論文 10 楽園の三位一体

   
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論文 10

楽園の三位一体

永遠の神格に属する楽園の三位一体は、父が人格絶対性から回避することを容易にする。三位一体は、神の無限の人格意志の限りない表現を神格の絶対性と完全に関連づける。永遠なる息子と神性起源の様々な息子は、連合活動者とその宇宙の子らと共に、さもなければ第一性、完全性、不変性、永遠性、普遍性、絶対性、および無限性にもともと備わっている制限から父の解放に効果的に備える。

楽園の三位一体は、有効に神格の永遠的本質の十分な表現と完全な顕示に備える。三位一体の定置の息子は、同様に神の正義の十分かつ完全な顕示を提供する。三位一体は神格の統一であり、この統一は永遠に父なる神、息子なる神、精霊なる神の最初の、そして、等位の3共存人格がなす神性単一性の絶対的基盤によるものである。

我々は、永遠の回路の現状況から後方へと無限の過去を振るかえると、宇宙情勢にある不可避な必然性しか発見することができなくて、それは楽園の三位一体なのである。私は、三位一体は必然であったと考える。私が、過去、現在、および未来を見るとき、宇宙の中の宇宙すべての中に他には何も必然と考えられものはない。現在の主たる宇宙は、回顧あるいは見込みの点から、三位一体なしには考えられない。楽園の三位一体が与えられると、我々は、万事をなす代替方法を、または複数の方法さえ仮定することができるが、父と息子と精霊の三位一体がなければ、いかに無限者が神格の絶対単一性に直面して三重かつ等位の人格化を達成できたかを発想することはできない。他の何の概念も、神格の三重の人格化に固有の意志解放の充実性と相まった神格統一性に固有である絶対性の完全性の三位一体基準には達しないのである。

1. 第一根源と中枢の自己分配

父は、永遠に遡り、意味深い自己分配の方針を開始させたようである。委託したり、または授与したりが不可能であると明らかに分かるそれらの力とその権威だけの執行を自身に留保させる何かが宇宙なる父の無私無欲で、情愛深く、愛すべき性質に備わっている。

宇宙なる父は、いかなる他の創造者、または被創造物に贈与可能である自分のあらゆる部分をずっと投げ出してきた。委任できるあらゆる力とすべての権威を永遠なる息子と息子らの関連有識者に委託してきた。宇宙なる父は、移転可能である行政上の自治の全特権を、各宇宙に、実際に君主たる息子に移した。地方宇宙業務においては、宇宙なる父は最初の、そして、中央宇宙における永遠なる息子のように各君主の創造者たる息子を同等に完全で、有能で、権威あるものにした。宇宙なる父は、あらゆる方法で、あらゆる時代に、あらゆる場所において、そしてすべての人へ、また中央にある自分の住まう宇宙を除くあらゆる宇宙において自身のすべてと自身の属性のすべてを、つまり自分自身を投げ出すことができるすべてを品格と尊厳を持って与えてきた、すなわち実際に贈与してきた。

神性の人格は自己中心的ではない。人格の自己分配と共有は神性の自由意志の自己性を特徴づける。創造物は他の人格創造物とのつながりを切望する。創造者は、宇宙の子らと神性を共有する気にさせられる。無限の人格は、宇宙なる父として明らかにされる。宇宙なる父は、存在体の現実と自己均等を等位の2人格と、すなわち永遠なる息子と連合活動者と共有する。

我々は、父の人格と神性属性に関する知識のためにいつも永遠なる息子の顕示に依存するであろう。なぜなら、父は、創造の連合行為が成立するとき、神格の第三人格が人格存在として現われるとき、そして、神性の両親の結合された概念を実行されるとき、無条件の人格としては存在しなくなった。連合活動者の出現と創造の中央部の具体化とともに、ある永遠の変化が起きた。神は絶対人格としての自分自身を永遠なる息子に与えた。かくして、両者は無限の精霊に永遠の結合の「連合人格」を与え、父は「無限の人格」を一人子の息子に授与するのである。

有限の心の概念を超えたこれらの理由、また他の理由から、神の無限の父-人格を理解することは、遍く永遠なる息子の中に明らかにされ、また、無限の精霊の中に、息子とともに、遍く活発であるということを除いては、人間の創造物にとりきわめて難しい。

