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論文 159 デカーポリス遊歴

論文 159

デカーポリス遊歴

イエスと12人がマガダン公園に到着すると、かれらは、女性団体を含むおよそ100人の伝道者と弟子の集団が待ち受けていると分かった。そこで、かれらは、早速デカーポリスの都市での教育と説教の旅の開始の準備ができた。

8月18日、この木曜日の朝、あるじは、追随者を集め、使徒各人が12人の伝道者の一人と交じわること、また他の伝道者は、デカーポリスの町や村で働くために12班に分かれて出掛けなければならないと指示した。かれは、女性団体と残りの者は、自分と残るように言いつけた。イエスは、この旅に4週間を割り当て、追随者にはマガダンに戻るのは9月16日、金曜日までに戻るように指示を与えた。かれは、この間、彼らをしばしば訪ねると約束した。この月の間、この12班は、ゲラーサ、ガマラ、ヒップス、ツァフォン、ガダラ、アビラ、エヅレイ、フィラデルフェィア、ヘシュボン、 ディーオン、スキトイポリスと他の多くの都市で働いた。この旅を通して、治療や他のいかなる並はずれた出来事は、起こらなかった。

1. 許しについての説教

ヒップスでのある晩、イエスは、弟子の質問に答えて許しについて教えた。あるじは言った。

「情けある男が100頭の羊を飼っており、そのうちの1頭が迷い出ていなくなったならば、99 頭を残し、かれは、すぐに迷い出た1頭を探しにいかないか。もしこの男が良い羊飼いであるならば、かれは、それを見つけるまで迷った羊の探索を続けないであろうか。そして、羊飼いが、その迷える羊を見つけたら、自分の肩に担ぎ家に帰り、喜んで友人や隣人を大声で呼び、「喜んでくれ、いなくなった羊を見つけたから。」と言うであろう。私は、悔悟を必要としない99人の正しい者よりも、後悔をする1人の罪人の上により多くの喜びが天にはあると断言する。それでもまだ、これらの幼子の1人でも迷うようなこと、ましてや滅びるようなことは、私の父の意志ではない。君の宗教では、神は、悔悟する罪人を受け入れるかもしれない。王国の福音では、父は、真剣に悔悟を考える前にさえそういう者達を見つけに行くのである。

「天の父は自分の子供を愛している。だから、君達は互いに愛することを学ぶべきである。天の父は、君を許し、君の罪を許す。だから、君は、互いに許すことを学ぶべきである。兄弟が背くならば、君は、彼のところに行き、気転と忍耐をもってその欠点を示しなさい。また、この全ては単に二人の間でしなさい。かれが、君の言うことを聞き入れるならば、君は兄弟を勝ち得たのである。しかし、彼が、君の言うことを聞き入れないならば、つまり自分の誤りったやり方に固執するならば、君は、君の証言の裏付けをし、怒っている兄弟を公正に、慈悲深く扱ったという事実を証明するために2人の、または3人の証人さえも得られるように、1人か2人の互いの友人を伴って、再び彼のもとに行きなさい。ところで、彼が、君の同胞の言うことを聞こうとしないならば、君は、会衆に全体の話をしてもよくて、そこで、彼が、兄弟の言うことを聞こうとしないならば、皆が、賢明であると考えるような行動を取らせなさい。そのような手に負えない者は、王国からの追放者にさせなさい。仲間の魂を裁判にかけることを主張することはできないけれども、そして君は、罪を許さないし、あるいは、別の方法で、出しゃばりにも天の軍勢の監督者の特権を奪わないが、同時に、地上の王国で俗世の秩序を維持すべきことは、君の手に命じられている。永遠の命に関して神の命令に干渉することはできないが、彼らが、地球の兄弟の一時的な福祉に関して、君は、行為に関する問題を決定するであろう。そうして、兄弟関係の規律に関するこのすべての問題で君が地球で命じる何であろうとも、天で認識されるであろう。君は、個人の永遠の運命を決定することはできないが、集団の行為に関しては制定することができる、なぜならば、君達の2人か3人が、これらの問題のうちどれかに関して同意し、私に尋ねるならば、それは、もし天の父の意志に反しない陳情であるならば、聞き入れられるからである。そして、このすべてはいつも本当である、というのも、2人か3人の信者が集まるところには私もいるのであるから。」

