論文 127 青年期
論文 127
青年期
思春期に入るにつれ、イエスは、家族の長であり、唯一の支柱となっていた。父の死後の数年内に家族の全財産は、なくなった。時の経過と共に、かれは、自己の前存在をますます意識するようになった。同時に、かれは、楽園の父を人間の子等に示す特別の目的のために肉体で地球にいるということをより完全に認識し始めた。
この世界あるいは他の世界に住んだ、またはそのうち住むであろうどんな思春期の若者も、解決すべきより多くの重大な問題、若しくは、解くべきより複雑な困難に決して直面しなかった。どんなユランチアの若者も、イエス自らが奮闘努力の15歳から20歳の間に耐えた以上の多くの試練の闘争、または苦境を潜り抜けるよう要求されることは、決してないであろう。
このように人の子は、悪に取り捲かれ、罪に取り乱された世界において思春期の実際の生活経験を味わい、ネバドンの全領域の若者の人生経験に関する完全な知識を備え、その結果、かれは、永遠に、全ての時代、地域宇宙の全世界で苦悩し当惑している若者の理解ある避難所となった。
ゆっくりではあるが確実に、その上実際の経験によりこの神の息子は、宇宙の主権者として、全地域宇宙の世界における全ての創造された知力を有する者の疑いのない、最高の支配者として、全時代の生き物と個人的な資質と経験の全ての段階における理解ある避難所になる権利をかち得ているのである。
1. 第16年目(紀元10年)
肉体化した息子は、幼少時代を経て、問題のない幼児期を経験した。それから、かれは、幼児期と成人初期の間の試練と苦しい変遷段階を脱して来た—思春期のイエスとなった。
この年、かれは、完全な身体的成長を遂げた。力強く立派な青年であった。かれは、ますます冷静で真剣になったが、親切で、思いやりがあった。目は、親切であったが、鋭かった。微笑は、いつも人を引き付け、安心させるようであった。声は、音楽的ではあるが、威厳をもっていた。挨拶には、心がこもり気どりがなかった。常に、最も平凡なふれ合いにおいてさえ、2重の資質、つまり人間と神性の接触が目立っているようであった。かれは、思い遣る友人と威厳ある教師のこの組み合わせをずっと示した。そして、この人格の特性は、早くに、これらの思春期の年においてさえ、明らかになりつつあった。
この身体的に逞しく強健な若者は、人間の思考の豊かな経験ではなく、そのような知的な発展の能力の充満である人間の知性の完全な成長をも成した。かれは、健康でよく均整のとれた肉体、鋭く分析的な心、親切で思いやりのある気質、やや変動はするが積極的な気質を持ち合わせ、その全ては、強い、際だった、そして魅力的な個性にと整合されていった。
母や弟妹には、時の経過とともにイエスを理解することは、 より難しくなった。 皆は、イエスの言行を誤解した。母は、弟妹達に、イエスはユダヤ人の救世者となるべく運命づけられているということを理解するように指導していたので、これらの言行は、長兄の人生には不適切であった。マリヤから家族秘密としてそのような通告を受けた後に、イエスの全てのそのような考えと意志を端的に否定する時の皆の混乱を想像してみよ。
この年サイモンは入学し、家族はもう一つの家を売らざるをえなかった。ジェームスは、そのとき3人の妹の教育を担当した。そのうちの二人は、真剣な勉強を始めるに足る年齢であった。 成長するやいなや、ルツは、ミリアムとマルタからの世話を受けた。通常、ユダヤ人の家族の少女はほとんど教育を受けなかったが、イエスは、少女は少年と同じように学校に通うべきであると主張し、(そして母も同意した。)そして、礼拝堂の学校が彼女たちを受け入れなかったので、特に家での授業をするほかなかった。
この年を通して、イエスは、作業台に閉じ込もった。幸いにも、沢山の仕事があった。イエスの手によるものは、その地方でどんなに仕事が低調であろうとも、決して暇などないほどに優れた品質であった。時には、ジェームスが助けるほど沢山にあった。
この年末までに、かれは、家族を養い、かれらが結婚するのを見届けた後、真実を教える教師として、また世界へ天の父を明かす者として公的に仕事を始める決心をもう少しでするところであった。かれは、期待されるユダヤの救世主とはならないことを理解しており、母とこれらの問題について議論することはほとんど無役であると結論を下した。かれは、過去に伝えた全てが、彼女にはまず何の印象も与えなかったし、その上父が、母の気持を変えるために決して何事も言えなかったことを思い出し、彼女がいかなる考えを抱こうとも為すがままにさせようと決心した。この年以降、これらの問題について、かれは、徐々に母または他の誰とも話さなくなった。地球に生きる誰も、その実行に関しての助言を与えることができない程に、その任務は独特であった。