神の楽園の息子は進化世界を訪れ、時として人間の姿で住みさえするので、また、これらの贈与は、人間が実際に神性人格の性質と特徴について何かを知ることを可能にするので、そのために惑星界の創造物は、父と息子と精霊に関する確実で信頼できる情報のためにこれらの楽園の息子の贈与に頼らなければならない。

2. 神格の人格化

父は、三位一体化の手段により息子である無条件の精霊人格の自分自身を投げ出すが、そうする際に、まさしくこの息子の父を自分で構成し、その後に創造された、結果的に生じた、または他の人格化された知力ある意志の創造物のすべての型の神性の父になる無制限な能力の所有者となる。絶対の、かつ、無条件の人格としての父は、息子としてのみ、また息子とだけ共に機能することができるが、人格の父としては、異なる段階の意志を持つ知力ある人格の創造物のさまざまの部隊に授与し続け、いつまでも、宇宙の子らのこの広大な家族との人格的な情愛深い関係を維持する。

父が自身を息子の人格に完全に贈与した後、そしてこの自己贈与の活動が完成し完全であるときに、永遠の協同者は、父-息子の結合においてこのように実在する無限の力と性質からさらにまた自分たちのような他の存在体を構成するそれらの質と属性を共同して与える。そして、この結合人格は、すなわち無限の精霊は、神格の実存的人格化を終了する。

息子は神の父性に不可欠である。精霊は第二人格と第三人格の仲間にとって不可欠である。3者の人格は社会的最小集団であるが、これは連合活動者の必然性を信じる多くの理由の中では最小である。

第一根源と中枢は、無限の父‑人格、つまり無制限の根源人格である。永遠なる息子は、無条件の人格絶対者であり、つまり神性の存在体であり、それは、いつでも、また永遠にわたり神の人格の性質の完全な顕示としてある。無限の精霊は、結合人格、すなわち絶え間なくと続く父-息子連合からくる人格の特異な結果である。

第一根源と中枢の人格は、永遠なる息子の絶対人格を差し引いた無限の人格である。第三根源と中枢の人格は、解放された父-人格と絶対の息子-人格の結合の超付加的結果である。

宇宙なる父、永遠なる息子、そして無限の精霊は特異な人格である。誰も複製ではない。それぞれが原型である。すべては結合している。

永遠なる息子のみが人格の神性関係の豊かさを、すなわち、父との息子関係と精霊への父性に関する、また父-先祖と精霊-仲間の双方との神性平等に関する両方の意識を経験する。父は、同等である息子を持つ経験を知っているが、何の先祖の前例も知らない。永遠なる息子には、子息の経験、つまり人格祖先の認識があり、同時に、息子は無限の精霊の共同の親であることを意識している。無限の精霊は、二重の人格起源をもつが、等位の神人格の親ではない。精霊とともに、神格の人格化の実存的周期は完成する。第三根源と中枢の第一人格は、経験的であり、数えて7名である。

私は楽園の三位一体の起源である。私は統一された神としての三位一体を知っている。私は、父、息子、および精霊がそれぞれの明確な人格能力で存在し行動するということもまた知っている。私は、彼らが個人的に、加えて集合的に行動するばかりではないということを、また、様々な組分けにおける自分達の性能を調整をもするので最終的には単数と複数の異なる7個の能力において機能するということを明確に知っている。そして、これらの7つのつながりが、そのような神性結合連携のための可能性を使い果たすので、宇宙の現実は、価値、意味、人格の7個の変化で現れるということは、必然である。

3. 神性の3人格

唯一の神格が存在するにもかかわらず、神格の神性の確かで神聖な3人格化がある。神性調整者の人への賦与に関し、父は言った。「我々自身のかたちに似るように人を造ろう。」3根源と中枢の存在と働きを明確に示したユランチア出身者の著作物において繰り返し複数神格の行為と活動にかんしてのこの言及がある。

我々は、息子と精霊が父との三位一体関係において同じ、しかも平等の間柄を持続すると教えられている。息子と精霊は、永遠に、そして神格として、確かにそうするのであるが、時間において、そして人格として確かに、まことにさまざまの種類の関係を明らかにする。楽園から宇宙を眺めると、これらの関係は非常に類似しているように見えるが、空間の領域から見ると、それらは、全く異なるように見える。

神性の息子は、誠に「神の言葉」であるが、精霊の子らは実に「神の行為」である。神は、息子を通して話し、無限の精霊を通して、また息子と共に行動し、一方、全宇宙活動においては、賞賛され、神々しく敬われる共通の父への賛美と愛をもって同等の2名の兄弟として働く、息子と精霊は、すばらしく兄弟のようである。