シーモン・ペトロスは、ヒップスで労働者達を担当した使徒であり、イエスがこのように話すのを聞いて尋ねた。「主よ、兄は私に何度罪を犯し、そして、私は何度許すのでか。7回までですか。」イエスは、ペトロスに答えた。「7 回どころか77 回さえも。したがって、天の王国は、執事達と財政的な計算を命令したある王にたとえられるかもしれない。彼らが、この計算書の点検を始めたとき、家臣の一人が、王に1 万タラントの負債があると告白しに王の前に連れて来られた。そのとき、宮廷のこの役員は、困窮に遭遇したと、またこの負債の支払い方法がなかったと訴えた。そこで、王は、財産を没収し、その子供等を債務返済のために売るように命令した。この厳しい上意を聞くと、この執事長は、王の前に顔を伏せ、慈悲を示すよう、また、もっと時間をくれるように哀願した。「主よ、もう少し我慢してください。そうすれば、私は、すべてを支払います。」と言った。すると、王がこの怠慢な使用人とその家族を見たとき、かれは、同情を掻きたられた。かれは、この使用人を釈放し、貸付金は全て免除するように命令した。

王の手から慈悲と許しを受けたこの執事長は、仕事に取り組み、わずか100デナリオスの借りのある部下の執事の一人を見ると、彼を掴み、つまり喉を掴んで、『私からの借りを全部支払え。』と言った。すると、この執事仲間は、執事長の前に伏せて懇願して言った。『少しだけ我慢してください。そうすれば、まもなく支払えるのです。』ところが、この執事長は、慈悲を示すどころか債務を返済するまで彼を投獄した。仲間の使用人が事の起こりを見て、非常に零落し、主であり支配者である王に告げた。王が執事長の振る舞いを聴くと、この恩知らずで容赦のない男を召喚して言った。『そなたは、意地悪で価値のない執事である。同情を求められたとき、私はそなたの全債務を完全に免除した。私がそなたに慈悲を示したように、そなたもなぜ仲間の執事に慈悲を示さなかったのか。』そして、当然の支払いを済ませるまで引き留めておけるように恩知らずな執事長を獄吏に手渡した。同じように、天なる父は、仲間に惜しみなく慈悲を示す者により多くの慈悲を示すのである。君は、これらの同じ人間が脆さという罪があるとして同胞を責め慣れているとき、自身の短所の斟酌を求めにどうして来れるのか。君たち全員に言う。自由に、君は王国の良いことを受けてきた。したがって、自由に地球の仲間に与えなさい。」

このように、イエスは、危険性を教え、仲間への私的な判断を下す不公平さを例示した。規律は維持され、正義は管理されなければならないが、このすべての事柄において、兄弟愛の叡知は勝たなければならない。イエスは、立法と司法の権威を個人にではなく団体に与えた。団体の権威のこの授与でさえ、個人的な権威として行使させてはいけない。個人の決定が偏見に歪めらるか、または激情に捩じ曲げられるかもしれないという危険が、つねにある。集団による判断は、より危険を取り除き、個人の偏見の不公平さを排除する。イエスは、常に不公平、報復、復讐の要素を最小にしようと努めた。

[慈悲と寛容の具体例としての用語77の使用は、息子ツーバル-カイーンの優れた金属兵器を敵のものと比較して、レメクが、「もしカインに、武器を手にせず、7 倍復讐があれば、私には今77倍復讐がある。」歓喜のうちに言及した聖書に由来した。]