かれは、家族にとり若くはあったが本当の父であった。かれは、子供達と可能な限りの時間を過ごし、皆も実に彼を愛した。母は、とても懸命に働いている彼を見て嘆き悲しんだ。母は、彼が、あれほど他愛なく計画したラビとのエルサレムでの修学の代わりに、家族のために生計を立て、日々大工用の台でこつこつ働いていることを憂いた。息子について理解できないことが沢山あったが、マリヤは、息子を非常に愛しており、喜んで家庭の責任を背負う態度にこの上なく感謝した。
2. 第17年目(紀元11年)
およそこの時期、特にエルサレムとユダヤにおいて、ローマへの納税に対する抵抗を支持してかなりの動揺があった。やがてゼロテ派と呼ばれる強い国家主義的な団体が生まれた。パリサイ人と異なり、ゼロテ派は、メシアの接近を待つ気はなかった。彼らは、政治的反乱の決定を強いた。
エルサレムからの一団の主催者は、ガリラヤに到着し、ナザレ到着まで調子の良い前進をしていた。彼らが会いに来た時、イエスは、慎重に彼らの話を聞き、多くの質問もしたが、党に加わることは拒んだ。かれは、入党しない理由を明らかにすることを完全に断ったので、ナザレの若い仲間の多くを党から遠避ける結果となった。
マリヤは、イエスに入党するよう説得するために最善をつくしたが及ばなかった。彼女は、国家主義的な目的を擁護する真剣な依頼への拒否は反抗である、エルサレムからの帰省の際の両親に従順であるという誓約への違反であるとまで仄めかした。しかし、このそれとない皮肉に答えて、かれは、彼女の肩に優しく手を置いて、顔を覗き込みながら、「母よ、どうしてそんなことができるのか。」と言うだけであった。そこで、マリヤは、自分の言葉を取り下げた。
イエスのおじ(マリヤの兄弟サイモン)の一人は、この集団にすでに加わっており、後にガリラヤ分団の幹部となった。数年間、イエスとこのおじの間には、ある種の疎遠があった。
しかし、問題は、ナザレで起ころうとしていた。これらの問題に対するイエスの態度は、町のユダヤの若者の間での不一致を生む結果となった。およそ半分は、国家主義的な組織に加わり、残る半分は、対立するより穏健な集団に編成を始め、イエスが指揮を引き受けることを期待した。かれが、理由として家族への重い責任を訴え、差し出された名誉を拒否したとき、かれらは、驚き、そして皆は、それを容認した。しかし、やがて裕福なユダヤ人イサク、異教徒への金貸しが、イエスに道具を置いてこれらのナザレ愛国者の指揮を引き受けるならば、イエスの家族を養うことに同意すると進み出た時、状況はさらに複雑になった。
イエスは、当時かろうじて17歳、人生早期において最も微妙かつ困難な状況の1つに直面した。愛国的な問題は、特に税収集の外国の抑圧者が複雑にするとき、精霊的な指導者にとって自分自身を関係づけることは常に困難であるし、この場合、ユダヤ人の宗教が、ローマに対してこの抵抗に関与していたことから、二重にそうであった。
母とおじ、弟のジェームスまでもが、国家主義運動に加わるように促したので、イエスの立場は、 より難しくなった。ナザレの全ての善良なユダヤ人は、入党した。そして運動に加わらなかった青年全員は、イエスが考えを変えた瞬間、すぐにも加入したことであろう。だが、イエスには、ナザレ中でただ一人の賢明な助言者、ナザレの市民委員会が公開の審判に対するイエスの答えを求めに来たとき、委員会への自分の返事に関して助言をくれた年老いた師、カザンがいた。イエスの若い人生全てにおいて、これは、かれが公的な戦略に意識的に向かったまさしく最初であった。それ以前、つねにかれは、状況をはっきりさせるために真実の率直な声明を頼みとしたが、今度は、完全な真実を宣言することができなかった。かれは、自分が人間以上のものであるということを仄めかすことができなかった。かれは、より円熟した人格到達が待たれる任務に関わる自分の考えを明らかにすることができなかった。これらの制限にもかかわらず、彼の宗教的な忠誠と国民的な忠誠に、直接に疑問が呈された。家族は、騒乱状態、若い友人達は分裂、町の全ユダヤ人の集団は大騒動であった。そして、それが全て彼の所為であると感じていたとは。だが彼は、どんな類の問題も、まして、この種類の騒動を起こすといういかなる意図に関してもなんと潔白であったことか。
