論文 118 崇高と究極—時間と空間

   
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論文 118

崇高と究極—時間と空間

神のいくつかの本質に関し次の事が言えるかもしれない。

1. 父は自存の自己である。

2.息子は共存の自己である。

3. 精霊は結合存在の自己である

4. 崇高なものは進化的経験の自己である。

5. 七重者は自己分配の神性である。

6. 究極なるものは先験的経験の自己である。

7. 絶対者は実存的経験の自己である。

七重者の神は、崇高なものの進化的到達に不可欠である一方、崇高なものもまた究極なるものの来るべき出現に不可欠である。そして、崇高なものと究極なるものの二重の臨場は、準絶対で派生の神格の基本的な連結を成す、なぜならば、かれらは、将来の目標達成において互いに補足し合う。ともに両者は、主たる宇宙のすべての創造的成長の開始と終了をつなぐ経験の橋を構成する。

創造的成長は、終わりがない、つまり果てしないが、常に満足のいくものであるが、宇宙の成長、宇宙探検と神到達の新冒険への起動準備行為としてとても効果的に役目を果たす一時的目標到達のそれらの人格-満足の瞬間に常に中断される。

数学の領域は、質的限界に悩まされるが、それは、有限の心に無限について熟考する概念うえの基礎を提供する。数には、有限の心の理解力においてさえ量的制限はない。思いつく数がいかに大きくても、あなたはもう一つ加えられる数を常に思い描くことができる。また、あなたは、それが無限には不十分であるということが理解できる。なぜならば、この加算を幾度繰り返そうが、常にさらにもう一つ付け加えることができのであるから。

それと同時に、無限の連続は、いかなる点においてもこの合計(より適切に、小計) は、特定の時と状況における特定の人に目標到達の甘さの豊かさを提供する。しかし、遅かれ早かれこの同じ人は、新たでより大きい目標を渇望し、熱望し始め、また、成長のそのような冒険は、いつまでも、然るべき時と永遠の周期においてずっと現れ続けるであろう。

各連続する宇宙時代は、宇宙成長の次の時代の控の間であり、各宇宙時代は、すべての前の舞台のために直接的目標を提供する。ハヴォーナは、それ自体で、完全だが、完全性を制限された創造である。進化する超宇宙へと外に拡大するハヴォーナの完全性は、宇宙の目標のみならず、進化前の存在の限界から解放をも見い出す。

1. 時間と永遠

宇宙との神格の関係についてすべての可能な理解に達することは、人の宇宙への方向付けに役に立つ。絶対的神格は、本質的には永遠であるが、神々は、永遠における経験として時間に関係づけられる。進化する宇宙においては、永遠は、一時的恒久性—永遠に続く現在—である。

必滅の創造物の人格は、父の意志を為す選択をする手段により内住する精霊との自己同一化により永遠化できるかもしれない。意志のそのような奉献は、目的の永遠-現実の実現に等しい。これは、創造物の目的が瞬間の連続に関し固定されたということ、言い替えれば、瞬間の連続は、創造物の目的に何の変化も見ないであろうということを意味する。100万、あるいは10億の瞬間による差は生じない。数字は、創造物の目的に関して意味をもたない。こうして、創造物の選択、さらに神の選択は、神の子らと楽園なる父の永遠の奉仕において神の精霊と人の本質との決して終わることのない統一の永遠の現実に至るのである。

いかなる特定の知性にも成熟度と時間の意識の単位の間に直接的な関係がある。時間の単位は、1日、1年、またはより長い期間であり得るが、必然的に、それは、意識する自己が、生活情況を評価し、また思考している知性が束の間の生活事実を測定し評価する判断基準である。

経験、知恵、判断は、人間の経験において時間の単位の伸張には付きものである。人間の心が過去へと後方に思いを馳せるとき、それは、それを現状に応用する目的のために過去の経験を評価している。心が未来へと手を伸ばすとき、それは、ありうる行動の将来の意味の評価を試みている。こうして経験と知恵の両者を考慮に入れた後、人間は、現在における判断決定を発揮し、過去と未来でこうして生まれる行動計画は、存在へと至る。

発展途上の自己の成熟段階において、過去と未来は、現在の真の意味を照らすために合わせられる。自己が成熟すると、それは、経験のためにより遠く過去へと至り、同時にその知恵の予測は、より深く未知の未来へと入り込もうとする。そして想像している自己が、この範囲をさらに過去と未来の両方に広げるにつれ、判断もまた瞬間的な現在に次第に依存しなくなるのである。このように、決定-行動は、過去と未来の意味の側面を獲得し始める間、動いている現在の足枷から逃れ始めるのである。

時間の単位の短い必滅者は、忍耐というものに悩まされる。真の成熟度は、真の理解から生ずる慎みにより忍耐を超越する。

成熟するようになるということは、より熱烈に現在に生きることであり、同時に現在の限界から逃れることである。過去の経験に基づく成熟の計画は、未来の価値を高めるような方法で現在実現しつつある。