2. 奇妙な伝道者

イエスは、ヨハネとそこでヨハネと働いている人々を訪問するためにガマラに行った。その晩、ヨハネは、質疑応答の後イエスに言った。「あるじさま、昨日、私は、あなたの名前で教え、悪魔を追い払うことができると主張さえする男に会いにアシュテロースに行ってきました。さて、此奴は、我々といたことは一度もなかったし、後について来てもいないのです。それで、私は、そのようなことをするのを禁じたのです。」イエスは言った。「禁じてはいけない。君は、この王国の福音が、やがて全世界に公布されると認めないのか。福音を信じる者全てが、君の指示に服従するとどうして期待することができるのか。すでに我々の教えが、我々の個人の影響の範囲を超えて現れ始めたことを大いに喜びなさい。ヨハネ、分らないのか、私の名で大きな働きをする者は、結局は、我々の主義を支持しなければならないということが。かれらは、きっと私の悪口をすぐに言いはしないであろう。息子よ、この種の問題で、我々に反対しない者は、我々の味方であると考えたほうが、君にとっては良いであろう。来る世代では、全く相応しくない多くの者が、私の名で多くの奇妙なことをするが、私はそれらを禁じるつもりはない。喉の渇いている者に1 杯の冷水が与えられるときでさえ、父の使者は、愛のそのような行ないを記録するであろうと言っておく。」

この指示は、ヨハネを大いに当惑させた。あるじが「私と共にいない者は、私に相対しているのである」と言うのを、自分は確かに聞いたのであろうか。かれは、この場合イエスが、王国の精霊的な教えに対する人の個人の関係に言及すると同時に、もう一方では、結局は来たるべき世界規模の兄弟関係を構成する他の集団の仕事の上に、信者の1 集団の行政管理問題と司法権に関して、信者の表面的かつ広範囲の社会的関係に言い及んだことに気づかなかった。

だが、ヨハネは、王国のためにその後の作業に関してこの経験について詳しく話した。それでも使徒達は、大胆にもあるじの名前で教える人々に幾度となく立腹したのであった。イエスの足元に一度も座ったことのない者達は、敢えてイエスの名で教えることは、使徒達にはいつも不適切に思えた。

イエスの名前で教えたり働くことをヨハネに禁じられたこの男は、使徒の命令を意に介さなかった。かれは、まっしぐらの努力を続け、メソポタミアに進行する前にカーナタでかなりの信者仲間を奮い立たせた。この男アデンは、イエスがケリサ近くで癒し、またあるじが放逐した想定上の悪霊が、豚の群れに入り、崖の上から真っ逆さまに撲滅へと追いやられたとまったくの自信をもって信じる発狂者の証言からイエスを信じるようになった。

3. 教師と信者のための教示

トーマスと仲間が働いたエヅレイで、イエスは、夜の討議において、真実を説く人々を導くべき、また、王国の福音を教える者すべてに弾みをつけるべき根本理念を説明した。現代の言い回しに纏めて、イエスは次のように教えた。

常に人の人格を尊重せよ。義は、決して力ずくで進められるべきではない。精霊的な勝利は、精霊的な力によってのみ得られる。物質的な圧力の使用に対するこの訓令は、物理的な力だけでなく精神力にも言及する。強烈な議論と精神的な優勢は、男女に王国を強制するために用いられることになってはいない。人の心は、論理の単なる重さで潰されたり、抜け目のない雄弁さで威圧されることになってはいない。人間の決定要因としての感情を完全に排除することはできないが、王国の大義を進める人々の教えにおいて直接訴えられるべきではない。人の心に住む神の神霊に直接呼び掛けよ。恐れ、哀れみ、または単なる感傷に訴え掛けるでない。人に訴えるに当たっては、公正であり、自粛をし、然るべき抑制を示しなさい。自分の生徒の人格に対する適切な敬意を示しなさい。「見よ、私は扉の外に立って叩き、誰かが開くならば、入っていく」と私が言ったことを思い出しなさい。

