論文 151 海辺での滞在と教え
論文 151
海辺での滞在と教え
説教をし教育する全集団は、3月10日までにベスサイダに集まった。木曜日と金曜日の夜、彼らの多くは、漁に出かけ、安息日には、父アブラハムの栄光に関するダマスカスの年老いたユダヤ人の講話を聞きに会堂に出席した。イエスは、この安息日の大半を一人丘で過ごした。その土曜日の夜、あるじは、「逆境での使命と失望の精神的価値」について集ってきた幾つかの集団に1 時間以上話した。これは、忘れ難い機会であり、聞き手は、与えられた教えを決して忘れなかった。
イエスは、先頃のナザレでの拒絶の悲しみから完全に立ち直ってはいなかった。使徒は、イエスの普段の快活な振舞いに混じっている独特の悲しみに気づいていた。ペトロスは、新伝道者の一団の福祉と指示に関わる多くの責務に深く拘わっていたので、ジェームスとヨハネがたいてい彼と共にいた。エルサレムの過ぎ越し祭りの開始を待つこの期間、女性達は、個別訪問をし、福音を教え、カペルナムや周辺の町村の病人の奉仕に時を費やした。
1. 種を蒔く人のたとえ話
およそこの頃、イエスは、頻繁に自分の周りに集まりくる群衆に教えるために初めてたとえ話の方法を採用し始めた。イエスが夜遅くまで使徒と他の者達に話したので、この日曜日の朝、一行のほんの僅かしか朝食に起きてこなかった。そこで、かれは、海辺へ出かけ、いつも自分の好きに使用しているアンドレアスとペトロスの古い漁船に一人座り、王国を広げる仕事の次の行動について熟考した。しかし、あるじは長らく一人にされてはいなかった。間もなく、カペルナムや近隣の村落からの人々が到着し始め、その朝10時までには、およそ1,000人が、イエスの船の岸近くに集まり、大声で注目を求めた。ペトロスは、そのとき起きており、船に向かい、「あるじさま、私が彼らに話しましょうか。」とイエスに言った。しかし、「いや、ペトロス、私が一つ話をしよう。」と答えた。そして、イエスは、後に続いた群衆に教えた長い一連のそのようなたとえ話の最初の1つである種を蒔く人の詳述を始めた。この船には高くされた席があり、(教えるときには座るのが、習慣であったので)、イエスは、岸に沿って集まった群衆に話す間、そこに座った。ペトロスが少し話した後で、イエスが次のように言った。
「種を蒔く人が、出掛けて行き蒔いていると、ある種子は、道端に落ち足もとで踏まれて空からきた鳥に食べられてしまった。他の種子は、あまり土のない岩場に落ち、すぐに芽を出したが、土に深さがなかったので太陽が照ると、水分を得る根がなかったのですぐに枯れた。別の種子は、茨の間に落ち、茨が成長し種子を塞いでしまったので、実を結ばなかった。さらに他の種子は、良い地に落ち成育し、30倍、60倍、100倍の実をもたらした。」イエスは、このたとえ話を終えると、「聞く耳をもつ者は聞くがよい」と、群衆に言った。
イエスがこのように人々に教えるのを聞いたとき、使徒や使徒と共にいた者達は、大いに当惑した。長らく自分等達だけで話した後に、マタイオスは、その夜ゼベダイオスの庭でイエスに言った。「あるじさま、群衆に提示された難解な意味合いは何ですか。真実を求める人々になぜたとえ話をされるのですか。」そこで、イエスが答えた。
「いままで忍耐強く君達に教えてきた。君達には天の王国の神秘が知らされているが、洞察力に欠ける群衆や我々を破壊しようとする人々には、これから先、王国の神秘はたとえ話によって示されるであろう。そうして、我々は、王国入りを本当に望む人々が、教えの意味が分かり、その結果、救済を見つけることができるようにするようにし、同時に、我々を陥れるためだけに聴く人々は、 見ずして見、聞かずして聞くことにより、さらにまごつくするかもしれない。我が子等よ、持てる者には更に与えられるので豊富にある、しかし持たざる者からは、その持てるものさえ取り上げられるという精霊の法を君達は認めるか。したがって、私は、我々の友人や真実を知ることを望む人々が、探すものを見つけることができるように、最後まで大いに比喩で今後話すつもりであり、一方、我々の敵や真実を好まない人々は、理解せずに聞くかもしれないが。これらの人々の多くは、真実の道を踏襲しない。予言者は、実にそのようなすべての洞察を欠く者達を描写して言った。『この民の心は、鈍くなり、その耳は聞こえにくく、その目は閉じている、それは、真実を識別したり、心で理解しないようにしているがためである。』」
