論文 136 洗礼と40日間
論文 136
洗礼と40日間
イエスは、ヨハネの説教に対する大衆の関心が最も高いときに、また、パレスチナのユダヤの人々が熱心に救世主の出現を期待しているときに、公のための仕事を始めた。ヨハネとイエスの間には、かなりの違いがあった。ヨハネは、熱烈でひたむきな労働者であったが、イエスは、穏やかで幸福な労働者であった。かれは、全生涯を通じて急いだのはほんの数回というほどであった。イエスは、世界にとって心地よい安らぎであり、幾分か模範でありもした。ヨハネは、ほとんど安らぎでも模範でもなかった。かれは、天の王国を説いたが、その幸福感をほとんど経験しなかった。イエスは、ヨハネについて旧体制の予言者の中で最も立派な者と語ったが、同時に、新しい道の見事な光を見、それによって天の王国に進んだ中で最も低い者の方が、ヨハネよりも実に立派であるとも言った。
ヨハネが来たるべき王国を説いたとき、その趣意は次の通りであった。悔い改めよ。来たる激怒から逃がれよ。イエスが説教し始めたとき、悔悟への勧告は残存していたが、そのような言葉の後にはいつも新しい王国の喜びと自由の良い知らせ、福音が続いた。
1. 期待される救世主の概念
ユダヤ人は、期待される救出者についての多くの考えを抱いた。そして、これらの異なる救世主教育の各学校は、それぞれの論点の裏付けとしてヘブライ経典での陳述を指摘することができた。ユダヤ人は、一般的に、国史をアブラーハームから始め、遂には救世主と神の王国の新時代に達すると見なした。初期において、かれらは、この救出者を「主のしもべ」として、それから、「人の息子」として把握し、最近では、救世主を「神の息子」と言及するまでに至った。しかし、たとえ「アブラーハームの子孫」と呼ばれようが、「ダーヴィドの息子」と呼ばれようが、救世主、「聖油を注がれた者」であるということには皆が同意した。このように、この概念は、「主のしもべ」から「ダーヴィドの息子」、「人の息子」、「神の息子」へと展開していったのであった。
ヨハネとイエスの時代、学識のあるユダヤ人は、「主のしもべ」としての予言者、聖職者、王、の三重の任務を兼ねる完成した代表的イスラエル人としての来たるべき救世主の考えをもった。
モーシェが驚くべき奇跡によってエジプトの束縛から祖先を救出したように、ユダヤ人は、来たるべき救世主も、さらに大きい力の奇跡と人種的勝利の驚異の行為によりユダヤ民族をローマ支配から救い出すであろうと心から信じた。ユダヤ教のラビ達は、来たる救世主の予言的なものを明言した経典から、それらの見た目の矛盾にもかかわらず、およそ500 の文章を集めた。そして、時、技法と機能のこれらのすべての詳細の真っ只中に、彼等は約束された救世主の人格をほぼ完全に見失った。彼らは、ユダヤ国家の栄光の回復を探していた—世界の救済よりも、むしろ、イスラエルの一時の高揚を。従って、ナザレのイエスがユダヤ人の心のこの物質的救世主の概念を決して満たすことができなかったということが明白になる。もし評判の救世主の予測の多くが、これらの予言的な発言を異なる角度から観察していたならば、一時代の終結者として、また新たでより良い慈悲の配剤と万国救済の開始者としてイエスを認識するために誠に自然に心の準備をしたことであろう。
ユダヤ人は、シェキーナの教義を信じるように育てられた。しかし、神臨場のこの評判の象徴は、寺院では見られることにはなっていなかった。彼らは、救世主の接近がその回復を実行すると信じた。かれらは、民族的な罪と人の想定された悪の性質についての混乱させる考えを抱いた。ある者達は、アダムの罪が人類を呪っていると、また救世主がこの呪いを取り除き神の恩恵を回復すると、教えた。他の者達は、人を創造するに当たり、神が善悪二つの性質を入れたと、またこの計いの結果を観測し大いに失望したと、「このように人間を造ってしまったということを後悔した。」と、教えた。そして、これを教えた者達は、救世主がこの先天的悪の性質から人を身請けしに来ることになっていると信じた。
大方のユダヤ人は、国家の罪のため、非ユダヤ人の改宗者の不熱心のせいでローマ支配下で苦しみ続けると思っていた。ユダヤ国家は、心から後悔していなかった。したがって、救世主は来るのを遅らせていた。多くの話が、悔悟に関してあった。だからこそ、「悔い改め、洗礼を受けよ。天の王国が間近である故。」というヨハネの強力で直接的説教が心を引きつけた。そして、天の王国はどんな敬虔なユダヤ人にも1つのことしか意味し得なかった。救世主の接近。
マイケルの贈与には救世主のユダヤ人の概念に全く無縁な1つの特徴がり、それは、二つの特質、人間と神性の合一であった。ユダヤ人は、完成された人間として、超人間として、また神性としてさえ様々に救世主を想像しはしたものの、人間と神の合一の概念を決して心に抱かなかった。そして、これはイエスの初期の弟子達が大きな障害であった。弟子達は、早期の予言者によって提示されたようにダーヴィドの息子としてまた、ダニエルの超人的な考えや、後の数人の予言者によって提示されたような人の息子としての、また更には、イーノックの書の作者によって、この作者のある同時代人達によって描写されたように神の息子としてさえ人間である救世主の概念を理解した。しかし、一瞬たりとも地上の一つの人格における二つの性質、人間と神性の合一の真の概念を一度も心に抱くことはなかった。生物形態における創造者の肉体化は、予め明らかにされてはいなかった。それはイエスにだけ明らかにされた。世界は、創造者たる息子が肉体をもち、人間界に住むまでそのようなことは何も知らなかった。
2. イエスの洗礼