王国に人を連れて来る際、彼らの自尊心を薄らげたり損ねたりするな。過度の自尊心は、適度の謙虚さを損ない、誇り、自惚れ、傲慢に終わるかもしれないが、自尊心の損失は、しばしば意志の麻痺に終わる。自尊心を失った者にそれを回復させ、自尊心を持っている者にそれを抑制させるのが、この福音の目的である。生徒の人生での不正を非難するだけであるという誤りを犯してはいけない。彼らの人生で最も賞賛に値することに寛大な認識を与えるように銘記せよ。自尊心を失いそれを取り戻すことを本当に望む者には回復のための手を貸すということを忘れてはいけない。

臆病で恐れている人間の自尊心を傷つけないように注意せよ。お人よしの我が同胞を犠牲にした皮肉にふけってはいけない。恐怖に支配されている我が子に対して冷笑的でないように。怠惰は、自尊心を破壊する。したがって、自分が選んだ仕事にずっと精を出すように同胞に諭しなさい。そして、職なしでいる者に仕事を保証するあらゆる努力をしなさい。

男女を脅して王国へと仕向けるような価値のない戦術とういう罪を決して犯さないように。情愛深い父というものは、正当な要求に従わせようとして子供を脅かさない。

王国の子等は、情感の強い感覚が、神霊の導きに等しくないと、いつか理解するであろう。何かをしたり、または、ある場所に行くことを強く、また妙に感じるということは、そのような衝動が、必ずしも内在する精霊の導きであるというわけではない。

肉体で送る人生から精霊で送る高度な人生へと移り過ぎる者全てが横断しなければならない衝突のへりに関して全信者に前もって警告せよ。いずれの領域内においても完全に生きる者にはほとんど衝突も混乱もないが、多かれ少なかれ生活の2つの領域の間で移行の時代の不確実性を経験することが、全ての者に運命づけられている。王国に入る際、君は、その責任から逃げたり、その義務を避けたりすることはできないが、覚えていなさい。福音のくびきは、簡単であり、真実の負担は軽いのである。

世界は、生命のパンのまさしくその存在で飢える空腹な人間で満たされている。人は、内に住むまさしくその神を捜し求めて死ぬ。人は全て、生きた信仰の即座の把握の範囲で憧憬心と疲れきった足で王国の宝物を捜し求める。宗教にとり信仰は、船にとっての帆である。それは、人生のさらなる重荷ではなく、力の追加である。王国に入る者にとり1つの戦いしかなく、それは、信仰のために立派に戦うことである。信者には、1つの戦いしかなく、それは、懐疑—不信仰—に対してである。

君は、王国の福音を説く際、単に神との友情を教えている。そして、男女とも彼らの特徴的な切望と理想を最も本当に満たすそれを見つけるという点で、この親交は、同様に男女に訴えるであろう。私は、私の子供等の感情に優しく接しており、そのもろさに我慢強いが、罪には無情であり、不正も受け入れないと、私の子供等に伝えなさい。父の前で私は、本当に素直で謙虚であるが、同時に、天の父の意志に対する故意の悪行や罪深い反逆があるところでは執拗に容赦しない。

君達は、自分の師を悲しみの男として描かないであろう。将来の世代は、我々の喜びの輝き、我々の善意の高揚、我々の上機嫌の精神的刺激を知るであろう。我々は、その変換力に影響し易い朗報を公布する。我々の宗教は、新しい人生と新しい意味で鼓動している。この教えを受け入れる者は、喜びに満ちており、心ではつねに喜びに促されている。幸福を増大することは、常に神について確信がある全員の経験である。

すべての信者に間違った同情の不安定な支柱にもたれ掛かることを回避するように教えなさい。自己憐憫の甘やかしからは、強い性格を開発することはできない。正直に、惨めさを伴う単なる親交において間違った影響を正直に避ける努力をしなさい。生活の試練の前にただ浮腰で立つ臆病者には、過剰なあわれみを差し控えると共に、勇敢で勇ましい者には同情を差し伸べなさい。自分の問題を前にして闘わずして横たわる者に慰めを示してはならない。お返しに同情してくれるかもしれないからと単に同情するでない。

私の子供がいったん神性の存在の確信を自覚するとき、そのような信仰は、心を広げ、魂を高潔にし、人格を強化し、幸福を増大させ、精霊的な認識を深め、愛し愛される力を高める。

