論文 84 結婚と家族生活
論文 84
結婚と家族生活
物質的必要性が結婚生活を基盤づけ、性への渇望がそれを飾り、宗教がそれを認可し高め、国家がそれを要求し規制し、一方後の時代においては、進化する愛は、最も役に立ち荘厳な文明の機関、つまり家庭の先祖として創造者としての結婚を正当化し、賛美し始めている。また家庭を築くということは、すべての教育的努力の中心であり核心であるべきである。
対をなすことは、純粋に、異なる自己満足の度合と結びつく自己永続化の行為である。結婚、つまり家庭建設は、主に自己維持の問題であり、それは社会の発展を含意する。社会自体は、家族単位の集合構造である。個人は、惑星要素としては極めて一時的である。家族だけが、社会的発展において継続的媒体である。家族とは、文化と知識の川が1世代から次世代へと流れる水路である。
家庭は、基本的に社会的機関である。結婚は、自己満足の要素は主に付帯的であり、自己維持における協力と自己永続化における連携関係から生じる。にもかかわらず、家庭は、人間存在に不可欠の3機能すべてを迎え入れるが、生命の増殖は、それを人間の基本的機関にし、性は、他のすべての社会活動からそれを隔離する。
1. 原始の対のつながり
結婚は、性関係に基づいてはいなかった。それに付随して起こった。結婚は、妻、子供、そして家庭の責任に妨げられることなく性欲をほしいままにした原始男性には必要とされなかった。
女性は、子供への肉体的、感情的な愛着のために男性との協力に依存しており、これが、結婚の避難保護へと彼女を促している。しかし、直接の何の生物的衝動も男性を結婚に導かなかった—ましてや、その中に抑えてもいなかった。男性にとり結婚を興味をそそるものにしたのは、愛ではなく、そんなことよりも飢餓が、女性とその子供が共有する原始の避難所に最初に引き付けたのであった。
結婚は、性関係からくる義務への意識的認識によってさえもたらされなかった。原始人は、性への耽溺とその結果の子供の誕生との関係を少しも理解しなかった。かつては処女が、妊娠できると一般に信じられた。初期に未開人は、赤子が霊の世界で作られるという考えを抱いた。妊娠は、女性に霊、進化する亡霊が入り込んだ結果であると信じられた。食習慣と悪意のこもった目つきも、処女、あるいは未婚女性の妊娠の原因となりうると信じられ、後の考え方では、命の始まりを呼吸と日光に関連づけた。
多くの初期の民族は、亡霊を海に結びつけた。したがって、処女は、大いに水浴び慣習を制限された。若い女性は、性関係を持つよりも満潮の海での水浴びをはるかに恐れた。奇形児や未熟児は、不注意な水浴びの結果、あるいは邪悪な霊の働き経由で女性の身体に届いた動物の子と見なされた。野蛮人は、言うまでもなく、そのような子を出生時に絞め殺すことを何とも思わなかった。
教化への第一歩は、性関係は、孕ませる亡霊が女性に入る道を開くという考えとともに到来した。人は、以来、父母が子を作る生命遺産の要因への等しい貢献者であると気づいた。しかし、20世紀においてさえ多くの両親は、今だに人間の生命の起源に関し多かれ少なかれ子供を無知の状況に閉じ込める努力をしている。
ある単純な種類のいくつかの家族は、再生機能が母子関係を伴うという事実によって保証された。母性愛は、本能的である。それは、結婚とは違い慣習で起こらなかった。全哺乳類の母性愛は、局部宇宙の補佐の心・精神の固有の贈与であり、種の無力な幼年時代の長さに常に直接に正比例する強さと献身の中にある。
母と子の関係は、自然で、強く、本能的であり、またそれ故にそれは、原始の女性に多くの奇妙な状況への服従と言うに言えない辛苦への我慢を強いるものである。この抑えきれない母性愛は、男性とのすべての抗争においていつもそのような甚だしい不利な立場に女性を立たせてきた。にもかかわらず、人類の母性本能は、圧倒的ではない。それは野心、身勝手さ、宗教的信念によって阻まれるかもしれない。
母と子の関係は、結婚でも家庭でもないが、それは、その二つが生じるところの核であった。交配の進化過程における大きな進歩は、これらの一時的連携関係が、結果としてできる子を育てるに足る長さが続くときに生じ、それが、家事というものであった。
初期の対の男女らの反目にもかかわらず、関係の弛みにもかかわらず、存続の機会は、これらの男女の連携関係により大いに向上した。1人の男性と1人の女性が協同するとき、家族や子はさておき、男性2人、あるいは女性2人のいずれよりもほとんどの点で優れている。性のこの組み合わせは、生存を高め、しかも人間社会のまさに始まりであった。性による分業は、また安らぎに寄与し幸福を増大させた。
