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論文 155 ガリラヤ北方逃避行

論文 155

ガリラヤ北方逃避行

この多事の日曜日、イエスと24 人は、ケリサ近くに上陸直後、北へ少し行き、ベスサイダ-ユールアスの南にある美しい公園で夜を過ごした。過ぎし日に立ち寄ったことがあったので、皆にはこの野営場所は馴染み深かった。就寝前、あるじは、追随者を自分の周りに呼び寄せ、ベタニアと北ガリラヤを経てフェニキアの海岸への予定されている遊歴の計画について話し合った。

1. 異教徒はなぜ激怒するのか

イエスは言った。「このような時に言い及んで、詩篇の作者がいかに言ったかを思い出すべきである。『なぜ異教徒は激怒し、民衆は虚しく謀るのか。地の王達は立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と、主に油を注がれた者とに逆らって言う。慈悲の枷を打ち砕きし、愛の綱を解き捨てよう。』

「今日、君は、これが目の前で果たされるのを見る。しかし、君には、詩篇の作者の残りの予言が実現するのは分からないであろう、というのも、作者は、人の息子とその任務に関し誤った考えを抱いたので。我が王国は、愛に基づいて設立され、慈悲をもって公布され、私心のない奉仕によって樹立される。我が父は、異教徒を愚弄し、笑って天国に座してはいない。かれは、ひどい不快感に激怒はしない。息子が、これらのいわゆる異教徒(実際には無知で教えられていない仲間)を継承するという約束は、本当である。そして、私は、慈悲と愛情の両手を広げてこれらの異教徒を迎えるのである。全てのこの親愛は、勝利を収めた息子が、『鉄の杖で彼等を打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする。』と仄めかす記録の不幸な宣言にもかかわらず、いわゆる異教徒に示された。詩篇作者は、『恐れつつ主に仕える』ことを君に勧める—私は、信仰に神性の息子性の高い特権に進み入るように告げる。彼は、君におののきつつ喜べと命じる。私は、確信して喜べと命じる。彼は言う、『息子に口づけせよ、彼が、怒り、彼の怒りが燃えようとするときお前達が滅びないために。』と。しかし、私と一緒に暮らしてきた君達は、憤りや激怒が、人の心の中の天の王国の設立の一部ではなということをよく知っている。しかしながら、この訓戒を終える際に、彼が、『息子を信頼する者を誉め称えよ。』と言ったとき、詩篇の作者は、本当の光ちらりとを見た。」

イエスは、24人に教え続けた。「異教徒が、我々に怒るとき、口実がない訳ではない。なぜなら、彼等の見通しは、小さくて狭いので、その活力を一心に集中することができる。その目標は、近く、多少なりとも目に見える。そういう訳で、かれらは、勇敢で効果的な実行で努力する。天の王国への入国を表明した君達は、教育行為において全く弱腰で不明確である。異教徒は、直接その目標にとびかかる。君達には、あまりにも多くの慢性の切望の悪い習慣がある。君達が王国に入ることを望むならば、ちょうど異教徒が街を包囲攻撃するように、なぜ精霊の攻撃によってそれをしないのか。活動において大いに過去を後悔し、現在を愚痴り、虚しく未来に期待する態度があるとき、君達は、王国にはほとんどふさわしくない。なぜ異教徒は、激怒をするのか。かれらは、真実を知らないからである。君達は、なぜ無駄な憧れに苦しむのか。真実に従わないからである。無役な切望をやめ、王国の樹立に関わることをして、勇敢に前進しなさい。

「すべての行動において、一方的で、偏らないようにしなさい。我々の撲滅を求めるパリサイ派は、神の活動をしていると本当に思っている。かれらは、伝統によって非常に狭隘しており、偏狭で目をくらまし、恐怖で硬化している。ユダヤ人が、科学なしの宗教を持つのに反し、宗教なしで科学を持つギリシア人について考えなさい。そして、人がこのように偏狭で混乱したの崩壊を受け入れることに惑わされるとき、唯一の救済の望みは、真実で連携するようになること—改宗されること—である。