王国に入る者は、それによって時の災禍、あるいは普通の自然の大災害から免がれることにはなっていないということを教えなさい。福音を信じることは、苦境に陥ることを防ぎはしないが、それは、苦境が襲うとき、恐れなくなることを保証する。もし私を信じる勇気があり、心から私のあとについてくるならば、君は、そうすることにより苦境への確かな道に間違いなく踏み入るであろう。私は、逆境の水域から君を救い出すとは約束はしないが、それらの全てを君と共に行くと約束する。

そして、その夜の睡眠に備える前、イエスは、この信者集団にさらに多をく教えたのであった。これらの話を聞いた彼らは、心でそれを大事にし、それが話されたとき出席していなかった使徒や弟子の教化のためにしばしばそれを復唱するのであった。

4. ナサナエルとの話

それからイエスは、ナサナエルとその仲間が働いていたアビラに行った。ナサナエルは、一般的に知られるヘブライ聖書の権威を損なうように思えるイエスの表明のいくつかに非常に悩まされた。そのため、この夜、通常の質疑応答の後、ナサナエルは、イエスを他の者から連れ去って尋ねた。「あるじさま、私は、聖書に関し真実を知っていると信じてくださいますか。私は、聖典—私の意見では最高である—の部分だけをあなたが教えているのに気づいており、また、アブラーハームとモーシェの時代以前にすら神と共に天国に存在していた法の言葉は神の言葉そのものであるという趣旨でユダヤ教の教師の教えを拒絶していると推し計っています。聖書に関する真実は何でありますか。」イエスが当惑している使徒の質問を聞いて答えた。

「ナサナエル、君は、正しく審判している。私は、ユダヤ教師のようには聖書を見てはいない。この教えを受ける用意のできていない君の同胞には話さないことを条件に、この事柄に関し話すつもりである。モーシェの法の言葉と聖書の教えは、アブラーハーム以前には存在していなかった。ごく最近になって、現在あるような教典が集成されたのである。それは、ユダヤ民族のより高い考えと切望の最高のものを含むとともに、天の父の特徴と教えを代表することからはほど遠い多くのことも含んでいる。それゆえ、私は、王国の福音のために収集されることになっているそのような真理をより良い教えの中から選ばなければならないのである。

これらの著作は人の業である。彼らの一部は聖人であり、他の者はそれほど神聖ではない。これらの本の教えは、それらが起源を持つ時代の視点と啓蒙の範囲を代表している。真実の顕示としては、最初のものよりも最後のものがより信頼できる。聖書は、誤りっており、起源が、まったく人間的ではあるが、思い違いをしてはならない、それは、この時点では、全世界で探し得る宗教的な知恵と精霊的な真実の最高の収集を構成している。

これらの本の多くは、それに名前のある人々によっては書かれなかったが、収録されている真実の価値は、決して損なわれてはいない。ヨナの物語が事実でなくとも、たとえヨナが生きなかったとしても、この物語の深遠な真実、つまりニネウイへの神の愛、そして、いわゆる異教徒への神の愛は、仲間を愛する全ての者の目には、それでもやはり貴重である。聖書は、神を捜し求め、正義、真実、神聖さの最高概念をこれらの書物に記録として残す人間の思考と行為を提示しているが故に、神聖である。聖書は、たいへん多くの真実を収録しているが、君の現在の教えに照らし合わせるとき、これらの著作は、同時に、天の父を、私が全世界に明らかにしに来た情愛深い神を、誤って伝える多くのものを含んでいることが、君は知っている。

ナサナエル、愛の神が、全ての敵—男、女、子供等—を殺しに戦いに行くように祖先を導いたと教える聖書の記録を決して一瞬たりとも信じてはいけない。そのような記録は、あまり神聖ではない者の言葉であり、神の言葉ではない。聖書は、いつもそれらを作成する者達の知的で、道徳的で、精神的な状態を反映させるし、こらからも常にそうである。予言者が、サミュエルからイェシャジャまでの記録の作成の際、ヤハウェの概念が、美と栄光で成長することに気づかなかったのか。また、聖書は、宗教的な訓令と精神的な指導を意図しているということを心得るべきである。それは、歴史家か哲学者のいずれの作品でもない。

