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論文 174 寺院の火曜日の朝

論文 174

寺院の火曜日の朝

この火曜日の朝7時頃、イエスは、使徒、女性部隊、他の25人ほどの目だった弟子をサイモンの家で迎えた。かれは、この会合でラーザロスにペライアのフィラデルフィアに早く逃げさせることとなる指示を与えて別れを告げ、ラーザロスは、そこで後にその都に本部を置く伝道運動に関わることとなった。イエスは、高齢のサイモンにも別れを告げ、決して再び正式には述べることはなかったので、女性部隊に別れの際の助言を与えた。

この朝、イエスは、個人的に12人各自に挨拶をした。アンドレアスには、「すぐ先にある出来事で狼狽えてはいけない。同胞をしっかり掴まえ、君が意気消沈したとさとられないようにしなさい。」と言った。ペトロスには、「体の腕も鋼の武器も信用してはいけない。永遠の岩石の精霊的な基盤に自己をうち建てなさい。」と言った。ジェームスには、「外見ゆえに怯んではいけない。堅い信仰に留まりなさい。そうすれば、信じるその現実をすぐに知るであろう。」と言った。ヨハネには「穏やかでありなさい。敵をも愛しなさい。寛容でありなさい。そして、私が多くの事を君に任せてきたことを思い出しなさい。」と言った。ナサナエルには「外見で判断をしないように。すべてが消失しているように見えるとき、堅い信仰を持ち続けなさい。王国の大使としての使命に忠実でありなさい。」と言った。フィリッポスには「すぐに迫りくる出来事に冷静でありなさい。例え道を見ることができなくても、揺るぎないままでいなさい。聖職の誓いに忠誠でありなさい。」と言った。マタイオスには「君を王国に受け入れた慈悲というものを忘れないように。君の永遠の報酬を誰にもだまし取らせないように。死すべき者の自然の性癖に耐えてきたように、意志をもち、不動でいなさい。」と言った。トーマスには「それがどんなに難しくても、まさしく今は、視覚ではなく、信仰によって歩かなければならない。私は、始めた仕事を終えることができるということ、そして、私が、遂には向こうの王国で、私の忠実な全ての大使に会うということを疑ってはいけない。」と言った。アルフェウスの双子には「理解できないことに潰されてはいけない。心にある愛情に誠実であり、そして、偉人や人々の態度の変化のいずれにも信用を置いてはいけない。同胞を支援しなさい。」と言った。シーモン・ゼローテースには、「シーモン、君は失望に押し潰されるかもしれないが、君の精霊は、君が出くわすかもしれないすべてを超越するであろう。私から学び損ねたことを私の精霊が君に教える。精霊の真の現実を求め、非現実的で物質的な影に引きつけられることをやめなさい。」と言った。そして、ユダ・イスカリオテには「ユダ、私は、君を愛してきたし、君がその同胞を愛するように祈ってきた。善を行うことに飽きないように。そして、私は、滑りやすい世辞の道や毒のある嘲笑の投げ矢に注意するように警告しておきたい。」と言った。

これらの挨拶を終えると、他の使徒は、その夜皆で向かおうとしていた、そしてあるじの肉体での人生の残りの間の自分達の本部を作るゲッセマネの宿営所設立に出発するとともに、イエスは、アンドレアス、ペトロス、ジェームス、ヨハネと共にエルサレムに出発した。オリーヴ山への坂の半道程でイエスは止まり、1時間以上も4人の使徒達と雑談した。

1. 神の許し

数日間、ペトロスとジェームスは、罪の許しについてのあるじの教えに関する自分達の意見の相違を検討していた。二人は、イエスへの問題提示の同意に至り、ペトロスは、この時をあるじの助言を確保する好機として迎え入れた。それゆえサイモン・ペトロスは、「あるじさま、ジェームスと私は、罪の許しに関係するあなたの教えに一致していないのです。ジェームスは、我々が請う前にさえ、父はすでに我々を許すのだとあなたが教えていると主張します。私は、悔悟と懺悔が許しに先行しなければならないということを主張します。二人のうちどちらが正しいのですか。どうでしょう。」と切り出し、称賛と崇拝間の違いについての会話を遮った。

