論文 68 文明の夜明け
論文 68
文明の夜明け
これは、不完全ではあるが、真の文明が、動物生活も同然の状況から長い時代を経てより高度な人間の間で発達する後の時代へと長い長い前進のための人類の戦いの物語の始まりである。
文明は、人種的習得である。それは、生物学的に固有ではない。したがって、若者の後の各世代が新たにその教育を受けなければならないと共に、すべての子供は一定の文化の環境の中で育てられなければならない。優れた文明—科学、哲学、宗教上—の特徴は、世代から世代へと直接的継承によっては伝えられない。これらの文化的業績は、賢明な社会的遺産の保存によってのみ保護される。
共同的秩序の社会的発展は、ダラマティア教師により始められ、人類は、30万年の間、集団行動の考えに基づいて育まれた。この初期の社会的な教えの恩恵を受けたのは、特に青色人種で、赤色人種はある程度まで、黒色人種はとりわけ少なかった。ユランチアでは黄色人種と白色人種が、時代がさがるにつれ最も高度な社会的発展を示してきた。
1. 保護的社会化
人は、緊密にまとめられるとき、しばしば互いを好きになることを学ぶが、原始人は、自然に兄弟のような精神的感情や仲間との社会的接触願望に満ち溢れたりはしなかった。むしろ、初期の種族は、「力を合わせるところには、強さがある」ということを不運な経験によって身につけた。そして、いまユランチアにおける人の兄弟愛の即座の実現を邪魔をするものは、自然な兄弟愛のこの欠落なのである。
連合は、早くから生存の代償となった。連れのない者は、いかなる攻撃にも確実に報復をする集団に属する証拠となる部族の目印を有していなければ、無力であった。カイーンの時代においてさえ、集団結社の何らかの印なしで単独で外へ行くということは命にかかわることであった。文明は、暴力死に対する人の保険となったが、その保険料は、社会の数々の法的要求への服従によって支払われる。
原始社会は、こうして相互の必要性を基に、また、つながりからくる高められた安全性の上に設立された。そして人間社会は、この孤立に対する恐怖の結果、また不承不承気の協力によって果てしなく続く周期で発展してきた。
原始人は、集団というものは、個々の群れの単なる和よりも非常に大きく強いということを早くから学んだ。一致団結して働く100人の人間は、巨大な石を動かすことができる。20人のよく訓練された擁護者は、怒りの群衆を制止することができる。そうして社会は生まれた。単なる数の繋がりではなく、むしろ知能の協力者の組織化の結果として。しかし、協力は、人の本来の特質ではない。人は、まず恐怖を経験し、後に困難遭遇に際し、また永遠の想定された危険防止において、それが、最も有益であると気づくので協力することを学ぶ。
このようにして早くから原始社会へと結団した民族は、仲間に対する防衛のみならず自然への攻撃にも成功していた。それらの者にはより大きい生存の可能性があった。したがって、ユランチでは文明が、その多くの妨げにもかかわらず着実に進行した。そして人の多くの失態が、これまでのところ文明を停止させたり破壊していないのは、単に群衆での生存価値増大の理由に過ぎない。
現代的文化社会というものがかなり最近の現象であるということは、オーストラリアの原住民やアフリカのブッシュマン、およびピグミー族を特徴づけるような原始的社会状況の今日までの存続により明確に示されている。原始民族すべてにとても特徴的であった初期の集団的対立、個人的な疑惑、そして非社交的習性のようなものが、これらの進歩の遅い民族の中に観察できるかもしれない。社会性のない古代民族のこれらのみすぼらしい生存者が、人の生まれながらの個人主義的傾向というものは、より強力で権力を持つ組織や社会的進展とは首尾よく競争はできないという事実を雄弁に証言している。惑星王子の有体の部下と社会改善に努めるアダーム部族集団の後の働きの連合教育がなかったならば、60キロメートル、あるいは80キロメートルごとに異なる方言を話すこれらの遅れた、しかも疑い深い反社会的部族が、人は、いまどのような世界に住んでいるかを例証できるかもしれない。