父、息子、精霊は、本質的には間違いなく等しく存在面においては等位であるが、それぞれの宇宙業績には紛れもない違いがあり、単独行動に際しては、神格の各人格は絶対性の面において明らかに制約がある。

宇宙なる父は、息子と精霊を構成する人格、力、属性の自己意志による放棄に先立ち、哲学的に考えると、無条件の、絶対の、そして、無限の神格であったように思える。だが、息子をもたないそのような理論上の第一根源と中枢は、いかなる意味においても宇宙なる父とは考えることができるはずがない。父性は息子なくしては実存しない。その上、父は、総体的意味合いにおいて変わることなく離れた瞬間で単独に存在したに違いない。しかし、父には、そのような孤独な存在は決してなかった。息子と精霊は双方ともに、父と永遠に共存している。第一根源と中枢は、常に、最初の息子の永遠の父であったし、いつまでもそうであり、また息子とともに、無限の精霊の永遠の始祖である。

我々は、父が絶対父性と絶対意志を除く絶対性のすべての直接顕現を投げ出してきたことをよく見た。我々は、意志というものが父の不可分の属性であるかどうかを知らない。我々は、父が意志を捨てないということを観測できるだけである。意志のそのような無限性は、永遠に第一根源と中枢に備わっていたに違いない。

永遠なる息子への人格の絶対性を贈与する際に、宇宙なる父は、人格絶対の足枷から逃れるが、そうすることにより、人格絶対として単独に行動することをいつまでも不可能にする一歩を進める。共存神格—結合活動者—の最終的人格化とともに、神格の絶対的機能全体に関わる神性3人格の三位一体の重大な相互依存が続いて起こる。

神は、宇宙の中の宇宙におけるすべての人格の父-絶対である。父は、行動の自由において個人的に絶対であるが、作られた、作成中の、まだ作られていない時間と空間の宇宙においては、楽園の三位一体における場合を除き、父は、総合神としての絶対性は認識可能ではない。

第一根源と中枢は、驚異的宇宙におけるハヴォーナの外で次のように機能する。

1. 創造者として、孫息子である創造者の息子を通して。

2. 制御者として、楽園の引力中心を通して。

3. 精霊として、永遠なる息子を通して。

4. 心として、連合創造者を通して。

5. 父として、自身の人格回路を通して全創造物との親たる接触を維持する。

6. 人格として、他にない自身の断片による創造を通して直接に行動する—思考調整者による人間内において。

7. 総合神として、楽園の三位一体内だけで機能する。

宇宙なる父による司法に関わるこれらすべての棄権や委任は、完全に自発的であり、自らが担うものである。全能の父は、宇宙における権威のこれらの制限を意図的に担っている。

永遠なる息子は、神断片の贈与と他の前人格活動以外にはすべての精霊の観点において父と1者として機能しているようである。息子は、物質創造物の知的活動とも、物質宇宙のエネルギー活動とも密接には同一視されない。絶対状態にあるとき、息子は人格として精霊宇宙の領域においてのみ機能する。

無限の精霊は、自身の全操作において驚くばかりに普遍的で信じ難いほどに万能である。無限の精霊は、心の、事象の、精霊の領域で機能する。連合活動者は、父-息子のつながりを代表するが、自分自身としても機能する。連合活動者は、物理的重力、精霊的重力、または人格回路に直接的には関係しないが、多かれ少なかれ他のすべての宇宙活動に参加する。無限の精霊は、実存的かつ絶対的重力の3制御に明らかに依存しているが、3超制御を行使しているようである。この三重の賦与は、第一の根源力とエネルギーの顕現さえ、絶対性の超究極のまさにその境界線にまで外観上は中和する多くの方法において用いられる。これらの超制御は、ある状況においては、絶対的に宇宙現実の第一顕現さえも超える。

4. 神格の三位一体結合

すべての絶対的つながりの中で、楽園の三位一体(最初の3結合体)は、人格的神格の他にはないつながりとして特異である。神は、単に神と、また、神を知ることができる者達に関連してのみ神として機能するが、楽園の三位一体においてのみ、また宇宙全体との関連においてのみ絶対神として機能する。