何かが為されねばならなかった。かれは、自分の立場を述べなければならず、勇敢に、外交的に多くの者を、全ての者にではないが、満足させて、これを果たした。そればかりではなく、かれは、第一の義務は、家族に対してあるということ、未亡人の母と8人の弟妹は、単なる金銭で購入できる—生活のための物理的必需品—以上の何かを必要としたということ、家族には父の保護と指導が与えられる権利があるということ、そして、かれは、潔白な心で、残酷な事故が突き出した義務から自分を解放することができなかったという立場を維持して、自分の本来の申し立ての条件を厳守した。かれは、自分を進んで放免してくれるという母とすぐ下の弟に感謝の意を述べたが、物質援助のためにどんなに多くの金銭が間に合ったとしても、亡父への忠誠が家族を去ることを禁じると繰り返して言い、「金は、愛することができない。」という生涯忘れられない言葉を述べた。この話の中で、イエスは、自分の「人生の任務」について幾つかの不明瞭な言及をしたが、それが、軍事的な思想に矛盾している可能性の有無にかかわらず、自己の人生における他の全てと共に、自分が忠実に家族に対する義務を果たせるために、それはあきらめたということを説明した。ナザレの誰もが、彼が家族にとって良い父であることをよく知っており、これは、あらゆる高潔なユダヤ人の情愛に非常に優しく訴える事柄であったことから、イエスの嘆願は、聞き手の多くの心から感謝の反応を得た。また、この点に関心のない者達は、予定にはなかったジェームズのこの時の演説に和らげられた。まさしくその日、カザンは、ジェームスに演説の予行をさせてあったのだが、それは、かれらの秘密であった。
ジェームスは、自分が家族のために責任を負えるほどの年齢であったならば、イエスは、その民族解放の手助けをするはずだと確信するし、もし皆が、イエスは、「父と教師であるために、我々と家に留まることに同意さえしてくれれば、ヨセフの家族からはただ一人の指導者でなく、ほどなく、世間は、5人もの忠誠な民族主義者を手に入れるであろう。なぜなら、父親代わりの兄の指導で成長し、我々の国家に仕えるためにやってきたのは5人の男の子ではなかったのか。」と述べた。そして、このようにこの若者は、非常に緊張し、険悪な状況にかなり平穏な結末をもたらしたのであった。
一応、危機は終わったが、この事件は、ナザレでは決して忘れられなかった。動揺は持続し、イエスは、二度と皆のお気に入りではなかった。感情の分裂は、決して完全に克服されなかった。そして、他の、またその後の出来事により増大されるこれは、かれが、後年カペルナムに移った主な理由の1つであった。この後、ナザレは、この人の子に関する感情の分裂を引きずった。
ジェームスは、この年学校を卒業し、自宅の大工の工房での専業に従事した。イエスが、より多く家の仕上げや飾り棚専門の作業をより開始する一方で、ジェームスは、道具の賢明な遣い手となり、今や、くびきと鋤の製造を引き継いだ。
この年、イエスは、心の統合において大きく前進した。徐々に、かれは、神と人間性を統合し、このすべての知性の統合を彼自身の決定力と内住する訓戒者の、丁度すべての贈与後の世界にいるすべての通常の死すべき運命にある者がその心の中に持っているような訓戒者の援助だけで実行した。今までのところ、エルサレムでの夜、兄のイマヌエルにより派遺された使者が、自分の前に1度現れた訪問以外には、この青年の生涯で超自然であるものは何も起こってはいなかった。
3. 第18年目(紀元12年)
この年の間に、家屋と庭を除く家族のすべての持ち物が処分された。既に抵当に入っていたカペルナムの所有地の最後の一画が、(他の分の所有権を除き)売却された。収益は、税金、ジェームス用の幾つかの新しい道具の購入のために、それにジェームスが家続きの店で働き、マリヤの家事を助けられほどの年齢であったので今やイエスが買い戻すと提案した隊商用地の近くにある古い家庭用品店兼修理店の支払いとに使われた。このようにしばらくのあいだ財政的な圧迫が緩和されることから、イエスは、ジェームスを過ぎ越し祭りに連れて行くことに決めた。二人は、単独になるようにサマリア経由で1日早くエルサレムに向かった。かれらは、歩き、イエスは、父が5年前同様の旅において教えてくれたように、途中の歴史的な場所についてジェームスに話した。
サマリアを通過する際、かれらは、多くの奇妙な光景を目にした。この旅で、かれらは、個人的、家族的、また国家的な問題の多くについて論議した。ジェームスは、非常に信仰の厚い型の若者であった。そして、ほんの僅かしか知らないイエスの一生の仕事に関する計画について完全には母に同意してはいない一方で、かれは、イエスがその任務を始められるように、自分が家族のために責任を負うことができる時を楽しみにしていた。かれは、イエスが過ぎ越しの祭りに連れて行ってくれることを非常に感謝した。二人は将来についてこれまで以上によく話し合った。