未熟な時間の単位は、現在へではない—過去- 未来—へではないその本当の関係の現在との縁を切るためにそのような方法で意味と価値を現在の瞬間へと集結する。成熟の時間の単位は、自己が出来事全体に関する洞察を獲得し始めるために、均衡化された過去-現在-未来の等位関係を明らかにするために、広げられた地平線の全景展望から時間の風景を見始め、恐らく、始まりのない、終わりのない永遠の連続を、つまり時間と呼ばれる断片を推し測り始める。

無限と絶対の段階における現在の瞬間は、すべての未来のみならずすべての過去をもまた含む。私はあるは、私はいた、それに、私はいるであろうをも意味する。そして、これは永遠性と永遠の我々の最高の概念を意味する。

絶対と永遠の段階において可能な現実は、ちょうど実際の現実と同じほどに意味がある。有限段階上、そして時間に束縛を受ける創造物にだけそのような広大な違いがあるらしい。絶対としての神にとっては、永遠の決定をした上昇する人間は、既に楽園の終局者である。しかし、宇宙なる父は、内住する思考調整者を通して、認識においてこのように限られてはおらず、それどころか、動物のような生活段階から神のような生活段階への創造物上昇の問題に関わるあらゆる俗世の闘いについてまた知ることもできるし、加わることもできる。

2. 遍在と無処不在

神格の偏在が、神性遍在の崇高性と混同されてはならない。崇高なもの、究極なるもの、絶対なるものは、彼の時空の遍在、宇宙の、絶対の臨場との時空間の普遍と時空間超越の遍在を補填し、調和し、統一されるということが、宇宙なる父の意志である。神性の遍在は、あまりにも頻繁に空間に関連づけられるかもしれないが、あなたは、必ずしも時間に条件づけられるという訳ではないということを心すべきである。

人間とモロンチア上昇者としてあなたは、七重の神の奉仕活動を通して次第に神について感知する。ハヴォーナを通してあなたは崇高な神を発見する。楽園においては、あなたは、人格として神を見つけ、次にあなたは終局者として、究極なるものとしての神をやがて知ろうとするであろう。終局者であることは、究極なるものに達した後に追求するわずかに一針路だけがあるらしく、また、それは、絶対なるものの探求を始めるのであろう。最高の、究極の上昇の終わりに父なる神に遭遇したのであるから、どんな終局者も、神格絶対到達の不確実さに妨害されることはないであろう。そのような終局者は、神発見に成功するとしても、同じ神を、より無限に、そして普遍に近い段階に現れる楽園の父を発見していると、疑うことなく信じるであろう。疑いようもなく絶対不変の神への到達は、人格の終局なる父はもとより宇宙の最初の親も明らかにするのであろう。

崇高な神は、神格の時空間遍在の実証ではないかもしれないが、文字通り神の遍在の顕現ではある。創造者の精霊臨場と創造の物質的顕現の間には、至る所での発生—進化する神格の宇宙出現—の広大な領域が存在する。

崇高な神が時間と空間の宇宙の直接支配をずっと担うならば、我々はそのような神格行政は、究極なるものの間接的支配下で機能すると確信している。そのような出来事において、究極の神は、全能の崇高なものの行政機能に関する超時間と超空間の間接的支配をする先験的全能(全知全能)として時間の宇宙に登場し始めるであろう。

人間の心は、ちょうど我々がするように、つぎの質問をするかもしれない。壮大な宇宙の行政権への崇高な神の進化が、究極の神の増大された顕現を伴なうならば、外部空間の仮定的宇宙における究極の神の対応的出現が、同様の、また高められた絶対の神が伴うのであろうか。だが、我々は実際には知らない。

3. 時-空間の関係

空間は関連する点の体系であるが、時間は瞬間の連続であることから、神格は、遍在のみにより有限概念に時間-空間の顕現を統一することができた。あなたは、結局のところ、分析により時間を、統合により空間を知覚する。あなたは人格の統合洞察によりこれら2つの異なる概念を組み合わせ関連づける。すべての動物世界の中で人だけがこの時-空間の知覚力を所有している。動物にとり動きは、意味を持つが、動きは、人格の地位の創造物だけに価値を示す。

物事は時間に条件づけられるが、真実は時間を超越している。あなたは、真実を知れば知るほどより真実であり、過去を理解することができればできるほどより未来を理解できる。

真実は、揺るがし得ず—すべての一時的な変化から永久に免除されており、決して死んではおらず、正式でありものの、常に活気にあふれ順応性があり—輝くばかりに生き生きとしている。しかし、真実が事実に結びつくようになると、次には、時間も空間もその意味を制約し、その価値を関連づける。事実に結びつけられた真実のそのような現実は、概念となり、結果的に、宇宙の相対的現実の領域にそれに応じて分類される。

有限で一時的創造物の事実に基づく経験との創造者の絶対かつ不朽の真実のつながりは、崇高なものの新たで出現しつつある価値をもたらす。崇高なものの概念は、有限で、変わり続ける下界との神性で、不変の天界の連携に不可欠である。

