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論文 170 天の王国

論文 170

天の王国

3月11日、土曜日の午後、イエスは、ペラでの最後の説教をした。これは、天の王国についての十分かつ徹底した議論を含む公への宣教の中で注目に値する演説に属するものであった。かれは、自分が互換がきくものとして贈与任務の名称に使用した「天の王国」と「神の王国」の用語の意味と重要性に関し、使徒と弟子達の心の中の混乱に気づいていた。用語、天の王国そのものは、地球の王国とこの世の政治とのすべての関係から切り離したものを表すに足りるはずであったが、そうではなかった。ユダヤ人のこの世の王についての考えは、一世代で除去するにはその心にあまりにも深く根ざしていた。そのために、イエスは、初めのうちは、この長く養われてきた王国の概念に公然とは反対しなかった。

この安息日の午後、あるじは、天の王国についての教えをはっきりさせようとした。かれは、あらゆる観点から問題を検討し、用語が使用された多くの異なった観念を明らかにする努力をした。この報告では、以前イエスがした数多くの声明に加え、また、同日の夜の議論の中での使徒だけに与えた幾つかの所見を含んで詳述するつもりである。我々は、また、後のキリスト教会に関連して、王国の考えのその後の発展に関しても幾つかの注釈を確実にするつもりである。

1. 天の王国の概念

イエスの説教の詳述に関し、ヘブライ語聖書を通して天の王国の二つの概念がある点に留意する必要がある。予言者達は、次のように神の王国を提示した。

1. 現時点の実現、また、

2. 未来の希望として—救世主の出現により王国が完全に実現される時。これは、洗礼者ヨハネが教えた王国の概念である。

イエスと使徒は、そもそもの初めから両方の概念を教えた。心に留めおかれるべき王国の他の2つの考えがあった。

3. 超自然の源と奇跡的な正式の開始からくる世界的、かつ超越的な王国に関する後のユダヤ人の概念。

4. 世の終わりに際し、悪に対する勝利の成就として、神の王国の設立を描くペルシア文化の教え。

地球上のイエスの出現直前に、ユダヤ人は、王国に関するこれらのすべての考えを、ユダヤ人の勝利の時代、地球の神の最高の支配である新しい世界の永遠に続く時代、全人類が、ヤハウェを崇拝する時代を設立するために救世主到来に関する黙示の概念に結びつけて混同した。天の王国のこの概念を採用するに当たり、イエスは、最も重大で、また頂点に達しているユダヤ人とペルシアの両宗教の遺産を充用することを選んだ。

それがキリスト紀元の世紀を通して理解され、しかも誤解されているように、天の王国は異なる4集団の考えを含んだ。

1. ユダヤ人の概念

2. ペルシア人の概念

3. イエスの個人の経験の概念—「人の内なる天の王国」

4. 世界に銘記させようとしたキリスト教創設者と公布者達の持つ複合的かつ混乱した概念。

イエスは、公への教えに際し、異なる時に、そして異なる状況において、「王国」に関する多くの概念を示したように見えるかもしれないが、使徒には、地球の仲間との、そして天の父との関係における個人の経験を迎え入れるものとしての王国を常に教えた。王国に関係する締め括りの言葉は、常に「人の内に王国がある」であった。

用語「天の王国」の意味に関する何世紀にもわたる混乱は、3つの要因にある。

1. イエスと使徒によるその作り直しにおける様々な進歩的な段階を経るにつれ、「王国」の考えを観測することによって引き起こされる混乱。

2.ユダヤ人から非ユダヤ人の土壌への早期のキリスト教移植と不可避に関係した混乱。

3. キリスト教が人としてのイエスを中心に組織化された宗教になったという事実に固有の混乱。王国の福音は、ますますイエスに関する宗教になった。

2.王国についてのイエスの概念

あるじは、天の王国が、神の父性の真実と人の兄弟愛の関連事実の二元的概念に始まらなければならないし、それに集中しなければならないことを断言した。イエスが宣言したそのような教育の受け入れは、動物的な恐怖の古い束縛から人を解放し、同時に、次のような精霊的な自由の新しい人生の付与で人間の生活を豊かにするであろう。