暫しの沈黙後、イエスは、意味深長に4人全員を見て答えた。「我が同胞よ、君達は、被創造物と創造者、人と神の間の親密で情愛深い関係の本質を理解していないので、それぞれの意見で誤っている。君達には、賢明な親が、未熟で時々間違っている子供に抱くその理解ある同情心の把握というものができていない。賢明で情愛深い両親は、平均的で普通の子供を許すことを要求されるかどうかは誠に疑わしい。愛の態度と関連した理解ある関係は、子供の悔悟と親の許しの再調整を後に必要とするようなすべてのそれらの疎遠を効果的に防いでいる。

「あらゆる父の部分が子の中に住む。父は、親子関係関係がある全ての問題において、理解の優先権と優越性を楽しむ。親は、より発達した親の円熟さ、年を取った方のより熟した経験に照らし合わせて子供の未熟さを見ることができる。地球の子と天なる父とでは、神性の親は、無限で神性の同情と愛ある理解への度量がある。神の許しは、必然である。それは、神の無限の理解において、子の誤った判断や誤りの選択に関わるすべてにおける神の完全な知識において、固有で譲渡できないものである。神の正義は、永遠に正しいので、それは絶えることなく慈悲を具体化している。

「賢者が仲間の内面の衝動を理解するとき、彼らを愛するであろう。そして、君達が兄弟を愛するとき、君達はすでに兄弟をを許したのである。人の本質を理解し、その見かけの悪行を許すこの能力は、神のようである。君が賢明な両親であるならば、これが、子供を愛し理解する態度、一時的な誤解が明らかに君を切り離してしまった時に許しさえする態度である。未熟で、父子関係の深さのより完全な理解を欠く子供は、父の完全な承認からの後ろめたい分離の感覚を頻繁に感じなければならないが、本物の父は、そのような分離を決して意識してはいない。罪は、被創造物の意識の経験である。それは、神の意識の一部ではない。

「君の仲間を許す能力の無さ、あるいは不本意さは、未熟さの尺度、つまり、大人の同情心、理解、愛を得ることへの失敗の尺度である。君は、自分の子供と仲間の内面の本質と本当の切望への自己の認識不足に正比例して、恨みを抱いたり復讐心を暖めている。愛は、命への神性の緩やかな働きであり、内なる衝動である。それは、理解に基づき、寡欲な奉仕によって育てられ、知恵で完成する。」

2. ユダヤ人支配者による質問

月曜日の夕方、筆記者、パリサイ派、サッヅカイオス派から選ばれたおよそ50人の追加の指導者とシネヅリオン派との間での協議会が行われていた。一般人の好情を掴んでいるイエスを公然と逮捕することは危険であるというのが、この会合の総意であった。また、逮捕と告発の前に、群衆の目前でイエスの信用を落とすべく決然たる努力が払われるべきであるということも、大多数の意見であった。従って、学問のある者の幾つかの班は、翌朝、寺院に参上し、イエスを難しい質問で罠にかけたり、そうでなければ、人々の前で恥をかかせる任に選定された。遂に、パリサイ派、サッヅカイオス派、ヘローデス党さえも全てが、、過ぎ越し祭りの群衆の目前でイエスの信用を落とすこの努力において連合した。

火曜日の朝、イエスが寺院の中庭に到着し教え始めた時、この目的のために予行演習をしていた学院からの若い学生班が進み出てきて、その代弁者が話かけたとき、イエスはまだわずかな言葉しか発していなかった。「あるじさま、我々は、あなたが公正な師だと知っていますし、、真実の道を宣言するということ、神だけに仕えているので誰をも恐れないということ、人々を差別する方でないということを知っています。私達は、学生にすぎません、そして、私達を煩わす問題について真実を知りたいのです。私達の困難はこれです。私達がケーサーに納税することは律法に適っていますか。渡すべきですか、そうすべきではないのでしょうか。」イエスは、彼らの偽善と小賢しさを見抜いて言った。「何故そのように私を唆せに来たのか。私に納税の金を見せなさい。そうすれば、答えてあげよう。」そこで、彼らがデナリウス銀貨を手渡すと、それを見てイエスは、「この硬貨には誰の像と表記があるか。」と言った。そこで、「ケーサーのものです。」と、答えると、「ケーサーのものはケーサーに、神のものは神に提供しなさい。」とイエスは言った。

