトロスが、翌朝、弟アンドレアスに与えたこの重大な午後の概要を再編成してこの記録に載せることは、最も有益であるかもしれない。

1. 父の意志を為すこと。天の父の上からの加護に対する信頼というイエスの教えは、盲目かつ受動的な運命論ではなかった。この午後、かれは、是認して古いヘブライの諺から引用した。「働かざる者食うべからず。」かれは、自己の教えの十分な評釈として自身の経験を指し示した。父を信じることについての彼の教訓は、現代、または、いかなる他の時代の社会的、経済的状況によって判断されてはならない。彼の教授は、すべての時代、すべての世界で神に近く生きるための理想的な原則を包含している。

イエスは、3 人に使徒と弟子との責務の違いを明らかにした。そして、その時でさえ、12 人の思慮分別と将来への思慮の行使を禁じなかった。彼が説教したことは、先見に対してではなく、憂慮、つまり思い悩みに対してであった。かれは、積極的で注意深い神の意志への服従を教えた。倹約と節約に関する彼らの質問の多くに答えて、単に大工、船大工、漁師としての自己の人生、それと12 人の彼の慎重な組織に注意を向けさせた。かれは、世界は敵として見なされるべきでないということを明らかにしようとした。人生の情況は、神の子供と神の摂理の一緒の働きが構成要素となるということを。

イエスは、自身の無抵抗の個人の習慣を彼らに理解させることに大いに苦労した。かれは、身を守ることを断固として拒否した。そして、自分達がその同じ方針を取れば、イエスが喜ぶように使徒達には見えた。悪へ抵抗、不正、そして傷害と戦わないように教えたのであり、悪行への受動的寛容を教えたのではなかった。また、この午後、悪人と犯罪者に対する社会的刑罰に賛成すること、そして民間政府が、社会秩序の維持と正義の遂行において時には力を用いなければならないということを明らかにした。

かれは、弟子に報復の悪習について警告することを決してやめなかった。かれは、復讐、すなわち報復観念を容認しなかった。かれは、恨みを抱くことを嘆いた。かれは、目には目を、歯には歯の考えを禁じた。これらの事柄は民間政府に帰するものとする一方、もう片方では神の判断に帰するものとしつつ、私的一身上の報復の考え全体には賛成しなかった。彼の教えは、国家にではなく、個人に適用されるのだと3 人に断言した。これらの問題に関し、その時までの彼の教授を以下のようにまとめた。

敵を愛せよ—人間の兄弟愛の道徳的な主張を銘記せよ。

悪の無益さ:悪、誤りは復讐によっては正されない。敵と同じ手段による悪との戦いの過ちを犯すな。

信仰を持て—神の正義と永遠の善の最終的勝利への確信

2. 政治的な態度。かれは、ユダヤ民族とローマ政府間にその時存在していた張りつめた関係に関して、発言において使徒が慎重であるようにと警告した。かれは、彼等がこれらの困難にどんな形であれ、巻き込まれることをを禁じた。イエスは、常に敵の政治てき罠を避けることに慎重であり、いつも応えて「ケーサーのものはケーサーに、神のものは神に返しなさい。」と言った。かれは、救済の新しい方法を確立する任務から注意をそらすことを拒否した。かれは、他の何事にも関知、心配しようとしなかった。かれは、個人生活において、いつもすべての市民の法と規則をよく守り、公へのすべての自分の教えにおいては、市民、社会、経済の領域を無視した。かれは、人の内面と個人的精霊的な生活の原則だけに関心があるのだと3人の使徒に話した。

イエスは、従って、政治的な改革者ではなかった。かれは、世界の再編成に来たのではなかった。もし彼がこれを行なっていたとしても、それは、その時代と世代だけに通用したであろう。にもかかわらず、かれは、最善の人生の道を人に示したし、いかなる世代も、イエスの人生をそれ自身の問題に最もよく適応させる方法を発見する努力からは免除さてはいない。しかし、イエスの教えをいかなる政治の、または経済の理論とも社会的、または産業体制とも同一視する誤りを決して犯してはならない。