空間は、すべての非絶対的なものの中で最も絶対に近くなる。空間は明らかに、絶対に究極である。我々が物質段階の空間の理解における本当の難しさは、物体が空間にある一方、空間もまたこれらの同じ物体に存在しているという事実にある。絶対である空間については多くの局面があるが、それは、空間が絶対であると意味する訳ではない。

あなたが、空間は、ある意味では全ての物体の属性であると推測するならば、それは、結局は、空間関係の理解に役立つかもしれない。したがって、肉体が空間を移動するとき、それは、肉体とともにそのすべての属性を、そのような運動体において、またそれ自身の空間さえも運ぶ。

現実のすべての型は物質段階の空間を占めるが、精霊の型は、空間に関連して存在するに過ぎない。それらは、空間を占有せず、置換せず、それを包蔵もしない。しかし我々にとって、空間の主な謎は、一つの考えの型に属する。我々は、心の領域に入るとき、多くの謎に遭遇する。考えの型—現実—は空間を占めるのか。考えの型が空間を含まないと確信してはいるものの、我々には実際には分からない。それにしても、非物質的なものは、常に非空間的であると仮定することが確実とは言いがたい。

4. 第一と第二の原因

神学上の問題と必滅の人間の形而上学の板挟みの多くは、神格の人格についての人の配置の誤りと下位の神格への、そして進化する神格への無限と絶対の属性の結果として生じる課題によるものである。あなたは、本当に真の第一原因があるが、多くの対等かつ従属的原因、すなわち等位の、副次の原因も双方あるということを忘れてはいけない。

第一原因と第二原因間の極めて重要な違いは、第一原因が、いかなる先行原因からのいかなる要素の継承とは無関係である独自の効果をもたらすということである。第二原因は、常に他の先行する原因からの継承を示す影響を与える。

無条件絶対者に固有の純粋に静止した可能性は、楽園三位一体の活動によって生み出される神格絶対のそれらの原因に反応する。宇宙なる絶対者の臨場に際し、これらの原因となる含浸の静的可能性は、変化をもたらすある種の、先験的媒体の影響に、そこから積極的で反応し易くなる。媒体の活動は、発展に向けての真の宇宙の可能性、つまり実現された成長に向けての能力へのこれらの起動された可能性の変化に至る。壮大な宇宙の創造者と支配者が宇宙進化の決して終わらない演劇を成立させるのは、そのような熟した可能性である。

原因は、実存を除き、その基本的構成は三重である。それは、この宇宙時代と7超宇宙の有限段階に関係して作動しているように、次のように考えられるかもしれない。

1. 静止した可能性の起動。無特性絶対者における、また無条件絶対者に、加えて、楽園三位一体の意志の命令に作用する神格絶対の活動による宇宙の絶対における将来の目標の構築。

2. 宇宙能力の実現化。これは隔離され定義された計画への未分化の可能性の変換にかかわる。これは、神格の崇高性と先験的段階の多種多様の媒体の行為である。主たる宇宙全体の将来の必要性を完全に見越してそのような行為がある。それは、主たる宇宙の建築者達は、宇宙の神格概念の紛れもない具体化として存在するという可能性の隔離に関係している。彼らの計画は、最後に主たる宇宙についての概念上の外周により空間的には限られているようであるが、計画としてその他の点では、時間、あるいは空間によって条件づけられてはいない。

3. 宇宙現実の創造と進化。可能性を生産する神格の崇高性の臨場が可能性を創り出すと、を宇宙に用意ができると、崇高な創造者は、経験的現実へ熟した可能性を長期に渡り変化をもたらすために宇宙に働きかける。主たる宇宙の中での可能性のある現実の全実現化は、発展のための究極の能力により制限され、また出現の最終舞台において時空間に条件づけられている。楽園から出向く創造者の息子は、実際には、宇宙的意味合いにおいては変化させる創造者である。しかし、これは決して創造者としての創造者の息子ついての人の概念を無効にするものではない。有限の観点からは、創造者の息子は確かに、創造できるし、そうする。

5. 全能性と両立性

神格の全能性は、できないことをする力を意味しない。時空間の枠内において、そして人間の理解の知的基準点からは、無限の神でさえ正方形の円を作成はできないし、本質的によい悪を産出することはできない。神は、神らしくないことを行なえない。哲学用語のそのような矛盾は、非実在に相当する物であり、このようにしては何も創造されないことを意味する。人格の特徴は、同時に神らしくあり、また神らしくないということはあり得ない。両立性は、神性の力に本質的である。そして、このすべてが、全能が本質をもつものをつくるだけでなく、万物の本質に起源をも与えるという事実に由来する。

始まりにおいては父はすべてをするが、無限の意志と命令に対応して永遠の全景が展開するとき、創造物は、人間さえも、将来の目標完了の実現化における神の協力者になるということがいよいよ明らかになる。そして、これは生身の人生においてさえ真実である。人と神が協力関係に入るとき、いかなる制限もそのような協力関係の将来の可能性に置き換えられることはできない。人が、宇宙なる父は永遠の進行における自分の協力者であると気づくとき、内住する父の臨場と融合するとき、精神的には、かれは、時間の枷を壊し、すでに宇宙なる父を求める永遠の進行を始めたのである。