使徒達は完全にあるじの言葉の意味を理解したというわけではなかった。アンドレアスとトーマスが更にイエスと話す一方で、ペトロスと他の使徒は庭の別の方に引き下がり、熱心な、しかも長い議論に入った。
2. たとえ話の解釈
ペトロスとその周りにいる仲間は、種を蒔く人のたとえ話は比喩であり、各細目には何らかの隠された意味があるという結論に至り、イエスのところに行き説明を求めることにした。そこで、ペトロスは、あるじに近づいて言った。「我々はこのたとえ話の意味を看破することができませんし、王国の神秘を知らされると言われ、それについての説明をお願いします。」イエスがこれを聞くと、ペトロスに言った。「息子よ、私は、何も差し控えるつもりはないが、まず、何を取り沙汰していたのか、話ししてもらいたい。たとえ話の君の解釈は何なのか。」
しばらくの沈黙の後、ペトロスが言った。「あるじさま、我々はたとえ話についてかなり話しました。そして、これが私の行き着いた解釈です。種を蒔く人は、福音伝道者であり、種子は神の言葉です。路傍に落ちた種子は、福音の教えを理解しない人々を表します。固まった地面に落ちた種子を素早く取った鳥は、魔王、または邪悪なものを表し、それは、これらの無知な者の心に蒔かれたものを知らぬ間に奪い去ります。岩場に落ち、急速に成長した種子は、朗報を聞くと喜んで知らせを受け入れる浅薄で軽率な人々を代表します。でも、真実というものには、彼等がより深く理解する本当の根がないので、苦難と迫害を目前にすると、その献身は短命であります。問題が迫ると、これらの信者は躓きます。誘惑されると離れます。茨に落ちた種子は、進んで言葉を聞きますが、浮世の心配と、真実の言葉を窒息させる富の虚偽に気を許すので、不毛となる人々を表しています。さて、良い土地に落ち、30倍、60倍、100倍の実をつけるために芽を出した種子は、真実を聞いたときに、様々な角度からの感謝でそれを受け—これらの異なる知的な授与によって—これらの異なる宗教経験の角度を明かにする人々を表しています。」
イエスは、ペトロスのたとえ話の解釈を聞いた後に、他の使徒にもまた提案がないか尋ねた。この招きに、ナサナエルのみが応じて言った。「あるじさま、サイモン・ペトロスの解釈には多くの良いものを認めながらも、完全には同意いたしません。このたとえ話についての私の考えは、こうです。種子は、王国の福音を表し、種を蒔く人は、王国の使者を意味します。固まった地面の路傍に落ちた種子は、福音をあまり聞いたことのない人々、また、知らせに無関心である者、心を堅くした者を表しています。路傍に落ちた種子を引ったくる空の鳥は、人の人生での習慣、悪の誘惑、肉体の欲望を意味します。岩の間に落ちた種子は、新たな教えを受け入れることに迅速で、この真実に従って生活する困難や現実に直面するときも同様に素早く真実をあきらめるような感情的な人間を表しています。彼等は精霊的な認識を欠いています。茨に落ちた種子は、福音の真実に引きつけられる者達を表しています。その教えに服従するつもりでいますが、かれらは、人間の存在の人生に関わる自負、嫉妬、羨望、懸念に妨げられます。良い土壌に落ち、成長し芽を出し、30倍、60倍、100倍となった種子は、さまざまな精霊の啓発の贈与を保持する男女の真実を理解し、その精霊的な教えに反応する能力の自然で様々な度合いを表します。」
ナサナエルが話し終えると、ある者達は、ペトロスの解釈の正しさを求めて争い、ほとんど同数の者は、たとえ話に対するナサナエルの説明を擁護しようとし、使徒とその仲間は深刻な議論になり、熱心な討論に入った。一方、ペトロスとナサナエルは、家に撤退し、そこで、双方が、相手を説き伏せ互いの考えを変えようと活発で断固とした努力を払っていた。