現代の言い回し「自然にかえる」とは、無知の妄想、かつての偽りの「最盛期」実在への信仰である。最盛期の伝説の唯一の土台は、ダラマティアとエデンの歴史的事実である。しかしこの改善された社会は、ユートピアの夢の実現からは遠かった。
2. 社会発展における要因
文明社会は、孤立に対する嫌悪に打ち勝つ人の早期の努力の結果である。しかし、これは必ずしも相互の愛情を意味するわけではないし、ある原始集団の現在の不穏状態は、初期の部族が何を経て来たかをよく例証している。しかし、文明の個人は、互いに衝突するかもしれないし、文明それ自体が、矛盾だらけの奮闘や藻掻きの塊に見えるかもしれないが、それこそが、真剣な努力の証であり、致命的な澱みの単調さなどではない。
知能の水準が、文化の進行速度に相当の貢献をしてきた一方で、社会は、本質的には個人の生活様式における危険要素を減少させるように考案されており、人生での痛みを減らし、快楽要素増大に成功したのと同程度の速さで進歩してきた。その結果、社会全体が、自己保持か、それとも自己満足かによる行き先—滅亡か生存—へとゆっくりと押している。自己保持は、社会に源を発するが、過度の自己満足は、文明を破壊する。
社会は、自己永続、自己保持、自己満足に関係があるが、人間の自己実現は、多くの文化的集団の当面の目標となるにふさわしい。
本来の人の集団本能は、現在ユランチアにあるような社会的組織の発達を説明するには不充分である。この生まれながらの集団傾向は、人間社会の根底にあるが、人の社交性の多くは、取得によるものである。初期の人間の繋がりに導く2つの大きな影響は、飢餓と性欲であった。これらの本能的衝動は、動物界と共通するものである。人間を一堂に集め、結合に駆り立てる他の2つの感情は、虚栄と恐怖、より詳しくは幽霊に対しての恐怖であった。
歴史は、人の長年の食糧への藻掻きの記録に他ならない。原始人は、空腹時にのみ考えた。食料貯蓄は、人の最初の自制、自己訓練であった。飢餓は、社会の発展につれ相互の繋がりのための唯一の誘因ではなくなった。他の種類の数多くの飢餓が、つまり様々な必要性の認識の全てが、人類の繋がりをより近い関係に導いた。しかし今日社会は、人間が必要とする物の異常増加で釣り合いが取れなくなっている。20世紀の西洋文明は、甚だしい贅沢の重荷と人間の願望や切望の法外な増加の下に飽き飽きして呻いている。現代社会は、その広範囲にわたる相互の連携と非常に複雑な相互依存の最も危険な局面の1つの重圧に耐えている。
飢餓、虚栄、幽霊への恐怖は、社会的圧力の中で継続していたが、性の満足感は、一時的であり発作的であった。原始の男女を家庭維持の重荷を担うことに駆り立てたのは、性欲だけではなかった。初期の家庭は、常習的な満足感を奪われた男性の性欲不穏状態、そして女性のもつより高度のすべての動物の雌と幾分か共通している母性愛に基づくものであった。無力な赤ん坊の存在が、初期の男女の活動の分化を決定した。女性は、土地耕作のできる定住の住み家を維持しなければならなかった。そして、最も早い時代から、女性の居る場所が、つねに家庭と見なされてきた。
女性は、このようにして発展する社会の枠組にとり早くに不可欠となった。一瞬の性のためというよりは、むしろ食糧必要量の結果であった。女性は、自己維持に不可欠な協力者であった。女性は、食料供給者、荷物運搬用動物、それに乱暴な憤りをもつことなく相当の虐待に耐える相手であったし、これらの望ましい特色のすべてに加え、常に居合わせる性欲を満たす手段であった。
文明における永続する価値のほとんどすべてが、家族にその基礎がある。家族は、男女が、子供に平和の追求を教えると共に、反目の解決法の習得に成功した最初の平和集団であった。
進化における結婚の機能は、民族生存のための保険であり、単なる個人の幸福実現ではない。自己維持と自己永続は、家庭の現実の目標である。自己満足感は、性的繋がりを保証する動機を除き、付帯的であって不可欠ではない。自然は生存を要求するが、文明の技術は、結婚の喜びと家族生活の満足感を増加させ続ける。