かれがこう答えると、これらの若い筆記者とヘローデス党の共犯者達は、イエスの前から撤退し、人々は、サッヅカイオス派でさえ、これらの者達の困惑を面白がった。罠にかけようと努めた若者達でさえ、あるじの答えの予想外の明敏さに大いに驚嘆した。

前日、支配者は、教会の権限の問題で群衆の前でイエスを躓かせようとして失敗し、今度は、民間当局の議論に巻き込んで痛手を与えようとした。このとき、ピラトゥスとヘロデの二人は、エルサレムにおり、イエスの敵は、イエスが敢えてケーサーへの納税の支払いに対して忠告するならば、すぐにローマ当局に行き、扇動の嫌疑で告発することができると推測した。これに反してはっきりと納税の支払いを勧めるならば、そのような見解がユダヤ人の聴衆の国家的な自負心を大いに傷つけ、その結果、群衆の善意と好情を疎外させると、敵は、正しく目算した。

「鋳造の権利は、それと共に徴税の権利を伴う」という裁決は、非ユダヤ人の国々に分散するユダヤ人の指導のために設けられたシネヅリオン派の有名な裁決であったので、イエスの敵は、この全てにおいて破られた。イエスは、この方法で彼らの罠を避けた。質問に「いいえ」と答えていたならば、反逆を教唆することと同じであったし、「はい」と答えていたならば、当時の根強い国家主義的な感情に衝撃を与えていたことであろう。あるじは、質問を決して回避しなかった。かれは、単に二重回答をする知恵を使ったに過ぎなかった。イエスは、決して回避的ではなかったが、自分を悩ませ滅ぼそうとする者とのやりとりにおいていつも賢明であった。

3. サッヅカイオス派と復活

イエスが教えを開始できる前に、別の集団が、今回は学識のある狡猾なサドカイ派の一団が、質問のために進み出てきた。その代表者は近づいてきて言った。「あるじさま、モーシェは、既婚の男性が子供もないままで死ぬようなことがあれば、その兄弟が、死んだ兄弟のために妻をめとり、子をもうけなければならないと言いました。さて、6人の兄弟を持つある男が子供のないまま死んだ例がありました。すぐ下の弟が兄の妻をめとりましたが、子無しですぐまた死んでしまいました。同様に、2番目の弟がその妻をめとり、また子のないまま死にました。同じように、6人全ての弟がその妻をめとり、子供のできないままで6人が皆亡くなりました。そして、全員の死後、女性自身も死んでしまいました。さて、私達が尋ねたいことはこれです。この兄弟7人全員が妻にしましたので、この女性は、復活の際、誰の妻となるのでしょうか。」

イエスは、そして人々も、そのような例は実際起こりそうにもないということから、これらのサドカイ派は、誠意をもってこの質問をしていないということが分かっていた。そのうえ、死んだ男性の兄弟が子供を儲けようとするこの習慣は、このときのユダヤ人の間では、実際上は廃れたものとなっていた。それでも、イエスは、彼らの悪戯な質問に威張ることなく答えた。かれは、「あなた方は聖書も、生ける神の力も知らないので、そのような質問に際し、皆、間違いをする。あなた方は、この世の息子が、結婚したり、縁づいたりもできるということは知っているようであるが、正しい復活で来たるべき世界に達するに相応しい者は、結婚も、縁づきもしないということは理解していないらしい。死者の中からの復活を経験する人々は、天上の天使に似ており、決して死なない。これらの復活した者は、永遠に神の息子である。かれらは、永遠の命の進展に復活する光の子供等である。そして、あなた方の父のモーシェでさえ、これを理解した、というのも、燃える柴の彼の経験に関して、『私はアブラーハームの神であり、イサクの神であり、ヤコブの神である。』と、父が言うのを聞いたのであるから。そして、私は、モーシェと共に、父が死者の神ではなく、生ける神であると宣言する。あなた方全員は、神の中に生き、再生して、人間生活をする。」