「この不朽の真実を強調しよう。真実の共同作用により、もし君達が、人生において正しさのこの美しい完全さを例示することを学ぶならば、同胞は、そのとき、君達のそうして得たものを獲得するために君達を追い求めるであろう。真実探求者が引きつけられる基準は、あなたの真実の授与、あなたの正しさの度合を表している。知らせを人々に知らせなければならない範囲は、ある意味で、君達が完全な、または公正な人生、真実で調和された生活不履行の尺度である。」

そして、彼らが就寝の挨拶を述べ枕上に安らぎを得る前に、あるじは、使徒と伝道者に他の多くの事柄を教えた。

2. ホラズィンの伝道者達

5月23日、月曜日の朝、イエスは、ペトロスに12人の伝道者とホラズィンに行くように指示し、一方かれは、11 人とともにヨルダン川を経由し、ダマスカス-カペルナム街道へ、そこからケーサレーア-フィリッピーへの分岐点へと北東にとり、それから街へ入り、そこに2 週間滞在し教えた。かれらは、5月24日、火曜日の午後到着した。

ペトロスと伝道者は、小規模ではあるが熱心な信者の一行に王国の福音を説いて2週間ホラズィンに滞在した。だが、かれらは、多くの新しい転向者を獲得することはできなかった。ホラズィンほどに人々を王国にもたらさなかった都市は、ガリラヤ中のどこにもなかった。ペトロスの指示に従い12人の伝道者は、治療—物理的なこと—に関してあまり語ることはなく、天の王国の精霊的な真実を増大された力で説いたり教えたりしたが。ホラズィンでのこの2週間は、これまでの彼らの経歴において最も難しく実を結ばない期間であったという点において、12人の伝道者にとり真の逆境の試煉となった。このように王国のために魂を得る満足感を奪われ、各人は、新しい人生の精霊の道における自身の魂とその進展をますます本気で正直に検討した。

ペトロスは、人々が王国への入国を求める気がないと見ると、6月7日、火曜日、仲間を集めてイエスと使徒に合流するためにケーサレーア-フィリッピーに出発した。かれらは、水曜日の昼頃に到着し、ホラズィンの無神論者の間での自分達の経験を詳細に語り夕べをまるごと過ごした。この談論の中でイエスは、種を蒔く人の寓話に更に言及し、生涯の仕事の見た目の失敗の意味について多くを教えた。

3. ケーサレーア-フィリッピー

ケーサレーア-フィリッピー近辺でのこの2週間の滞在中、イエスは、公のための仕事を何もしなかったが、使徒は、この街での頻繁で穏やかな夜の会合を開き、また信者の多くは、あるじと話すために野営にやって来た。この訪問の結果は、ほんのわずかの者が信者の一団に追加されたにすぎない。イエスは、毎日使徒と話し、またかれらは、天の王国を説く仕事の新たな局面が今始まっているというこをより明らかに認識した。かれらは、「天の王国は、肉でも飲み物でもなく、神の息子としての承認の精霊的な喜びを知ることである」ということを理解し始めていた。

ケーサレーア-フィリッピーの滞在は、11人の使徒に対する本当の試煉であった。それは、彼らにとり、生き抜くことの難しい2 週間であった。かれらは、ほとんど落胆し、またペトロスの意欲旺盛な人格からの時折の刺激を受けられなかった。この時期に、イエスを信じそのあとに続くことは、本当に、大きな試煉の冒険であった。この2 週間、わずかの転向者しか得られなかったが、かれらは、あるじとの日々の会合により非常に有益なことを多く学んだのであった。

使徒は、ユダヤ人が真実を信条に結晶化させたので精霊的に停滞し、滅びかけていることを学び取った。真実が、精霊の先導と進歩の道標として役目を果たす代わりに、独りよがりの排他的境界線として定式化されるようになるとき、そのような教えは、創造的で命を与える力を失い、結局は、単なる保存化と化石化になるということ。

ますますかれらは、時間と永遠における人格の可能性に関する人間の人格を見ることをイエスから学んだ。かれらは、多くの人間が、見ることのできる同胞をまず愛することにより、見えない神を愛することができるように導かれるということを学んだ。それは、この点について、仲間への寡欲な奉仕に関するあるじの発表に新しい意味が加えられた。「私の同胞の最弱の一人にそれをする限りにおいて、あなたは私にそれをしたのである。」