イエスは、サマリアの道すがら多くのことを、特にベテルでのことやヤコブの井戸の水を飲む時について考えた。彼と弟は、アブラハム、イサク、ヤコブの伝統について検討した。かれは、エルサレムで目撃しようとしていたことのためにジェームスに準備させる多くのことをし、こうして、自身が最初の寺院訪問で経験したそのような衝撃を少なくしようとした。しかし、ジェームスは、これらの幾つかの光景にそれほど敏感ではなかった。かれは、数人の聖職者の任務実行の際のおざなりで冷たい態度を批評したが、概してエルサレムでの滞在を大いに楽しんだ。
イエスは、過ぎ越しの夕食にジェームスをベタニヤに連れて行った。サイモンは、すでにその父と共に埋葬されていた。イエスは、寺院から過ぎ越しの祝いの子羊を持参しており、過ぎ越し祭りの家族の長としてこの家庭の主人役をした。
過ぎ越しの夕食後、マルタ、ラザロとイエスは、深夜まで話したが、マリヤは、ジェームスと話すために座った。翌日、かれらは寺院の礼拝に出席し、ジェームスはイスラエルの共和国に受け入れられた。その朝、かれらは、寺院を見るためオリーブ山の崖に立ち止まり、ジェームスが驚嘆する旁らで、イエスは、エルサレムを黙って見つめていた。ジェームスは、兄の態度を理解できなかった。その夜、かれらは、再びベタニヤに戻り、翌日は家に向けて立つところであったが、ジェームスが、教師達の話を聞ききたいと説明し、寺院に戻ると言い張った。そして、これは本当ではあったが、かれは、心の中では秘かに母から聞いたようにイエスが議論に参加するのを聞きたかったのであった。従って、かれらは、寺院に行き、議論を聞いたが、イエスは、質問をしなかった。それは、すべて人と神のこの目覚めた心にとりあまりに子供じみて無意味に思えた—それらを哀れむことしかできなかった。ジェームスは、イエスが何も言わないことに失望した。彼の質問に対してイエスは、「私の時間はまだ来ていない。」と答えるだけであった。
その翌日、かれらは、家に向けてエリコとヨルダン渓谷を旅し、イエスは、13歳の時のこの路上の旅をも含む道中での多くのことについて詳しく話した。
ナザレに戻ると同時に、イエスは、家族の古い修理工房で仕事を開始し、国や周辺の全域からの多くの人々に毎日会えることができ、大いに励まされた。イエスは、本当に人々—ただのありふれた人々—を愛した。かれは、毎月ジェームスの助けで店の支払いをし、家族への仕送りを続けた。
年に何度かそのような機能を果たす訪問者がいない時、イエスは、礼拝堂で安息日の聖書を読み続けた。そして、何度も教訓に関する注釈をしたが、通常、注釈不要な節を選択していたのでそれは不要であった。かれは、一つが他方を解明するように様々な章段の朗読の順を取りまとめるほどに巧みであった。天気さえよければ、安息日の午後、かれは、自然の中での散策に弟妹を連れ出すことを欠かすことはなかった。
カザンは、この頃、哲学的な議論のための青年同好会を発足させ、異なる構成員の自宅において、またしばしば自身の家でも会合をもち、イエスは、この会の際立った一員となった。この手段により、最近の民族主義的な論争の際に失った地域における信望の回復が可能となった。
制限をうけていた間、イエスの社会生活は、完全に軽視されてはいなかった。ナザレの青年と若い女性の両方に多くの暖かい友人と忠実な賞賛者がいた。
9月に、エリザベツとヨハネは、ナザレ家族を訪問した。イエスが、大工仕事か他の仕事を始めるためにナザレに残るように勧めない限り、ヨハネは、父を失っており、農業と羊の養育に従事するためにユダの丘に戻るつもりであった。かれらは、ナザレ家族が実質的に無一文であることを知らなかった。マルヤとエリザベツは、息子達について話せば話すほど、2人の青年が共に働き、またより互いに会う方が良いと確信するようになった。
イエスとヨハネは、多く語り合った。そして、非常に親密で個人的な幾つかの問題についても話した。この訪問を終えた時、彼らは、彼らの仕事に「天の父が召喚をかけ」、 社会奉仕で出会うまで再び会わないと決めた。ヨハネは、母の扶養のために家に戻り働くべきであると考えるにいたるまでに、ナザレで見たものにこの上もなく感動した。かれは、イエスの生涯の任務の一役をかうことになると確信するようになった。しかし、かれは、イエスが、何年間も家族の扶養に従事することになっていることを知った。したがって、家に戻り、小さい農場の作業と母の必要に応えるために落ち着くことに大いに満足した。そして、ヨハネとイエスは、人の子が洗礼のためにヨルダン川の側に出向くその当日まで、決して互いを見かけることはなかった。