2. 初期の母-家族
女性の周期性の出血や出産時の出血は、子供の創造者としての血を(魂の台座としてさえ)暗示し、人間関係の血の絆についての概念が始まった。初期におけるすべての子孫は、確かな遺伝質の唯一の部分である女系に加えられた。
原始の家族は、母と子の本能的な生物上の血の絆から生じたので必然的に母の家族であった。そして、多くの部族が長らくこの仕組みを持続した。母-家族は、群れの中での集団結婚の段階から後の改善された多婚と単婚の家族生活への唯一可能な変遷であった。母-家族は、自然で、生物学的であった。父-家族は社会的、経済的、政治的である。その他の点では進歩的なイロコイ族が、決して本物の国家にならなかった主な理由の1つは、北米の赤色人種間の母-家族の持続である。
母-家族の慣習の下での妻の母は、家庭で最高の権威を享受したと言ってもいいほどであった。妻の兄弟とその息子は、家族管理において夫以上に活発であった。父親は、しばしば自身の子供に因んで改名された。
最も初期の人種は、要するに子供は母から来ると見なし、父親はあまり認められなかった。子供は、付き合い交わることで父親に似ると、または母親は、彼らの父親に似ることを望んだのでこの様にして「印された」と信じた。後に母-家族から父-家族への変化が生じると、父親は、子供をすべて自分の手柄にし、妊婦への禁忌の多くが、その後その夫にまで延長された。将来の父は、出産時が近づくと仕事をやめ、分娩に際しては3日から8日間何もせず妻とともに寝た。妻は、翌日起き重労働に従事するかもしれないが、夫は、祝賀を受けるために床に留まった。全ては、子に対する父の権利の確立のために設計された初期の慣習の一部であった。
最初は、男性が妻の身内の方に行くのが習慣であったが、後代になると、男性が、花嫁の代価を支払うか、または労働で支払ったあとで妻と子を自分の身内の方に引き取ることができた。母-家族から父-家族への変遷は、等しい親類関係の他のものは承認されているが、その他の点では無意味なある種のいとこ同士の結婚の禁止について説明している。
狩人の慣習の流れとともに、牧畜が、主要な食糧供給調整を人に提供すると、母-家族は、速やかな終わりに至った。それは、単に新たな父-家族とうまく競争できずに失敗に終わった。母方の男の親族に宿る力は、夫-父の集結力には匹敵することができなかった。女性には、出産と継続的権威と家庭内の拡大する力の行使の複数の課題は無理であった。接近しつつある妻の盗み取りとその後の妻の購入が、母-家族の流れを急がせた。
母-家族から父-家族への驚くべき変化は、かつて人類によって実行された最も根本的で全面的な180度の方向転換調整の1つである。この変化は、早速より大きな社会的な表現をもたらし、家族の冒険を増大させた。
3. 父支配下の家族
母性本能が女性を結婚に導いたかもしれないが、慣習の影響に加え女性を結婚生活に留めおいたのは、男性の上回る強さであった。牧歌的生活には、慣習の新体系、家長型の家族生活を作り出す傾向があった。また牧夫と初期の農業慣習下における家族統一の基礎は、疑問の余地のない、しかも独断的な父の権威であった。すべての社会は、国家であろうが、または家族であろうが、家長体制の専制権威の段階を通過した。
旧約聖書時代に婦人に払われた乏しい礼儀が、牧夫の慣習の本当の反映である。「主は私の羊飼いである」という諺に見られるように、ヘブライの家長は、皆牧夫であった。
だが、男性の女性に対する過去の時代の低い評価の責めは、男性ばかりにではなく同じく女性自身にもあった。女性は、非常時に機能しなかったが故に、原始時代に社会的認識を得なかった。女性は、華々しい英雄でも危機の英雄でもなかった。母性は、生存闘争において明白な障害であった。母性愛は、部族防衛において女性を不利な立場に立たせた。
原始女性は、また無意識のうちに男性のけんか好きと男らしさへの称賛と喝采で自らの依存心を作り出した。戦士のこの精神的高揚は、男性の自我を高め、一方では負けす劣らず女性の自我を低下させ、さらに依存させた。軍服は、今だに女性の感情を強く喚起する。
より進化した人種間では、女性は、男性ほどには大きくも強くもない。女性は、したがって弱ければ弱いほど、ますます抜かりがなくなり、早くから性の魅力の利用を学んだ。彼女は、わずかに深遠さでは劣るが、男性よりも注意深く保守的になった。男性は、戦場と狩りでは女性より優位であったが、家庭では、通常、女性が、最も原始の人々さえ打ち負かした。