1. 新たな勇気と増大された精霊的な力の所有。王国の福音は、人を解放し、永遠の命へ勇気をもって望むように奮い立たせることであった。

2.福音は、すべての人への、貧乏人にさえの、新たな自信と真の安らぎに関する言葉を伝えた。

3. それは、道徳価値の新基準、人間の行為を測定するための新しい倫理的な物差しがそれ自体にあった。それは、人間社会の新しい秩序から来る理想を描いた。

4. それは、物質と比較しての精霊的なものの優位性を教えた。それは、精霊的な現実を称賛し、超人的な理想を発揚した。

5. この新しい福音は、真の生き方の目標として、精霊的な到達を示した。人間の人生は、道徳的な価値と神の威厳の新しい付与を受けた。

6. イエスは、永遠の現実が、この世での正しい努力の結果(報酬)であると教えた。地球での死を免れない人の滞在は、貴い目標の認識の結果として起こる新しい意味をもたらした。

7. 新しい福音は、人間の救済が、神の救われた息子達の限りない奉仕からくる未来の目標で成し遂げられ、実現されるために遠大な神の目的の顕示であることを断言した。

これらの教えは、イエスが教えた王国の拡大された考えを含んでいる。この重要な概念は、洗礼者ヨハネによる王国の基本的な教えの中にはほとんど含まれず、しかも混乱していた。

使徒は、王国に関してあるじの発言の真の意味を理解することができなかった。新約聖書に記されているように、イエスの教えのその後の歪みは、福音著者達の概念がイエスがほんの短い時間だけ世界を離れていたという確信でに色付けされていることにある。彼が力と栄光で王国を樹立するためにすぐに戻るだろうということ—彼が、人間の姿で自分達と共にいる間に彼らが抱いていたようなちょうどそのような考え。しかし、イエスは、王国設立をこの世界への帰還の考えと繋ぎ合わせはしなかった。何世紀もが「新時代」の登場なくして過ぎていったということは、いかなる点においてもイエスの教えと調和している。

この説教に表現される大きな努力は、天の王国の概念を神の意志を行うという考えの理想に変換する試みであった。あるじは、長い間、「王国は来る。あなたの意志が為される。」と祈ることを追随者に教えた。そして、このとき、かれは、より実際的な同等な物、つまり神の意志の代用となるように神の王国という語の使用の断念を説得しようとした。しかし、成功しなかった。

イエスは、王国、王、臣下についての考えを、天の家族、天なる父、仲間への楽しく自発的な奉仕と父なる神への崇高かつ知的な崇拝に従事する神の解放された息子達の概念に置き換えることを望んでいた。

この時点までに、使徒は、王国に対して二つの観点を得ていた。かれらは、次のように考えた。

1. 真の信者の心にある個人の、そのときの経験の問題

2. 民族的であるか、あるいは世界現象の問題。王国は未来に存在し、楽しみとする何かであるということ。

かれらは、パン生地のパン種、またはカラシナの種の成長のようにゆるやかな変化として人の心の王国の接近を見た。かれらは、民族的、世界的意味における王国の到来は、突然、かつ壮観であると信じた。イエスは、天の王国が、精霊的な生活のより高い特質にいたる個人の経験であるということ、精霊的な経験のこれらの現実が、神性の確実性と永遠の壮大さの新しくより高い段階に次第に移されるということを使徒達に伝えることに決して飽きることはなかった。

この日の午後、あるじは、次の二局面を描写して王国の二重の特質の新概念を明確に教えた。

「第一に、現世の神の王国、神の意志を為すという最高の願望、倫理的かつ道徳的な行為の良い成果をもたらす人の寡欲な愛。

「第二に、天の神の王国、死すべき運命にある信者の目標、神への愛が完全にされる状態、そこで神の意志がより神らしくされる状態。」

イエスは、信仰により、いま信者が王国に入るということを教えた。かれは、様々な講話において王国への信仰の入り口への不可欠なの2つことがあることを教えた。

1. 信仰、誠意。幼子として来ること、贈り物として息子性の付与を受けること。問わずして、かつ父の叡知への完全な信用と本物の信頼をもって父の意志を為すことを承服すること。偏見と先入観をもたずに王国に入ること。甘やかされていない子供のように心を開いてよく教えをきくこと。