人間の意識は、事実から意味へと、そして価値へと進む。創造者の意識は、思考-価値から言葉の意味を経て、行動の事実へと進む。常に、神は、実存の無限に固有の絶対の統一性の行き詰まり状態を壊すために行動しなければならないのである。常に、神格は、すべての準神格の創造がそのために努力する原型の宇宙、完全な人格、最初の真実、美、善を提供しなければならない。常に、神は、後に神を見つけるかもしれない人間を最初に見つけるはずである。常に、宇宙の息子の資格とそれに伴う宇宙の兄弟愛が存在する以前に宇宙なる父がいるはずである。

6. 全能と万物の造出

神は本当に全能であるが、万物を造出しない—為されるすべてを神自身が為すのではない。全能は、全能の崇高なものの力の可能性と崇高なるものを包含しているが、崇高な神の意志行為は、無限の神の個人的行為ではない。

最初の神格の万物造出を提唱することは、行動をともにする創造的な仲間の他の様々な系列の無数の軍勢は言うまでもなく、100万近くの楽園の創造者の息子から権利を剥奪するに等しいであろう。全宇宙においてただ一つ自存の原因がある。他のすべての原因は、この1つの偉大なる第一根源と中枢の派生物である。そして、この哲学のいずれも、広大な宇宙に散在する無数の神格の子の自由意思に何の暴力も振るうものではない。

局部的枠内で、意志は自存の原因として機能するように見えるかもしれないが、それは、絶えず独自の、本来の、そして絶対の第一原因との関係を確立する継承要素を示している。

すべての意志は相対的である。発生の意味の観点からは、父-私はあるだけが、意志の究極性を持っている。絶対の意味の観点からは、父、息子、精霊のみが、時間に無条件の、空間に無制限の意志の特権を示す。必滅の人間は、自由意志、選択力に恵まれており、またそのような選択は絶対ではないものの、それは、有限段階においてどちらかといえば最終的であり、選択する人格の将来の目標に関係がある。

絶対的なものに満たないいかなる段階の意志も、選択力を行使する他ならぬその人格で構成する限界にぶつかる。人は、選択可能である範囲を超えて選ぶことはできない。例えば、人間以上になることを選べることは別にして、人間以外であることは選べない。かれは、宇宙上昇の航海乗り出す方を選ぶことはできるが、これは、人間の選択と神性の意志が偶々この点で一致するからである。そして、息子が望み、父が願望することは、確かに起こるであろう。

人間生活において、選択のある振る舞いの進路は、絶えず開閉しており、選択が可能である間、人間の人格は、これらの多くの行動方針のいずれかを絶えず決定している。俗世の意志は、時間に結び付けられており、また、それは、表現の機会を見つけるために時間の経過を待たなければならない。精霊的意志が、時間の枷からの解放を経験し始め、時間の連続からの部分的脱出を成しとげ、そしてそれは、精霊的意志が、神の意志で自己確認しているからである。

意志は、選択行為は、より高くより重要な選択に応じて実現された宇宙の枠内で機能しなければならない。人間の意志の全ての範囲は、1つを除いては厳密には有限にとって制限的である。人が神を見つけ、神に似ることを選ぶとき、そのような選択は、超有限である。ただ永遠だけは、この選択が、超準絶対であるかどうかを明らかにできる。

神格の全能を認識することは、宇宙公民の経験における安全性の確保を楽しむこと、つまり、楽園への長い道のりにおける安全の保障を持つことである。しかし、万物造出の虚偽を受け入れるということは、汎心論の途方もない間違いを迎え入れることである。

7. 全知と宿命

壮大な宇宙において、創造者の意志と創造物の意志の機能は、限界内において、主たる建築者達により確立された可能性に従って働く。これらの最大限度のこの約束事は、しかしながら、これらの境界内において、創造物の意志の主権を少しも弱めない。究極の予知もまた—すべての有限の選択のための十分なゆとり—有限意志の廃止を構成しない。成熟し明敏な人間は、最も正確に一部の若い仲間の決定を予測できるかもしれないが、この事前情報は、その決定そのものの自由と真正さから何も奪わない。神は、未熟な意志の活動範囲を賢明に制限したが、それにもかかわらず、これらの明確な限界内の未熟な意志こそが真の意志である。

すべての過去、現在、未来の選択の崇高の相関関係でさえ、そのような選択の確実性を無効にしない。それは、むしろ、宇宙の運命づけられた趨勢を示し、また全現実の経験実現化の貢献部分になるかもしれない、もしくは、ならないかもしれない意志をもつもの達の予知を示唆する。

有限の選択の際の誤りは、時間の拘束と制限である。それは、ただ時間の中に、そして崇高なるものの進化している臨場に限って存在することができる。そのような誤った選択は、時間的に可能であり、また、(崇高なものの不完全さの外に)現実との自由意志の接触による宇宙進行を楽しむために未熟な生物に授けられなければならないあ一定の範囲の選択を暗示している。