イエスは、パレスチナが、ヨハネの知らせ—「神の王国は間近い」—に期待で燃えんばかりのとき、全てのユダヤ人が慎重に厳粛に自省しているときのヨハネの説教の絶頂時に洗礼を受けた。ユダヤ人が感じる人種的連帯意識は、非常に深遠であった。ユダヤ人は、父の罪が子を苦しめるかもしれないと信じるだけでなく、一 個人の罪が国を呪うかもしれないと堅く信じた。従って、ヨハネの洗礼を受け入れた全ての者が、ヨハネが非難した特定の罪で自身が有罪であると考えたわけではなかった。多くの敬虔な者達は、イスラエルの利益のためにヨハネによる洗礼を受けた。彼らは、無知からのある種の罪が、救世主の到着を遅らせるかもしれないと恐れた。かれらは、有罪で、罪に呪われている国に属していると感じ、洗礼することで民族の懺悔の産物を明らかにできるかもしれないと洗礼に出向いた。従って、イエスは決して悔悟の儀式もしくは罪の許しのためとしてヨハネの洗礼を受けなかったということは、明白である。ヨハネからの洗礼を受け入れることにより、イエスは、多くの敬虔なイスラエル人の例に倣ったに過ぎなかった。
ナザレのイエスが洗礼のためにヨルダン川に行ったとき、彼は、心の征服、そして自己同一化に関連する全ての問題において、精霊と人間の進化の上昇のその頂点に達した領域の者であった。かれは、その日、時間と空間の進化の世界の完成者をヨルダン川に立たせた。完全な同時性と完全な意思疏通は、イエスの人間の心と内在する精霊調整者、つまり楽園の父の神性の贈り物との間で確立した。イエスの調整者は、事前にこの特別任務のために同様に人間に似せて肉体化された内在する他の超人、メルキゼデクのマキヴェンタによって準備されていたそれを除いては、全てのユランチアの普通の人間には、まさにそのような調整者が、宿るのである。
通常、領域の人間が、そのような高い人格完成の段階に達するとき、関連する神性の調整者と人間の発達しきった魂の最終的な融合が終わる精霊的な向上の予備的現象が起こる。そのような変化は、ヨハネの洗礼を受けるために2 人の弟とヨルダン川に行ったまさしくその日に、ナザレのイエスの人格経験において明らかに生じるはずであった。この儀式は、ユランチアにおける彼の純粋に人間の生涯での最終的な行為であり、多くの超人の観察者は、調整者とその棲家となった心の融合の目撃を期待したが、彼らは皆、失望を受ける運命にあった。何か新しくてより大きいことが起こった。洗礼のためにヨハネがイエスの上に手を挙げると、内在する調整者は、ジャシュア・ベン・ヨセフの完成された人間の魂に最後の別れを告げた。そして、しばらくするとこの神性の実体は、専属調整者かつネバドンの全地域宇宙の自分の種類の長としてディヴィニントンから戻った。このようにして、イエスは、個人化された型で自分の元へ戻ると、自身のそれ以前の神の霊が下降しているのを見たのであった。そして、かれは、「これが、私がとても喜んでいる愛しい息子である」と楽園起源のこの同じ精霊が話すのをそのとき聞いた。そして、ヨハネもまた、イエスの2 人の弟とこれらの言葉を聞いた。水際に立つヨハネの弟子達は、これらの言葉を聞かなかったし、専属調整者の幻影らしきものも見なかった。イエスの目だけが専属調整者を見た。
帰還し、その時、昂揚した専属調整者がこのように話したとき、何の音もなかった。一方彼らの内の4 人が川の中で手間取っていると、イエスは、すぐ近くの調整者を見上げて祈った。「天で支配される父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が天で行なわれるように地でも行われますように。」彼が祈ったとき「天は開かれた」、そして人の息子は、今は専属調整者であるものにより呈示された人間の姿に似せて地上に来る前の神の息子としての、また肉体化された人生が終わるべき時になる自分自身の姿を見た。この神々しい姿は、イエスだけが見た。
調整者は楽園の父より来ており、またそのように振舞うのでヨハネとイエスが聞いたのは、宇宙なる父の代わりに話している専属調整者の声であった。イエスの地上での余生を通して、この専属調整者は、イエスの全ての労働に関わった。イエスは、この昂揚された調整者との絶え間ない交わりをもった。
受洗礼したとき、イエスは何の悪行も悔いなかった。罪の告白もしなかった。彼の洗礼は、天の父の意志を果たすための献身のものであった。かれは、洗礼のときに紛れもない父の呼び出し、父のための仕事の開始のための最終召喚を聞き、そこでこれらの多種多様の問題を熟考するために40日間人里離れた場所へ一人立ち去った。このようにして、ユランチアにかつて居た、同時に今居るイエスは、地球の仲間との積極的人格の交流から一時期引き下がり、上昇する人間が、モロンチア世界で宇宙なる父の内側の存在者と融合するときはいつでも起こるまさにその手順に従っていた。
洗礼のこの日純粋にイエスの人間の人生が終わった。神の息子は父を見つけ、宇宙なる父は肉体をもつ息子を見つけ、そしてお互いに相手と話す。
(洗礼を受けた時、イエスは、ほぼ31歳半であった。一方ルーカスは、イエスはティベリウス・ケーサリーア治世の15 年目の年に受洗し、それは、オーグストゥスが西暦14 年に没しているので西暦29 年になり、ティベリウスは、オーグストゥスの死の前の2 年半は彼と共に皇帝であり、オーグストゥスに敬意を表し硬貨が西暦11 年に造幣されたということが思い起こされるべきであると言っている。彼の実際の統治の15年目は、従って、まさしくこの西暦26 年、イエスの洗礼の年であった。そして、これは、ポンティウス・ピーラツスがユダヤの知事としての支配を始めた年でもあった。)
3. 40日間
イエスは、洗礼前の6 週間ヘルモン山の露に濡れて自身の人間贈与における大きな試練に耐えていた。そこでヘルモン山で、領域の助けなしの人間として、かれは、ユランチアの王位を狙うカリガスティア、この世界の王子に出会い、打ち破った。その波瀾万丈の日、宇宙記録では、ナザレのイエスは、ユランチアの惑星王子となった。ネバドンのまもなく最高の主権者であると宣言されるこのユランチア王子は、計画を立て、人の心に神の新しい王国を宣言する方法を決めるために、そのとき40日間の隠遁に入った。