あるじは、この混乱が、表現の激烈な頂点を過ぎるまで容認した。それから、かれは、手をたたいて自分の周りに皆を呼んだ。かれら全員が、もう一度まわりに集まると、「これから私がこのたとえ話について話す前に、誰か何か言うことがあるか。」と聞いた。一瞬の沈黙の後、トーマスがはっきりと言った。「はい、あるじさま、少々発言したいのです。あなたがかつて、他でもないこの件に注意するようにと我々に言われたのを、私は思い出します。あなたは、説教に具体例を用いるとき、我々は作り話ではなく、人々に教えたいと思う1つの中心となる重大な真実の実例に最適な物語を選択するべきであるということ、また、そのように話を用いた後では、物語での展開される重要でない詳細のすべてに対して精霊的な解釈を試みるべきではない、と我々に教えられました。私は、ペトロスとナサナエルの二人は、このたとえ話を解釈する試みにおいて間違っていると思います。私は、これらのことをする彼等の能力を賞賛はしますが、私は、そのすべての特徴で自然のたとえ話を精神的な類似にもたらす全てのそのような試みは、そのようなたとえ話の本当の目的に混乱と重大な誤解をもたらすだけであるということを等しく確信します。このたとえ話に関する異なる意見を持ち、私の考えでは、あなたが、このたと話を群衆に提示したときは、素晴らしい真実を心にもっており、1 時間前には我々の心は1つでありましたが、その後、あなたが、我々にその注釈を求めると、我々は、いま2つの別々の集団に分かれ、このたとえ話に関する異なる意見を持ち、私の考えでは、完全に理解するための我々の能力を妨げかねないほどに、ひたすら真剣にそのような意見をもつという事実によって、私が正しいということは、十分に証明されます。」
トーマスの話した言葉は、全ての者を落ち着かせる効果があった。かれは、皆にイエスが以前に教えてくれた事を思い出させ、そして、イエスが話を再開する前にアンドレアスが立ち上がって言った。「私は、トーマスが正しいと説き伏せられました。そこで、彼がこの種子を蒔く人のたとえ話にどんな意味を添えるか話してもらいたいです。」イエスが話すように合図した後、トーマスは言った。「同胞よ、この議論を長引かせたくはないが、もしそう望むのであれば、このたとえ話は1つのすばらしい真実を我々に教えるために話されたと思うと私は言います。そして、それは、我々が、神からの使命をいかに忠実に効率的に実行しようが、王国の福音についての我々の教えは、異なる成功の度合を伴うということである。結果のそのようなすべての違いは、直接、我々の支配の及ばない活動情況そのものに固有の事情に依るものであります。」
トーマスが話し終えると、仲間の伝道者の大半は、今にも同意するところであった。ペトロスとナサナエルさえトーマスに話しに行くところであった、そのとき、イエスが立ち上がって言った。「でかした、トーマス。たとえ話の本当の意味についてそなたは明察した。しかし、ペトロスとナサナエルの両者も、私のたとえ話から比喩を作成する仕事の危険性をそれほどまで完全に示したという点において同様によかった。心の中で、君達は、そのような思索的な想像の飛躍にしばしば有利に従事するかもしれないが、公の教えの一部としてそのような結論を提供しようとするとき、間違いを犯す。」
緊張感はなくなり、ペトロスとナサナエルは、互いにそれぞれの解釈への喜びを述べあい、アルフェウスの双子を除いては、使徒の各々は、その夜の就寝前に種を蒔く人のたとえ話の解釈に挑んだ。ユダ・イスカリオテさえ、非常にもっともらしい解釈を提供した。その後12人は、内輪で、しばしば、あるじのたとえ話を比喩として理解しようとしたのであったが、決してそのような思索を真剣には受け止めなかった。これは、使徒とその仲間にとっての非常に有益な集まりであり、これ以後、イエスが、公への教えにますますたとえ話を用いたので特に有益であった。
3. さらにたとえ話に関して