イエスがこれらの質問に答え終えると、サドカイ派は、撤退し、「本当です、本当です、あるじさま、これらの不信心なサドカイ派によく答えてくれました。」とパリサイ派の数人は、我を忘れるほどに主張するほどであった。サドカイ派は、それ以上の質問を敢えてしようとはせず、一般人は、イエスの教えの知恵に驚嘆した。

イエスは、この宗教政治の宗派が、5書、いわゆるモーシェの書のみの正当性を承認していたことから、サドカイ派との対戦においてモーシェにのみ訴えた。かれらは、予言者の教えが、教理上の教義の基礎として容認しなかった。答えるに当たりあるじは、復活の手段による必滅の被創造物の生存事実を前向きに肯定しながらも、文字通りの人体復活というパリサイ派の信念についていかなる点においても賛成して話しはしなかった。イエスが強調したかった点は、次の通りであった。父が、『私は、アブラーハームとイサクとヤコブの神である。』と、言ったことであり、彼らの神であったということではなかった。

サドカイ派は、公然の迫害が、群衆の心に最も確実にそれまで以上の同情を生み出すことを熟知しており、嘲笑によりイエスをひるませるようと考え抜いてきた。

4. 大いなる戒め

サドカイ派の別の一団が、天使に関する紛議を醸す質問をイエスにするように指示されていたが、復活に関する質問で罠にかけようとした仲間の運命を視たとき、非常に賢明にも黙っていることにした。かれらは、質問することなく引きさがった。まる一日をこれらの紛議を醸す質問で満たし、そうすることにより、人々の前でイエスを落としめ、同時にイエスが、不穏な教えの公布のためのいかなる時間をも得ることのないように効果的に防ぐことは、事前の打ち合せで盟約しているパリサイ派、筆記者、サドカイ派、ヘローデス党の計画であった。

それからパリサイ派の中の1集団が、悩ます質問をするために前方に来て、代弁者が、イエスに合図をして言った。「あるじさま、私は法律家であります。あなたの意見では、いずれが最も偉大な戒めであるかをお尋ねしたいのです。」イエスは答えた。「1つの戒めしかなく、それは何よりも偉大であり、その戒めは次の通りである。『イスラエルよ、聞け。私達の主である神は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、神である主を愛せよ。』これが、最初で、しかも偉大な戒めである。そして、第2の戒めは、この最初に似ている。いかにも、直接そこから発しており、『自分を愛するように隣人を愛せよ。』というものである。これらの戒めより偉大なものは他にはない。すべての法と予言者達とが、この2つの戒律に寄りかかっている。」

この律法学者は、イエスがユダヤ人宗教の最高の概念通りだけではなく、集いきた群衆の目にもまた賢明に答えたと認めた時、あるじの答を公然と称賛することを勇気の大半であると考えた。従って、「あるじさま、その通りです。心を尽くし、思いをを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、神である主を愛せよ。』これが、最初で、しかも偉大なる戒めである。そして、第2の戒めは、この最初に似ている。いかにも、直接そこから発しており、『自分を愛するように隣人を愛せよ。』あなたは、神は唯一であり、他にはいないということ、そして、心と理解と強さの全てで神を愛すること、また自らを愛するように隣人を愛することが、最初で偉大な戒めであると、よく仰っしゃいました。私達は、すべての焼いた供物と犠牲によりもこの偉大な戒めに、はるかに敬意を払うべきであるということに同意します。」と言った。律法学者がこのように慎重に答えると、イエスは、彼を見下ろして、「友よ、私は、あなたが神の王国から遠くないところにいると見受ける。」と言った。