かれは、洗礼後、調整者の専属化により引き起こされる世界と宇宙の変化した関係へのの自己調整40日間に入った。ペライアの丘でのこの孤立の期間、かれは、自分が始めようとしている地球人生の新しく、しかも変更された局面で探求されるべき政策と採用されるべき方法を決断した。
イエスは、断食の目的や魂の苦悩のために隠遁に入らなかった。かれは、禁欲主義者ではなく、神への接近に関するそのようなすべての概念を永久に破壊するために来た。この隠遁を求める彼の理由は、モーシェとエリヤを、また洗礼者ヨハネさえ動かしたものとは、似ても似つかないものであった。イエスは、自身の作成の宇宙への、そして宇宙の宇宙への関係に関し、完全に自意識があり、楽園なる父、天の父によって監督されていた。彼は、そのとき、ユランチアの具現化を始める前に兄イマヌエルに指示された贈与の責任とその指令を完全に思い出した。かれは、その時全てのこれら広範囲にわたる関係を明確に、完全に理解するとともに、この世界のために、そして自分の地域宇宙にある他の全ての世界のために、公の仕事の実行についての計画を案出し、手順を決めることができるように落ち着いた思索の時間を求めて離れることを望んでいた。
丘を散策して適当な避難所を探している間、イエスは、自分の宇宙の最高業務執行者であるガブリエル、ネバドンの明けの明星に遭遇した。ガブリエルは、そのとき宇宙の創造者たる息子との個人的な意思疎通を再確立した。かれらは、マイケルがユランチア贈与に乗り出す前にエデンティアに行く時、サルヴィントンで同僚ににいとまごいをして以来、初めて直接会った。イマヌエルの指示とユヴァーサの日の老いたるものの権限により、ガブリエルは、そのとき宇宙の完成された主権の獲得とルシファーの反逆の終結に関する限り、ユランチアでの贈与経験が事実上完了されたと示す情報をそのときイエスの前に置いた。前者は、調整者の専属化が、イエスの人の姿での贈与の完全さと完成を裏づけした洗礼の日に達成され、後者は、その日イエスが、待っている若者ティグラスに加わるためにヘルモン山から下りてきたときの歴史的事実であった。地域宇宙と超宇宙の最も高い権威に基づいて、イエスは、主権と反逆に関して彼の個人的身分に影響をおよぼす限り、贈与の仕事は完了されたということをそのとき知らされた。かれは、洗礼の際の映像において、また内在する調整者の専属化の現象において、楽園からこの保証をすでに受けていた。
彼がガブリエルと話して山にいる間、エデンティアの星座の父は、イエスとガブリエルに直接現れて言った。「記録は完成されている。ネバドンの宇宙におけるマイケル611,121番の主権は、宇宙なる父の右側に完成されている。私は、ユランチア具現のための後援者でもある君の兄イマヌエルの贈与からの解放を君にもたらす。君は、現時点、またこの後いつでも肉体化贈与を終えること、父の栄誉の座に昇ること、自身の主権を受けとること、全ネバドンの当然の報いとしての無条件の統治者の地位に就くことに関する選択方法において自由である。君の宇宙における全ての罪の反逆終了に関して、また将来すべてのそのようなありうる動乱に対処する完全で無制限な権威を君に授けて、日の老いたるものの認可により、私も、超宇宙の記録完成を証言する。ユランチアでの、また人間の姿での君の仕事は事実上終わっている。これから先の進路は君自身が選ぶ問題である。」
エデンティアのいと高き父が去ると、イエスは、宇宙の福祉に関しガブリエルと長く話し、イマヌエルに挨拶をし、ユランチアで着手しようとしていた仕事においても、サルヴィントンで与えられた贈与前の管理に関して受けた助言を忘れず心に留め置くという自分の保証を提示した。
この孤立の40日の間ずっと、ジェームスとゼベダイの息子ヨハネは、イエス捜しにかかっていた。何度となくイエスのいた場所から遠くないところにいたが、彼等は、どうしてもイエスが見つけられなかった。
4. 公の仕事の計画
丘の上で日々、イエスは、ユランチア贈与の残りの計画を作成していた。かれは、ヨハネと同時には教えないとまず決めた。ヨハネの仕事が、その目的を実現するまで、または禁固により突然ヨハネが押し止められるまで、かれは、隠遁に近いままでいるつもりであった。イエスは、ヨハネの大胆不敵の、掛け引きを知らない説教がやがて民間支配者の恐怖と敵意を喚起するのをよく知っていた。ヨハネの不安定な状況を考慮に入れ、イエスは、広大な宇宙の中の全棲息界のために、自分の民族と世界のために、公のための作業予定を確実に計画し始めた。マイケルの人間贈与は、ユランチアでのことであるにもかかわらず、ネバドン全世界に関わることであった。
ヨハネの動きと自分の一通りの調整計画について考え抜いた後、イエスがまずしたことは、心の中でのイマヌエルの指示の見直しであった。労役の方法に関係し与えられた忠告、またこの惑星に永久的な文章を残さないという忠告を慎重に熟考した。イエスは、この後、決して砂以外には何にも書かなかった。弟ヨセフにとっての非常な悲しみは、イエスが、次にナザレを訪れた際、大工小屋周辺の板の上に保存されていた、また古い家の壁に掛けられていた自身の書き物のすべてを破壊したことであった。それから、イエスは、彼が見つける世界の経済、社会、政治に対する自分の姿勢に関するイマヌエルの忠告について深く考えた。
イエスは、この40日間の孤立の間、断食をしなかった。彼が最も長い期間食物なしで過ごしたのは、考えに夢中になり食べることをすっかり忘れた丘での最初の2日間であった。しかし、3日目は食物を探しに行った。この期間、かれは、この世界やいかなる他の世界を拠点にする悪霊や反逆的人格に誘惑されることは決してなかった。
これらの40日は、人間と神の心との最終的合議の機会、あるいは、むしろこれら二つの、今は一つとなった心の最初の本当の機能の時であった。この重要な思索の時間の結果は、神の心が勝ち誇り、また精霊的に人間の知性を支配したということを決定的に示した。この後人の心は神の心となり、人の心の自己性は遍在するが、この精霊的になった人間の心は、いつも、「私のではなくあなたの意志がなされる。」と言のである。