3. 社会的な態度。ユダヤ人の律法学者は、長い間、この問いについて論じ合ってきた。隣人とはだれであるのか。イエスは、能動的、自発的な親切、つまり仲間へ向ける愛というものが、本物であるので、隣人というものが全世界を包含し、その結果、すべての人間を隣人へと発展する愛の考えを示しに来た。このすべてにも関わらず、イエスは、集団にではなく、個人だけに興味を持っていた。社会学者ではなかったが、イエスは、利己的な孤立のすべての形を破壊するために努めた。かれは、純粋な共感、同情を教えた。ネバドンのマイケルは、慈悲に支配された、主動の息子である。同情は、まさしく彼の本質である。

あるじは、人は、決して友人を食事に招くべきではないとは言わなかったが、追随者には貧乏人と恵まれない者に馳走を設けるべきであると言った。イエスには安定した正義感があったし、それは、つねに慈悲で緩和された。かれは、使徒に、社会的寄生体、あるいは専門の施し探求者に強要されることを教えなかった。彼がしてきた社会学的表明に最も近いものは、「人を裁くな。自分が裁かれないためである。」と言ったことである。

無差別の親切心は、多くの社会的弊害で非難されるかもしれないことを明らかにした。イエスは、使徒の基金が自分の要求、あるいは、使徒の2 人の共同陳情による以外は、施しものとして配られないということをはっきりとユダに翌日指示した。このすべての事柄に関し、いつも「蛇と同じくらい賢明であるが、鳩と同じくらい無害であれ。」と言うのが、イエスの習慣であった。すべての社会的状況における忍耐、寛容、許しを教えることが、彼の意図のように見えた。

イエスの人生哲学において、家族というものがまさにその中心を占有した—ここと、そしてこの後。かれは、ユダヤ人の先祖への過剰敬意の傾向を修正しようとする一方、家族の上に神に関する自分の教えの基礎を形成した。かれは、家族生活を最も高い人間の義務として褒めはしたが、家族関係が宗教義務を妨げてはならないことを明瞭にした。かれは、家族が一時的組織であるという事実に注意を促した。それは死を生き残らないということ。イエスは、家族が父の意志に反したとき、自分の家族を諦めることを躊躇わなかった。より新しく、より大きな人間の兄弟関係—神の息子達—を教えた。イエスの時代、パレスチナとローマ帝国での離婚の慣習は、緩いものであった。かれは、結婚と離婚に関する法の制定を繰り返し拒否したが、初期の支持者の多くは、離婚に関する強い意見を持ち、その意見がイエスによるものだとすることをを躊躇しなかった。ヨハネ・マークを除く新約聖書の著者は全員、離婚に関するこのより厳しく進歩的な考えに固執した。

4. 経済的態度。イエスは、世界を見つけた通りにこの世界で、働き、住み、商いをした。かれは、経済改革者ではなかったが、富の不平等な分配の不正にしばしば注意を促した。しかし、かれは、救済のいかなる提案も申し出なかった。使徒は、財産を持たないことになってはいたが、富と財産に対してではなく、単にその不平等で不公平な分配に対して説教しているのだということを3 人に明確にした。かれは、社会的正義と産業的公正さの必要を認めたが、その達成に対して何の規則も提供しなかった。

かれは、支持者に現世での所有、財産を避けることを決して教えず、12人の使徒だけに教えた。医者のルカスは、社会的平等の強い信奉者であり、イエスの言葉を自己の個人的信念と調和させて、解釈のために多くのことをした。イエスは、支持者に生活の共同様式を採用するように決して個人的に命じなかった。かれは、そのような事柄に関していかなる種類の表明もしなかった。