使徒は、たとえ話志向であったので、その翌晩ずっとたとえ話のさらなる議論に費やされるほどであった。イエスは、次の言葉で夜の会議に入った。「最愛なる者よ、君は、真実の提示を向かいあっている知性と感情に適合するように、教える際にはいつも変化をつけなければならない。さまざまな知性と気質の群衆を前にして立つとき、それぞれの聞き手の種類に合わせて異なる言葉を話すことはできないが、君の教えの伝達のために物語を告げることはできる。そして、各々の集団は、各個人でさえ、知的かつ精神的な資質に従い君のたとえ話に対する自身の解釈ができるであろう。君は、自身の光を輝かせるが、知恵と思慮深さでそうしなさい。誰も、灯りを点すとき、容器でそれを覆うか、または寝台の下に置いたりはしない。かれは、皆が光を見ることができる台の上に灯りを置く。天の王国には、明らかにされるべきではないものはないということを言っておく。最終的に知られるべきではないどんな秘密もない。結局、全てのこれらのものが明るみに出るのである。群衆だけを、しかも彼らがどう真実を聞くかを考えてはいけない。君が、どのように聞くのか、自身にも注意を払いなさい。私が、何回も言ってきたことを思い出しなさい。持っている人にはもっと与えられ、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。」ということを。
たとえ話に関する継続的な議論と彼らの解釈に関するさらなる教えは、現代の言い回しで次のようにまとめられ、表現されるかもしれない。
1. イエスは、福音の真実を教える際に、作り話、比喩の双方の採用に対しての忠告をした。かれは、自由なたとえ話の使用、特に自然のたとえ話を推薦した。かれは、真実を教える手段として自然界と精霊界の間に存在する類似を利用することの価値を強調した。かれは、頻繁に「精霊の現実から来る非現実的ではかない影」として自然のものについて言及した。
2. イエスは、ヘブライの教典から3篇か4篇のたとえ話を述べた上で、この教授方は全く新しくないという事実に注意を促した。しかしながら、それは、かれが、この後ずっと用いたのでほとんど新教授法となった。
3.たとえ話の価値を使徒に教えるに当たり、イエスは、次の点に注意を促した。
たとえ話は、心と精霊の夥しく異なる段階に同時に訴えることを可能にする。たとえ話は、想像力を刺激し、識別力に挑戦し、批判的な思考法を刺激する。それは、対立を喚起することなく共感を促進する。
たとえ話は、認識されている事柄から未知の認識へと進む。たとえ話は、精霊と超物質を導入する方法として、物質と自然を利用する。
たとえ話は、公平な道徳上の決断を刺激する。たとえ話は、多くの偏見を回避し、新たな真実を率直に心に収め、個人の憤りの自衛の最小限の喚起によりこの全てをする。
たとえ話の類推に含まれる真実を拒絶することは、人の正直な判断と正しい決定を真っ向から無視する意識的な知的行動を要する。たとえ話は、聴覚を通しての思考の強制に役立つ。
たとえ話の教育形態の採用は、主に伝統と確立された権威とのすべての論争と明らかな衝突を避けると同時に、教師が、新しく、さらに驚異的な真実さえ提示することを可能にする。
たとえ話にはまた、同じ馴染み深い場面にその後に遭遇するとき、教えられた真実に関する記憶を刺激する利点がある。
このように、イエスは、公への教育にたとえ話をますます用いる彼の実践に基礎をなす多くの理由を追随者に知らせようと努めた。
夜の教えでの終わり近く、イエスは、種を蒔く人のたとえ話について初めての注釈を与えた。かれは、たとえ話は2つのことに言及していると言った。まず最初に、それは、その時までの彼自身の活動への回想と、地球での残りの人生の間の自分の前に横たわっているものへ予測であった。2番目は、王国の使徒と他の使者達が、代々引き続いてその活動において予期するかもしれないことへの暗示でもあった。
また、イエスは、彼の仕事のすべてが、悪霊の援助と悪魔の王子によって行われると教えるエルサレムの宗教指導者の周到な努力への最大限に可能な反証として、たとえ話の使用に訴えた。当時の人々は、すべての自然現象を霊的な存在と超自然力の直接行為の成果と見ていたので、自然への訴えは、そのような教育の違反であった。かれはまた、敵が彼に対する違反や批難の原因を見つける機会をより少なくしつつ、同時により良い道を知りたい人々に重大な真実を宣言することを可能にするので、この教授方法に決定していた。