この年の12月3日、土曜日の午後、再び死が、このナザレ家族を襲った。幼いアモス、赤ん坊の弟が、高熱で1週間の病気の後に死んだ。マリヤは、ただ一人の支えである長男とこの時の悲しみをくぐり抜けた後で、遂に、しかも最も満ちた気持ちでイエスを家族の本当の長と認めた。そしてかれは、実にふさわしい指導者であった。
4年の間に家族の生活水準は、着実に減退していた。年々、かれらは、増大する貧困の危機を感じた。この年の暮れまでには、全て困難な闘いのうちの最も難しい経験の1つに直面していた。ジェームスはまだ多くを稼ぎそうにはなく、他のすべての上に重なる葬儀費用が、家族をぐらつかせた。しかし、イエスは、心配し悲嘆している母にただ言うのであった。「母、マリヤ、悲しみは我々を助けはしない。我々は皆、最善をつくしている。そして、おそらく母の微笑というものは、 我々がより首尾よくする気にさえするかもしれない。日増しに、我々は、より楽しい先の日々への望みによってこれらの課題に向かって元気づけられている。」イエスの剛健で実際的な楽観主義は、誠に伝染的であった。全ての子供が、 より楽しい時代とより良いものへの期待の雰囲気の中で暮らしていた。そして、家族の貧困の抑うつ性にもかかわらず、この希望に満ちた勇気は、強健で高貴な性格の開発に非常に関与した。
イエスは、目前の課せられた仕事に、心、魂、身体のすべての力を効果的に駆使する能力を備えていた。かれは、解決したい一つの問題に対して深い、考える心を集中することができた。そしてこれが、自身の不屈の忍耐と関連して、穏やかに死すべき者の困難な試練に耐え—まるで「目に見えない神を見ている」かのように生き—させた。
4. 第19年目(紀元13年)
この頃までには、イエスとマリヤは、とても折り合いが良くなっていた。彼女は、もうそれほどイエスを息子と見なさなかった。それよりもイエスは、彼女の子供等の父となった。毎日の生活は、実際的で目前の困難でいっぱいであった。二人は、イエスの生涯の仕事について頻繁に話さなくなった。というのも時の経過につれ、二人の思いのすべては、互いに4人の少年と3人の少女の支えと躾に捧げられていたので。
イエスは、この年明けまでに、子供の教育方法—悪行を禁じるユダヤの古い流儀の代わりに善を行なう肯定的な命令—に関して母の容認を完全に勝ち得ていた。家庭においても、公の教えの経歴を通じても、イエスは、変わることなく肯定的な形式の勧告を用いた。いつも、そしていたる所で、「これをしなさい—それをすべきである。」と言ったのである。イエスは、古代の禁制に由来する教育の否定的な方法を決して採用しなかった。悪の禁止の強調を控え、一方で善の実行を高揚した。この家庭の祈りの時間は、家族の福祉に関するありとあらゆる事柄について議論するための機会であった。
イエスは、弟妹に賢明な躾をかなり早い時期に始めたので、彼らからの即座の、または心からの服従を得るための罰は、僅かしか必要とされなかったか、あるいは皆無であった。唯一の例外は、ユダであり、イエスは、いろいろな機会にこの子供には家庭での規則違反に対して処罰を課すのが必要であると認めた。3度にわたる明白で故意の家族内の規則違反に対し、ユダを罰する必要があると考えた時、その罰は、 年長児の一致した決定により、しかも、それが課せられる前にユダ自身の同意があった。
イエスは、為すこと全てにおいてとても秩序があり系統だっていたが、管理支配においては、父親代わりの兄を動かした正義の精神が、子供達全員を大いに印象づける爽快な判断の融通性と適合性の個性を持ち合わせていた。かれは、弟妹を決して気紛れに躾ることはなく、そのような均一な公正さと個人的考慮の理由故に家族全員に慕われた。
ジェームスとサイモンは、好戦的で時には怒りをぶつける遊び仲間を宥めるというイエスの計画に従おうと成長し、かなり成功もしていた。しかし、ヨセフとユダは、家でそのような教えに同意しながら、仲間に襲われると防御しようと慌てた。特にユダは、これらの教えの精神に違反する罪を犯した。しかし、無抵抗は、家族の原則ではなかった。個人的な教えに対する違反に罰は、なかった。
一般に、全ての子供、特に少女達は、まるで愛情深い父親にするように、イエスに幼年期に関わる問題を相談もし、また託しもするのであった。