この重大な時間の出来事は、飢えて弱められた心の空想的な幻影でもなく、「荒野のイエスの誘惑」としてその後に記録された混乱した幼稚な象徴主義でもなかった。むしろ、これは、ユランチア贈与の全体的、重要かつ様々な経歴を熟考するための、また反逆孤立した他の全ての天界の改善にも何かを貢献しつつ、この世界に最も奉仕するさらなる仕事のためのそれらの計画を慎重に準備するための時期であった。イエスは、アンドンとフォンタの時代から、アダムの不履行を経てサレムのメリキゼデクの活動に至るユランチアの人間の歴史全体を熟考した。
ガブリエルは、イエスが、ユランチアにしばらく留まる方を選ぶかもしれない場合、自己を世界に明らかにするかもしれない2 つの方法があることを彼に思い出させた。そして、この問題に関する選択が、彼の宇宙主権にも、ルシファー反逆の終結にも無関係であることが、イエスに明らかにされた。世界のための奉仕活動のこの2 つの方法は次の通りであった。
1. 自身の方法—この世界の即座の必要性と彼自身の宇宙への現在の啓発の見地から最も快適で有益と思えるかもしれない方法
2. 父の方法—宇宙中の宇宙の楽園管理の高い人格により想像、される生物の生活のための先見的な理想の例示。
地球での人生の残りを采配できる2 つの方法のあることが、このようにイエスに明らかになった。この各々の方法には、即座の状況に照らし合わせて考えられるように、それぞれ利点があった。人の息子は、行為の選択のこの2 つの方法が、自分の宇宙主権の受領とは無関係であることを明らかに見た。それは、宇宙の中の宇宙の記録上ですでに解決され、公認された事柄であり、あとは自らの要求が待たれるのみであった。しかし、かれが、常に父の意志に服従し、それを立派に始めたので、と同様に、もしその肉体での地上の経歴を終えるの適当だと見るならば、楽園の兄イマヌエルに格段の満足を与えるであろうということがイエスに示された。この孤立の3日目、イエスは、地球での経歴を終えるために世界に戻り、そして、いかなる2 つの方法にかかわる状況においても、終始父の意志を選ぶと決心した。そして、かれは、いつもその決心通りに地球での人生の残りを全うした。かれは、苦渋の最後までさえ変わることなく彼の主権を天の父の主権の下に置いた。
山野での40日間は、大いなる試練の期間というよりは、むしろあるじの大いなる決断の期間であった。この期間、自分自身との、また父の直の臨場—専属調整者(もはや私的な熾天使の後見者を併せもっていなかった) —との孤立した親交において、イエスは、自分の方針を整理し、地上での経歴の残りの指揮に掛かる大いなる決断に順々に到達した。その後、大いなる試練の伝説は、ヘルモン山の奮闘の断片的な物語の混同と、さらには、すべての偉大な予言者と人間の先達が、公の経歴を断食と祈りのこれらの想定された時期を経ることから始めるのが習慣であったことから、混乱して孤立のこの一時期と関連付けられるようになった。いかなる新たな、あるいは重大な決定に直面するとき、神の意志を知ろうとすることができる彼自身の精霊との親交のために引き篭もるのがイエスの習慣であった。
地球での余生のためのこの全計画において、イエスは、いつも2 つの相反する行為の進路に彼の人間の心は苦しんだ。
1. かれは、彼を信じ、新しい精神的な王国を受け入れるように民衆—そして世界—を説き伏せることを強く心に抱いた。かれは、来たるべき救世主に関する民衆の考えをよく知っていた。
2. かれが、父は承認すると自分が承知しているように、生きて、働くこと。必要としている他の世界のために仕事をすること。王国の樹立において父を明らかにし自分の愛の神性の特質を明示し続けること。
この重大な日々を通して、イエスは、古代の岩の洞窟で、かつてベイトアーディスと呼ばれた村の近くの丘の斜面の避難所で過ごした。かれは、この岩の避難所近くの丘の斜面から来る小さい泉の水を飲んだ。
5. 最初の重大決断
この期間、自分との、また専属調整者とのこの談合の開始から3 日目、最愛の君主の意志を待つために、彼らの指揮官が送ったネバドンの集合された天の軍団の光景がイエスに示された。この強力な軍勢は、熾天使の12 の軍団と宇宙の有識者の凡ゆる集団からの釣り合いのとれた数を迎え入れた。イエスの孤立の最初の重要な決定は、ユランチアにおける公の仕事に関連して続いて起こる取り組みにこれらの強力な人格を用いるか否かということであった。
イエスは、これが父の意志であったことが明白にならない限り、この巨大な集団の一つの人格をも利用しないと決めた。この一通りの決定にもかかわらず、巨大の軍勢は、イエスの地上での余生のあいだ共に残り、君主の意志の微妙な表現につねに従う準備でいた。イエスは、これらの付き添いの人格を自分の人間の目で絶えず捉えはしなかったが、専属調整者は、彼等の全てを見もし、通信もできた。
40日間の丘の隠遁から下りて来る前、イエスは、先ごろ専属化した調整者に宇宙の人格者達のこの付き添いの大軍の直々の指揮を命じ、そしてユランチア時間の4 年以上、宇宙の知者組織、情報部の各分隊からのこの選ばれた人格達は、従順に、かつ敬意をもってこの高位の、経験豊富な専属神秘訓戒者の賢明な指導の下で機能したのであった。この強力な集会の指揮を引き受けるに当たり、楽園の父の一度限りの、また部分であり本質である調整者は、いかなる場合も、父がそのような干渉の意図に発展しない限り、これらの超人の機関が仕えることが認められたり、イエスの地上の経歴に関し、あるいはイエスの地上の経歴のために、彼ら自身が現れたりということがないことをイエスに保証した。このように、父が、息子の地球での労役のいくらかの特定の行為または挿話に参加することを独自に選ばない限り、イエスは、1つの重大な決定により、自己の人間としての経歴に関する全ての問題において、自分自身からあらゆる超人的な協力を自発的に奪い去った。