その夜一行を解散させる前に、イエスは言った。「さて、私は種を蒔く人のたとえ話の最後を話すつもりである。どうこれを君達が受け止めるかを知るために考査したい。天の王国もまた、地球で良い種子を撒く者に似ているのである。そして、彼が夜は眠り、日中は仕事をする間に、種子は、芽生え、成長し、彼は、それが、どう起こったかを知らないが、植物は実を結んだ。最初に葉が出、次に穂が、それから穂に豊かな粒が。そして、粒が熟れると、かれは、鎌で刈り取り、それで収穫は終わった。聞く耳を持つ者には聞かせよ。」
しばしば使徒は、この格言を心の中で熟考したが、あるじは、種を蒔く人のたとえ話へのこの追加へのさらなる言及を決してしなかった。
4. 海辺でのさらなるたとえ話
翌日、イエスは、船から人々に再び教えた。「天の王国は、畑に良い種子を蒔いた人に似ている。しかし、この人が眠っている間に敵が来て、雑草を小麦の中に蒔いて急いで離れた。そうして、若い葉が出て、後に実をつけようとするとき、雑草もまた生えてきた。それから、この世帯主の使用人達が来て言った。『旦那さま、あなたは、畑に良い種子を蒔きませんでしたか。これらの雑草はどこから来るのでしょうか。』そこでかれは、使用人に答えた。『敵がこうしたのである。』すると使用人が尋ねた。『私達にこれらの雑草を引き抜かせてください。』しかし、主人は言った。『だめだ。雑草を抜くかたわらで小麦も根こそぎにするといけない。むしろ、収穫の時まで共に成長させ、その時、刈り手に、まず雑草を集め、燃やすために縛り、次に、小麦を集め、納屋に貯蔵するようにと、私が言います。』」
人々がいくつかの質問をした後、イエスは、別のたとえ話をした。「天の王国は、人が畑に蒔く辛子菜の一粒の種子のようなものである。今、辛子菜の種子は、極小であるが、それが成熟すると、すべての野菜の中でもいちばん大きくなり、木に似ているので、その枝に空から鳥達がやって来て休息することができる。」
「天の王国はまた、女性がそれを取り3 杯の粗挽き粉に隠すパン種のようなもので、こうすると、粗挽き粉全てが発酵するのである。」
「天の王国はまた、畑に隠され人に発見された宝物に似ている。喜びのあまり、この人は、畑を買うための金を得るために持ち物全てを売り払いに行くようなものである。」
「天の王国はまた、上質の真珠を探している商人にも似ている。商人は、1 粒の高価な真珠を見つけると、出掛けていき、並はずれた真珠を購入できるかもしれないほどの所有物すべてを売った。」
「また、天の王国は海に投げ込まれ、あらゆる種類の魚を捕獲する一振りの網に似ているのである。網が一杯になると、漁師達は岸に引き揚げ、そこに腰を下ろし、魚の仕分けをし、良いものは入れ物へ、悪いのは投げ捨てるのである。」
イエスは、群衆に他の多くのたとえ話をした。事実、この時以来、かれは、この方法以外では大衆に滅多に教えなかった。たとえ話で一般聴衆に話した後、かれは、夜の授業の間、より完全により明白に自分の教えを使徒と伝道者達に説明するのであった。
5. ケリサ訪問
群衆は、その週を通して増え続けた。安息日にイエスは、離れて丘へと急いだが、日曜日の朝が来ると、群衆は、戻ってきた。イエスは、ペトロスの説教の後、昼過ぎに群衆に話し、話し終わると使徒達に言った。「私は、人だかりに疲れた。我々が1日休めるように向こう側に渡ろう。」
湖の反対側へ向かう途中、特に1年のうちのこの時期、ガリラヤ湖に特有の激しい突然の暴風の1つに遭遇した。この水域は、海面から約210メートル下にあり、特に西側の高い堤に接して囲まれている。湖から丘へと導く急な谷間があり、湖上のへこみから日中熱せられた空気が上昇すると、日没以降、谷間の冷却空気が湖上に急降下する傾向がある。これらの強風は、急速に来て、時々同じ速さで突然遠ざかる。