カエサレアでのこの滞在の最も素晴らしい教訓の1つは、宗教伝統の起源、すなわち、非神聖なもの、共通の考え、あるいは日常の出来事につながる神聖さの、感覚を許すという重大な危険性と関係があった。かれらは、真の宗教とは、最高の、そして最も本当の信念への人の心からの忠誠心であるという教えを一つの会合から持ち帰った。

イエスは、自然に対する知識を増やすことは、もし彼らの宗教的な切望が単に物質的であるならば、事物の想定された超自然起源の進歩的な置換によって、神への信仰を奪うと信者に警告した。だが、宗教が精霊的であるならば、自然科学の進歩は、永遠の現実と神の価値に対する彼等の信頼を決して妨害することはできなかった。

かれらは、宗教の動機が完全に精神的であるとき、それは、全ての生活をより価値あるものにし、高い目的で満たし、卓越する価値で威厳を与え、素晴らしい動機で奮い立たせ、その間ずっと、崇高で持久する望みで人間の魂を慰めるということを学んだ。真の宗教は、存在の重圧を和らげるように考案されている。それは、日々の生活と利己心のない活動のための信仰と勇気を放つ。信仰は、精霊的活力と正しい結果の良さを促進する。

イエスは、文明が、その宗教の最善の状態を損失したのでは生き延びることができないことを繰り返し使徒に教えた。またかれら、12 人に宗教的な経験の代わりに宗教的な象徴と儀式を受け入れるという大きな危険を指摘することに決して飽きることがなかった。イエスの地球での全人生は、宗教の凍てついた型を啓発された息子性の流動する自由への解凍する任務に一貫して捧げられた。

4. フォイニキアへの道中にて

6月9日、木曜日の朝、真実の25人の教師のこの一行は、王国の進展に関する知らせをベスサイダからのダーヴィドの使者から受けとると、フォイニキアの海岸への旅を始めるためにケーサレーア-フィリッピーを発った。かれらは、ルーズ経由で、湿地帯の周辺を通過して、マグダラ-レバノンの小道の分岐点へ、そこからシドーンの道との交差点に金曜日の午後到着した。

ルーズ近くの張出した岩陰で昼食のために休止をする間、イエスは、彼との交りのすべての歳月を通じて使徒が聞いた最も顕著な演説の1つをした。食事のために皆が座るや否や、サイモン・ペトロスは、イエスに尋ねた。「あるじさま、天の父は全てをご存じであり、また、地上の天の王国の確立においてはその精霊が私達の後ろ盾でありますのに、我々は何故に敵の脅威から逃げるのですか。我々は、なぜ真実への敵に立ち向かうことを拒むのですか。」ところが、ペトロスの質問に答え始める前にトーマスが割り込んで尋ねた。「あるじさま、私は、エルサレムの敵の宗教の何が悪いのか、とても知りたいのです。彼等の宗教と我々のとの本当の違いは何ですか。我々は皆、同じ神に仕えるというときに、そのような信仰の多様性に行きあたるのは何故ですか。」トーマスが言い終えると、イエスが、「ペトロスの質問を無視したくはないが、まさにこの時、ユダヤの支配者との公然の衝突を避ける私の理由をいかに容易く誤解するかもしれないと良く承知しているので、却って、トーマスの質問に答えれば、皆にはもっと役立つであろう。だから、昼食を終えたら、改めてそれについて話そう。」 と言った。

5. 真の宗教に関する講話

現代の言い回しに要約され、再述された宗教に関するこの忘れ難い講話は、次の真理を表した。

世界の宗教には二重の起源—自然と天啓—があるが、いかなる時も、いかなる民族間でも、宗教上の献身の3つの明確な型がある。宗教への衝動の3つの顕現は、次の通りである。