「最も嘆かわしいことは、単に聖書の記録の絶対の仕上げとその教えの絶対確実性のこの誤った考えではなく、むしろ伝統の虜となったエルサレムの筆記者とパリサイ派によるこれらの神聖な著作の紛らわしい曲解である。そして、今、王国の福音のより新しい教えに耐える断固たる努力において、聖書の激励となる教義の概念とその曲解の両方を用いるであろう。ナサナエル、決して忘れてはいけない、父は、いかなる1 世代、または、いかなる1民族への真実の顕示を制限などしていない。多くの熱心な真実探求者は、聖書のこれらの完全性主義に混乱し、落胆して、また、そうあり続けるであろう。

真実の権威は、その生きた表現に内在する精霊そのものであり、別の世代の、 あまり光彩のない、おそらく霊感を受けた者達の死んだ言葉ではない。そして、たとえ昔のこれらの聖人達が、啓示を受けて精霊に満たされた生活を送ったとしても、それは、彼らの言葉が同様に精霊的に示唆されたことを意味しない。私が去った後、君達が、私の教えに関する解釈の多様性の結果として、真実の競争相手となるいろいろな集団に速やかに分裂しないように、今日、我々は、王国のこの福音の教えの記録を作らない。記録の作成を避けると共に、我々がこれらの真実の生活を送ることが、この世代にとって最も良い。

私の言うことをよく聞きなさい、ナサナエル、人間性が影響した何も、絶対確実とは見なせない。人の心を通して神性の真実は、本当に光り輝くかもしれないが、それは、いつも相対的な純粋さと部分的な神性さなのである。被創造物は、確実性を切望することはできるが、創造者だけがそれを所有しているのである。

しかし、聖書についての教えで最たる誤りは、神秘と知恵の教えが、密封され、国の賢者だけが、あえて解釈をするという教義である。神性の真実の顕示は、人間の無知、偏狭さ、狭い心の不寛容は別として、封印されてはいない。聖書の光は、偏見にぼかされ、迷信に暗くされるだけである。神聖さの誤った恐怖は、宗教が常識によって保護されることを防いだ。過去の神聖な著作の権威に対する恐怖は、今日の正直な者達が、福音の新たな光、別の世代の神を知るこれらの他ならぬ人間が見ようと激しく望んだ光、の受け入れを事実上妨げている。

「しかし、すべての中で最も悲しい特徴は、この伝統主義の神聖の教師の数人が、まさにこの真実を知っているという事実である。かれらは、多かれ少なかれ聖書のこれらの限界を熟知しているが、道徳上の臆病者であり知的に不正直である。かれらは、神聖な著作に関して真実を知っているが、人々にそのような不穏な事実を与えずにいることを好む。その結果、彼らは、他の世代の神を知る人間の道徳上の知恵、宗教上の刺激、精霊的な教えの宝庫としての神聖な著作に訴える代わりに、日常生活の隷属的な詳細と非精霊的な事柄での権威としての案内にして、聖書を曲解し、歪めているのである。

ナサナエルは、あるじの表明に啓発され、しかも衝撃を受けた。かれは、魂の奥深いところで長らくこの話をよく考えてみたが、イエスの上昇後までこの談合に関して誰にも言わなかった。そして、その時でさえ、あるじの教えの全容を伝えることを懸念した。

5. イエスの宗教の肯定的本質

ジェームスが働いていたフィラデルフェィアで、イエスは、王国の福音の肯定的本質に関し弟子に教えた。その所見の中で、聖書の一部が、他よりも多くの真実を含んでいると仄めかしたり、かれの聞き手が、魂に精霊的な糧を供給すると訓戒していると、ジェームスが、あるじを遮って尋ねた。「あるじさま、私達の個人の啓発のために聖書からよりよい良い章句をいかに選べるかを示唆してもらえますか。」イエスは答えた。「よろしい、ジェームス、聖書を読むときは、次のような永遠に真実で、神々しく美しい教えを探しなさい。