この日曜日の夕暮れ、舟が、向こう岸にイエスを運んで行くのが見られたのは、ちょうどそのような夕方の強風であった。数人の若い伝道者を乗せた他の3 隻の舟が、あとについていた。西岸では嵐の形跡はなく、この湖の領域に限られておりはしたが、この暴風雨は激しかった。風は非常に強く、波が舟に打ち上げ始めた。強風は、使徒が巻く間もなく、帆を引き裂いてしまい、かれらは、2 キロ半の距離を、苦労して岸に向かい、そのとき全くこの櫂に依存していた。
その間、イエスは、小さい頭上の雨覆いの下で舟の後部で横になって眠っていた。ベスサイダを後にしたとき、あるじは、疲れきっていたし、反対側への横断航行の指示は、休息を確保するためであった。これらの元漁師は、強く、経験豊かな漕手であったが、これは彼らが、それまでに遭遇した最悪の強風の1つであった。風と波は、まるでそれが玩具の舟であるかのように激しく揺らせたが、イエスは、邪魔されることなく眠っていた。ペトロスは、後部近くの右の櫂についていた。舟が水でいっぱいになり始めたとき、櫂を手離し、イエスのところに急ぎ、目を覚まさせるために力強く揺さぶった。そして、イエスが目を覚ますと、ペトロスは言った。「あるじさま、激しい嵐に合っているのを知らないのですか。あなたが救ってくれなければ、我々は全員、死んでしまいます。」
イエスが雨の中に出て来ると、まずペトロスを見て、次に、奮闘している漕手のいる暗黒をのぞき込み、動揺してまだ自分の櫂に戻っていないサイモン・ペトロスに一瞥を返して言った。「皆はなぜそのように恐がっているのか。信仰はどこにあるのか。穏やかに、静かにしなさい。」イエスが、ペトロスや他の使徒を叱責するや否や、ペトロスに騒ぐ魂を落ち着け、安らぎを求めるように命じるや否や、乱れた空気は、その平衡が定まり非常に穏やかになった。短い驟雨を降らせた暗雲が消えると共に、荒波はほとんどすぐに静まり、空の星は頭上に輝いた。我々が判断できる限り、このすべては、全く偶然の一致であった。しかし、使徒、特にサイモン・ペトロスは、この出来事を自然の奇跡と見なすことをやめることは決してなかった。当時の人々にとって自然の奇跡を信じることは、特に簡単であった、なぜなら、すべての自然が、精霊の力と超自然的な存在体の直接の支配下の現象であると堅く信じたので。
イエスは、憂悶する彼等の精神に話しかけ、恐怖に漂う彼らの心に立ち向かったということ、暴風雨に自分の言葉に従うように命令はしなかったということを12人にはっきりと説明したが、無駄であった。あるじの追随者は、常に、そのようなすべての偶然の出来事に対して自身の解釈をすることに固執した。この日から、彼らは、あるじが、自然の力の上に絶対的な力を持っていると考えると言ってゆずらなかった。ペトロスは、いかに「風と波さえ彼に従うか」を語ることに決して飽きなかった。
イエスと仲間が岸に着いたのは、夜も遅く、穏やかで美しい夜であったので、皆は、舟の中で休み、翌朝日の出直後まで岸へは行かなかった。皆、全部でおよそ40人が、集合したとき、「父の王国の課題をじっくり考える間、あそこの丘に上って、数日滞在しよう。」とイエスが言った。
6. ケリサの精神異常者
湖の東岸近くの大部分は、高地に向かって緩やかな上り坂になっており、この特定の場所では、岸の所々は、湖へと切り立った状態であった。近くの丘の斜面を指して、イエスは、「朝食のためにこの山腹を上り、避難所の幾つかで休んで話そう。」と言った。
この山腹全体は、岩石を削って作られた岩屋に覆われていた。この場所の多くは、古代の墓であった。山腹のほぼ中ほどの小さくて比較的平らな場所にケレサという小さい村の墓地があった。イエスと仲間がこの埋葬地の近くを通っていると、山腹のこれらの洞窟に住んでいる精神異常者が、皆の方へ急いできた。この狂った男性は、以前は足枷と鎖で岩穴の1つに閉じ込められていたので、この辺りではよく知られていた。かなり以前に、かれは、枷を壊してから、そのときは、墓や放棄された塚の間を自由に移動していた。