1. 原始の宗教。神秘的なエネルギーへの恐怖と卓越する力への崇拝、主として物理的な自然への宗教、すなわち恐怖への宗教への半自然で本能的な衝動。

2. 文明の宗教。文明化する民族の前進する宗教概念と習わし—心の宗教—確立された宗教的な伝統の権威の知的な神学。

3.、真の宗教—啓示の宗教。超自然的な価値の啓示、永遠の現実に関する部分的洞察、天の父の無限の特質である善と美の一瞥—人間の経験に示される精霊の宗教。

あるじは、このあまりにも原始的な崇拝形態が、人類のより知的な民族の宗教形態に留まる事実を遺憾に思いはしたが、物理的感覚の宗教と本来の人間のもつ迷信深い恐怖をみくびることを拒否した。イエスは、心の宗教と精霊の宗教間の大きな違いは、前者が教会の権威に支えられ、後者が完全に人間の経験に基づくということであると、明らかにした。

そこで、あるじは、教育の時間にこれらの真実を続けて明らかにした。

民族がより高度に知的になり、より完全に文化的になるまで、原始で後れた民族の進化する宗教的習慣に非常に特色的であるそれらの幼稚で迷信深い儀式の多くは、持続するであろう。人類が精霊的な経験の現実のより高くより一般的な認識の段階に進むまで、多数の男女が、進歩的な人間の経験の厳しい現実と格闘する信仰上の冒険における心と魂の活発な参加を伴う精霊の宗教とは対照的に、知的な同意だけを必要とする権威の宗教のための個人の選択を示し続けるであろう。

権威に基づく伝統的な宗教の承認は、精霊的な本質への切望に満足感を求める人間の衝動のために簡単な出口を提示する。権威が定着し、結晶化され、確立された宗教は、恐怖に悩まされ、不安に攻められるとき、分別を失い取り乱している人の魂が逃れられる手早い避難所を提供する。そのような宗教は、満足感と保証に対して支払われる価格として、その信者に受け身の、そして純粋に知力の同意のみを必要とする。

そして、宗教の安らぎをこのように保証することを好むであろう臆病で、恐れ、躊躇う個人は、長らく地球に生きるであろう。にもかかわらず、このように権威の宗教と運命を共にする際、かれらは、人格の主権を危険に曝し、自尊心の尊厳を落としめ、最も感動的で、奮い立たせる人間のすべての可能な経験に参加する権利を完全に明け渡す。真実の個人的探求、知的な発見の危険に直面する際の陽気さ、個人の宗教経験の現実探査への決意、それが、全人類存在の最高の冒険—自分自身のために、そして、自分自身として、神を探し求め、神を見いだす人間の冒険—において公正に勝ち取るような、精霊的な信仰の知的疑問に対する事実上の勝利の実現における個人的功績を経験する最高の満足感。

精霊の宗教は、努力、奮闘、闘争、対立、信仰、決断、愛、忠誠、進展を意味する。心の宗教—権威の神学—は、その形式的な信者からこれらの努力を少しか、あるいは全く求めない。進歩的な人間の心によって発見され、また進化している人間の魂によって経験されるかもしれない精霊の現実のより遠い岸の探索における未踏の真実の公海への大胆な冒険のそれらの信仰の船旅に伴う精霊の奮闘と精神的な不安を本能的に回避するような恐怖に満ち、乗り気でないそれらの人間にとり、伝統は、安全な避難場所であり、容易い経路である。

イエスは、続けた。「エルサレムでは、宗教指導者は、彼らの伝統的な教師や他の時代の予言者達の様々な教義を知的な信条、権威の宗教の確立した体系に定式化してきた。全てのそのような宗教の訴えは、主に心に向けてである。そして、今、我々は、新たな宗教—現代の言葉の意味における宗教ではない宗教、人の心の中に住む私の父の神霊にその主な呼び掛けをする宗教。その権威が、確かに誠にこのより高い精霊的な親交の真実の信者になるすべての個人の経験にとても確かに現れるその受け入れの成果に由来する宗教—の大胆な公布をまもなく始めるので、そのような宗教との決定的な闘争に入ろうとしているのである」