イエスは、「人の幸せは、物質的所有の豊富さにあるのではない」と断言し、聴取者に慾深さについて頻繁に警告した。かれは、「人が全世界を得ても、自身の魂を失うならば、何の徳になろうか。」と絶えず繰り返した。財産所有へのいかなる直接攻撃もしなかったが、かれは、まず精神的な価値の優先が、永遠に重要であると主張した。後の教えの中では、公への奉仕の過程において提示した多数の寓話を語ることにより、ユランチアの数多くの誤った人生観を修正しようとした。イエスは、決して経済理論を定式化するつもりはなかった。各時代が既存の問題のためにそれ自体の改善措置を発展しなければならないことを、かれはよく知っていた。そして、今日もしイエスが、地球にいたならば、生身の姿で生活していたならば、かれは、現代の政治的、社会的、あるいは経済的論争のいずれにも肩入れしないであろうから、単純にこの理由のために、大方の善男善女にとっては大きな失望となるであろう。純粋に人間の問題の解決のために、幾重にもより有能にするためにあなたの内側の精霊的な人生を完成する方法をあなたに教える一方で、かれは、壮大なまでに超然と離れたままでいるであろう。

イエスは、すべての人間を神のように作りかえ、次に、これらの神の息子が、政治、社会、経済問題を解決する間、同情して傍観しているのである。彼が公然と批難したのは富ではなく、富がその熱愛者の大多数にもたらす事柄であった。この木曜日の午後、イエスは最初に、「受けるより与える方が幸いである。」と仲間に話した。

5. 個人的宗教。使徒がしたように、イエスの人生によるその教えをより理解すべきである。イエスは、ユランチアで完成された生活を送った。そしてイエスの人生がその直接の背景上に思い描かれるとき、彼の独自の教えを理解することができる。12 人への教訓でも、あるいは民衆への説教でもなく、彼の人生というものが父の神の性格と愛する人格を明らかにすることにおいて最も手助けとなるであろう。

イエスは、ヘブライの予言者やギリシアの道徳家達の教えを攻撃しなかった。あるじは、これらの偉大な教師達が表した多くの良いことを認めたが、追加する何かを、「神の意志への人間の意志の自発的服従」を教えるために地球に降りて来た。イエスは、単に宗教人、完全に宗教感情に捕らわれた、そして、精神的衝動によってのみ動機づけられた人間というものの産出を欲したのではなかった。ほんの1 目だけ彼を見ることが出来たら、イエスがこの世の物事に関してかなりの経験をもつ真の人間であることを知ることができたのだが。イエスの教えはこの点で甚だしく曲解され、西暦の何世紀にもわたり長い間相当に誤り伝えられている。また、人はあるじの従順さと謙虚さについて歪んだ考えを保持してきた。彼が人生で意図したことはずば抜けた自尊心であったように見える。彼は、本当に発揚するためにへりくだることを人に教えただけである。彼が本当に意図したことは、神へ対しての真の謙虚さであった。誠意--純粋な心、に大いなる価値を置いた。誠実さは彼の性格評価において主徳であり、勇気は彼の教えのまさしくその中心であった。「恐れるな」は 、彼の合言葉であり、我慢強い忍耐は性格の強さにおける彼の理想であった。イエスの教えは武勇、勇気、英雄精神の宗教を構成する。そして、まさしくこれが、自分の個人的な代表としてその大半が粗野で、力強い、男々しい漁師である12人の平凡な男性を選んだ理由である。

イエスは彼の時代の社会的悪に関して言うことはあまりなかった。滅多に、道徳的過失についての言及をしなかった。真の美徳の積極的な教師であった。教育の否定的方法を慎重に避けた。悪の宣伝を拒否した。道徳改革者でさえなかった。人類の官能的衝動が、宗教的戒めでも法的禁止でも抑圧されないということをよく知っていたので、そのように使徒達に教えた。彼の数少ない告発は主に自尊心、残酷さ、圧迫、偽善に対して向けられた。

イエスはヨハネのようにはパリサイ人さえ激しく糾弾しなかった。心の直ぐい多くの筆記者やパリサイ人を彼は知っていた。彼らが宗教伝統への束縛の俘になっていることを理解した。イエスは、「最初に、木を良くすること」を、大いに強調した。あるわずかな特別の美徳だけでなく、イエスは一生涯を評価するということで3 人を強く印象づけた。