この男性は、名前をアーモーセと言い、周期的な型の狂気に苦しめられていた。何らかの衣類を見つけ、仲間の間でかなりよく振る舞うかなりの期間があった。かれは、このような正気の合間にベスサイダに行ったことがあり、そこで、イエスと使徒の説教を聞き、その時、王国の福音の本気とはいえない信者となった。しかし、間もなく激しい病の様相が現れ、彼は墓場に逃げ、そこで呻き、大声で叫び、偶々出会う者すべてを恐れさせたのであった。
アーモーセがイエスに気づくと、その足元に倒れ伏し、「イエスさま、私は、あなたを存しております。でも私は、多くの悪魔に取りつかれています、あなたが、私を苦しめないよう嘆願します。」と叫んだ。この男性は、自分の周期性の心の病は、それが起こる時は、悪い、または不浄な霊が自分の中に入り込み、その心と身体を支配しているという事実のためであると本当に思っていた。彼の問題は、大部分が、感情—脳はまったく病的ではなかった—からくるものであった。
イエスは、足元に動物のようにかがんでいる男性を見下ろし、手を伸ばして男性の手を取り、立たせて言った。「アーモーセ、君は悪魔に取りつかれてはいない。君が神の息子であるという良い知らせを君はすでに聞いた。この呪縛から出て来ることを君に命ずる。」アーモーセが、イエスのこれらの言葉を聞くと彼の知性に非常な変化が起こり、すぐに健全な心と感情の通常の制御を回復した。この時までには、近村からのかなりの群衆が集合しており、そして高地からの養豚者達も加わって増大したこれらの人々は、精神異常者が、正常な心でイエスとその追随者と自由に談話しているのを見て驚愕した。
養豚者が従順になっている精神異常者の報を広めるために慌てて村に行くと、数匹の犬が、小さな、放置された30頭ほどの豚の群れに突進し、そのほとんどを絶壁から海へと追い込んでしまった。そして、イエスの臨場と精神異常者の思い違いの奇跡的な回復に関連して、イエスが、アーモーセから多数の悪魔を追放することにより彼を直したということ、これらの悪魔が、豚の群れに入り込んだということ、直ちに豚を下方の海への真っ逆さまの破滅へ追いやったということに伝説の起源を与えたのが、この偶発事件であった。この日が終わる前に、この出来事は、豚の番人達により広く公にされ、村全体がそれを信じた。アーモーセは、この話をすっかり信じた。煩わされた心が静まった直後に、かれは、豚が丘の崖っぷちを転がり落ちていくのを見たことでもあるし、それほどに長い間自分を悩まし、苦しめていた他でもないその悪霊を連れていったと常に信じた。そして、これは、彼の治癒の永続性と大変に係わりがあった。イエスの使徒達(トーマスを除く)全員が、豚の挿話をアーモーセの治癒に直接関係があるとおもっていたというのは、相等しく真実である。
イエスは求めていた休息を得なかった。その日の大半は、アーモーセが回復したという知らせに反応して来た者達に、そして、魔物が、精神異常者から出て豚の群れに入ったという話によって引きつけられた人々の押し掛けにあった。そして、たった一晩の休息の後の火曜日の朝早々、イエスと友人達は、イエスに彼らの中から離れることを促すためにきた養豚者のこれらの非ユダヤ人の代表団に起こされた。代弁者は、ペトロスとアンドレアスに言った。「ガリラヤの漁師さん、我々から離れ、あなた方の予言者を連れて行きなさい。聖なる人であることを知っているが、我々の国の神はあの人を知らないし、我々は、多くの豚を失うという危機に立っている。我々は、あなた方への恐怖に急襲されたので、ここを去るように懇願します。」イエスが代表者達の話を聞くと、「我々の場所に戻ろう。」と、アンドレアスに言った。
皆が出発しようとしていると、アーモーセは、皆と一緒に行く許しをイエスに切に願ったが、あるじは、同意しなかった。アーモーセに言った。「あなたは神の息子であるということを忘れるでない。自身の人々のもとに戻り、神があなたのためにどんな素晴らしいことをしたかを彼らに教えなさい。」そこでアーモーセは、イエスが、自分の惑乱した魂から悪魔を追い払ったということ、そして、これらの悪霊は豚の群れに入り、それらを素早い撲滅に追いやったということを広めてまわった。そして、イエスは、デカーポリスの全ての都市に入るたびに、自分のためにしたすべての偉大なことを公言した。