時間に条件づけられた空間における罪は、有限の意志の一時的解放を—認可さえも—明確に示している。罪は、宇宙公民の最高の義務と任務を認めることができない一方で、人格の比較的に自主の意志の解放に幻惑される未熟さを描写する。

有限の領域での不正行為は、神未確認の全ての自己性の一時的現実を明らかにする。創造物は、単に神に確認されるようになる程度まで、宇宙において本当に本物になるのである。有限の人格は、自己創造ではないが、超宇宙の選択領域においては、それは将来の運命を自ら決定する。

生命の授与は、物質-エネルギー・システムの永続、自己普及、そして自己適応を可能にする。人格の贈与は、生物に自己決定、自己進化、神格の融合精霊との自己同一化のさらなる特権を与える。

人格より下位の生き物は、最初に物理的制御者として、次には補佐の心-精霊としてエネルギー物質を動かす心を示す。人格贈与は、父から来ており、生物系への選択の独特の特権を与える。しかし、人格には現実識別の意志の選択を行使する特権があり、そして、これが本当の自由の選択であるならば、そこで、進化する人格は、自己を混乱させ、自己を妨害し、自滅的になる可能性のある選択もまた持たなければならない。進化している人格が、有限意志の行使において本当に自由であるならば、宇宙自滅の可能性を避けることはできない。

それゆえ、存在の下級段階に渡って人格選択の範囲を狭くすることで増大された安全性がある。選択は、宇宙を昇るにつれますます自由になる。選択は、上昇する人格が、地位の神格、宇宙の目的への奉納の崇高さ、宇宙の知恵の到達成就、そして神の意志と神への道との自己同一化の終局性を達成するとき、やがては神性の自由に近づく。

8. 支配と総括的管理

時空間の創造において、自由意志は、抑制で、つまり制限で束縛される。物質生命の進化は、最初は機械的であり、次には心により稼働され、そして(人格の贈与の後)、それは精霊に導かれるようになるかもしれない。棲息界の生物進化は、生命運搬者の最初の物理的生命着床の可能性によって物理的に制限される。

人間は機械、生ける機械装置である。その根底は、本当にエネルギーの物質界にある。多くの人間の反応は、本質的には機械的である。人生の大部分は、機械のようなものである。しかし、人(機械装置)は、実に機械以上のものである。人には心が授けられ精霊が住んでいる。そして、その物質的生活全体においてその生存の化学的、電気的仕組みから決して逃げることはできないが、内住する思考調整者の精霊的な衝動の実行に人間の心を奉げる過程を経ることにより、ますます物理的生命の機械を経験からくる行為指示型の知恵に従属させる方法を学ぶことができる。

精霊は、意志の機能を自由にし、身体的な機能は、それに制限をかける。不完全な選択は、不制御の身体的機能、いない同一化して精霊は、危険で不安定である。機械的支配は、進歩を犠牲にして安定性を保証する。精霊の同盟は、選択を物理的段階から解放すると同時に、増大された宇宙洞察とさらなる宇宙理解により生み出される神の安定性を保証する。

人生の機械装置の枷からの解放を達成する際の創造物を取り巻く大きな危険は、かれは、精霊との仕事上の円滑な関係をもたらすことにより安定性のこの損失を埋め合せる。創造物の選択は、 機械の安定性から比較的解放されるとき、より偉大な精霊同一化の如何にかかわらず一層の自己解放を試みるかもしれない。

生物進化の決定的原則は、原始人にとり、克己の何か大きい特質をもって棲息界に登場することを不可能にする。したがって、同様に進化を目標としたある同じ創造的な下絵は、時間と空間、飢餓と恐怖、そのような無教育な創造物の準精霊の選択範囲を制限するそれらの外部的抑制を提供する。また、人の心が、ますます難しい障害を首尾よく乗り越えるにつれ、この同じ創造的な下絵は、言い換えれば、痛々しく得た経験上の知恵の人種的な遺産の緩やかな蓄積にも備えてきた。減少する外部の抑制と増大する内部の抑制の間の調整維持のために。

進展、つまり人間の文化的進歩の緩慢さは、進歩の危険な速度を遅らせるために非常に効果的に機能するその歯止め—物質的惰力—の効果を立証する。したがって、時間自体は、さもなければ致命的結果を人間の行動に対する次に取り囲む障害からの時期尚早の逃避から保護し、分配するのである。文化が過度に早く進む時のために、物質的達成が、崇拝知恵の進化を上まわるとき、そのときこそ、文明は、それ自体に後退の種子を含んでいるのである。そして、経験上の知恵の迅速な拡大によって支えられない限り、そのような人間社会は、高度ではあるが時期尚早の段階の到達からは退くであろうし、知恵の空白期間の「暗黒時代」は、自己解放と自制の間の不均衡の容赦ない回復を証明するであろう。

カリガスティアの重大な不正は、進歩的な人間の解放の時間の調速機の迂回—障害阻止不要の破壊、バリアを制止する必要のない破壊、それらの時代の人間の心が、経験上優位に立つことがなかった障害—であった。

時間と空間の部分的な短縮をもたらすことのできるその心が、他ならぬこの行為により克服された抑制の障害の代わりに効果的に役立つことのできる知恵の種子を保有するそれ自体を立証する。