「主よ、私に清い心をお作りください。

「主は私の羊飼い。私は欲しがりません。

「自分を愛するように隣人を愛せよ。

「私が、あなたの主である神が、あなたの右手を堅く握り、恐れるな、と言っている。私があなたを助ける。

「そして、国々は、もはや戦争のことも学ばない。」

そして、これは、イエスが日々、追随者の教訓と王国の新しい福音の教えへの編入のためにヘブライ聖書の最良部分を当てた方法の実例である。他の宗教は、神の近さの考えを人に示唆してきたが、イエスは、依存する子供等の繁栄に対する情愛深い父の心遣いのような人に対する神の気遣いを示唆し、そして、これを自分の宗教の礎石とした。このように、神の父性は、人の兄弟愛の実行を避けられなくした。神の崇拝と人の奉仕は、イエスの宗教の要点となった。イエスは、王国の福音の新しい教えでユダヤ人の宗教の最良部分を取り入れ、それを相応しい環境に移した。

イエスは、ユダヤ人の宗教の受動的な教義に明確な行動の気勢を組み入れた。イエスは、儀式的な必要条件の否定的な迎合性の代わりに、自分の新しい宗教を受け入れた者に要求される積極的な行動を言いつけた。イエスの宗教は、単に信じることではなく、福音が要求するそれらのことを実際にすることで成り立った。かれは、自分の宗教の本質が、社会奉仕にあるということを教えはしなかったが、むしろその社会奉仕は、真の宗教の精霊のもつ特定の影響の1つであった。

イエスは、聖書の低劣な部分を拒絶する一方、より良い半分を躊躇わずに流用した。かれは、素晴らしい訓戒、「隣人をあなた自身のように愛せよ」を、「自民族の子孫に復讐をしてはならず、あなた自身のように隣人を愛せよ。」とある聖書からとった。イエスは、聖書の否定部分を退け、積極的な部分を流用した。かれは、否定的であるか、まったく受動的な無抵抗にさえ反対した。かれは、「敵があなたの頬を打つとき、そこに無言で立ち、受け身でおらず、積極的な態度でもう片方の頬をも向けてやりなさい。つまり、誤っている兄弟を悪の道から正しい生活のより良い道へと積極的に導く可能な限り最善のことをしなさい。」イエスは、あらゆる人生状況に前向きに積極的に反応することを追随者に要求した。他の頬を向けるということ、または、それが象徴するかもしれないどんな行為も、自発性を要求し、信者の人格の活発で、行動的で、勇敢な表現を必要とする。

イエスは、悪への無抵抗の実践者に押しつけることを故意に求めるかもしれない者達の侮辱への否定的な服従の習慣についてではなく、むしろ、善で効果的に悪に打ち勝てる目標への善の迅速で積極的な反応において、自分の追随者が、賢明であり、注意深くあるべきであるということを提唱したのであった。忘れてはいけない。本当に良いことは、最も悪質な悪よりもつねに屈強である。あるじは、正義の積極的な基準を教えた。「誰でも私の弟子になりたい者は、自分自身を捨て、日毎私についてくるための最大限の責任を負いなさい。」そして、「巡り歩いて良い業をなした。」という点で、自らが生きた。そして、福音のこの局面は、彼が、追随者に後に話した多くの寓話によって見事に例示された。かれは、決して我慢強く堪えることではなく、むしろ精力と熱意をもって人間の責任と神の王国における神の特権に最大限に従って生活することを追随者に勧めた。

ある者が不当に外套を取るならば、かれらは、他の衣類も差し出すべきであると使徒に教えるとき、イエスは、「目には目」などの報復するという昔の忠告の代りに、悪事を働く者を救うために何か積極的なことをするという考えほどには、文字通りに2番目の外套に参照はしなかった。イエスは、報復や、ただ受け身の被害者、あるいは不正の犠牲者になるという考えを嫌った。この時、イエスは、悪に挑み、抵抗する3つの方法を教えた。