牧夫は、生計のために群れに目を向けたが、女性は、その牧畜時代にわたっててなお植物性食物を提供しなければならなかった。原始人は、土を回避した。それは、いかにも平和であり過ぎ冒険的でなさ過ぎた。また、女性の方が、より上手に植物を育てられるというのが昔の迷信でもあった。彼女たちは母であったから。今日の多くの後退的部族では、男性は肉を、女性は野菜を調理し、また、オーストラリアの原始部族の前進中、女性は、決して獲物を襲わず、男性も屈んで根を掘ることはなかった。
女性は、いつも働いていなければならなかった。少なくとも現代まで女性は、真の生産者であった。通常、男性は、より簡単な道を選んできており、この不平等は、人類の歴史全体において存続した。家族の所有物を運び、子供の世話をし、このように戦い、もしくは狩猟のために男性の手を自由にしておき、女性は、いつも重荷を支える者であった。
女性の最初の解放は、男性が土地を耕すことを承諾したときに、その時までは女性の仕事と見なされてきたことをすることに同意したときに訪れた。男性捕虜がもはや殺されず農業専門家として俘にされたとき、それは大いなる前進であった。これが、家事と育児に多くの時間を充てられるようになり、女性の解放をもたらした。
幼少児童への乳の供給がきっかけで乳児の早期の離乳となり、このため母親によるより多くの出産へと、時おり一時的な不毛をこのようにして救い、一方では牛乳と山羊乳の使用が、幼児死亡率を大いに減少させた。牧畜社会の段階では、母親は、赤ん坊が4、5歳になるまで授乳していた。
原始の戦争の減少が、性に基づく分業からくる相互の不一致を大いに小さくした。しかし男性が、見張りの務めを果たす一方で、女性は、まだ実際の仕事をしなければならなかった。昼夜にかかわらず無防備のままでいられる野営地も村もなかったが、この作業でさえ犬の家畜化により軽減された。一般的に言って、農業の到来が、女性の威信と社会的地位を高めた。少なくともその時までには男性自身が、農業者に変わったのは真実であった。そして、男性が、本気で土耕作に取り組むやいなや、次世代へとずっと連続していく農耕方法における大いなる改良が結果として起こった。男性が、狩りと戦いで組織の価値を学び、これらの方法を産業に取り入れ、またその後女性の仕事の多くを引き継ぐとき、その労働のずさんな方式を大いに改善した。
4. 初期社会における女性の地位
一般的に言って、どの時代においても女性の地位は、社会的慣行としての進化過程の結婚の正しい評価基準であり、一方、結婚の進化それ自体が、人間文明の進歩を表すかなり正確な測定基準である。
女性の地位は、つねに社会の矛盾であった。女性は、つねに男性の抜け目のない操縦者であった。つねに彼女自身の関心と自身の前進のために男性のより強い性の衝動に乗じてきた。彼女は、自分の性の魅力を微妙に利用することで、無気力な奴隷の身分で縛りつけられている時でさえ、しばしば男性に支配力を奮うことができた。
初期の女性は、男性にとっての友人、恋人、愛人、仲間ではなく、むしろ一財産、使用人または奴隷であり、後には経済上の仲間、遊び道具、子を産む者であった。それにもかかわらず、適切で満足できる性の関係は、いつも女性による選択と協力の要素を伴い、知性ある女性は、一種の性としてのその社会的地位の枠を越え、いつも直接の、個人的な地位へのかなりの影響を与えてきた。しかし、女性が束縛を緩和する努力において始終抜け目なさに頼ることを余儀なくされたという事実は、男性の不信と疑いを正す役には立たなかった。
男女には互いの理解において大きな困難があった。無知ゆえの疑念とぞっとするような魅力の混ざり合ったな奇妙な交錯の目で、時としては嫌疑や軽蔑をもって、見る男性は、女性を理解することは難しいとわかった。部族的、人種的伝統の多くは、ハヴァー、パンドーラ、または他の代表的女性のせいにする。これらの物語は、女性が男性に悪をもたらしたと見えるように常に歪められた。そして、このすべてが、一度限りの女性の普遍的な不信用を表している。独身聖職者への支持を引き合いに出す理由の中には女性の卑しさがあった。そう考えられていた大方の魔女が女性であるという事実が、昔の女性の評判を改善しなかった。
男性は、長い間、女性を風変わりに、異常でさえあると見なしていた。女性には魂がないとさえ信じた。したがって、女性は、名前さえ否定された。初期においては、女性との最初の性の関係への恐怖が存在した。したがって聖職者が、処女との最初の性交を持つのが習慣となった。女性の影さえ危険であると考えられた。