2.真実への切望。正義への熱望、心の変化、神に似ることと神を見つけることへの動機の獲得。

イエスは、罪が、欠陥ある性質の子ではなく、むしろ従順でない意志に支配されることを承知した心の子であると教えた。罪に関して、かれは、神が許したということを教えた。我々が、仲間を許す行為によってそのような許しを個人的に利用できるようにするということ。肉体の兄弟を許すことにより、自身の悪行に対して神の許しの現実の受容のために自身の魂に収容能力をつくる。

使徒ヨハネが、イエスの人生と教えについての話を書き始める頃には、初期のキリスト教徒は、迫害の育成者としての神の王国の思想との多くの問題を経験したので、用語の使用を大幅に諦めた。ヨハネは、「永遠の命」について多く語っている。イエスは、それについて「命の王国」としばしば言っていた。かれはまた頻繁に、あなたの内の神の王国」として言及した。イエスは、かつて「父なる神との家族の親交」としてそのような経験について話した。イエスは、王国の代わりに多くの用語を用いようとしたがいつもうまくいかなかった。他に使用した用語の中には、神の家族、父の意志、神の友人、信者の親交、人の兄弟愛、父の羊の群れ、神の子、信仰に厚い者の親交、父への奉仕、神の解放された息子などがあった。

だが、イエスは、王国思想の使用を逃れることができなかった。王国のこの概念が、永遠の命の信仰に変化の始まりは、急速に広がり、結晶化するキリスト教会が、その社会的、かつ制度的な局面を攻略したとき、50年以上も、すなわちローマ軍によるエルサレムの破壊後までなかった。

3. 正義に関連して

イエスは、使徒と弟子が、信仰を通じて、筆記者とパリサイ派の一部が非常に自惚れて世界に顕示した隷属的行為の正義を超える正義を身につけなければならないということを常々彼らに印象づけようとした。

イエスは、信仰が、純真で無邪気な信念が、王国の戸への鍵であることを教え、また、一旦その戸を入ったならば、信じるすべての子供が、神の強健な息子の最大限の背丈にまで成長するために昇らなければならない正義の進歩的な段階があるということを教えた。

神の許しを受ける手段を考慮に入れるとき、王国の正義の到達が明らかにされる。信仰は、神の家族へ入るために支払う代価である。しかし、許しは、信仰を参入料として受け入れる神の行為であり、王国の信者による神の許しの受領は、明白で実際の経験を伴い、次の4段階、つまり王国の内的正義の段階がある。

1. 神の許しは、人がその仲間を許す限りにおいて実際に得られ、個人的に経験される。

2. 人は、自分を愛するようにその仲間が好きでない限り、本当には彼等を許さないであろう。

3. このように、自分を愛するように隣人を愛することは、最も高い倫理である。

4. 道徳的行為は、真の正義は、こうして、そのような愛の自然の結果となる。

したがって、王国の真の、かつ内側の宗教は、絶えず、ますます社会奉仕の実際的な手段に現れる傾向があるということが明白である。イエスは、その信者が、愛からの奉仕行為に従事せずにはいられないような生ける宗教を教えた。だが、イエスは、倫理を宗教に代置しなかった。動因としての宗教と、結果としての倫理を教えた。

どんな行為の正義も、動機によって評価されなければならない。したがって、善の最高の形態は無意識である。イエスは、道徳、あるいは倫理といったものに決して関与しなかった。かれは、人に対する外向きの、そして情愛深い奉仕としてそれ自体が非常に確かに、そして直接現れる父なる神との内向きの、そして精霊的な親交に完全に関与した。かれは、王国の宗教は、人が自分の中に含むことのできない本物の個人の経験であること、信者の家族の一員である意識は、必然的に家族行為に関する教訓の実行、つまり、兄弟愛を高め拡大する努力において人の兄弟姉妹への奉仕に通じるということを教えた。

王国の宗教は、直接的であり個人的である。その実は、その結果は、家族的で社会的である。イエスは、共同体と対比しての個人の神聖さを高めることを決して怠らなかった。しかし、かれは、人が、寡欲な奉仕によってその性格を開発する、仲間との愛する関係において自分の道徳的な本質を繰り広げる、と認めもした。