24 名をそれぞれに指し示して、名を呼び、イエスは言った。「さて、天の王国の永遠の真実と崇高な壮大さにおける個人の、生きた経験の現実の美しさを自分のために発見する満足感に気づくと共に、人に救済のより良い道を宣言する任務の困難と迫害に苦しむよりも、むしろエルサレムでパリサイ派により守られるように確立され化石化された宗教への服従のこの簡単な道を、君達の誰が、選びたいであろうか。君達は、恐れており、弱々しく、安易さを求めているのか。真実の神の手の中での未来を信じるのが恐いのか、神の息子達よ。父に不信を抱いているのか、神の子供よ。君達は、伝統的な権威の宗教の確心と知力の定着した容易な道に戻るか、または、精霊の宗教、人の心の天の王国の新たな真実を宣言する不確かでやっかいな未来へと私と共に進む用意をするのであろうか。」

イエスがこれまでにした感情的訴えの数少ない一つであるこれに対し、結束した、忠実な反応を意味するつもりで、聞き手である24人全員が、立ち上がったが、イエスは手を上げて止めた。「解散しなさい、各人が単独で父と共におり、そこで私の質問に感情的でない答えを見い出し、魂のそのような本当の、誠実な態度を見つけたとき、愛のその無限の命は、我々が宣言する宗教のまさしくその精神である私の父であり、あなたの父である方に自由に大胆にその答えを伝えなさい。」

伝道者と使徒は、しばらく単独で離れて行った。彼らの意気は高揚し、心は奮い立ち、感情はイエスの言葉にひどく煽られていた。しかし、アンドレアスが皆を呼び集めたとき、あるじは、「旅を続行しよう。しばらく待つために、しばしフォイニキアに入り、皆は、心身の感情をより高い心の忠誠とより満足のいく精霊の経験に変えるために父に懇願するべきである。」とだけ言った。

24人は、旅を続ける間黙していたが、やがて、一人が他の者に話し始め、午後3 時までには、かれらは、それ程遠くまで行くことができなかった。彼らは停止し、ペトロスが、イエスのところに行って「あるじさま、あなたは生命と真実の言葉を話されました。我々はもっと聞きたいのです。何とぞこれらの事柄についてさらにお話し下さい。」と言った。

6. 宗教に関する2 度目の講話

したがって、山腹の日陰で一休みしながら、イエスは、精霊の宗教に関する教えを続けた。大体の内容は、次の通りである。

君達は、心の宗教に満足しているままの方を選ぶ仲間、保安を切望し、一致を好む仲間から出て来た。君達は、威厳がある確実性の感情を冒険的で進歩的な信仰の精霊の保証と交換することに決めた。組織の宗教の厳しい束縛に不服を唱え、現在、神の言葉と考えられている記録の伝統の権威を拒絶を敢えてした。父は、モーシェ、エーリージャ、イェシャジァ、アーモーセ、ホゼアを通して本当に話したが、昔のこれらの予言者が発言を終了したとき、かれは、世界に真実の言葉の活動を止めなかった。私の父は、真実の言葉が、1時代には与えられ、もう1時代には控えるという民族や世代の公平を欠く方ではない。完全に人間であるものを精霊と呼ぶ愚行を犯すでない、そして、想定上の霊感の伝統的な宣託を通さずに来る真実の知らせの識別をしくじるではない。

私は、君達が、再び生まれることを、精霊から生まれることを強く呼び掛けてきた。私は、君達を権威の暗黒と伝統の無気力から、自分で人間の魂のために可能の限りの最大限の発見—自身の個人の経験における事実として自分のために、自分の中に、自身で神を見つけ、そしてこのすべてを行う崇高な経験—をする可能性の実現の無比の光の中へと呼び出した。そして、君達が、死から命へと、伝統の権威から神を知る経験へと移行できますように。このように、暗黒から光へと、受けき継がれた人種的な信仰から実際の経験により達成される個人の信仰に移るのである。そして、それによって、君達は、先祖から伝えられた心の神学から永遠の贈与として魂に確立される精霊の宗教へと進歩するのである。