キリスト・マイケルに付き添い宇宙の軍勢のこの指揮を引き受け入れるに当たり、専属調整者は、宇宙生物のそのような集団が、彼等の宇宙活動が彼らの創造主の代表として派遣された権威者によって制限されるかもしれない一方で、そのような制限は、時間における彼らの機能に関して効果的ではないとイエスに指摘するためにかなりの苦心をした。そして、彼等が一度専属化されるならば、この制限は、調整者が「非時間」の存在であるという事実に依存していた。従って、イエスは、指揮の下におかれた有識者、情報部に対する調整者の制御が、空間に関わる全ての問題に関して終了し、完全にされる傍ら、時間に関しては同様の完全な制限を強いることはできないということを悟された。調整者は、言った。「私は、楽園の父が、君の選ぶ彼の神性意志が達成されるために、そしてそれらにおいて、父がそのような代理を放つことを私に指示する場合と、そして君が、時間に関して本来の地球の秩序からの逸脱、出発を巻き込むだけの君の神-人間の意志に関わるいかなる選択、または行動に取り組むかもしれない場合を除いては、君の指示どうりに、君の地球での経歴に関するいかなる方法でもこの付随する宇宙、情報部、有識者の軍勢の使用を、命、禁じる。全てのそのような出来事において、私は無力であり、力の完全性と力の団結のもとにここに集合したあなたの創造物も同様に無力である。あなたの結合した本質が一度そのような願望を抱くと、あなたの選択によるこれらの命令は直ちに、実行されるだろう。そのようなすべての問題における君の願望は、時間短縮の構成要素となるだろうし、また意図される事柄は起こる。私の指揮のもとで、これは、君にの潜在的主権に押しつけられる最大の制限となる。私の自意識に時間は実在せず、従って、私はそれに関連する君の生きものの何でも制限することはできない。」
このように、イエスは、人の間の人として生き続けるという決断を努力して承知した。彼は、一回の決断により、時間にのみ関係するような問題を除いては、引き続いて起こる自分の公のための任務に参加することから様々な有識に付随する宇宙の軍勢のすべてを除外した。したがって、天の父が明確に別の方法で統治しない限り、イエスの仕事に関係して考えられるあらゆる超自然の、または真偽のほどは分からないが超人的な出来事、付属物も完全に時間の除去に関係してくることが明白となる。明白に述べられた時間の問題を除いては、地上でのイエスの残りの労役に関して起こるいかなる奇跡も、慈悲の働きも、または他の起こりうる出来事も、彼がユランチアで生きたような人間の問題において確立され、または普通に作用している自然の法測を超える行為の本質でも特質でもあえなかった。勿論、「父の意志」の明示に何の限界も、認められないかもしれない。宇宙のこの潜在的君主の表明された願望に関する時間の除去は、問題となる行為または出来事に関連して、その時間が短縮されたり除去されないという趣旨でこの神-人間の意志の直接で明白な行為によってのみ避けることができた。イエスには、明らかな時間の奇跡の発現を防ぐために、絶えず時間を意識し続けることが必要であった。確かな願望の慰みに関して、彼の方の時間的意識のどのような経過も、この創造者たる息子の心で、時間の介入なしに、考えられた事の実施に等しかった。
連帯する専属化の調整者の監督的支配を通して、空間に関する彼個人の地球活動を制限することは、マイケルにとって完全に可能であった。しかし、人の息子が、ネバドンの潜在的君主として時間に関して新しい地球での身分をこのようにして制限することはできなかった。そして、これが、ユランチアでの公の任務に取り掛かるときのナザレのイエスの実際の状況であった。
6. 第2 の決断
創造した情報機関の全階級の全人格に関して自身の方針に決着をつけ、これが彼の神性の新しい状態の固有の可能性から見て決定することができる限り、イエスは、そのとき自分の考えを自分自身に向けた。今やこの宇宙に存在する完全に自意識のある万物と生物の創造者は、人の間での活動再開のためにガリラヤに戻るとすぐ対峙するであろう人生で再び起こる状況において、かれは、この創造者の特権で何をするのであろうか。実際すでに、この人里離れた丘にいるちょうどそこで、この問題は、食物入手に関連して強引に表面化した。孤独な思索の3日目までには、人間の体は空腹を覚えた。常人がするように食物を探すべきか、または単に通常の創造力を駆使し、かつ手元で準備ができる適当な身体の滋養物を生産すべきか。あるじのこの重大な決断は、誘惑として—彼が、「これらの石がパンのかたまりになるように命令する」という想定上の敵に挑戦を受けたとして—描かれてきた。
イエスは、このように地球での仕事の残りのためにもう一方の、一貫した方針に決めた。個人的な必要性に関する限り、押し並べて、他の人格との関係においてでさえ、かれは、そのとき通常の地球の人間の道を進むことを意図的に選んだ。かれは、自身の確立した自然の法則を超えたり、違反したり、侵犯するような方針には断固たる反対の決意をした。しかし、これらの自然の法則は、一定の認識され得る事局においては、専属調整者が既に警告したように大いに加速されないかもしれないということを、イエスは、自分自身に約束することができなかった。原則として、イエスは、生涯の仕事が自然の法則に基づき、既存の社会的組織と調和して、組織され実施されなければならないと決めた。あるじは、それに関して奇跡や驚くべきことに反対の決定に相当する生活案を選んだ。またしても、「父の意志」を支持して決断した。またしても、全てを楽園の父の手に委ねた。
イエスの人間性は、第一の義務は自己保全であることを必要とした。それは、時間と空間の世界での自然な人間の通常の態度であり、従って、ユランチアの人間の正統な反応である。しかし、イエスは、単にこの世界とその生物に関心をもったのではなかった。つまり、かれは、広範囲にわたる宇宙の多種多様の生物を導き、奮い立たせるように考案された生活を送っていた。