この律法学者に「王国から遠くない」と言及したとき、イエスは、真実を語ったのであった。というのは、まさしくその夜、この律法学者は、ゲッセマネ近くのあるじの宿営所に出かけ、王国の福音の信仰を告白し、アブネーの弟子の一人ヨシアの洗礼を受けたのであった。

筆記者とパリサイ派の他の2、3の他の団体が、出席しており、質問するつもりでいたが、律法学者へのイエスの答えによって武装を解かれたのか、または、罠に嵌めることを引き受けたすべての者の敗北に阻止されたかのいずれかであった。この後、誰もイエスに敢えて公然と質問をしなかった。

それ以上の質問が出るようすもなく、正午が近づいていたので、イエスは、教えを再開せず、単にパリサイ派とその仲間に質問することで満足していた。イエスは言った。「あなた方がもう質問をしないので、私の方から1つ尋ねたい。救出者をどう思われますか。すなわち、救出者は誰の息子ですか。」短い間をおいて、筆記者の一人が、「救世主は、ダーヴィドの息子です。」と答えた。そして、イエスは、救世主がダーヴィドの息子であったかどうかに関して盛んな討論があったこと、弟子の間でさえあったことを知っていたので、さらに次の質問をした。「救出者が本当にダーヴィドの息子であるならば、あなた方が認める詩篇で、ダーヴィド自身が、精霊に鼓舞されて話し、『主は私の主に言われた。私があなたの敵をあなたの足台にするまで、私の右の座に着いていなさい。』とは、どういう訳ですか。もしダーヴィドが、自身を主と呼ぶならば、では、かれは、どうして自分の息子であり得るのでしょうか。」支配者、筆記者、祭司長等は、この質問に答えず、同様に、イエスを困らせるためのそれ以上の質問をするのを控えた。イエスのこの質問に決して答えなかったが、かれらは、あるじの死後、救世主の代わりにアブラーハームに言及するためにこの詩篇の解釈を変えることによって困難を避けようとした。他の者達は、ダーヴィドが、いわゆるこの救世主の詩篇の作者であったということを認めないことで窮地から逃れようとした。

パリサイ派は、ほんの少し前、サドカイ派が、あるじに黙らされた様子を楽しんでいた。そのときサドカイ派は、パリサイ派の失敗を喜んでいたが、そのような競争は、ほんの瞬間のことであった。かれらは、イエスの教えと行動を止める連合努力において、自分達の古くからの違いを速やかに忘れた。しかし、民衆は、これらの経験のすべてを通じてイエスの言うことを快く聞いていた。

5. 好奇心の旺盛なギリシア人

正午頃、フィリッポスは、その日ゲッセマネ近くに設けられた新しい宿営所のための必要物資の購入をしていると、見知らぬ代表団が、アレキサンドリア、アテネ、ローマからのギリシア人の信者の団体が、無遠慮に接近し、その代弁者がこの使徒に言った。「あなた方を知る人々に指し示されて、先生、私達は、あなたのあるじさま、イエスさまに会うという願いで来たという訳です。」フィリッポスは、市場でこれらの目立つ、しかも好奇心の旺盛なギリシアの非ユダヤ人にこのように出会い、不意を打たれ、また、イエスが過ぎ越し祭りの週の間、いかなる公けの教えにも従事しないように、あれほど明白に12人全員に託していたので、この件を扱う正しい方法にいささか当惑した。かれは、これらの男性が外国の非ユダヤ人であったのにも当惑した。彼らが、ユダヤ人または近くて馴染みのある非ユダヤ人であったならば、それほどまでに著しく躊躇しなかったであろうに。彼がしたことはこうであった。かれは、ギリシア人がいたところにそのまま残るように頼んだ。フィリッポスが急いでその場を離れたので、ギリシア人達は、イエスを探しに行ったのだと思ったが、実際かれは、アンドレアスと他の使徒が昼食にきているのを知り、ヨセフの家へ急いだのであった。そして、アンドレアスを呼び出し、自分が来た目的を説明し、それから、アンドレアスに伴われ、待っているギリシア人の元に戻っていった。