虚栄心が、自惚れ、野心、体面を隠すために拡大されるならば、我々は、これらの傾向がいかに人間の繋がりの成立に貢献するかということばかりではなく、そのような感情は、誇示のための聴衆なくしては空しいものであるがゆえに、人をいかに結合するかをも見分けるかもしれない。虚栄心は、やがて自己を表に出し、かつ満足させるかもしれない社会舞台を必要とする他の感情、衝動と結びついた。この一群の感情は、すべての芸術、儀式、および遊戯的試合と競争の始まりをもたらした。
虚栄心は、活発に社会誕生の一役を担った。しかし、この顕示の時点で、自惚れの強い世代の邪な試みは、非常に分化された文明全体の複雑な構造を水浸しにし、水中に沈める脅威を与える。快楽への欲望は、飢餓への欲望に取って代わった。自己維持ための社会の正当な目的は、急速に人々を底辺に移し、自己満足の形態を脅かしている。自己維持は、社会を築く。勝手な自己満足は、必ず文明を破壊する。
3. 幽霊に対する恐怖の社交上の影響
原始的欲望は、最初の社会を生み出したが、幽霊への恐怖はそれを結合し、またその存在に人間以外の局面を与えた。一般的恐怖である肉体的苦痛、満たされない飢餓、または何らかのこの世の災難への恐怖の源は、生理的であった。しかし幽霊への恐怖は、新たで壮絶な恐怖の種類であった。
おそらく人間社会の発展におけるで最大唯一の要因は、幽霊の夢であった。ほとんどの夢は、原始の心を大いに狼狽させたが、幽霊の夢は、霊界のあいまいで見えない架空の危険に対し、互いの保護のために心からの、しかも真剣な付き合いにおいてこれらの迷信深い夢みる者達を互いの腕の中に駆り立てて、実際に古代人を恐れさせた。幽霊の夢は、最も早く動物と人間の心の型に現れた違いの中の1つであった。動物は、死後の生存を心に描かない。
この幽霊要素を除き、すべての社会は、基本的な必要性と生物的衝動に基づいていた。しかし、幽霊への恐怖、すなわち手を差し延べかつ個人の基本的な必要性から離れる恐怖、また集団を維持のための戦いをはるかに超越する恐怖は、文明に新たな要因をもたらした。死者の霊への畏怖の念は、新の、驚くべき恐怖の形態、すなわち恐るべきかつ迫力のある恐怖を明らかにし、それは、初期の緩やかな社会的秩序を刺激することで徹底的に訓練されより制御された古代の原始集団へと導いた。そのうちの幾つかはまだ存続しているこの愚かな迷信は、非現実的で超自然の迷信から生じる恐怖を介し、人間の心を「知恵の始まりである主への恐怖」の後の発見に備えさせた。進化からの根拠のない恐怖は、神性に対し顕示によりもたらされた畏敬に取って代わるように考案されている。幽霊への恐怖の初期の信仰は、強力な社会的結合となり、人類は、大昔からずっと多少なりとも精神性の到達を追及しつづけてきた。
飢餓と愛は、人を一堂に会するように駆り立てた。虚栄と幽霊への恐怖は、人を団結させた。しかし、平和を促進している顕示の影響なくしてこれらの感情だけでは、人間の相互関係からくる疑念や苛立ちの重圧に耐えることはできない。社会の重圧は、超人側からの助けがなければ、一定の限界に達すると壊れ、これらの社会可動への影響そのもの—飢餓、愛、虚栄、および恐怖—は、戦争と流血への人類の突入を企てる。
人類の平和性向は、天賦の才ではない。それは、啓示宗教の教えから、進歩的人種の蓄積された経験から、殊のほかイエスの教え、つまり平和の王子から導き出されたものである。
4. 社会慣習の発展
現代の社会慣行のすべてが、未開の始祖の原始習慣の発展から生じている。今日のしきたりは、変更され拡大された昨日の習慣である。個人にとっての習癖は、集団にとっての習慣である。集団の習慣は、習俗、あるいは部族の伝統—大衆のしきたり—へと発展する。現代の人間社会の慣例のすべてが、これらの初期の始まりからそれぞれの劣る起源がある。