洗礼の際の啓示、照光の前、かれは、天の父の意志と導きに完全な服従をして生きてきた。かれは、父の意志へのまさにそれほどまでの暗黙の人間の依存をし続けていくことを断固と決めた。かれは、不自然な行程をたどることを目標とした—自衛を求めないと決めた。かれは、身を守ることを拒否する方針を取り続けることを選んだ。かれは、人間の心になじみのある教典の言葉で自分の結論を明確に述べた。「人はパンのみで生きるのではなくして、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるものである。」食物に対する渇望に表現されるように、肉体の欲望に関してこの結論に達する際に、人の息子は、肉体の他のすべての衝動や人間性の自然の衝動に関して最終的な決定を下した。
事によると他人のために超人力を用いるかもしれないが、断じて。本人のためには用いない。そして、彼は一貫してまさにその終わりまでこの方針を進め、「他のものを救った。 自分は救えない。」と嘲って言われたとき、—それは彼がそうしようとしなかったからである。
ユダヤ人は、砂漠のような場所の岩から水を出し、荒野で祖先に天から与えられた食物を食べさせたと評判であったモーシェよりもさらに偉大な驚くべきことをする救世主を期待していた。イエスは、同胞が待っていた種類の救世主を知っていた。そして、彼等の最も楽天的な期待に適うために全ての力と特権があったが、そのようなすばらしい力と栄光の計画に不利な決定を下した。イエスは、期待される奇跡のそのような運用は、無知な魔法と昔日と未開の祈祷師の品位を落とす実践に立ち返るものだと見なした。ことによると、自分の創造物の救済のために、かれは、自然の法則を加速するかもしれないが、彼自身の法則を超えること、自分の利益のためあるいは仲間の威圧のためにはしないだろう。そして、あるじの決定は最終的であった。
イエスは彼の民族のために嘆いた。彼らが「地は10、000 倍にその果実をもたらし、1 本のつるは1,000本の技になり、それぞれの枝には1,000 個の房が実り、それぞれの房には1,000 個のブドウの粒を着け、それぞれの粒は3.8リットルのブドウ酒を生産するであろう」という時への期待に導かれてきたかを完全に理解した。救世主が奇跡豊富の時代に案内するとユダヤ人は、信じた。ヘブライ人は長い間、奇跡と驚きの伝統のもとに養育されてきた。
イエスは、パンとワインを増やしに来ている救世主ではなかった。一時の必要なものだけを施しに来なかった。かれは、誠実な努力において天の父の意志を為して生きるように地球の子等に自分に加わらせようとするとともに、天の父を彼等に明らかにするためにきた。
この決定において、ナザレのイエスは、個人の強化のための、または全く利己的な利得や称賛のための神性能力と神から与えられた能力を悪用する愚かさと罪を傍観している宇宙に描き示した。それは、ルーキフェレーンスとカリガスティアの罪であった。
イエスのこの重要な決定は、利己的な満足感と感覚的な満足感が、一人の、そして自分自身の、進化する人間に幸福を授けることができないという真実を非常に効果的に描写する。人間の存在にはより高い価値—知的精通と精神的達成—がある。人の単なる物理的欲求と衝動が要する満足感をはるかに卓越するもの。人の本来の才能と能力の贈与は、主に心と精神のより高い力の進展と品位に捧げられるべきである。
イエスは、宇宙の被創造者に新たでより良い暮らしの方法、すなわち生活のより高い道徳的な価値と空間世界における進化の人間生活におけるより深い精神的な満足感をこのように顕にした。
7. 第3 の決断
物質的肉体が必要とする食物や身体の表明のような問題に関する決断の後、自分自身と仲間の健康の解決すべきさらなる他の問題が残っていた。個人の危険に直面しているとき、彼の態度はどんな風であるのだろうか。人間としての安全に関し通常の注意を払い、肉体の人生経歴において時宜を得ない終了を防止するが、生身の人生の危機に際しては、すべての超人的な介入を控えるために理にかなう予防措置をとることに決めた。この決断をしているとき、イエスは、自分の前に突き出ている岩棚の木陰に座っていた。彼は、出っ張りから空間へと身を投じることができ、ユランチアにおける生涯の仕事に立ち向かい天の有識の介入に訴えないという最初の重要な決断を取り消すならば、彼に危害が加えるようなことは何も起こらないし、自己保存に対しての彼の態度に関する2 番目の決断を取り消しても何も生じないということを完全に理解した。
イエスは、同国人が自然の法則を超えて存在する救世主を期待しているのを知っていた。かれは、その教典を確かに教えられてきた。「災いはあなたにふりかからず、疫病もあなたの住いに近づかない。なぜなら、かれは、御使いに命じてすべての道であなたを見守らせるので。かれらは、あなたが足に石をぶつけないように、手であなたを支える。」この種の推定が、重力の父の法則に対してのこの挑戦が、起こり得る危害から身を守るため、あるいは、おそらく、誤って教えられたり取り乱した人々の信頼を勝ち取るために正当化されるであろうか。徴候を求めているユダヤ人にとり満足であろうとも、そのような進路は、父の顕示ではなく、宇宙の中の宇宙の確立した法則に関わる疑わしく軽率以外の何ものでもない。
このすべてを理解し、その上あるじが、個人的な行為に関する限り自己が確立した自然の法則を無視して働くことを拒否したのを知ったので、彼が決して水面を歩かなかったし、世界を司どる物質界への暴挙となる他の何事もしなかったということが君達には、確かに分かる。勿論、依然として、専属調整者の管轄権の下に置かれたそれらの事柄に関して、時間の要素に対する支配力の欠如から彼が完全に救い出される方法は、見つけられていなかったということを始終心に留めながらも。
地球での全人生を通して、イエスは、この決断に一貫して忠実であった。パリサイ人が徴候を求めて彼を罵っても、または、カルバリで番人が十字架から下りてきてみろと言っても、かれは、山腹でこの時の決断を固く守ったのであった。