ジェームスは、均衡のとれた、冷静な若者に成長したが、イエスのようにはそれほど精霊的に傾斜はしなかった。かれは、忠実な労働者である一方、精霊的にあまり気を配らないヨセフよりはるかに良い学生であった。ヨセフは、こつこつと働く者であり、他の子供の知的水準には及ばなかった。サイモンは、善意の少年であったが、あまりにも夢想家であり過ぎた。かれは、人生で落ち着くのに時間がかかり、イエスとマリヤにとってかなりの不安の種であった。しかし、かれは、いつも善良で善意の若者であった。ユダは、火つけ役であった。最も高い理想を持っていたが、気質が不安定であった。かれは、母の決断力と攻撃性の全てを、それ以上を備えていたが、母の釣り合いの感覚と判断の多くを欠いていた。
ミリアムは、高貴で精霊的なものへの鋭い認識をもつ分別があり、穏健な娘であった。マルタは、思案と行動の鈍さにもかかわらず、非常に信頼できる有能な子供であった。赤ん坊のルツは家の陽光であった。言葉について考えはしないが、心は最も誠実であった。兄であり父である人をまさに崇拝していた。しかし、家族は、彼女を甘やかしはしなかった。彼女は、可愛い子供であったが、家族の中で、都で一二を争うほどの美人であったミリアムほどの顔立ちではなかった。
時の経過とともに、イエスは、安息日の遵守と他の多くの宗教面に関連した家族の教えと習慣を自由にし、また変更のために多くのことをし、マリヤは、これらのすべての変化に心から同意した。この頃までにイエスは、疑いのない家長となった。
この年、ユダは入学した。そして、これらの費用の負担のためにイエスは、ハープを売る必要があった。したがって最後の娯楽の楽しみが消えた。心や身体が疲れると、かれは、ハープの演奏を非常に好んだが、ハープは、収税吏による没収からは少なくとも安全であると考えて自分を慰めた。
5. レベッカ、エズラの娘
イエスは、貧しくはあったが、ナザレでの社会的な地位は決して損なってはいなかった。かれは、主要な青年の一人であり、大半の若い女性に非常に高く評価されていた。豪商でもあり貿易業者でもあるナザレのエズラの長女レベッカは、イエスが、強健かつ知的な男らしさのすばらしい雛形であり、また精霊的指導者としてのその評判を考えるとき、自分が徐々にこのヨセフの息子に恋心を抱いていくのが分かっても不思議ではなかった。彼女は、まずミリアムに自分の愛情を打ち明けた。ミリアムは、次に母とこのすべてを徹底的に話し合った。マリヤは、強く興奮した。今や不可欠の家長となった我が息子を失おうとしているのか。悩み事は決して止まないのか。何が次に起こるというのか。そしてマリヤは、結婚がイエスの将来の経歴にどんな効果をもたらすかを熟考するために佇んだ。度々ではないが少なくとも時々、彼女は、イエスが「約束の子」であったという事実を思い出した。彼女がミリアムとこの問題を徹底的に話しあった後、二人は、イエスがそれを知る前にレベッカのもとに直接行き、全体の話を提示し、そして正直にイエスが運命の息子である、偉大な宗教指導者、恐らくメシヤになることになっている、という自分達の信念を話し、食い止める努力をすると決めた。
レベッカは熱心に聴いた。彼女は、詳細な説明に興奮を覚え、自分が選んだこの男性と運命を共にし、指導者の生涯を共有するとますます決心していた。彼女は、そのような男性こそ忠実で有能な妻をいっそう必要とすると(自分自身に)言い聞かせた。彼女は、自分を思い切らせるマリヤの努力を家長と家族の唯一の支えを失う畏怖への自然な反応と解釈した。しかし、彼女は、大工の息子への自分の思いに父が賛成したことを知っており、彼が、イエスの収益の損失分を補償するために家族に完全に十分な収入を快く供給すると正しく判断した。父がそのような計画に同意した時、レベッカは、改めてマリヤとミリアムと談合をした。そして、二人の支持が得られなかったとき、彼女は、あえてイエスの元に行った。彼女は、父の協力を得てこれをし、その父は、レベッカの17回目の誕生日の祝賀のためにイエスを家に招待した。
イエスは、最初に父、そしてレベッカ自身からのこれらの詳述を注意深く、好意的に聴いた。イエスは、如何なる金額も父の家族を直接養う自分の義務、「すべての人間の最も神聖であるものを実現すること—自分自身の肉親への忠誠」の代理をすることはできない、という趣旨の思いやりのある回答をした。レベッカの父は、イエスの家族への献身の言葉に深く感動し、談合から退いた。自分の妻マリヤへのたった一言は、「我々は、あの人を息子として得られない。自分達には立派過ぎる。」であった。
そしてレベッカとのあの重大な話が始まった。ここまで、イエスは、少年と少女、青年と若い女性をほとんど区別してこなかった。彼の心は、人間の結婚における個人の愛の達成を真剣に考慮をするには、実際的な現実のさし迫った問題と「父の用向き」に関わる自己の最終的な経歴への興味をそそる瞑想とにあまりにいつも没頭し過ぎてきた。しかしその時、彼は、あらゆる平均的な人間が直面し決断しなければならないそれらの問題のもう一つに直面していた。誠にもってかれは、「君のように全ての点において試された」のであった。