ルーキフェレーンスは、同様に地域体制における時期尚早のある種の特権到達への抑制において機能する時間の調速機を同様に混乱させようとした。光と生命に定着した1地域の体制というものは、まさしくその領域の定着時代以前に崩壊的、破壊的である多くの方法の活動を可能にするそれらの観点と洞察を経験上実現した。

人が恐怖の枷を払いのけるにつれ、機械で陸と海に架橋をし、記録で世代と世紀に橋を架けるにつれ、かれは、人間の広がり行く知恵の道徳上の命令に従って新しく、しかも自発的に想定された抑制をそれぞれの超えた抑制に代入しなければならない。これらの自主規制は、人間文明のすべての要因で最も強力で、最も希薄なもの—正義の概念と兄弟愛の理想の概念—の双方である。思い切って仲間を愛するとき、人は、慈悲の抑制する衣に相応しい自らに資格を与えさえしてそして、自身に与えられるその扱いを仲間に与えることを選ぶとき、神がかれらに与えるであろうと想像するその扱いの程度にまで精霊的な兄弟愛の始まりを達成する。

自動的な宇宙の反応は、何らかの形において、安定しており、宇宙で継続している。神を知りその意志をすることを望む、つまり精霊の洞察力を持つ人格は、神のように安定しており永遠に存在する。宇宙での人の大冒険は、機械的静止の安定性から精霊的原動力の神格への人間の心の通過にあり、「あなたの意志がなされることが私の意志である」と宣言するそれぞれの人生の立場における自身の人格決定の力と恒久性によるこの変化を成し遂げる。

9. 宇宙の仕組み

時間と空間は、主たる宇宙の結合された仕組みである。時間と空間は、それによって有限の創造物が無限者と宇宙での共存が可能にされる工夫である。有限の創造物は、時間と空間により絶対段階から効果的に分離される。しかし、それなくしてはいかなる人間も存在できないこれらの分離媒体は、有限の行為の範囲を制限するために直接機能する。かれらななしで創造物は行動できなかったが、さりとて、かれらにより、あらゆる創造物の行為は、確実に制限されるのである。

より高度の心によりもたらされる仕組みは、創造的な源を解放するが、すべての下位の有識者の行為をある程不変に制限する。宇宙の創造物にとってこの制限は、宇宙の機構として明らかになる。人には束縛のない自由な意志はない。選択の範囲には限界があるが、この選択の半径内では、その意志は、相対的に非常に優れている。

人間の人格の生命構造、つまり人体は、超人間の創造的な下絵の産物である。したがって、人自身は決してそれを完全に制御することはできない。上昇する人間が、融合された調整者との連携において、人格表現のための仕組みを自己創造するときに限り、完成された仕組みの支配を達成するのである。

壮大な宇宙は、機械的であると同時に有機的である、つまり機械的であり、生きている。崇高な心により稼働され、崇高な精霊と調整し、崇高なるものとしての力と人格の統一の最上段階における発見表現の生ける仕組みである。しかし、有限創造の仕組みを否定することは、事実を否定し、現実を無視することである。

仕組みは、心の産物であり、宇宙の可能性に働きかけ、またその中で作用している創造的な心である。仕組みは、創造者の考えの固定的結晶化であり、結晶化に与える意志の概念に誠実に常に機能する。しかし、いかなる仕組みの目的もその機能にではなく、その原点にある。

これらの仕組みは、神格の活動を制限すると考えられるべきではない。むしろ他ならぬこれらの仕組みにおいて、神格が、永遠の表現の1局面を達成したというのは本当である。宇宙の基本的仕組みは、第一根源と中枢の絶対の意志に応じて生まれたのであり、したがって、かれらは、無限者の計画との完全な調和で永遠に機能するであろう。実に、仕組みは、他ならぬその計画の無意志の型なのである。

我々は、楽園の仕組みが、どのように永遠なる息子の人格に関連している何かを理解している。これは、結合活動者の機能である。そして、我々には、無条件の理論的な仕組みと神格絶対者の可能性に関して宇宙なる絶対者の働きに関する見解がある。しかし、我々は、進化している崇高なものの神格と究極なるものの神格に関して、ある無人格の局面が、実はそれぞれの意志の対応者と結合されていると観測するし、そしてこのように、型と人との新しい関係が進化している。

過去の永遠において父と息子は、無限の精霊の表現の統一に結合を見出した。もし、未来の永遠において、時間と空間の地方宇宙の創造者の息子と創造の精霊が、外部空間の領域で創造的統一に達するならば、それらの統一は、それぞれの神性本質の結合的表現として何を創造するのであろうか。それは、我々が、究極なる神格、つまり新型の超宇宙行政者のこれまで非啓示の顕現を目撃するということであろう。そのような存在は、人格の創造者、無人格の創造の精霊、必滅の創造物の経験、神性聖職者の進歩的人格化の統一であるので人格の独自の特権を迎え入れるであろう。そのような存在は、人格と無人格の現実を迎え入れるという点で究極であり得るかもしれないが、同時にそれらは、創造者と創造物の経験を結合するであろう。外部空間創造のこれらの仮定される機能をする三位一体のそのような第三者の属性が何であろうとも、かれらは、無限の精霊が、宇宙なる父と永遠なる息子にする関係を彼らの創造者たる父と創造の母に対する同じ関係についての何かを維持するであろう。