8. 第4 の決断
この神-人間が取り組み、ほどなく天の父の意志に従い決断を下した次の重大な問題は、自分の超人的な力を仲間の人間の注意を引き付けたり、信奉を得る目的に使われるべきかどうかという問いに関していた。ユダヤ人がしきりに欲しがる見せ物や驚くべき事に満足を与えるためにいかなる方法でも宇宙の力を用いるべきなのか。彼は、そうしてはならはないと決めた。自分の使命に人の注意を集める方法としてのすべてのそのような習慣、実行を排除する行動方針に落ち着いた。そして、一貫してこの重要な決定を貫いた。慈悲の奉仕において幾度にもわたる時間短縮の示威行動をしたときでさえ、かれは、いつもきまって治癒施しの受容者に自分達が受けた恩恵を誰にも告げないように窘めた。そして、かれは、神格の証しと表示のために「印を見せろ」という敵の嘲りの挑戦をつねに拒否したのであった。
イエスは、奇跡の業と驚きの実行は、物質的な心の威圧による外面向きの忠誠のみを引き出すであろうということを非常に賢明に予見した。そのような芸当は、神を明らかにすることもなく、人も救わないであろう。彼は、単なる驚きの施し人になることを拒否した。かれは、一つの任務—天の王国の設立—だけに専念すると決意した。
深く考え込むイエスのすべてのこの重要な自身との対話の間、質問と疑問に近い人間の部分が、神であると同時に人であることから、あった。奇跡的なことを行なわなければ、ユダヤ人は、彼を救世主として決して認めないのは明白であった。さらに、ほんの1 つ不自然なことを行うことに同意するならば、イエスの人間の心は、それが本当に神の心に追従していることを確実に知るであろう。神性の心が人間の心の疑いの性質にこの譲歩をすることは、「父の意志」と一致することになるのであろうか。イエスは、
それが、そうではないと、また専属調整者の臨場を人類と協力する神性の十分な証しとして言及すると決断を下した。イエスは多くの旅をした。かれは、ローマ、アレキサンドリア、ダマスカスを思い出した。世界の方法—妥協と外交による政治や商業において人々が目標を達する方法—を知っていた。かれは、地球での任務促進においてこの知識を利用するのだろうか。かれは、王国の設立における世界の知恵と富の影響の全ての妥協に対して同様に反対する決心をした。かれは、父の意志のみを頼みにすることを再び選んだ。
イエスは、自分の力の1 つが可用であることを百も承知していた。かれは、国と世界の注意を自分にすぐにも集中させ得る多くの方法を知っていた。まもなく、過ぎ越しの祭りがエルサレムであった。都は訪問者でいっぱいになった。イエスは、寺院の小尖塔に昇り、うろたえる群衆の前で空中を歩き出ることができた。それが、彼らが探している救世主の種類であった。しかし、かれは、ダーヴィドの王座を回復しに来たのではなかったので、結果として皆を失望させたであろう。また、かれは、神の目的を達成する自然で、緩やかで、確かな方法を追い抜こうとするカリガスティアの手口の無益さを知っていた。またもや、人の息子は、父のやり方、父の意志に素直に服従した。
イエスは、自然で、変哲のない、難しい、しかも骨の折れる方法で、ちょうど地球の子等が天の王国の拡大、延長の仕事で従わなければならないようなそのような方法で人類の心に天の王国を樹立することを選んだ。なぜなら、人の息子は、それが「全ての時代の多くの子等が王国に入るという多大の苦難を経る」ということを熟知していたがゆえに。イエスは今や、力を持ち、しかもその力を純粋に利己的であるか個人的な目的にそれを用いることを断固としてと拒否する文明人の大きな試練を通過していた。
人の息子の人生と経験の君の考慮において、神の息子は、20 世紀の、または他の世紀の人間の心にではなく、1 世紀の人間の心で肉体化されたということが心に留め置かれるべきである。よって、我々は、イエスの人間の贈与が自然な修得という考えを伝えるつもりである。かれは、先天的、かつ時間の環境の要素、加えて自らの訓練と教育の影響の所産であった。その人間性は、本物で、自然であり、完全にその時代と世代の実際の知的事情と社会的かつ経済的状況の先例に由来しており、それらにより育てられた。この神-人間の経験において、神性の心が人間の知力を超えるという可能性がつねにありつつも、彼の人間の心が機能するとき、それは、本当の人間の心がその時代の人間環境の条件のもとでそうするように機能した。
イエスは、専横な、任意の権威を示す目的のために人工の状況を作るか、または道徳的な価値を高めるか、または精神的進歩を速める目的のために特別な力を欲しいままにする愚かさを自分の広大な宇宙の全世界に描写した。イエスは、マッカビーウス、一族の治世の失望の繰り返しに地上での自分の任務を貸さないと決めた。過分な人気を得る目的、もしくは政治上の威信を得るために神の属性の悪用を拒否した。かれは、神性の、または創造的なエネルギーを国力、あるいは国際的な名声への変化を支持しようとはしなかった。罪との交わりは言うまでもなく、ナザレのイエスは、悪との妥協を拒否した。あるじは、その他の地球と一時的な考慮よりも父の意志への忠節を得々と優先した。
9. 第5の決断
かれは、自然の法則と精霊の力に対する彼の個々の関係に属するそのような方針の質問に決着をつけ、神の王国の公布と設立において採用される方法の選択に注意を向けた。ヨハネは、すでにこの仕事を始めていた。イエスは、いかにして知らせを広め続けられるのか。かれは、どのようにヨハネの任務を引き継ぐべきか。かれは、どのように効果的な努力と知的な協力のために追随者を組織すべきなのか。イエスは、さらに自分自身をユダヤ人の救世主、少なくとも当時一般に考えられていたような救世主と見なすことを禁じる最終的な決断にそのとき達していた。