注意深く聴いた後かれは、レベッカからの表明された賛美に心から感謝し、「それは、私の生涯においてずっと私を励まし、慰めてくれる。」と付け加えた。彼は、単純なきょうだい関係と純粋な友情以外のいかなる女性との交友も自由に始めることはできないと説明した。最初の、そして最高の義務は、自分の父の家族の扶養であり、それが達成されるまで結婚を考えることができないと明らかにした。次に、イエスは、「私が運命の息子であるならば、運命が明らかになるその時まで生涯持続する義務を負ってはいけない。」と付け加えた。
レベッカは悲嘆にくれた。父がセフォリスに越すことを最終的に同意するまで、慰めを拒絶し、父にナザレを去るよううるさく頼んだ。後年、求婚した多くの男性に対して、レベッカには1つの答えしかなかった。彼女は1つの目的だけのために生きた—自分にとりこれまでに存在した最も偉大な男性が、真実の教師としてその経歴を始めるその時を待つこと。そして、彼女は、その日イエスが勝ち誇ってエルサレムへ乗って行ったときも(イエスには気付かれずに)、居合わせており、イエスの波瀾万丈の公のための労務の間中、献身的に追従した。そして、レベッカにとり、天上の数え切れない世界にとっても同じく、「1万の中の最もいとおしく偉大な人」である人の子が十字架に磔けられた運命の悲惨なその午後に、彼女は、マリヤの側で「他の女性達」の中に立っていた。
6. イエスの第20年目(紀元14年)
イエスへのレベッカの愛の物語は、ナザレで、後にはカペルナムで囁かれ、それゆえ続く数年間、多くの女性は、男性達が愛しんだように彼を愛し、かれは、二度と別の立派な女性からの個人的な献身の申し出を拒絶しなければならないようなことはなかった。この後ずっとイエスへの人間の愛情は、敬虔かつ崇拝的な性質を伴なった。男女双方は、自己満足や愛情からくる独占欲の色合いではなく、彼がそうあったという理由でイエスを献身的に愛した。しかし、何年もの間、イエスの人柄の話がされる時はいつでも、レベッカの献身が詳細に語られた。
ミリアムは、完全にレベッカの事件を知っており、また兄がいかに美しい少女の愛さえ見捨ててしまったかを知り、(彼の運命の将来の経歴の要素がわからずに)イエスを理想化し、感動的で深遠な感情で父として兄として愛するようになった。
家族は、ほとんどそれをする財政的な余裕はなかったが、イエスは、過ぎ越し祭りにエルサレムまで行きたいという不思議な強い思いがあった。母は、レベッカとの最近の経験を知っており、イエスに旅をするよう賢明に促した。かれは、それを明らかに意識してはいなかったが、最も望んだことはラザロと話し、マルタとマリヤと雑談する機会であった。自身の家族の次に、かれは、とりわけこの三人が好きであった。
エルサレムへのこの旅の際、かれは、メギド、アンチパトリス、ロド経由で行き、そして、彼がエジプトからナザレに連れ戻された時と同じ道筋の一部を辿った。かれは、過ぎ越し祭りに行くのに4日間を費やし、パレスチナの国際的な戦場のメギドとその周辺で生じた過去の出来事について多くを考えた。
イエスは、エルサレムを通過し、寺院と集いくる参拝者を見るためにだけ休止した。かれは、ヘロデが建築したこの寺院と政治的に任命されたその聖職者を嫌悪していた。かれは、何よりもラザロ、マルタ、マリヤに会いたかった。ラザロは、イエスと同年齢で今は家の長であった。この訪問までには、ラザロの母もまた、埋葬されていた。マルタは、イエスより1歳あまり上であったが、マリヤは、2歳若かった。そして、イエスは、三人にとり偶像的理想であった。
この訪問中、伝統に対する反抗のそれらの周期的な発生の一つ—イエスが天の父を誤って描写していると考えるそれらの儀式的な習慣に関する憤りの表現—が起きた。ラザロは、、イエスが来ていることを知らずにエリコ街道沿いにある村の友人と過ぎ越し祭りを祝う段取りをしていた。そのときイエスは、自分達のいる所、ラザロの家で饗宴を祝おうと提案した。「しかし、」とラザロは言った。「過ぎ越しの祝いの小羊がない」。そこでイエスは、天の父はそのような子供じみた無意味な儀式に本当に関係していなかったという趣旨の長い説得力のある講説を始めた。彼らは、厳粛で熱心な祈りの後に立ち上がり、イエスが言った。「モーゼが指導したように、私の人民の幼稚で暗い心を彼らの神に仕えさせよ。彼らがするのは良いのだが、命の光を見てしまった我々が、死の暗闇を父をに近づけさせるようなことをしてはならない。父の永遠の愛の真実を知って自由になろう。」