出産は、かつて一般的に、女性を危険で汚くすると見られた。そして、多くの部族の慣習が、母親は、子の誕生後に大規模なお祓いを受けなければならないと定めた。出産を控えた母親は、夫がお産に参加した集団以外の間では、一人にされ遠ざけられた。古代人は、家で子供を生ませるのを避けさえした。最終的には陣痛の間、老女が母親に付き添うことが許され、この習慣が、助産業をもたらした。陣痛の間、出産を容易にする努力から何十もの愚かなことが言われ、行われた。亡霊の干渉を防ぐために新生児に聖水をまき散らすのが習慣であった。
出産は純血部族の間では、比較的容易くほんの2時間か3時間しか掛からなかった。混血人種の間ではそれほど簡単ではない。もし女性が、出産時に、特に双子の出産で死亡したならば、霊との姦通罪を犯していると信じられた。その後、より高度の部族は、出産における死を天の意志として見た。そのような母親は、尊い理由で死んだと見なされた。
自分の衣服関しての女性のいわゆるしとやかさと肌の露出は、月経期間に気づかれることへの過度の恐れから起きた。このように看破されることは、嘆かわしい罪、禁忌違反であった。昔の慣習の下では、すべての女性は、青春から出産期の終わりにかけて月ごとにまる1週間家族と社会からの隔離を果たすことを免れなかった。女性が触れるもの全てが、座ったり、または横たわったものすべてが、「汚された」。悪霊を体から追い払う目的で月経後の度に容赦なく少女を殴打することが、長い間の習慣であった。しかし女性は、出産年齢を超えると、通常前よりも権利や恩恵が多く与えられ、もっと思いやりをもって扱われた。このすべてから見て、女性が、軽蔑されたことは奇妙ではなかった。ギリシア人でさえ生理中の女性を3大汚染の原因の1つとみなした。残る2つは、豚肉とにんにく。
これらの昔の概念がいかにに愚かであろうとも、酷使された女性に、少なくとも若いときに、もてなしの休息と有益な思索のために1カ月あたり1週間を与えたので、これらの昔の概念は幾らかの善を施した。したがって女性らは、残りの時間を男性仲間との対応に知恵を磨くことができた。また女性のこの隔離は、過剰の性の不節制から男性を守り、それによる人口制限と自制の増進に間接的に貢献した。
大いなる進歩が、自在に妻を殺す権利を男性が否定したときにあった。女性が、結婚祝いの品を所有することができたとき、同様に、急進的進歩があった。女性は、その後財産を所有し、管理し、処分さえする法的権利を獲得したものの、教会または国家のいずれかで役職に就く権利は、長らく奪われていた。女性は、キリスト後の20世紀までずっと、また20世紀にも、つねに多かれ少なかれ財産として扱われてきた。男性支配下における隔離から世界的規模の自由をまだ獲得していない。先進的民族の間でさえ、女性を守る男性の試みは、いつも無言の優越性の主張である。
にもかかわらず、原始の女性は、より最近に解放された同胞姉妹が常としたようには自らを哀れみはしなかった。原始の女性らは、煎じつめると相当に幸福で、満足していた。より良い、あるいは異なる生存の型を敢えて思い描かなかった。
5.発達する慣習下の女性
女性は、自己繁殖において男性と同等であるが、自己維持の協力関係においては明らかな不利な条件で働いており、この強いられた母性の不利な条件は、漸進的文明の進んだ慣習によって、それに男性のこれまで培ってきた増大する公正さの感覚によってのみ償うことができる。
社会の発展につれ、性慣習の違反の結果に女性がより苦しんだので、女性の間での性の基準は、より高くなった。男性の性の基準は、文明が要求するその公正さについての純然たる自覚の結果としての嫌々ながらの改善をしているに過ぎない。自然は、公正さについて何も知ず—女性だけを出産の激痛で苦しめている。
性の平等に対する現代の考えは、美しく展開する文明にふさわしいが、それは、自然の中には見つけられない。男性は、力が正しいとき女性に権力を振るう。女性は、一層の正義、平和、公正が普及するとき、徐々に奴隷制度と薄暗がりから台頭してくる。一般に女性の社会的地位は、どの国、またはどの時代の軍国主義の程度に反比例して変化してきた。
男性は、意識的にも、意図的にも女性の権利を理解しないながらもその後徐々に、渋々それらを女性に返した。このすべてが、社会的発展に関する無意識の、無計画な話であった。付加された権利を楽しむ時が本当にやってくると、女性は、全く男性の意識的な態度にかかわらず、すべてを得た。ゆっくりと、しかし確実に、慣習は、文明の持続的発展の一部である社会的調整に備えるために変化する。進歩的慣習は、さらにより良い女性の待遇を徐々に提供した。女性に残酷さを固持したそれらの部族は、生残しなかったのである。