フィリッポスは、物資購入もほとんど終わってたいたので、アンドレアスとともにギリシア人を連れてヨセフの家に帰り、そこで、イエスは、彼らを迎え入れた。そして、イエスが使徒とこの昼食会に集合した主だった弟子達に話す間、彼らは近くに座っていた。イエスは言った。

「私の父は、人の子への父の慈愛を示すために私をこの世界に差し向けたが、私が最初に目差して来た人々は、私を迎えることを拒否した。本当に、本当に、あなた方の多くは、自分のために私の福音を信じてきたが、アブラーハームの子孫とその指導者達は、私を拒絶しようとしているし、そうすることにより、かれらは、私を送ったあの方を拒絶しているのである。私は、この民族に救済の福音を率直に宣言してきた。精霊における歓喜と自由と、より豊かな生活を伴う息子性について話してきた。私の父は、恐怖に支配されているこれらの人の息子の間で、多くの素晴らしい働きをしてきた。しかし、本当のところ、次のように書いたとき、イェシャジャは、この民族に言及したのであった。『主よ、誰が我々の教えを信じていましたか。また、主は誰に示されましたか。』本当に、私の民族の指導者達は、彼らが見ないために自分達の目を故意にくらませ、信じもせず、救われないために心を堅くした。長年私は、彼らが、父の永遠の救済の享受者であり得るように彼らの不信心を癒そうとをしてきた。私は、全ての者が、私の期待を裏切った訳ではないことを知っている。あなたの一部は、本当に私の言葉を信じた。この部屋に、かつてのシネヅリオン派の構成員であったり、国の議会で高位にいた者達がいる、とはいえ、あなた方の一部は、彼らが、会堂からあなたを追放しないようにおおっぴらの真実の告白について逡巡している。あなた方の一部は、神の栄光よりも人の栄光を愛したがっている。しかし、私は、本当に長く近くにいる者達の何人かについてでさえ、そしてとても真近に暮らした者達の安全と忠誠を気遣っているので、私は忍耐を示さざるを得ない。

「この宴会の場に、同数のユダヤ人と非ユダヤ人が集まっていると見受け、私は、父のところに行く前に、王国の事柄について教えることのできる最初で最後のそのような集団としてあなた方に向けて言いたい。」

これらのギリシア人は、寺院でのイエスの教えの忠実な出席者であった。月曜日の夕方、ニコーデモスの家で会議を開催し、それは、その日の夜明けまで続き、そのうちの30人が王国に入ることにした。

このとき皆の前に立ったとき、イエスは、配剤の1つの終わりともう1つの始まりを知覚した。ギリシア人の方に注目して、あるじは言った。

「この福音を信じる者は、単に私を信じるのではなく、私を送られたあの方を信じるのである。私を見るとき、あなたは、単に人の息子を見ているのではなく、私を送られたあの方をも見ている。私は世の光であり、私の教えを信じる者は誰でも、暗闇には留まらないのである。もしあなた方非ユダヤ人が、私の言葉を聞くならば、あなた方は、生命の言葉を受け取り、神との息子性の真実の喜ばしい自由の中へ直ちに入る。同国の仲間達が、ユダヤ人達が、私を拒絶し、私の教えを拒否することを選んでも、私は、彼等を裁きはしない。私は、世界を裁きにきたのではなく、世界に救済を申し出にきたのであるから。にもかかわらず、私を拒絶し、私の教えの受け入れを拒否する者達は、しかるべき時機が来れば、父、そして、慈悲の贈り物と救済の真実を拒絶する者達を裁くために父に任命された者達による審判に連れてこられるであろう。あなた方全員、覚えていなさい、私は自分自身について話してはいないということを、しかし、人の子等に明らかにすべきであるという父の命令をあなた方に忠実に宣言してきたということを。そして、父が、私に世界に向かって話せと指示されたこれらの知らせは、神性の真実、恒久の慈悲、永遠の命についての教えである。