その晩薄明かりのころ、この四人は、着座をし、敬虔なユダヤ人による子羊なしの最初の過ぎ越し祭りの祝宴の相伴をした。無発酵のパンとワインが、この過ぎ越し祭りのために用意され、イエスは、自らが「命の糧」と「命の水」と名づけたこれらの象徴の品を仲間に出し、彼らも、たった今与えられた教えに厳粛に従って摂った。以降ベタニヤ訪問ではいつも、この聖餐の儀式に従うことがイエスの習慣であった。家に帰るとこのすべてを母に伝えた。母は、まず驚いたが、イエスの視点が徐々に見えてきた。それでも、彼が、家での過ぎ越し祭りにはこの新しい考えを取り入れない意図を保証すると、彼女は大いに安心した。家では子供達とともに「モーゼの法により」年ごとに過ぎ越しの食事を続けた。
マリヤが結婚に関してイエスと長談義をしたのは、この年であった。マリヤは、家族への責任がなければ結婚するかどうかイエスに率直に尋ねた。イエスは、目前の義務が自分の結婚を禁じているので、その問題についてあまり考えたことがないと説明した。かれは、結婚生活に入るということには疑念があると述べた。全てのそのような事は、「私の時間」、つまり「私の父の仕事が始まらなければならない」時を待たなければならないと言った。肉体をもつ身で子供の父にはならないと既に決心していたので、かれは、人間の結婚問題を余り考えなかった。
この年、かれは、自己の人間と神の本質を簡単で有効な人間の個性になお一層織り込む新たな任務にとりかかった。そして、かれは、道徳面と精霊的な理解において成長し続けた。
ナザレの全財産(家を除く)は無くなったが、この年、かれらは、カペルナムの不動産の持ち分の販売から些さかの財政的な潤いがあった。これは、ヨセフの全地所の最後であった。カペルナムのこの不動産取引は、ゼベダイという名の船大工とであった。
ヨセフは、この年、礼拝堂の学校を卒業し、家の大工工房の小さな台での仕事を開始する準備をした。父の地所は尽きてしまったが、三人が、定期の仕事に従事していたので首尾よく貧困を退ける見通しがあった。
イエスは、急速に大人に、単なる青年ではなく、大人になっている。かれは、責任を担うことをよく学んだ。かれは、失望に直面し、先に進む方法を知っている。かれは、計画が阻まれ、目的が一時的に覆される時、勇敢に耐える。かれは、不公平に直面してでさえいかに公正であるかを学んだ。かれは、精霊的な生活の理想を地上での生活要求に合わせる方法を学んでいる。かれは、必要性からくるより間近で即座の目標達成のために精を出して働く傍ら、理想主義の、より高く、遠い目標の達成をいかに計画するかを学んでいる。かれは、人間のありふれた要求に自己の切望を調整する術を着実に習得している。かれは、精霊駆動の活力を物理的達成の方法に転じて活用する術をほぼ習得した。かれは、地球での生活を続ける一方、天国にいるような生活を送る方法をゆっくり学んでいる。かれは、地球での家族の子供を導き、また指示する父親の役割を引き受けつつ、ますます天の父の究極的指導に依存している。かれは、敗北の状態から巧みに勝利をもぎ取ることにかけて経験豊富になりつつある。かれは、時間の困難を永遠の勝利に変える方法を学んでいる。
年が経過するに従い、ナザレのこの青年は、このようにして時空の世界での命あるものとして人生を経験し続ける。かれは、ユランチアにおいて代表的で、豊富な充実した人生を送る。かれは、自己の創造した生物が潜り抜ける最初の人生、肉体での人生の短くて奮闘的な歳月の間に通過する経験において熟したままでこの世を去った。そして、このすべての人間の経験は、宇宙主権者の永遠の所有である。かれは、我々の理解ある兄であり、思いやりのある友であり、経験豊かな主権者であり、慈悲深い父である。
かれは、子供として知識の巨大な量を蓄積し、青年としてこの情報を選別し、分類し、相関させた。そして今領域の人間としてかれは、この世界、全ネバドン界の他のすべての居住圏の仲間の人間のための次に始まる自分の教育、宗教活動、奉仕における活用の前に精神的な財産の統合化を始める。
この領域の赤子として生まれ、幼年期の生活をし、少年と若者の引き続く時期を通り抜けた。かれは、人間生活への経験が豊かに、人間性への理解に満ち、人間性のもろさへの同情に溢れ、今、完全な成人の敷居に立っている。全ての時代と段階における限りある命を有する者へ天国の父を明らかにする神性芸術に熟練しつつある。
そして今、成熟した人間—この世界の成人—としてかれは、人に神を顕示し、人を神に導く最高の任務を続ける準備をする。