ヨハネがこの日の教えから1 つ得たことは、イエスの宗教の中心は、天の父の意志をする動機づけられた人格と結び合わされた情け深い性格の習得にあるいうことであった。

ペトロスは、自分達が宣言しようとしていた福音は、人類全体のための誠に新鮮な始まりであるという考えを理解した。彼は後にこの印象をポールに伝え、ポールは、そこから「第2 のアダム」として彼のキリストの主義を明確に述べた。

ジェームスは、イエスが地球の自分の子供等がまるで既に完成した天の王国の市民であるかのように生きることを望んでいるという心踊る真実を理解した。

人は異なることを理解していたので、イエスは使徒達にそう教えた。何らかの固定した様式に弟子や信者達を形づくろうとするのを控えるよう彼等に絶えず勧めた。彼は、神の前で完成していく、そして別々の個人で展開するそれぞれの魂をそれ自身の道で成長させようとした。ペトロスの多くの質問の1つに答えてあるじは言った。「幼い子供として新たでより良い人生に改めて出発できるように人を自由にしたい。」イエスは、真の善は無意識であらねばならない、慈善を施す際右手のすることを左手に知らせることのないようにと常に主張した。

この午後、あるじの宗教が精神的自省のための何の用意もしないと気づいたとき、3 人の使徒は驚いた。イエスの前後の時代の全ての宗教は、キリスト教でさえ、慎重に良心的自省をもたらす。だが、ナザレのイエスの宗教はそうではない。イエスの人生哲学は、宗教内省なしなのである。大工の息子は、性格作りをついぞ教えなかった。天の王国は芥子菜の種子に似ていると宣言し、性格の成長を教えた。だが、イエスは、思いあがりの我質の防止として自己分析を禁止する何も言わなかった。

王国に入る権利は、信仰、個人的な信念を条件とする。王国の進展的上昇に残るためには、すなわち、高価な真珠を得ることは、人の持つすべてを売って得るということである。

イエスの教えは、皆のための、ただ単に病弱者や奴隷のためではない、宗教である。彼の宗教は、(彼の滞在期間中)決して教義や神学の法に具体化しなかった。彼は後に1 行の文章といえども残さなかった。全世界の全ての時代の霊的な指導と道徳的な教育に適した霊感的、理想主義的な遺産として彼の人生と教えが宇宙に遺贈された。今日でさえすべての宗教、それらの1つ1つが生きる望みではあるが、イエスの教育はそういうものとは差違がある。

宗教が人の唯一のこの世での追求であるとは使徒達に教えなかった。それは神に仕えるユダヤ人の考えであった。しかし、彼は、宗教は12 人の専業であると主張した。イエスは、彼の信者達の本物の文化追求を妨げる何も教えなかった。エルサレムの伝統に縛られた宗教学校から逸らしただけである。彼は自由で、心が広く、博識で、寛大であった。彼の正しい生き方の哲学には自意識の強い敬虔さの存在すべき場所はなかった。

あるじは、自身の時代にも、またその後の時代にも宗教に無関係の問題にはどんな解決策も提供しなかった。イエスは永遠の現実に関する精神的な洞察を発展させ、生活の独創性における先導性を刺激することを願った。彼は、徹底的に人類の基礎をなす、永久的な精神の必要性に関与した。彼は、善が神と等しいことを明らかにした。彼は、愛—真実、美、善を高めた。—神の理想と永遠の現実として。

あるじは、人の中に新たな精神、新たな意志を創造しに来た。—真実を知るための、情けを経験するための、また、善を選ぶための新しい収容能力を与えに—天の父が完全であるのと同じく、完全になるように永遠の衝動に結びつけられた、神の意志と和合するという意志。