ユダヤ人は、イスラエルの敵の力を低下させ、世界の支配者としてのユダヤ人を確立し、貧困や圧迫から自由にする奇跡の力をもって来る救出者を心に描いていた。イエスは、この望みが決して現実にならないことを知っていた。天の王国は、人の心の中における悪の打倒に関係しており、イエスは、それが純粋に精神に関わる問題であということを知っていた。かれは、輝かしくまばゆいような力の誇示で精霊の王国を開始する適否をよく考え—そのような針路は、マイケルの司法権内で完全に許されたことであろう—しかし、かれは、完全にそのような計画に反対する決心をした。カリガスティアの革命の方法に妥協しようとはしなかった。かれは、父の意志への服従により実質的には世界を勝ち取り、そして、自分がそれを始めたので、また人の息子して自分の仕事を終えるつもりであった。
そのとき天と地において事実上全ての力を所有するこの神-人間が、一度主権の旗印を広げることを、また、驚きを為す大隊を整列させることを決めたならば、ユランチアで起こったであろうことを君は、ほとんど想像することなどできないのである。しかし、彼は妥協しようとはしなかった。かれは、神への崇拝がおそらくそこから導き出されるかもしれない悪に仕えようとはしなかった。かれは、父の意志に従おうとした。かれは、傍観している宇宙に宣言した。「主を、神を崇拝せよ。また彼にだけ仕えよ。」と。
日が経つにつれ、ますます明確に、イエスは、自分がどんな真実の啓示者になろうとしているかを知覚した。神の道が簡単そうでないことを認識した。かれは、人間の経験の残りの杯がことによると苦いかもしれないと悟り始めたが、それを飲むと決めた。
彼の人間の心さえダーヴィドの王座に別れを告げている。一歩一歩、この人間の心は、神性の道に従っている。人間の心はまだ質問するが、つねに無条件に父の永遠かつ神性の意志をすることに服従しながら、世界の人間としてこの結合された人生の最終的な裁定として間違いなく神の答えを受け入れる。
ローマは西洋世界の女主人であった。人の息子は、現在、孤立とこれらの重大決定を達成するにあたり、世界統治権を獲得するユダヤ人にとって、天の軍団に命じ、自由になる天の軍勢で、最後の機会であった。しかし、そのような絶大な知恵と力をもつこの地上生まれのユダヤ人は、自己の強化、または自分の民族の王座獲得のためには宇宙の授与の使用を拒んだ。かれは、「この世の王国」を比喩的に見ており、またそれを手に入れる力を備えていた。エデンティアのいと高きもの達は、これらのすべての力を彼の手に委ねていたが、かれは欲しなかった。地上の王国は、宇宙の創造者と支配者の関心を引くには取るに足りないものであった。かれには、1 つの目的、つまり人へのさらなる神の顕示、王国の設立、人間の心における天の父の支配だけがあった。
戦闘、抗争、虐殺についての考えは、イエスにとりとても不快であった。かれは、そのいずれももっていなかった。かれは、愛の神を明らかにする平和の王子として地球に来るつもりであった。洗礼の前、かれは、ローマの制圧者への反逆のために彼らの指揮をというゼローテースの申し出を再度拒否した。そのとき、次のような母が教えてくれたそれらの経典に関して、最終的な決定をした。「主は私に、『お前は私の息子である。この日、お前を生まれさせた。私について尋ねなさい。そうすれば、相続のために異教徒を、属領としては地球の最大部分をお前に与えるつもりである。お前は鉄の棒でかれらを砕くだろう。陶芸家の船のようにそれらを粉微塵に打ち砕くだろう。』」
ナザレのイエスは、そのような発言は彼に言及しなかったという結論に達した。ついに、最終的に、人の息子の人間の心は、全てのこれらの救世主の困難と矛盾—ヘブライ経典、親の躾、カザンの教育、ユダヤ人の期待、人間の野心的な切望—を一掃した。かれは、進むべき道をきっぱりと決めた。かれは、ガリラヤに戻り、静かに王国の公布を始め、詳しい手順については日々、父(専属化の調整者)に頼ることにした。
性霊的な問題の証明のために物質的な基準を当て嵌めることを拒否するとき、無遠慮に自然の法則に挑むことを拒否するとき、これらの決心により、イエスは、広漠たる宇宙のあらゆる世界における全ての人間のためにふさわしい例を設定した。そして、精霊的な栄光の前兆として束の間の権力を拒否するとき、かれは、奮いたたせる宇宙忠誠と道徳的気高さの模範を示した。
かれが、洗礼後に丘に上がったとき人の息子に自分の任務とその性質について何らかの疑問があったとしても、孤立と決定の40日間の後、仲間の元に戻ったときはなにもなかった。
イエスは、父の王国の設立のための計画案を立てた。かれは、民衆の物理的満足感に迎合しようとはしない。かれは、最近それがローマでされているのを見たようには、群衆にパンを分配しない。たとえユダヤ人がまさしくその種の救済者を待っているとしても、かれは、奇跡のような働きにより自分に注意を引きつけようとはしない。また、かれは、政治権力、またはこの世の、一時的な力による誇示で精霊的な知らせの受け入れをしようとはしないだろう。
期待しているユダヤ人の目に来たるべき王国を強化するこれらの方法を拒絶することにより、かれは、この同じユダヤ人が、権威と神性への彼の請求のすべてを確かに、しかも最終的に拒絶すること確信していた。このすべてを知りながら、イエスは、長く初期の追随者が救世主として彼について触れることを防ごうとした。
公のための任務を通して、絶えず再発する3 つの状況、食べさせろという騒ぎ、奇跡の強調、最後は追随者が彼を王にするという要請、を扱う必要性に直面した。しかし、イエスは、ペラリアの丘での孤立の日々における決定から離れることは決してなかった。
10. 第 6 の決断
この忘れ難い孤立の最終日に、ヨハネとその弟子達に合流するために山を下り始めるにあたり、人の息子は、最後の決断をした。そして、この決定を専属調整者に次の言葉で伝えた。「そして、他のすべての事柄に関して、いまこのような決定-記録として、私は、父の意志に従うことをあなたに誓います。」このように話すと、かれは、山を下りて行った。その顔は、精霊的な勝利と道徳的業績の栄光で輝いた。