永遠の神格は完全に統一される。にもかかわらず、神格の3者の完全に人格化された人格がいる。楽園の三位一体は、第一根源と中枢、その永遠の等位者たち、未分離の神格の宇宙機能における全神性統一の性格特性と無限の力にある多様性すべての同時表現を可能にする。

三位一体は、人格に反して機能するのではなく、非人格能力において機能する無限の人格のつながりである。例証は粗雑であるが、父、息子、孫息子が、非人格であったとしても、それでもなお、それぞれの人格的意志に従属する共同の実体を形成可能である。

楽園の三位一体は事実である。それは父、息子、精霊の神格結合として存在する。さらに、父、息子、もしくは精霊、もしくは、そのうちの任意の2者は、この同一の楽園の三位一体と関連して機能することができる。父、息子、精霊は3神格としてではなく、非三位一体手法において協調して取り組むことができる。それらは人格として、選択により、協調して取り組むことができるが、それは三位一体ではない。

無限の精霊がすることは連合活動者の機能であるということをいつも覚えていなさい。父と息子の両者は、連合活動者の中、連合活動者を通して、また連合活動者として機能している。しかし、三位一体の神秘の解明を試みても無駄であろう。1者としての、また1者の中の3者、そして、2者としての、また2者のために行動する1者。

三位一体は、宇宙の諸事に密接につながっているので、孤立したどんな宇宙の出来事、あるいは人格関係の全体性でも説明しようとする我々の試みにおいて考慮されなくてはならない。三位一体は宇宙の全段階において機能しており、人間は有限段階に限られている。それゆえに人は、三位一体としての三位一体の有限概念に満足しているに違いない。

肉体の人間としてあなたは、あなた個人の啓発に従い、また心と魂の反応と調和して、三位一体を見るべきである。あなたは絶対性についてほとんど知ることはできないが、あなたが楽園方向へと昇るとき、三位一体の崇高性と究極性の連続する顕示と予期せぬ発見に対する驚きを何度も経験するであろう。

5. 三位一体の機能

人格神には属性があるが、三位一体について属性があると語ることは全く辻褄が合わない。神性存在体のこのつながりは、司法行政、全体傾向、調整的活動、および宇宙総括的管理といったような機能を持っているとより適切に見なされるかもしれない。これらの機能は、人格価値のすべての生きている現実に関する限り、積極的に崇高で、究極で、(神格の制限内で)絶対である。

楽園の三位一体の機能は、父の明らかな神性賦与に加えた息子と精霊の人格的存在に特異な専門化されたそれらの属性の単なる総和ではない。楽園神格3者の三位一体の連携は、普遍的な顕示、活動、管理のための新たな意味、価値、力、および能力の発展、究極化、神格化をもたらす。生きた連携、人間家族、社会集団、または楽園の三位一体は、単なる算術加算による増大するのではない。集団の可能性というものは、つねに構成個人の属性の単純な合計をはるかに超えるものである。

三位一体は、三位一体として過去、現在、未来の宇宙全体に向け特異な姿勢を維持する。また、三位一体の機能は、三位一体の宇宙に対する姿勢に最もよく関連しているとおもわれる。そのような姿勢は、同時であり、いかなる孤立状況、または出来事に関しても多様であるかもしれない。

1. 有限者への姿勢。三位一体の最大の自己制限は有限者へのその姿勢である。三位一体は人格ではなく、崇高なるものも三位一体の唯一の人格化ではないが、崇高者は、有限創造物が理解することのできる三位一体の力-人格の焦点化への直近進入路である。したがって、有限者に関係する三位一体は、時折、崇高性の三位一体として語られる。

2. 准絶対に対する姿勢。楽園の三位一体は、有限以上ではあるが絶対以下であるそれらの存在段階に注目しており、この関係性は時として究極者の三位一体と呼ばれる。究極者と崇高者のいずれも完全に楽園の三位一体を代表はしていないが、限定的意味において、またそれぞれの段階に向け、々が経験上の-力の開発の前人格時代において三位一体を代表しているようである。

3. 楽園の三位一体の絶対資性は、絶対生存と関連しており、最後は総合神格の働きに至る。

三位一体の無限者は、第一根源と中枢の3結合体の関係全体の調整活動を伴っており—神格化と同様に非神格化も—したがって、人格にとり把握することは非常に難しい。無限としての三位一体についての考慮において、7形態の3結合体を無視してはいけない。その結果、理解のための一定の困難は避けられるかもしれないし、特定の矛盾は部分的に解明されるかもしれない。