アダーム系とノヅ系は、女性へのさらなる認識を許容し、また移動していくアンド系に影響をうけたたそれらの集団は、女性の社会的地位に関するエーデンの教えに影響を受ける傾向にあった。
初期の中国人とギリシア人は、周囲の大部分の民族よりも女性を望ましく扱った。しかしヘブライ人は、女性を殊の外信用しなかった。西洋において、キリスト教は、男性には厳しい性の義務を押しつけにより慣習を進歩させはしたものの、女性は、キリスト教に帰属するようになるパウーロスの教義の下で苦しい登坂を経験した。女性の地位は、イスラム教において女性にともなう独特の権利の剥奪の下ではほとんで絶望的であり、他のいくつかの東洋宗教の教えの下ではさらにひどい状態で暮らしている。
宗教ではなく、科学が、現実には女性を解放した。家での幽閉から女性を主に解放したのは、近代的工場であった。男性の肉体的能力は、もはや新しい維持機構における不可欠要素にはならなかった。科学が、生活状態をすっかり変えたので、男性の力はもはや女性の力にそれほど勝るものではなかった。
これらの変化が、家庭での奴隷状態からの女性解放に貢献し、現在ではある程度の個人の自由と男性とほとんど等しい性の決断を味わう女性のそのような地位の改善をもたらした。かつて、女性の価値は、その食物生産能力にあったが、発明と富が、その中で機能する新しい世界—優雅さと魅力の領域—の創造を可能にした。産業は、かくして女性の社会的、経済的解放のためのその無意識の、意図しない戦いを勝ちとった。そして、進化は、再度、啓示が達成しなかったことを成し得たのであった。
女性の社会的地位を支配する不公平な慣習に対する賢明な民族の反応は、その極端さにおいて誠に振り子のようであった。工業化の進んだ人種の間では、女性は、ほとんどすべての権利を受け、兵役などの多くの義務の免除を享受した。生存に向けての葛藤のあらゆる軽減は、女性の解放を高め、彼女は、一夫一婦制へのあらゆる進歩から直接的に恩恵を受けた。弱者は、いつも段階的社会の発展において慣習のあらゆる調整における不均衡な利得を受ける。
1対の理想的結婚において女性は、最終的には認識、威厳、独立、平等、教育を獲得した。しかし女性は、新たで前例のないすべてのこの成就に値いすると証明するのであろうか。現代女性は、社会的解放のこの大きな成就に怠惰、無関心、不妊、不貞で反応するのであろうか。今日、20世紀において女性は、世界での自身の長い間の存在の決定的な試練を受けようとしている。
女性は、人種の繁殖において男性の同等の相手であり、それ故、展開する人種の進化においても同様に重要である。したがって、進化は、いよいよ女性の権利の実現に向けて努力をしてきた。しかし、女性の権利は、決して男性の権利ではない。男性が女性の権利で栄えることができないのと同様に、女性は、男性の権利で栄えることはできない。
それぞれの性は、自身の特有の生存活動範囲があり、その活動範囲内での自身の権利を同時に持っている。女性が、男性の権利のすべてを楽しむことを文字通り切望するならば、その結果、遅かれ早かれ薄情で無感動な競争が、多くの女性が現在享受している騎士道的精神や心遣いと確かに取って代わるであろう。
文明は、男女間の行動の溝を決して取り除くことはできない。時代から時代へと慣習は変化するが、本能は、決して変わらない。生まれながらの母性愛は、解放された女性が、産業において男性の容易ならない競争相手になることを決して許さないであろう。それぞれの性は、生物上の相違による、また精神的な相違による自身の領域でつねに最高でいるであろう。
男女はそれぞれに、たとえ時として重なることはあるとしても、自身の特別な活動範囲を常に持つであろう。男性と女性は、等しい条件でただ単に社会的に競争するであろう。
6. 男女の連携
生殖の衝動は、自己永続のために絶えず男女を結びつけるが、それだけでは相互協力でともにいること—家庭の設立—を保証はしない。
人間の効を奏するあらゆる慣例は、作業の実用的調和に適応した個人的関心の反目を有しており、家事も例外ではない。結婚、すなわち家庭建設の基礎は、しばしば自然と社会の接触を特徴づけるその対立を伴う協力の最高の現れである。衝突は必然である。交配は先天的である。それは自然である。しかし、結婚は生物的ではない。それは社会的である。情熱は、男女が一緒になることを保証しはするが、弱い親の本能と社会慣習が、二人を結合している。