イエスは、王国は内にあるという教えにより、個人を高めることにより、真の社会正義の新しい配剤の到来をもたらし、古い社会に致命的な打撃を与えた。世界は、天の王国の福音の原理を実践することを拒否したので、この社会この新しい秩序についてほとんど知らなかった。そして、精霊的な優越性のこの王国が、地球に出現するとき、それは、単なる改善された社会的、および物質的な状況で明らかにされるのではなく、むしろ、改善された人間関係と進歩する精霊的な達成の接近時代に特有の高められ豊かにされた精霊的な価値の栄光で表されるであろう。

4.王国に関するイエスの教え

イエスは、決してはっきりした王国の定義を与えなかった。一時は、王国の1局面について教え、別の機会には、人の心における神の支配の兄弟愛の異なる面について議論したのであった。イエスは、この安息日の午後の説教の中で少なくとも王国の5つの局面、または時代に言及したが、それらは次の通りであった。

1. 父なる神との個々の信者の親交の精霊的な生活における個人的で内なる経験。

2. 福音の信者の拡大する兄弟愛、個々の信者の心における神の精霊の支配からくる高められた道徳と速められた倫理の社会的局面。

3. 地球と天国において優勢である目に見えない精霊的な存在体の超必滅者の兄弟愛、神の超人的王国。

4. 神の意志のよる完全な遂行の見込み、改善された精霊的な生活に関する新しい社会秩序の夜明けに向けての前進—人間の次の時代。

5. 全てが満たされている王国、地球の光と命の将来の精霊的な時代。

それ故に、我々は、イエスが、用語天の王国を使用する際に参照しているかもしれないこれらの5つの局面を確かめるためにあるじの教えをいつも考察しなければならない。徐々に変化する人の意志のこの過程により、また、このように人間の決定に影響をおよぼすことにより、ミカエルとその仲間は、人間の発展、社会の発展、またはその他の発展の全過程を同様に徐々に、しかも確実に変えている。

あるじは、この時に王国の福音の基本的な特徴を表して次の5点を強調した。

1. 個人の優越性。

2. 人の経験における決定要因としての意志。

3. 父なる神との精霊的な親交。

4. 人への愛ある奉仕の最高の満足感。

5. 人間の人格における物質的なものに対する精霊的なものの超越

この世界では、イエスの天の王国の教義についてのこれらの豪快な考えと神の理想を決して真剣に、心からまたは正直に試したことがなかった。しかし、人は、ユランチアにおける王国の考えの明らかに遅い進展に落胆すべきではない。漸進的な進化の秩序は、物質と精霊の両方の世界における突然の、予想外の終期的な変化を免れないということを心しなさい。肉体を与えられた息子としてのイエスの贈与は、世界の精霊的な生活において、まさにそのように奇妙で予期されない出来事であった。また、王国の時代の実現を探すにあたり、自身の魂にその設立をしないという致命的な過ちを犯してはいけない。

イエスは、王国の1局面が未来にあると言って、そのような出来事が、世界危機の一部として現れるかもしれないということを数多くの機会に仄めかしたのであった。そしていつかユランチアに戻ると確かに、幾度も、はっきりと約束はしたが、イエスは、これらの2つの考えを決して明確には結びつけなかったということが、記録されなければならない。かれは、地上に、そして将来、新しい王国の顕示を約束した。また、かれは、自らがいつかこの世界に戻るとも約束した。しかし、これらの2回の出来事が同義であるとは言わなかった。我々が知る限りにおいて、これらの約束は、同じ出来事を示しているかもしれないし、そうではないかもしれない。

使徒と弟子は、これらの2つの教えを最も確かに結びつけた。彼らは、期待したようには王国が具体化しなかったとき、あるじの未来の王国に関する教えを思い出し、再び来るという約束を思い起こし、これらの約束が同じ出来事に言及しているという結論に飛びついた。したがって、その完全さと力と栄光で王国樹立のために、イエスの即座の再臨の望みに生きた。そして、後続の信じる世代も、奮い立たせはするが、期待はずれの同様の望みを抱いて地球で生きた。

5. 王国についての後の考え

天の王国に関するイエスの教えを纏めたことであり、我々には王国の概念に添付されたその後のある考えを述べること、来たる時代に発展するように王国の予言的な予測に従事することが許される。

キリスト教徒の宣伝の最初の世紀を通して、天の王国についての考えは、当時急速に普及していたギリシア理想主義の概念、精霊の影としての自然なものについての考え—永遠によって映し出された時の影としての時間の中の出来事—に非常に影響された。