だが、私は、楽園の三位一体に関わる全体の真実と永遠の意義、それに無限の完全性の3存在の終わることのない相互関係の性質を人間の有限の心に意のままに伝えられる言葉をもたない。

6. 三位一体の定置の息子

すべての法律は第一根源と中枢に起源をとる。第一根源と中枢は法である。精霊的な法は第二根源と中枢に帰属している。法の顕示、すなわち神性法令の発布と解釈は、第三根源と中枢の機能である。法の適用、すなわち正義は、楽園の三位一体の範囲内にあり、三位一体の特定の息子らにより行使される。

正義は、楽園の三位一体の普遍的主権に固有であるが、善、慈悲、真実は、三位一体を構成する神格のその結合である神性人格の宇宙聖職活動である。正義は、父、息子、または精霊の姿勢ではない。正義は愛、慈悲、聖職活動のこれらの人格からの三位一体の姿勢である。楽園の神格のだれも司法を育成はしない。正義は決して個人的姿勢ではない。それは、いつも複数機能である。

証拠は、公正さの基盤(慈悲との調和における正義)は、第三根源と中枢の人格により、すべての領域への、全創造に属する知的存在体の心への父と息子の共同代理により提供される。

審判は、つまり無限の精霊の人格により提出される証拠に従った正義の最終適用は、三位一体の定置の息子の、つまり父、息子、精霊の三位一体の性質を共にする存在体の仕事である。

三位一体の息子のこの集団は、次の人格を擁する。

1. 崇高性の三位一体化の秘密。

2. 日の永遠なるもの。

3. 日の老いたるもの。

4. 日の完全なるもの。

5. 日の若きもの

6. 日の結合なるもの。

7. 日の誠実なるもの。

8. 英知の遂行者。

9. 神性顧問。

10. 普遍的検閲官。

我々は、私がたまたま普遍的検閲官であるこの集団の第10系列に属しており、三位一体として機能する3名の楽園神格の子供である。これらの系列は、普遍的意味における三位一体の姿勢を代表してはいない。それらは行政判断—正義—の領域においてのみ神格のこの集合的姿勢を表す。特に、それらは割り当てられた明確な仕事のために三位一体により考案され、人格化されたそれらの機能においてのみ三位一体を代理する。

日の老いたるものとその三位一体起源の提携者たちは、崇高に公正である正当な判断を7超宇宙に提供する。中央宇宙においては、そのような機能は理論上のみで存在する。そこでは、公正さは完全に自明であり、ハヴォーナの完全性は不調和への全可能性を排除する。

正義は、公正さについての集団思考である。慈悲は、その個人的表現である。慈悲は、愛の姿勢である。精度は、法の運用を特徴づける。神性の判断は、いつも三位一体の正義に合致し、いつも神の神性愛を満たす公正さの魂である。完全に感知され、完全に理解されるとき、三位一体の公正な正義と宇宙なる父の慈悲深い愛は一致する。しかし、人は、そのような神性正義を完全に理解していない。したがって、人が見るように、父の人格、息子の人格、精霊の人格は、三位一体においては時間の経験的宇宙における愛と法の調和的聖職活動において調整されるのである。

7. 崇高性の総括的管理

神格の第一人格、第二人格、第三人格は、互いに等しく、かつ1体である。「我々の主たる神は唯一の神である。」永遠の神格の神性三位一体にには、目的の完全性と実行の同一性がある。父、息子、連合創造者は、偽りなく、神々しく一体である。真実について書かれている。「私が最初であり、最後であり、私以外に神は存在しない。」

すべての事柄が有限段階において人間に現れるとき楽園の三位一体は、崇高なるもののように、全惑星、全宇宙、全超宇宙、壮大な全宇宙といった全体のみに関係している。この全体性への姿勢は、三位一体が神格の総体であることと他の多くの理由のために存在する。

崇高なるもののは、有限宇宙で機能する三位一体以下の何かであり、三位一体以外の何かである。しかし、ある限界内と不完全な力-人格化の現時代において、この進化の神格は、崇高性の三位一体の態度をまさに反映するようである。父、息子、精霊は、崇高なるものとは個人的には機能しないが、現在の宇宙時代においては、三位一体として協力する。我々は、彼らが究極者との同様の関係を維持するということを理解している。我々は、しばしば崇高なる神が最終的に進化したとき、楽園の神格と神崇高者との個人的関係について推測するのであるが、実のところは分からない。