慣習は、大衆存在条件にたいする集団生活の調整努力に始まったということを心に留め置かねばならない。慣習は、人間の最初の社会制度であった。これらの部族の反応のすべてが、快楽と力の教授を摸索すると同時に痛みや屈辱を避ける努力から生まれた。習俗の起源は、言語の起源と同様、つねに無意識で意図的ではなく、それゆえに常に謎に包まれている。
幽霊への恐怖は、原始人を超自然なものを思い描くように追い立て、その結果、次には代々引き続く社会の慣習や風習を犯すことなく維持する倫理と宗教の強い社会的影響への地盤を確実に築いた。早くに築き具体化した慣習のうちの1つは、死者は、それによって一生を終えた自らの風習に嫉妬するという信念であった。従って、生存中自分達が敬った生活規則を大胆にも軽率な侮蔑で扱う生活している人間に恐ろしい罰を下すのであった。黄色人種の先祖への現在の崇敬にこのすべてが最も良く例証されている。その後の進化する原始宗教は、慣習を安定させるに当たり幽霊への恐怖を大いに補強したのだが、前進する文明は、いよいよ恐怖による束縛と迷信による奴隷状態から人類を解放しつづけた。
古代人は、ダラマティア教師が解放し自由にする以前、慣習に伴う儀式の無力な犠牲者として束縛されていた。原始の野蛮人には、絶え間のない儀式により制限が設けられた。すべては、朝の目覚め時から夜の洞窟での眠りにつく瞬間まで全くその通りに—部族の習俗に従って—しなければならなかった。古代人は、慣用専制への奴隷であった。古代人の生活は、自由であったり自発的であったり、または独自なものは何もなかった。より高度の精神的、道徳的、社会生活に向けての自然の進歩もなかった。
原始人は、習慣にしかと捉えられた。未開人は、慣例への紛れもない奴隷であった。しかし新たな思考方法や改善された生活方法を始める勇気をもつ型の者から変種が、時々現れた。にもかかわらず原始人の惰性は、急速すぎる前進的文明の破滅的な適応障害への突然すぎる加速に対しての安全な生物的歯止めとなる。
だがこれらの習慣は、純然たる弊害ではない。習慣の進化は続くべきである。急進的革命による完全な変化を企てるということは、文明の継続にとり破滅に等しいのである。習慣は、文明をつなぐ連続性の糸であった。人類の歴史の通り道には、捨て去られた習慣と廃れた社会的習慣の残物が撒き散らされている。しかし、いかなる文明も、より優れ、より適した習慣の取入れをしない限り、その習慣を捨てて持ちこたえていくことはなかった。
社会の存続は、主にはその慣習の発展次第である。習慣の発展過程は、試しの願望から生じる。新しい考えが提唱され、—結果として競争が起こる。進歩する文明は、進歩的な考えを迎え入れて続いている。時間と状況は、遂には存続のためにより適合する集団を選び出す。だがこれは、人間の社会構造における個々別々の孤立する変化が より良いものであるということを意味するのではない。そうではない。大いにそうではない。何しろユランチ文明の前進のための長い戦いにおいて非常に多くの退歩があったのであるから。
5. 陸の技術 ― 維持の方法
陸は社会の舞台である。人は役者である。そして、人は、常に陸の状況に適合するように行動を合わせなければならない。慣習の進歩は、常に陸地に対する人間の割合に依存している。これは、この認識の困難性にもかかわらず、その通りである。人の陸の技術は、または維持方法、加えてその生活基準は、習俗、慣習の総称に等しい。そして、人生における要求への人の調整の和は、文化面の文明に相等しいのである。
最も初期の人間の文化は、東半球の川沿いに起こり、文明の前進には大きな4段階の歩みがあった。それらは次の通りであった。
収集段階。食物への抑えがたい欲望、つまり飢餓は、産業組織の最初の形式、つまり原始の食糧採集の列をもたらした。陸での食物収集のそのような飢餓行進の列は、時には15キロメートルの長さにもなるのであった。これが、原始の遊牧民的文化の舞台であり、現在アフリカのブッシュマンが辿っている生活様式である。