実際に見てみると、男性と女性は、親しく打ち解けた関係で生きる同じ種の明確な2つの別種である。それぞれの観点と生活への全体の反応は、本質的には異なる。完全かつ実際の相互理解はまったくできない。男女間の完全な理解には到達できない。
女性は、男性よりも洞察力があるように思えるが、いくらか論理的でないようにも見える。女性は、しかしながら、つねに道徳的基準の担い手であり、人類の精神的指導者であった。揺りかごを揺する手は、まだ将来の目標と親しくしている。
懸念するどころではなく、男女間の気質、反応、立場、考え方の違い、個別的にも集合的にも、人類にとって非常に有益であると見なすべきである。宇宙の生物の多くの系列は、人格顕示の二元的局面で創造される。この違いは、必滅者、物質の息子、中間ソナイターの間では男性、女性と呼ばれている。熾天使、智天使、モロンチア同伴者の間では、積極的、挑戦的、または消極的、後退的であると称されてきた。そのような双対関係は、楽園のハヴォーナ体系の特定の三位一体の団体が、そうでさえあるように、汎用性を大いに拡大し、固有の限界を克服している。
男と女は、人間の経歴においてはもとよりモロンチア的にも精神的にも互いを必要とする。男女間の観点の違いは、最初の人生を超えてまでも、また局部と超宇宙の上向の全体においてさえ持続している。そして、ハヴォーナにおいてでさえ、かつては男であり女であった巡礼者達が、楽園上昇においていまだに互いを補佐しているであろう。終局部隊においてさえ、被創造者は、決して人間が男性、女性と呼ぶ人格の傾向を抹消するほどには変化しないであろう。つねに人類の基本的なこの2種類は、互いに引きつけ、刺激し、励まし助け合うであろう。つねにかれらは、複雑な宇宙問題の解決と多種多様の宇宙の困難の克服において互いに依存するようになるであろう。
男女は、決して完全な相互理解を望むことができるというわけではないが、互いに効果的に相補的であり、協力は、個人的にはしばしば多少は対立するものの、社会を維持し、再生させることができる。結婚は、性の差を解決するように考案された制度であり、一方で文明の継続に効を奏し人種の再現を保証する。
結婚は、社会構造上の基盤である家庭建設と家庭維持にそのまま通じるので、すべての人間慣習の母親である。家族は、自己保全方法に重大に繋がっている。それは、文明の慣習下における人種永続化の唯一の望みであるが、同時に最も効果的に、 自己欲求に対して一定の満足の形を提供する。家族は、男女の生物的関係の発展と夫と妻の社会的関係とを結合する人間の純粋に最大の達成である。
7. 家族生活の理想
性的結合は、本能的であり、子供は、その自然の結果であり、家族は、このように自然の成り行きで生まれる。人種、あるいは国家の家族が、そうであるようにその社会もそうである。家族が良ければ、社会も同様に良い。ユダヤ民族と中国民族のすばらしい文化の安定性は、その家族集団の強さにある。
女性の子供への本能的愛と配慮は、結婚と原始の家族生活の促進において、女性を関心をもつ当事者にさせた。男性は、 その後の慣習と社会的因習の圧力により家庭建設を強いられたに過ぎない。男性は、その性行為が、彼に生物上の因果関係を押しつけないが故に、結婚と家庭の確立に興味をもつまでには時間が掛かった。
性的繋がりは自然であるが、結婚は社会的であり、いつも慣習に規制されてきた。慣習(宗教的、道徳的、倫理的)は、財産、自尊心、騎士道精神と相まって、結婚と家族の制度を安定させる。慣習が変化するたびに家庭-結婚の安定性に変動がうまれる。結婚は今、財産の段階から個人の時代へと通過している。以前、男性は、自分の所持品であったので女性を保護し、同じ理由で女性は従った。この制度は、その長所のいかんを問わず、安定性を提供した。今や女性は、もはや財産とは見なされず、新慣習が、結婚-家庭のしきたりを安定させるよう設計され登場しつつある。
1. 宗教の新しい役割—親の経験は、不可欠であるという教え、宇宙市民を生殖する考え、生殖の特権、—息子を父に与えること—に対する拡大的理解。
2. 科学の新しい役割—生殖は、ますます自発的、すなわち人間の掌中の対象になりつつある。理解の欠如が、古代においてはそれゆえに望んでもいない子供の出現を確実にした。
3. 快楽心への新作用—これが、人種生存への新要素を導き入れる。古代人は、望まれていない子供を死にさらした。現代人は、産むことを拒む。
4. 親の本能の高揚。今や各世代は、人種の生殖の流れから親の本能、子供、つまり次世代の予期される両親の生殖の保証が不十分であるとき、そういった個人を排除する傾向にある。