君達の宗教は、伝統的な権威に対する単なる知的な信念から神の現実と父の神霊に関連する全てを把握することのできる生きた信仰の実際の経験へと変化するのである。心の宗教は、君達を救い難く過去に結ぶ。精霊の宗教は、進歩的な啓示から成り、精霊的な理想と永遠の現実においてより高度のより至純の達成に向けて君達につねに手招きをする。

権威の宗教は、定着した安全の現在の感情を与えるかもしれないが、君達は、そのような一時的な満足感のために精霊的な自由と信仰の自由の喪失を代償とする。私の父は、天の王国に入る代価として、精霊的に不快で、不浄で、不誠実であるものへの信念に君達に敢えて同意することを要請しない。慈悲、正義、真実の君達自身の感覚が、宗教形態と儀式への廃れた服従により侵害されるというようなことは君達に要求されることはない。精霊の宗教は、精霊があなたをどこへ導こうとも、あなたが、永々と自由に真実に続くままにさせる。そして、誰が判断できるであろうか、—恐らく、この精霊は、他の世代が聞くことを拒否してきたものをこの世代に与えることがあるかもしれない。

飢えた魂を薄暗がりへと、遥か彼方へと引きずろうとする偽の宗教教師達よ、恥を知り、彼らを放置しているのである。これにより、これらの不幸な人々が、あらゆる新しい真実の顕示にまごつきながら、あらゆる新しい発見に怯えるように運命づけられている。「神と居続ける者の心は、完全な平穏に保たれる」という言った予言者は、権威的な神学の単なる知的な信者ではなかった。この真実を知る人間は、神を見つけた。かれは、単に神について話したのではなかった。

私は、常に昔の予言者を引き合いに出し、イスラエルの英雄を称賛する習慣を諦め、代わりにいと高きものの生きている予言者となり、来たるべき王国の精霊的英雄になることを切望するように君達に諭す。神を知る過去の指導者達を尊敬することは、まことに価値があるかもしれないが、何故、そうしながらも、自分のために神を見つけ、自身の魂に神を知るという人間存在の最高の経験を犠牲にしなければならないのか。

人類のあらゆる人種は、人間の存在に関するそれ自身の精神的な見解を持つ。それ故、心の宗教は、常にこれらの様々な人種的な視点に忠実でなければならない。権威の宗教は、決して統一に立ち至ることはできない。人間の和合と必滅の兄弟の愛は、精霊の宗教の付加された贈与により、またそれを通してのみ、達成が可能である。人種の心は異なるかもしれないが、全人類には同じ神性と永遠の精霊が宿している。人間の兄弟愛の望みは、異なる心の権威の宗教が、精霊の統一して、気高くする宗教—個人の精霊的な経験の宗教—をしみ込ませ、それによって影が薄くなるときにだけ、または、そうしながら実現される。

権威の宗教は、人を分割し、互いに対して良心的隊列に配置できるに過ぎない。精霊の宗教は、人を次第に接近させ、互いが理解をもって思いやるようにさせる。権威の宗教は、信念における人の一様性を要求するが、これは現在の世界状態においては実現不可能である。信念の多様性を完全に考慮に入れる精霊の宗教は、経験の合一性—崇高な目標の同一性—のみを必要とする。精霊の宗教は、視点と展望の同一性ではなく、洞察の均一性だけを必要とする。精霊の宗教は、知的な見解の均一性を要求するのではなく、精霊感覚の統一だけを要求する。権威の宗教は、生気のない教義に結晶化する。精霊の宗教は、高揚させる愛のこもった奉仕と慈悲深い活動行為を増大する喜びと自由へと成長する。

しかし、君達の誰も、アブラーハームの子孫が、伝統的な不毛のこれらの悪い時代に出合ったからといって軽蔑して見ないように注意しなさい。我々の祖先は、執拗に、しかも情熱をもって献身的に神を追求し、自身が神の息子としてこれを熟知するアダームの時代からずっと他の全人類が知らないような神を見い出した。私の父は、モーシェの時代以来ずっと、神を探し神を知るイスラエルの長い、不屈の戦いへの注意を怠ってはいない。ユダヤ人には、疲れきった数代にわたり、神についての真実の発見にさらに近づくために骨を折り、汗をかき、呻き声を上げ、苦労をし、そしてまた受難に耐え、誤解され、軽蔑された民族のその悲しみの経験の止むことはなかった。そして、イスラエルのすべての失敗と怯みにもかかわらず、モーシェからアーモーセとホゼアの時代へと、我々の祖先は、永遠の神のずっと明確でより真実の姿を次第に全世界へ明らかにした。そして、召喚された君達が共有するために、父のさらに素晴らしい顕示への道が用意されたのである。