しかし、ユダヤ人から非ユダヤ人の土へのイエスの教えの移植を印した大きな一歩は、王国の救世主が、教会、つまりパウーロスとその後継者の活動からなる、またフィロンの考えと善と悪に関するペルシアの教義によって補足されたようにイエスの教えに基づいた社会的な、そして宗教的な組織、の贖い主になったときであった。

王国の福音の教えに表現されるイエスの思想と理想は、追随者が徐々にイエスの表明を歪めたとき、もう少しで実現をし損なうところであった。あるじの王国の概念は、大いなる2つの趨勢により著しく変更された。

1. ユダヤ人の信者は、イエスを救世主と考えることに固執した。かれらは、イエスがすぐに戻り、実際に世界規模の、そして多少なりとも物質的な王国を樹立すると信じた。

2. 非ユダヤ人のキリスト教徒は、非常に早くパウーロスの教義を受け入れ始め、それは、イエスが教会の子供の贖い主、王国の純粋に精霊的な兄弟愛という初期の概念における新しい、制度上の後継者であるという一般的な信念にますます導いた。

教会は、王国の社会的な派生物であり、全く自然で望ましくさえあった。教会の悪は、その存在ではなく、むしろイエスの王国の概念にほぼ完全に取って代わったことであった。パウーロスの組織化された教会は、イエスが宣言した天の王国の事実上の代用品になった。

しかし、疑ってはいけない、あるじが信者の心に存在すると教えたこの同じ天の王国は、まだこのキリスト教会に向けて、さらには地球の他のすべての宗教、民族、国家に向けて—すべての個人にさえも—宣言されるということを。

イエスの教える王国、個々人の正義の精霊的な理想と神との人の神性的な親交の概念は、社会化された宗教共同体の贖い主-創造者としてのイエスそのものの神秘的な概念に徐々に浸透するようになった。このように、正式の、また制度上の教会は、個々人が王国の精霊に導かれる兄弟愛の代用品となった。

教会は、イエスの人生と教えからくる必然かつ有用な社会的結果であった。悲劇は、王国の教えへのこの社会的反応が、イエスがそれを教え、そして生きたように本当の王国の精霊的な概念をあまりにも完全に置換したという事実にあった。

王国は、ユダヤ人にとってはイスラエルの共同体であった。非ユダヤ人にとっては、キリスト教会となった。イエスにとっての王国は、神の父性に対する信仰を告白し、それにより神の意志への心からの専念を宣言し、その結果、人の精霊的な兄弟愛の構成員となった個人集団であった。

あるじは、特定の社会的な結果が、王国の福音の広がりの結果として世界に現れると完全に理解していた。しかし、かれは、そのようなすべての望ましい社会現象が、この個々の信者の内面の経験からの、すなわち、この純粋に精霊的な親交とすべてのそのような信者に宿り、また起動させる神性の精霊との交わりからの無意識の、かつ必然の派生物、すなわち自然な実として現れるように意図した。

イエスは、社会的組織が、または教会が、真の精霊的な王国の進展に続くということを予見しており、またそれは、彼が使徒によるヨハネの洗礼の儀式の実施に対し決して反対しなかった理由である。かれは、真実を愛する魂は、正義を、つまり神を渇望する者は、信仰によって精霊の王国入りが許されるということを教えた。同時に、使徒は、そのような信者が、洗礼の外向きの儀礼によって弟子の社会的な組織に入ることを認められるということを教えた。

イエスの直属の追随者が、個々の信者の精霊の支配と指導による人の心の王国の設立に関わるあるじの理想の実現を彼らの部分的な失敗に気づいたとき、かれらは、王国のあるじの理想を目に見える社会的組織、キリスト教会の段階的な創設に代えることにより彼の教えの完全な喪失の防止にかかった。そして、かれらは、一貫性を維持し、王国の事実に関するあるじの教えの認識への道を開くために、代替のこの計画を達成したとき、かれらは、王国の将来を思い描いた。それが確かに設立されるやいなや、教会は、王国が、本当にキリスト教時代の頂点に、キリストの再臨時に、実際に現れるのだと教え始めた。