2. 狩猟段階。武器用の道具発明は、人が狩人になり、その結果、食物への奴隷状態からかなりの自由の獲得を可能にした。本格的な戦闘でひどく傷を負ったある考え深いアンドン人は、腱質で先を縛った長い棒を腕に、拳には固い火打ち石一個を使用する考えに至った。多くの部族が、独自のこの種類の発見をし、これらの様々な槌の様式が、大いなる人間の文明の前進の1つを意味した。現今、幾つかのオーストラリアの土着民にはこの段階を超えての進歩はあまりなかった。
青色人種は、熟練の狩人と罠で獣をとる猟師となった。川に柵を設け、夥しい数の魚を捕らえ、過剰分は冬用に乾燥させた。罠と落とし穴の多くの巧妙な方法が、獲物捕獲に用いられたが、より原始の人種は、大き目の動物の猟はしなかった。
3. 遊牧段階。文明のこの局面は、動物の家畜化により可能にされた。アラブ人とアフリカ原住民は、最近の遊牧民族に属する。
遊牧生活は、食物奴隷からの更なる不安を除去した。人は、資本の利子で、すなわち群れの増加による生活を学んだ。そして、これが、文化と進歩のための更なる余暇を提供した。
前遊牧社会は、異性協力の社会であったが、畜産の普及が、女性を社会的な奴隷制の深みに陥れた。古くは、男が動物性の食料の確保、女が植物性の食料の調達をするのが務めであった。したがって、男が暮らしのための遊牧時代に入ると、女の威厳は大いに低下した。女は、生活に必要な野菜生産のためにまだこつこつ働かなければならないが、男は、ただ豊かにある動物性食物の調達に群れのところに行きさえすれば良いのである。その結果、男は女にあまり依存しなくなった。女性の地位は、遊牧時代全体を通して着実に衰えた。この時代の終わりまでには、群れの動物が、働き、子を産むことを期待されるように、女性は、作業をし、子を生むことを任され、かろうじて動物を越える存在となった。遊牧時代の男達は、家畜に対して大きな愛を持っていた。だから余計に、妻へのより深い愛情を育くまなかったということは残念なことであった。
4. 農業段階。この時代は、植物栽培化によってもたらされ、それは、物質文明の最高度の型を意味する。カリガスティアとアダームはともに、園芸と農業を教えようと努力した。アダームとハヴァーは、羊飼いではなく園芸家であり、当時、園芸は高度な文化であった。植物の育成は全人類に高尚化する影響を及ぼす。
農業は、世界における陸地と人間の割合を4倍強にした。それは、前の文化段階の遊牧従事と結合できるかもしれない。3段階が重なり合うとき、男は狩りをし、女は土を耕す。
牧夫と土の耕作者の間には常に摩擦がある。猟師と牧夫は、戦闘的で好戦的であった。農業家は、 ずっと平和主義型である。動物とのつながりは苦闘と勢力を示唆する。植物とのつながりは忍耐、平穏、および平和を植えつける。農業と産業は平和の活動である。しかし双方の弱点は、世界の社会的活動として興奮と冒険に欠けることである。
人間社会は、狩猟段階から牧夫のそれを経て領土的農業舞台へと発展した。そして、この段階的文明の各舞台では、次第に遊牧が少くなった。人はますます家に住み始めた。
そしてその結果、いま産業は、更なる都市化と市民階級の非農業集団の増加を伴い農業を補っている。しかし、もしその指導者達が、最高度の社会の発展でさえも、健全な農業基盤につねに依拠する必要があると見分けないならば、産業時代の存続を望むことはできない。
6. 文化の発展
人は、土からの生き物、自然の子である。いくら真剣に土地から逃れようとしても、帰するところ失敗は確かである。「人は塵であり、塵に戻る」は、文字通り全人類にり当てはまる。人の基本的葛藤は、過去に、現在に、そして未来にわたり陸にある。原始人の最初の社会的つながりは、これらの陸の苦闘に勝つ目的のためのものであった。陸地と人間の比率は、すべての社会文明の根底にある。
人の知力は、芸術と科学によって土地からの収穫を増加させた。同時に、子孫の自然増加は、いくらか抑えられ、その結果、文化面の文明の建設のための暮らしと自由時間が与えられた。