生きている神の意志を発見する試みよりも満足のいく感動的な冒険はないし、それが、その神の意志を正直に為そうとする崇高な経験であることを決して忘れてはならない。また、地球のどんな職業においても神の意志を為すことができるということを忘れてはならない。ある職業は神聖ではなく、他のものは世俗的である。全てのものは、生霊に導かれる、すなわち、真実に従属し、愛に高揚され、慈悲に支配され、そして公正さ—正義—に抑制される者の生活において神聖である。父と私が世界に送る精霊は、真実の聖霊だけではなく、理想主義的な美の精霊でもある。

君達は、神学の権威の昔の記録の紙面にのみ神の言葉を捜し求めることをやめなければならない。神の精霊の生まれの者は、起源の如何にかかわらず、神の言葉をこれから明察するのである。その贈与の経路が明らかに人間的であるからということで、神性の真実を無視してはならない。同胞の多くは、神の存在を精霊的に認識できずにいるが、神の理論を受け入れる心をもっている。そして、それは、天の王国が、誠実な子供の精霊的な態度を得ることによって最も良く認識できると、私が、頻りに君達に教えてきたまさにその理由である。君達に推薦することは、子供の心の未熟さではなく、むしろそのように容易く信じ、完全に信頼する幼い者の精霊的な単純さである。君達が、神の存在を感じる能力においてますます成長するべきであるということほどには、神の事実を知るということはあまり重要ではない。

一度魂の中に神を発見し始めると、君達は、ほどなく他の人間の魂に、遂には広大な宇宙の全ての生物と創造物に神を発見し始めるであろう。しかし、そのような永遠の現実の思慮深い静観にほとんど、あるいは、全然時間を与えない人の魂の最高の忠誠心と神性の理想の神として、父は、どんな機会に現れなければならないのか。心が精霊的な自然の場所ではないが、それは、誠にそこへの出入口なのである。

しかし、神を見つけたと他の人間に立証しようとする誤りを犯してはいけない。そのような有効な証明を意識的に引き起こすことはできない、とはいえ、君が神を知っているという事実の2つの明確かつ強力な実証がある。それは、次の通りである。

1. 日々の通常の生活の中で見えている神の精霊の成果。

2. 現世においてその存在を予め経験した永遠の神を発見する望みを追求において死後の生存の冒険のために、君達が、また君達が持つ物全てを無条件に危険に晒すという積極的な証拠を提供する全ての人生計画という事実。

さて、間違えてはいけない。父は、信仰の最も微かな揺らめきにいつも応じるであろう。かれは、原始人の物理的で迷信深い感情に注目される。そして、父は、信仰がとても弱く、権威の宗教に同意する受け身の態度と少しばかり余計に知的な合致をする正直だが恐怖に満ちている者達を、自分に届こうとする全てのそのような弱い試みさえ重んじて、育てるために油断なくいつも気を配っている。しかし、暗黒から光に呼ばれた君達には、全心で信じることが期待されている。君達の信仰は、身体、心、精霊の結合の態度を支配する。

君達は私の使徒であり、君達にとって宗教は、精霊的な進展と理想主義的な冒険の厳しい現実に直面することを恐れて逃れることのできる神学の避難所にはならないであろう。だが、むしろ、君達の宗教は、神が君達を見つけ、理想化し、高揚させ、精霊化したということ、また、君達が、このように君達を見つけ、君達を息子の地位においた神を探す永遠の冒険に徴募したと証言する真の経験の事実になるであろう。

イエスは、話し終えると、アンドレアスに合図して、フォイニキア方面の西を指し、「旅程に就こう。」と言った。