しかし、制度としての家庭は、つまり、1人の男性と1人の女性の間の協力関係は、明確にはダラマティアの時代から、およそ50万年前から始まる。アンドンとその直系子孫がずっと前に廃止した一夫一婦制の慣行。家族生活は、しかしながらノヅ系と後のアダーム系時代以前のものほどには自慢するものではなかった。アダームとハヴァーは、全人類に永久的影響を及ぼした。世界歴史において初めて、男女が、園において協力的に働いているのが観測されたのであるから。園芸者としての家族全体のエーデン的理想は、ユランチアでの新しい考え方であった。
初期の家族は、1つの居住施設に全員が住みながら、奴隷を含む関係する労働集団を包含した。結婚と家族生活が、いつも同じであるという訳ではなかったが、必然的に密接に関係してきた。女性は、ずっと個別の家族を欲し、最終的には意のままにした。
子への愛は、ほとんど普遍的であり、紛れもない生存価値がある。古代人は、子供の幸福に関する母の関心を常に犠牲にした。エスキモーの母は、今でも赤ん坊を洗う代わりに舐めさえする。しかし原始の母は、子供がまだ幼いときに食物を与え面倒をみるだけであった。子供が成長すると、動物のようにすぐに見捨てた。持続的で絶え間のない人間のつながりは、生物的愛情だけでは決して確立されたことがない。動物は自分の子供を愛している。人間—文明人—は、自分の子供の子供を愛している。文明が高ければ高いほど、子供の前進と成功における両親の喜びはより大きい。したがって、名前への自負心の認識が生まれる。
古代民族の間の大家族は、必ずしも情愛に満ちていたというわけではなかった。多くの子供が望まれたのは、次の理由からであった。
1. 労働者として貴重であった。
2. 老齢保険であった。
3. 娘は売りやすかった。
4. 家族の誇りが、名前の広がりを必要とした。
5. 息子は保護と防衛を提供した。
6. 亡霊への恐怖が、単独でいることへの畏怖を生んだ。
7. ある種の宗教は子を必要とした。
先祖崇拝者は、息子を持てないことを永遠に時を超えて最大の災難と見なす。それ等は、死後の饗宴で、息子が式の司祭を勤めるために、つまり亡霊の前進のために霊界を通して必要な犠牲を提供するために、息子を持つことを他の何よりも望んでいる。
子供の躾は、古代の未開人の間では非常に早くから始められた。また子供は、動物にとってそうであったように、反抗は不履行、あるいは死を意味するということを自覚した。現代の反抗の大きな一因をなしているのは、愚かな行為の当然の結果から文明が子供を防護をしていることである。
エスキモーの子供は、生まれつき温順な小さな動物であり、ほんのわずかの躾と矯正でよく育つ。赤色人種と黄色人種の両方の子供は、ほとんど等しく扱い易い。しかしアンド系の遺伝を有する人種の子供は、それほど穏やかではない。これらのより想像的で大胆な若者は、 より多くの指導と躾を必要とする。子供の育成に関する現代の問題は、次の事柄によってますます困難になっている。
1. 大きな度合の人種混合。
2. 不自然の、しかも浅薄な教育。
3. 両親を模倣することでの子供の教養会得の不能性—家族の場面から両親がほとんどの時間欠けている。
家族についての昔の考えは、生物的であり、つまり両親は、子供の存在の創造者であるという認識に起因した。家族生活の前進的理想は、親の幾つかの権利を与える代わりに子供を世界にもたらし、人間の存在の最高の責任を伴うという概念に通じている。
文明は、両親をすべての義務を引き受ける者、子供をすべての権利を持つ者と見なしている。子供の両親への敬意は、親の生殖上の恩義に含まれる認識にではなく、子供が、人生の戦いに勝つ支援の際に愛情深く示される世話、躾、情愛の結果として自然に生まれてくる。本物の親は、賢明な子供が認識し感謝するようになる連続的な奉仕と援助に従事している。
結婚制度は、現在の産業と都市の時代において新経済に沿って進化している。家族生活は、ますます費用が嵩むようになり、同時にかつては資産であった子供は、経済負担になってしまった。しかし文明のに1世代の高まる意欲に掛かっている。そして親の責任を国、または教会へ移行させるいかなる試みも、文明の福祉と前進にとっては自滅的であると判明するであろう。
結婚とは、子供と結果として生じた家族生活と共に人間性における最高の可能性への刺激であり、同時に人間の人格のこれらの速められた属性の表現に理想的な手段を提供する。家族は、人類の生物上の永続化に備える。家庭は、血を分けた兄弟関係の倫理が成長する子供に理解されるかもしれないところの自然で社会的な活躍の舞台である。家族は、両親と子供が、すべての人間の間における兄弟愛の実現にこの上なく不可欠である我慢強さ、利他性、寛容、忍耐についての教えを学ぶ基礎的な友愛単位である。