1. 悪には悪を報いること—積極的な、しかし、邪悪な方法。

2. 苦情なしに、抵抗なしに悪に苦しむこと—まったく否定的な方法。

3. 悪に善を報いること、状況の支配者になるように意志を断言すること、善で悪に打ち勝つこと—積極的で公正な方法。

使徒の一人がかつて尋ねた。「あるじさま、見知らぬ人が私に彼の荷物を1.6キロメートル強制的に運ばせようとするならば、私は何をすべきでしょうか。」イエスは答えた。「小声でその見知らぬ人を叱りつける間、座って安堵を望むではならない。正義は、そのような受け身の態度からは生まれない。」それ以上有効に積極的な何も考えつかないならば、君は、少なくとも3キロメートル以上荷物を運べる。確実性のその意志は、邪で無信仰の見知らぬ人に難詰する。」

ユダヤ人は、悔悟の罪人を許し、その悪行を忘れ去ろうとする神について聞いたことはあったが、イエスが来るまでは、迷える羊を探しに行く神、率先して罪人を探しに行く神、喜んで父の家に戻る気持ちであると分かったとき、歓喜する神については聞かなかった。イエスは、宗教におけるこの肯定的な調子を自分の祈りにさえ伸張させた。また、否定的な黄金律を人間の公正さのための明確な訓戒に変えた。

全ての教えにおいて、イエスは、気を散らす詳細を絶えず避けた。かれは、美辞麗句を避け、言葉をもて遊ぶ単なる詩的表現を避けた。かれは、大きい意味を小さな表現へと習慣的に当て嵌めた。説明の便宜上、イエスは、塩、パン種、漁、幼子などの多くの用語のこれまでの意味を翻した。微細なことを無限なことなどに比較して、正反対のものを最も効果的に用いた。その描写は、「盲人が盲人を導く。」のように際立っていた。しかし、彼の実例となる教えの中で見つかる最も優れた長所は、その自然さであった。イエスは、宗教の哲学を天から地上にもたらした。かれは、新たな洞察と愛情の新贈与で魂の基本的な必要性を描いた。

6. マガダンへの帰着

デカーポリスでの4週間の任務は、それなりに成功していた。何百もの人々が王国に受け入れられ、使徒と伝道者は、イエスの直接の個人の臨場の刺激なしに仕事を続ける中で貴重な経験をした。

9月16日、金曜日、労働者の全部隊は、事前の打ち合せに基づいてマガダン公園に集合した。安息日に、100人以上の信者の協議会が開かれ、王国の仕事を拡大するための将来計画が、充分に考慮された。ダーヴィドの使者が出席しており、イェフーダ、サマレイア、ガリラヤと隣接している地区のすべての信者の福利に関する報告をした。

イエスの追随者の僅かしか、使者部隊の奉仕活動の優れた価値をこのとき完全には評価しなかった。また、使者は、パレスチナ中の信者間、それと信者とイエスと使徒との互いの接触を取り続けるだけでなく、これらの暗い日々、イエスとその仲間の生計と、それぞれ12人の使徒と伝道者の家族の擁立のための基金の集金人としての役目も果たした。

およそこの頃、アブネーは、嫁働基地を、ヘブロンからベツレヘムへと移したが、後者は、ダーヴィドの使者のイェフーダの本部でもあった。ダーヴィドは、エルサレムとベスサイダ間で夜通しの中継使者の活動を維持した。これらの走者は、毎晩エルサレムを出発し、シハーとスキトイポリスで中継し、翌朝の朝食時までにベスサイダに到着した。

そのときイエスと仲間は、王国のための働きにおける最後の時代に着手する前に、1週間の休息を取る準備をした。これは、皆の最後の休息であった、というのも、ペライア地域での任務が、皆のエルサレム到着とイエスの地球経歴の終わりの挿話上演のその時までに広げた説教と教えの運動へと展開していったからであった。