崇高な神は、すべての宇宙経験の人格化、すべての有限進化の集中化、すべての創造物現実の最大化、宇宙に関する知恵の成就、時間の星雲の調和的美の具体化、宇宙の心の意味の真実、精霊の最高の価値の善である。そして、崇高な神は、ちょうど、今、楽園の三位一体の絶対段階において実存的に統合されているように、永遠の未来において、これらのさまざまな有限の多様性を経験上意味深長な1つの全体に組成するであろう。

10. 摂理と機能

神意は、神が我々のために万物についてあらかじめ決めたということを意味しない。それは、宇宙専制も同然であり、神はそれができないほどに我々を愛している。人には、相対的選択力がある。神の愛は、人の子を過保護にし、甘やかすような近視眼的愛情でもない。

父、息子、精霊は、—三位一体としての—全能の崇高なものではないが、全能の崇高性は、それらをなくしては明らかにし得るはずがない。全能の成長は、現実の絶対者に集中され、可能性の絶対者に基づく。しかし、全能の崇高なものの機能は、楽園の三位一体の機能に関連している。

崇高なるものに、宇宙活動の全局面が、この経験的神格の人格により部分的に再結合されているようである。したがって、我々は、三位一体を一柱の神と見ることを望むし、また現在知られている、しかも組織化された壮大な宇宙にこの概念を制限するならば、我々は、進化している崇高なるものが楽園の三位一体の部分的肖像画であるとということを発見する。その上、我々は、この崇高な神格が、壮大な宇宙の有限物質、心、精霊の人格統合として進化しているということにさらに気づく。

神には属性があり、三位一体には機能があり、そして、三位一体のように神意には、宇宙の中の宇宙の人格以外の調整の合成物である機能が、すなわち、全能者の力でにおいて七重者の統合する進化段階から神格の崇高性の先験的領域まで広がる機能がある。

神は、子供としてそれぞれの創造物を愛しており、その愛は、すべての時間と永遠にわたりそれぞれの創造物を覆う。神意は、全体に関わって機能し、そのような機能が全体に関連があり、どんな創造物の機能にも対応する。いかなる存在に関する神意の介入も、何らかの全体の進化の成長についてはその存在体の機能の重要性を暗示している。そのような全体は、全人種、全国家、全惑星、またはより高度の全体でさえあるかもしれない。それは、人としての創造物の重要性ではなく、神意の介入を引き起こす創造物の機能の重要性である。

それにもかかわらず、人としての父は、全く神の意志に基づき、神の叡知と協和し、神の愛に動機づけられるように宇宙の出来事の流れの中にいつでも父親らしい手を差し挟む。

しかしながら、人が神意と呼ぶものは、あまりにしばしば人自身の想像、機会の状況の偶然の並列、の産物である。しかし、宇宙存在の有限の領域には、真の、現れつつある神意、空間のエネルギーの本当の、実現しつつある相関関係、時間の動き、知性の思考、性格に関する理想、精霊の本質の願望、進化する人格の目的ある意志行為がある。物質の領域の状況は、崇高なものと究極なるものの連動する臨場において最終的な有限統合を得る。

壮大な宇宙の仕組みが、心の調整を通して最終的な精度の点にまでに仕上げられにつれ、また創造物の心が、完成された統合を通して精霊と共に神格到達の完全性に昇るにつれ、そして、崇高なものが、すべてのこれらの宇宙現象の実際の統一者として現れるにつれ、神意もますます認識できるようになるのである。

時おり進化の世界で広まっている驚くほどに偶然の状況のいくつかは、崇高なものの徐々に現れる臨場のため、すなわち、今後の宇宙活動の前触れのためかもしれない。人間が神意であると呼ぶもののほとんどが、そうではない。そのような問題についての人間の判断は、生活情況の真の意味対して先見の明のある洞察力の欠如により、非常に障害となる。人間が幸運と呼ぶものは、本当は不運であるかもしれない。不相応な余暇と値しない富を与える幸運の女神の微笑は、人間の最大の苦悩であるかもしれない。一部の苦しんでいる人間に苦難を積み上げる片意地な運命の明らかな残酷さは、実は未熟な人格の軟鉄を真の個性の鍛えられた鋼に変形する焼き戻しの炎であるかもしれない。

進化する宇宙には神意があり、それは、進化する宇宙の目的に気づく能力に達したというまさにその程度にまで創造物により発見される得る。宇宙の目的を明察する完全な能力は、創造物の進化の成就に等しく、さもなければ、不完全な宇宙の現状の範囲内で崇高なものの到達として別の方法で表現されるかもしれない。