人間社会は、人口が直接陸の技術に合致し、与えられた生活水準に反比例して変化しなければならないと定める法によって支配される。これらの初期の時代を通じて、現在もさることながら、人と陸に関する需要と供給の法則が、双方の算定価格を決定した。人の需要は、豊富な土地—占有されていない領域—の時代ずっと大であり、したがって、人命の価値は、非常に強調された。故に、人命損失は、いっそう恐るべきものであった。土地不足とそれに伴う人口過剰の間、人命は、わりあいに軽んじられ、その結果、戦争、飢饉、および疫病にはそれほど関心がもたれなかった。
土地の生産高が減少するか、または人口が増加すると、避けられない苦闘が再び始まる。すると人間性の最悪の特徴が表面化する。土地生産高の改良、機械技術の拡大、人口減少の全ては、人間性のより良い測面の開発を促進する傾向がある。
開拓段階の社会は、未だ熟練さていない人類の側面を開発する。美術と真の科学の進歩は、陸地対人間の比率をわずかに下まわる農業人口と産業人口によって支えられるとき、精神文化と共に、すべてが、より大きな生活密集地で最もよく栄えてきた。都市は、常に善、悪いずれかに対し住民の力を増加させる。
家族の規模は、いつも生活標準の影響を受けてきた。家族は、確立した状態か、ゆるやかな消滅点に至るほどまでに標準が高ければ高いほどより小さいのである。
生活水準は、大昔からずっと存続する集団の単なる量とは対照的に質を決定してきた。地方階級の生活水準が、社会の新たな階級制度、すなわち新しい慣習をもたらす。人は、生活水準が複雑になり過ぎたり、極めて贅沢になり過ぎると、急速に自滅的になる。階級制は、高密度の人口がもたらした激しい競争の強い社会的圧力の直接的結果である。
初期の人種は、しばしば人口制限のために考案された習わしに頼った。すべての原始部族は、奇形や病弱な子供を殺した。女の嬰児は、妻の買い入れ時代以前は、頻繁に殺された。子供は、出生時に時々絞め殺されたが、好まれた方法は遺棄であった。多子出産は、呪術か背信のいずれかによるものと信じられていたことから、双子の父は、通常一児を殺すことを要求した。原則としては、しかしながら、同性の双子は容認された。双子に関するこれらの禁忌は、かつてほとんど世界共通であったが、決してアンドン系の慣習の一部ではなかった。これらの民族は、通常双子を好運の前兆と見なした。
多くの人種が、妊娠中絶技術を習得し、この習慣は、未婚者の出産禁忌体制後、ごく普通のことであった。未婚の少女がその子を殺すことは、長い間の習慣であったが、より文明的である集団の間では、これらの私生児は、その少女の母が後見人となった。多くの原始の氏族は、事実上、妊娠中絶と嬰児殺しの二つの習慣により絶滅した。しかし慣習の命令にもかかわらず、一度授乳されればその後では、ほんのわずかな子供しか殺されなかった—母性愛はとても強い。
20世紀においてでさえ、この原始の人口抑制の名残りを固持している。母が、3人か4人以上の子供を育てることを拒否する部族がオーストラリアにある。つい先頃、ある人食い部族は、5番目の子供が生まれる度に食した。マダガスカルでは、いくつかの部族は、今でも縁起の悪い日に生まれる子供すべてを殺しており、全乳児のおよそ25パーセントの死の結果をもたらしている。
人口過剰は、世界的観点からは決して過去の重大問題ではなかったが、もし戦争が減少し、科学が人間の病気を一層抑えるならば、それは、近い将来、重大問題になるかもしれない。そのような時、世界の指導者達の英知に大きな試練が、到来するであろう。ユランチアの支配者達は、超常的な集団と莫大に増加する普通以下の集団の両極端の代わりに平均的、あるいは安定した人間の生殖を助長するための洞察と勇気を持ち合わせるであろうか。健常な人間が育成されるべきである。健常な人間は、文明の大黒柱であり、突然変異の人種の特殊な才能の源である。普通以下の人間は、社会の調整の下に保たれるべきである。正常以下の人間は、動物よりも高い知能を要するのだが、より高度の人類の型にとっては紛れもなく奴隷状態であるそのような低い要求しかしない産業の低い段階の機能において必要とされる以上に生殖されるべきではない。
[かつてユランチアに配置されていたメルキゼデクによる提示]