9. 献身の日

次の安息日、聖別をした高地に旅して戻りつつ、イエスは使徒達に専念した。そして、そこで激励のための長くて美しく感動的な自らの伝言の後で、12 人の厳粛な献身の行事に従事した。この安息日の午後、イエスは山の中腹で自分の周りに使徒を集め、この世にそれらを残すことを強制されるその日に備え、天の父の手に彼等を授与した。この折、新たな教えはなく、まさに歓談と親交だけであった。

イエスはこの同じ場所で伝えた聖別式の説教の多くの特徴を再検討し、自分の前に一人ずつ召喚しながら、自分の代表として世界へ前進することを委託した。あるじの奉納委託は次の通りであった。「全世界に進入し王国の喜ばしい知らせを説きなさい。精神の虜となっている者を解き放ち、圧迫されている者を慰め、苦しんでいる者に力を貸しなさい。惜しげなく受け取ったのであるから惜しげなく与えなさい。」

イエスは、「労働者はその手間賃に値する。」と言い、金も余分な衣服も手に入れないよう忠告した。そして、最後に言った。「見よ、まるで狼の真只中にいる羊のようにお前達を送り出す。だから、蛇のように賢く鳩のように無害でありなさい。しかし、敵はユダヤの礼拝堂でそなた等を懲戒する傍ら、彼らの協議会にそなた等を呼び立てるので用心しなさい。この福音を信じるという理由で、知事と支配者の前に連れていかれるであろう。そして、彼等へのあなたのその供述こそが私にとっての目撃者になるだろう。彼らがあなたを判断に導くとき、何を言うべきか案ずるでない。我が父の霊があなたに宿っておりそのような時にはあなたを通して話すであろうから。そなた等の何人かは殺されるであろうし、地上の王国を設立する前に、この福音のために多くの民族に嫌われるであるろう。だが、恐れるでない。私が共にいるし、我が霊がそなた等が全世界に行くその前を行くのである。それに、あなたがまずユダヤ人、それから異教人のところへ行く間、父の霊が共にとどまるであろう。」

そして、山から下りてくると、ゼベダイの家である自分達の家に戻っていった。

10. 奉納後の夜

雨が降り始めていたのでその晩家での教えの中でイエスは、何をすべきか、何をすべきでないかを12 人に示そうと長々と話した。彼らは正義に達する方法として確たる事を行なうことを課した宗教だけを知っていた—救済。しかし、イエスは、繰り返し言うのであった。「王国では仕事をするためには正しくあらねばならない。」「したがって、完全でありなさい。天のあなた方の父が完全であるように。」と何度も何度も繰り返した。あるじがずっと狼狽えている使徒達に説明していたことは、単に信じることにより、簡単で真摯な信頼により、世界にもたらされる救済というものを自分が持ってきたのだということであった。イエス曰く:「ヨハネは悔悟の洗礼、古い生き方に関する嘆きを説いた。そなた達は神との親交の洗礼を宣言するのである。そのような教えを必要として立つ者等に悔悟を説きなさい。但し既に二心のない王国への入り口を探している者等には扉を大きく開き、神の息子等の喜ばしい親交に加わるよう命じなさい。」しかし、王国で信仰により公正であるということは、地球の人間の日常生活で正義の行ないが先行しなければならないということをこれらのガリラヤの漁師達を説得するのは難しい仕事であった。

12 人を教えるこの仕事でのもう一つの大きな困難は、宗教真理の理想主義的で霊的な原則を高度に解釈し、個人的行為の具体的な規則にそれらを作り変えるという彼等の傾向であった。イエスは魂の姿勢である美しい精神を差し示すのであったが、彼らは、そのような教えを個人的な振舞いの規則に訳解すると言い張った。何回も、あるじの言ったことを確実に覚えようとするとき、彼が言わなかったことは忘れるの所かであった。しかし、教えたことは全て自身が実行したのでその教えを徐々に自分達のものとしていった。口頭教授から得られないことは、共に生活する中で次第に習得していった。