だが、わたしは、人の息子が賛美される時が来ようとしていると、ユダヤ人と非ユダヤ人の双方に断言する。あなたは、一粒の小麦が地に落ちて死ななければ、それは、一粒のままであるということをよく知っている。しかし、良い土壌で死ぬならば、それは、再び命を吹き返し多くの実をつける。身勝手に自分の命を愛しむ者は、それを失う危険に曝されている。しかし、私のため、また福音のために進んで命を捨てようとする者は、地上においてはより豊かな人生を、天においては永遠なる命を楽しむのである。本当に私について来るならば、私が父の元に行った後でさえ、あなたは、私の弟子となり、仲間の人間の誠実な召し使いになるのである。

「わたしは、私の時間が近づいていることを知っており、当惑している。私の民族が断固として王国を拒もうとしていることを察知しているが、わたしは、光の道について尋ねに今日ここに来たこれらの真実を求める非ユダヤ人を迎えて喜んでいる。それでも、私の心は、私の民族のために痛み、私の魂は、すぐ前に待ち受けているそれによって取り乱されている。私が先を見、私に起ころうとしていることを見分けるにつけ、何と言ったらいいのか。このとんでもない時間から救ってくださいと父に言おうか。いや。まさしくこの目的のためにこそ、私は、この世界に来たのである、このような時にさえ。むしろ、私は、言うし、あなた方が私に加わるように祈る。父よ、あなたの名が崇められますように。あなたの意志がなされますように。」

イエスがこのように話したとき、洗礼前に内在していた専属調整者が、イエスの前に現れ、そしてイエスが目立って一瞬止まっている間、そのとき、父の代理の強力な精霊が、ナザレのイエスに話して、「わたしは、何回もあなたの贈与において自分の名に栄光をもたらしてきた。そして、わたしは、もう一度、それに栄光をもたらすつもりである。」

ここに集うユダヤ人と非ユダヤ人は、声を聞きはしなかったが、何らかの超人的な源から通信が来る間、あるじが話すのを止めてしまったということを認識することができた。彼らは皆、彼の側にいる者同志で、「天使が彼に話した」と言い合った。

それから、イエスは、話し続けた。「この全ては私のために起こるのではなく、あなた方のために起こった。私は、父が望んで私を迎え、あなた方のために私の任務を受け入れるということを確かに知っているが、あなた方が、勇気づけられ、ちょうどすぐ先にある火のような試煉のために用意ができていることが必要である。勝利は、結局、世界を照らし、人類を解放するための我々の連合した努力に報いるということを、私が請け合う。古い秩序は、それ自体を裁きへともたらす。私は、この世界の王子を打倒した。そして、私が天の父の元に昇った後、すべての人が、すべての人に私が注ぐ精霊の光で自由になるのである。

「そして私が、もし地球で、そしてあなたの人生で持ち上げられるならば、私は、すべての人を私自身に、そして父との親交に引き寄せるということを、今あなたに断言する。あなたは、救出者がいつまでも地球にとどまると信じていたが、私は、人の息子が人に拒絶されるということ、また彼が父の元に戻るということを断言する。私は、ほんの少しの間だけあなたと共にいる。ほんの少しの時間だけ、生きた光が、この暗い世代の間にある。接近する闇と混乱があなたを襲うことのないように、この光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くかを知らないが、光の中を歩くことを選ぶならば、本当に、あなた方は皆、神の解放された息子になるであろう。さて、我々は寺院に戻るので、あなた方は全員、私と共に来なさい。そして、私は、祭司長、筆記者、パリサイ派、サドカイ派、ヘローデス党、イスラエルの無知な支配者達に送別の言葉を伝える。」

このように話して、イエスは、エルサレムの狭い通りを先頭に立ち寺院へと戻っていった。これが、寺院での送別の訓話になるとあるじが言うのを聞き、かれらは、黙って、また深い思索でイエスの後に続いた。