文明的人種が、 より広くアンド系の家族協議会の習慣に戻るならば、人間社会は、大いに改善されるであろう。アンド系は、家長的、あるいは独裁的形式の家族政府を維持しなかった。非常に親密で付き合いやすく、自由で率直に家族にかかわるあらゆる提案や規則について議論した。すべてのそれぞれの家族統率の中で理想的に友愛的であった。理想的な家族では子としての、また親としての愛情は、双方とも兄弟愛の献身により増大する。
家族生活は、真の道徳の祖、義務への忠誠意識の原型である。家族生活内の強制的関係は、他の、しかもさまざまの個性への必然的調整の抑え難い衝動を経験し、人格を安定させ、その成長を促進する。本物の家族—良い家族—は、創造者のその子供への態度というものを親である生殖者に明らかにするのはなおさらのことであり、同時に、そのような本物の両親は、宇宙のすべての子供の楽園の親からの愛を向上的開示の長い連続の1番目の開示を我が子らに描き示している。
8. 自己満足の危険性
家族生活に対する大きな脅威は、現代の快楽の狂気である自己満足の脅迫的な高まりである。結婚への主要誘因は、以前は経済上のものであった。性の誘引力は二次的であった。結婚は、自己維持の上に築かれ、自己永続化につながり、そして付随的に自己満足の最も望ましい型の1つを提供した。それは、生きるための3大誘因のすべてを有する人間社会の唯一の制度である。
元々、財産は、自己維持の基本的慣例であり、一方結婚は、自己永続化の独特な慣例として機能した。周期的な性の耽溺と並び、食物による充足感、遊び、笑いは、自己満足の手段であったが、進化する慣習が、自己満足のいかなる別個の制度の設置に失敗したことは、一つの事実としてある。そしてそれは、人間のすべての制度にこの快楽追求がすっかり染み込んでいる愉快な楽しみの専門的技術を進化させる失敗によるものである。財産の蓄積は、自己満足のすべての形式を増大するための手段になっているが、結婚は、単に喜びの方法としてしばしば見られる。そして、この耽溺、つまりこの広く行き渡った快楽の狂喜が、現在、家族、つまり家族生活の進化的な社会制度に押しならされてきたという最大の脅威の構成要素となっている。
紫色人種は、新しく、しかも単に不完全に認識された特性を人類の経験に取り入れた—笑いの感覚に結びつけられた遊びの本能。それは、適度にサンギク系とアンドン系にはあったが、アダーム系は、この原始的性向を喜びの可能性、新しくて美化された自己満足の形式に高めた。基本的な自己満足の型は、飢餓の緩和は別として、性的満足であり、この官能的な喜びの型は、サンギク系とアンド系の混合により途方もなく高められた。
アンド系以後の人種の不安、好奇心、冒険、および快楽放棄の特徴の取り合わせには実際の危険がある。魂の飢餓は、物理的な喜びに満足はできない。家庭への愛と子供への愛は、浅はかな快楽追求によって増大はされない。あなたは、芸術、色、音、韻律、音楽、および身体の飾りの供給源を使い果たすが、その結果、魂の向上、または精神の育成をこのようにして望むことはできない。虚栄と流行は、家庭構築と子供の育成で役目を果たすことはできない。高慢と競争は、続く世代の生存の中味を高めるには無力である。
前進する天の存在体すべてが、逆戻りの管理者の休息と活動を享受している。健全な気分転換を手に入れ、また向上させる遊びに従事するすべての努力は、健全である。爽快な睡眠、休息、気晴らし、単調さからくる退屈を防ぐすべての楽しみには価値がある。対戦競技、物語、食物の味の良ささえ自己満足の型として役立つことができる。(食物の味わいに塩を用いるときは止まって、人が、およそ100万年間、単に食物を灰に浸すことだけで塩が得られたということを考えなさい。)
人に楽しませなさい。無数の方法で人類に喜びを見つけさせなさい。進化的人類に正当な自己満足の型、つまり長い上向きの生物学上の闘いの成果を探検させなさい。人は、現代のいくつかの喜びと楽しみを得るに値する。しかし運命の目標によく目を向けなさい。楽しみは、自己維持の制度となった財産崩壊につながるならば、実に自滅的であり、そして自己満足が、もし結婚の崩壊、家族生活の退廃、家庭—人間の進化の最高の習得と文明生存の唯一の望みである家庭—の破壊を引き起こすならば、自己満足は、誠に致命的な犠牲を払ったのである。
[ユランチアに配置された主熾天使による提示]