このように、王国は、時代の概念、将来の天恵の思想、そしていと高きものの聖者の最終的な救済の理想になった。初期の キリスト教徒(並びに、後のあまりにも多くの者)は、概して王国についてのイエスの教えで具体化された父と息子の思想を見失い、そして、教会のよく組織された社会的な親交に置き換えた。教会は、概してこのように精霊的な兄弟愛のイエスの概念と理想を効果的に置換した社会的な兄弟愛の主たるものとなった。

イエスの理想的な概念は、大幅に失敗したが、あるじの個人の生涯と教えの基礎に立ち、ギリシアとペルシアの永遠の命の概念に補われ、また世俗的な出来事を精神性に対比させたフィロンの教義によって増大され、パウーロスは、ユランチアにかつて存在した中で最も進歩的な人間社会の1つを構築するために先に進んだ。

イエスの概念は、世界の高度な宗教の中に未だに生きている。パウーロスのキリスト教会は、イエスが天の王国がそうであることを意図したもの—そして、確かにこれからそうなるもの—の社会的にされた、また人間化された影である。パウーロスとその後継者は、永遠の命の問題を個人から教会へと部分的に移し換えた。キリストは、このように王国の父の家族の個々の信者の兄であるよりも、むしろ教会の代表となった。パウーロスとその同時代人は、彼自身と個々の信者全員に関してイエスの精霊的な含意を信者集団としての教会に適用した。こうすることにより、かれらは、個々の信者の心にある神性の王国のイエスの概念に致命的な打撃を与えた。

そして何世紀もの間キリスト教会は、王国のそれらの神秘的な力と特権、つまりイエスとその精霊的な信者である同胞の間だけで行使し、経験することのできる力と特権を敢えて主張したので、相当の困難に苦しんだ。そして、このように教会の会員資格が必ずしも王国での親交を意味するという訳ではないことが、明らかになる。一方は精霊的であり、他方は主に社会的である。

遅かれ早かれ、別のより偉大な洗礼者ヨハネが、「神の王国は近い」—王国は、信者の心で支配し卓越している天なる父の意志であると宣言したイエスの高い精霊的な概念への復帰を意味する—を宣言しに、そして、目に見える地上の教会、若しくは、キリストの予想された再臨にどんな形であれ言及することなくこのすべてをしに立ち上がるはずである。イエスの実際の教えの復活が、つまりミカエルの地球滞在の事実に関わる信念についての社会哲学の体系を作成しようと行ったイエスの初期の追随者の仕事を元に戻すような言い直しが、なされなければならない。まもなく、イエスについてこの話の教えは、イエスの王国の福音の説教にもう少しで取って代わるところであった。このように歴史的宗教は、イエスが人の最高の道徳的な考えと精霊的な理想を未来—永遠の命—のために、人の最も崇高な望みと混ぜ合わせた教えを置き換えた。そして、それは、王国の福音であった。

イエスの福音が非常に多面的であったことから、イエスの教えに関する記録の学習者達が、数世紀の内に非常に多くの宗派と党派に分裂されるようになったことは、当然である。キリスト教徒のこの嘆かわしい細分化は、彼の無類の人生の神性の同一性をあるじの多様性をもつ教えを認識することへの怠慢から生じる。しかし、いつか、不信心者の前にあって、イエスの本物の信者の態度は、このように精霊的に分かれないであろう。常に、我々には知的な理解と解釈の多様性が、程度の異なる社会化さえ、あるかもしれないが、精霊的な兄弟愛の欠如は、許し難く非難すべきである。

誤ってはいけない。考える人の心には永遠に実を結ばないままでいるということを許さない不朽の性情があると、イエスの教えの中にはある。イエスが発想したような王国は、地球では大部分が失敗をした。しばらくの間、外向きの教会がそれに取って代わった。しかし、この教会は、妨害された精霊の王国の幼虫の時期であり、それは、この物質的な時代を通して、そしてあるじの教えが発展のためのより最大限の機会を得ることのできるより精霊的な配剤へと運ぶであろうということを理解すべきである。このようにして、いわゆるキリスト教会は、イエスの概念の王国が、今眠る繭になっているのである。神性の兄弟愛の王国は、まだ生きており、ついには、そして確かに、この長い潜航から出現するであろう。まるで蝶が、その変成の発展のそれほど魅力的でない生物から美しく展開する物としてついに羽化するのと同じほど確実に。