父の愛は、他のすべての個人の行為あるいは反応に関係なく個人の胸の中で直接働く。関係は、個人的である—人と神。神格の無人格 (全能の崇高なものと楽園の三位一体)は、部分にではなく、全体に配慮する臨場。崇高性の調整の神意は、宇宙の連続部分が、有限の将来の目標到達において進歩するにつれ、ますます明らかになる。崇高なものは、体系、星座、宇宙、超宇宙が、光と生命に定着するにつれ、発散するすべての重要な相関者として次第に現れ、一方、究極なるものは、万物の先験的統一者として徐々に現れる。

進化の世界の始めまりにおいて、物質系列の自然の出来事と人間の個人的願望は、しばしば対立しているように見える。進化する世界で起こる多くは、必滅の人間にとりかなり理解し難い—自然の法則は、人間の理解において真実で、美しく、善であるすべてにしばしば明らかに残酷であり、無情であり、無関心である。しかし、人類が惑星の進行において進歩するとき、我々は、この視点が、次の要因によって変更されることを目にする。

1. 人の拡大する洞察力—かれが生きる世界についての増大する理解。時間の物質的事実、思考に関する重要な考え、精霊的な洞察の価値ある理想を理解するための拡大する能力。物質的性質の物差しだけで測定する限り、人は、時間と空間に統一を見つけることは決して望めない。

2. 人の拡大する支配—物質界の法則に関する知識、精霊存在の目的、そしてこれらの2つの現実の哲学的調整の可能性に関する段階的な蓄積。人は、未開人は、自然の力の猛攻撃の前に無力であり、自身の内面の恐怖の残酷な支配の前に卑屈であった。半文明人は、自然の領域の秘密の倉庫を開錠し始めており、その科学は、ゆっくりではあるが有効に自身の迷信を破壊しており、同時に、哲学の意味と真の精霊的経験の価値の理解のために新たで、拡大した事実を根底におく基礎を提供する。人は、文化的であるものは、そのうちに、その惑星の物理的力の相対的支配を達成するであろう。その胸の内の神への愛は、同胞への愛として効果的に流出されるであろうし、同時に、人間生活の価値は、人間の可能性の限界に近づいているであろう。

3.人の宇宙統合—人間の洞察力の増進、くわえて人間の経験の業績の増加は、人に崇高性の統一的臨場—楽園の三位一体と崇高なるもの—とのより厳密なさらなる調和をもたらす。。そして、これは、長い間光と生命に定着した世界での崇高なものの主権を確立することである。そのような高度に進んだ惑星は、実に調和の詩、つまり宇宙の真実の追求を通して獲得した善からくる美の絵である。そして、もしそのようなことが惑星に起こり得るならば、それらも、有限の成長にむけての可能性の枯渇を示す定着にいたるときに、より大きなことが、壮大な宇宙の体系とより大規模な部隊に起こり得る。

この進化した系列の惑星において神意は、現実になり、生活情況は相互に関連してはいるものの、これは、単に人がその世界の物質的問題を支配するようになったからではない。それは、人が宇宙の趨勢に従って生き始めたからでもある。人は、宇宙なる父の到達への崇高性の経路に続く。

神の王国は人の胸中にあり、この王国が、世界のあらゆる個人の胸中で現実となるとき、そのとき神の法則は、その惑星で現実となったのである。そして、これは崇高なるものの獲得した主権である。

時間の領域において神意に気づくには、人は、完全性実現の課題を達成しなければならない。しかし人は、万物が善、あるいは悪であることにかかわらず、すべてのものの父を求める自らの探索において神を知る人間の前進のために共に働いているという宇宙事実を熟考するにつれ、今でも、その永遠の意味におけるこの神意を前もって味わうことができる。

神意は、人が物質段階から精霊段階へと上に達するにつれ、ますます認識できるようになる。完成された精霊的洞察の達成は、上昇する人格にそれ以前は混沌であったものに調和を探知することを可能にする。モロンチアのモタさえこの方向の真の進歩に至る。

神意は、幾分かは、不完全な宇宙に表される不完全な崇高なものの婉曲的支配であり、それは、したがって次の通りであるに違いない。

1. 部分的である—崇高なるものの実現化の不完全性故に、そして、

2. 予測不可能である—創造物の態度における変動の結果、それは、段階により常に異なり、その結果、崇高なものにおける明らかに可変な相互的対応を引き起こすが故に。

人が、生活情況への神の介入を祈願するとき、しばしば、祈りのへ答えは、生活に対する自身の変えられた態度である。しかし、神意は気紛れではなく、空想的でも、魔力でもない。それは、有限宇宙の強力な主権者の緩慢で確かな出現であり、進化する創造物はその宇宙進行においてその主権者の厳然たる臨場を時おり探知する。摂理は、永遠の目標、すなわちまず崇高なもの、そして究極なるものと、ことによると絶対者の中の目標に向けての空間の銀河と時間の人格の確実で確かな行進である。そして、無限の中に、我々は、同じ摂理があると信じるし、そして、これが、宇宙に宇宙の中の宇宙の全景にこのように動機づけしている楽園の三位一体の意志であり、行動であり、目的である。

[ユランチアに一時的に滞在する強力な使者による後援]

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