あるじが、広範囲の宇宙の各世界における各時代の各人のために霊的鼓吹の生活を送ることに従事していたのは、使徒には明らかではなかった。折々伝えたにもかかわらず、イエスがこの世だけでなく彼の広大な創造における他のすべての世界のために働いているという観念を使徒達は理解しなかった。イエスは、この世だけの男女のために人間生活の個人的な模範を設定するのではなく、むしろすべての世界のすべての人間のために高い精神的で鼓舞する理想を作成するためにユランチアで彼の肉体の姿の生活を送った。

この同じ夜トーマスがイエスに尋ねた。「あるじさま、父の王国への入場を獲得できる前に我々は幼い子供のようにならなければならないと言われ、その上偽の予言者に騙されず、豚の前に真珠を投げかける罪を犯すなとあなたは警告されました。今、私は正直なところ当惑しています。あなたの教えが理解できません。」イエスがトーマスに答えた。「どれだけ、あなたのことを耐え忍びましょうか。あなたは、いつも私が教える全てを文字通りに解釈したがる。王国に入る代価として幼い子供のようになるよう求めたとき、簡単に誤魔化されたり、 何でも喜んで信じる気持、あるいは見知らぬ者を信用する性急さに参照しなかった。説明から集約して欲しかったことは子と父の関係であった。そなたは子であり、またそなたが入ろうと探し求めるところはそちの父の王国である。すべての普通の子とその父の間には理解し情愛深い関係を保証し、父の愛と慈悲のために駆け引きをするすべての気質を排除するそんな自然な愛情がある。そして、あなたが説教に向かおうとしている福音はまさしくこの永遠の子と父の関係の信仰認識から成長する救済と関係がある。」

イエスの教えの1つの特徴は、彼の哲学の道徳性が個人と神との私的関係に基づくということであった。-まさしくこの子と父の関係。イエスは民族でも国家でもなく、個人を強調した。夕食をとる間、イエスはマシューとの話で、どんな行為の道徳性も個人の動機により判断されると説明した。イエスの道徳はいつも肯定的であった。イエスによって言い直される黄金律は能動的な社会接触を要求する。古い否定的規則は孤立して従うことができた。イエスは、すべての規則と儀式から道徳を剥ぎ取り、それを霊的な考えと真に公正な生き方の威厳のある段階へと高めた。

イエスのこの新しい宗教は、 その実用的な含みがないわけではないが、実用的な政治上、社会上、あるいは経済上の価値の彼の教えに見られるものは何であろうとも、本物の個人的宗教経験の自然発生的な日々の仕事における精神の果実の表れとしてのこの内側の魂の経験の自然な働きなのである。

イエスとマシューが話し終えた後、サイモン ゼローテースが、「しかし、あるじさま、すべての人間が神の息子なのですか」と尋ねた。そこで、イエスが答えた。「そうだよ、シーモン。すべての人間が神の息子である。そしてその良い知らせをそなたが宣言しにいこうとしている。」しかし、使徒達はそのような主義を理解することができなかった。それは新しくて、奇妙で、瞠目に値する発表であった。そして、彼等にこの真実を印象づけたいという願いのためにイエスは、追随者達に彼らの兄弟としてすべての人を扱うことを教えた。

アンドレアスの質問に対応し、あるじは彼が教える道徳は彼の生活宗教から不可分であると断言した。彼は人の性質というものに基づいて教えたのではなく、人の神への関係に基づいて道徳を教えた。

ヨハネは、「あるじさま、天の王国とは何ですか」とイエスに尋ねた。そこで、イエスが答えた:「天の王国はこれらの3つの基礎で成る。1番目、神の主権事実の認識; 2番目、神の息子の資格への真実への信念;3番目、神の意志を為すという最高の人間の望みの有効性への信頼--神に似るように。そして、これが福音に関する朗報である:信仰によりすべての死すべき者にはこれらの全ての救済の基礎が得られるということ。」

そして、今や待期の週は終わり、皆は翌日エルサレムに出発する準備をした。

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