我々は、崇高性の総括的管理が完全に予測できるとは考えない。さらに、この予測不可能性は、ある開発上の不備、疑いなく崇高者の不備と楽園の三位一体への有限反応の不備の耳印によって特徴づけられているようである。

人間の心は、すぐに、多くのものごと—壊滅的な物理的事象、凄まじい事故、恐ろしい災害、つらい病、世界的規模の惨劇—を考えることができ、またそのような災難は、崇高なるものによるあり得る機能の未知の操縦に関わるものどうかを質問することができる。率直に言って、我々は知らない。我々には実際のところ確信がない。しかし、我々は、時間の経過に従い、これらの困難で、多少神秘的な状況すべてが宇宙の福祉と進歩のためにいつもよい結果をうむということを観測する。存在の情況と説明し難い生活変化はすべて、崇高者の機能と三位一体の総括的管理により高い価値の重要な原型へと織り込まれているのかもしれない。

神の息子としてのあなたは、父なる神の全行為に個人の愛の態度について明察することができる。しかし、あなたは、空間の進化世界において楽園の三位一体の宇宙活動のうち幾つが個々の人間の利益を増すのかをいつも理解できるというわけではないであろう。永遠性の進展において、三位一体の行為は要するに同じく重要であり、行き届いていると明らかにされるであろうが、それらは時間の創造物においていつもそのように現れるというわけではない。

8. 有限を超えた三位一体

楽園の三位一体に関する多くの真実と事実は、有限を超える機能を認識することによりただ部分的に理解できるに過ぎない。

究極者の三位一体の機能についての議論は勧められないが、究極なる神が理想化するものにより理解される三位一体顕現であることが明らかにされるかもしれない。我々は、主たる宇宙の統一が究極者の究極化の行為であり、おそらくは、楽園の三位一体の准絶対総括的管理の、全てではないが、ある局面の反射であると信じがちである。究極者は、崇高者がこのようにして有限と関連して三位一体を部分的に表すという意味においてのみ准絶対と関連する三位一体の適切な顕現である。

宇宙なる父、永遠なる息子、無限の精霊は、ある意味では総合神の構成要素人格である。楽園の三位一体と三位一体の絶対機能の統一は、総合神格の機能に達する。そして、神格のそのような完成は、有限者と准絶対者の両者を超える。

楽園神格の一者たりとも、潜在的、共同的に、3者すべてが行なうすべての神格を実際に充填したりはしない。無限の3者は、総合神格の前人格と実存的可能性を動かすに必要とされる最小存在体の数であるように思える--神格絶対者。

我々は、人格としての宇宙なる父、永遠なる息子、それに無限の精霊を知っているが、個人的には神格絶対者を知らない。私は父なる神を愛し、崇拝している。私は神格絶対を敬い称える。

私は、ある存在体集団が、終局者がいつかは神格絶対の子供になると教えた宇宙にかつて逗留した。しかし、私は終局者の未来をおおい隠す謎へのこの回答を受け入れる気がしない。

終局者部隊は、神の意志に適う完全性に達した時間と空間のそれらの人間を、他の者達も、擁する。創造物として、創造物の能力の限界内で、それらの者たちは最大限に真に神を知っている。全創造物の父としての神をこのようにして見つけたこれらの終局者は、いつかは超有限の父を求める探索を始めなければならない。しかし、この探索は、准絶対の性質をもつ楽園の父の究極的属性と特徴の把握を伴う。永遠性はそのような到達が可能であるかどうかを明らかにするが、我々は、終局者が神性のこの究極を実際に把握するとしても、おそらく絶対神格の超究極段階に達することはできないであろうと確信する。

終局者たちが、神格絶対に部分的に達するということはあるかもしれないが、もし達したとしてもまだ永遠の中の永遠においては宇宙なる絶対者の問題は、上昇し、進歩する終局者の興味をそそり、それらを当惑させ、困惑させ、それらに挑戦し続けるであろう。というのも我々は、宇宙なる絶対者の宇宙的関係は、物質宇宙とその精霊的行政の継続的拡大につれ、成長する傾向があるということに気づいている。

ただ無限だけが、父-無限を明らかにすることができる。

[ユヴァーサに居住の日の老いたるものからの権威により行動する宇宙検閲官による提示]

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