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論文 106 現実の宇宙段階

論文 106

現実の宇宙段階

上昇する死すべき者は、宇宙現実の起源と顕示への神格の関係についての何かを知るだけでは十分ではない。死すべき者は、自分自身と実存的かつ経験的現実間の、つまり潜在的かつ実際の現実の、多数の段階に存在する関係についても何かを理解するべきである。人の地球での位置付け、その宇宙洞察、その精神的な方向付けのすべては、宇宙現実のより良い理解と相互のつながり、統合、統一の方法によって強化される。

現在の壮大な宇宙と現れつつある主たる宇宙は、それはそれで機能的な活動のいくつかの段階にある現実の多くの形式と局面で作り上げられる。これらの多種多様の存在するものと潜伏するものは、以前にこれらの論文に示されてきており、それらは今、概念上の便宜のために次の範疇に集められる。

1. 不完全な無限者。これは、壮大な宇宙の上昇している被創造者の現況、すなわちユランチアの必滅の現況である。この段階は、惑星の人間から未来の目標到達者までの、だがそれを含まない、被創造の存在を包含する。それは、初期の物理的な始まりから光と命の定着までの、だがそれを含まない、宇宙に関係する。この段階は、時空間における現在の創造的活動の周辺を構成する。光と命の壮大な宇宙到達を目撃し、また最初の宇宙段階における発展的成長の何らかの新系列の出現を確かに目撃する現在の宇宙の時代の閉鎖ために、それは、楽園から外側に移動しているように見える。

2. 最大の無限者。これは、未来の目標に到達したすべての経験的被創造者の現在の状況—現在の宇宙年令の範囲内で明らかにされる未来の目標—である。宇宙でさえ、精神的にも物理的にも最大限の状態に到達し得る。しかし、「最大」という語は、それ自体が相対語である—何に関連して最大であるのか。そして、現在の宇宙時代の最大限、表面上、であるそれは、来る時代においての本当の始まりであるに過ぎないかもしれない。ハヴォーナのいくつかの局面は、最大限の段階であるように見える。

3. 超自然なもの。この超有限段階 (先行的に)は、有限進行に続く。それは、有限の始まりの前有限の起源と、全ての見た目の有限の結末、あるいは未来の目標の後有限の重要性を意味する。楽園-ハヴォーナの多くは、超自然なるものの段階にあるように見える。

4. 究極なもの。この段階は、主なる宇宙の意味をもつものを包含し、完成された主たる宇宙の未来の目標段階に影響を与える。楽園-ハヴォーナ (特に父の世界の回路) は、多くの点で究極の意味をもつ。

5. 共同絶対なもの。この段階は、創造的な表現の超-主たる宇宙の領域での経験的な投射を意味する。

6. 絶対なもの。この段階は、7実存絶対者の永遠の存在を意味する。また、それは、結合しやすい経験的到達のいくらかの度合にかかわるかもしれないが、だとすれば、我々は、恐らく人格の接触の可能性を通してはその方法を理解しない。

7. 無限。この段階は、前実存的であり、後経験的である。無限の無特質の統一は、すべての始まり以前とすべての未来の目標後の想定的現実である。

現実のこれらの段階は、現在の宇宙時代と人間の見解のための便利な妥協の象徴化である。人間以外の見解からの、また宇宙の他の時代の見地から現実を見るいくつかの他の方法がある。したがって、これに添えて提示される概念は、完全に相対的である、つまり、次のように条件付きにされたり、限定されるという意味で相対的であるということが認識されるべきである。

1. 人間の言語の限界

2. 人間の心の限界

3. 7超宇宙の限られた発展

4. 楽園への人間上昇に関係しない超宇宙開発の6つの主要な目的についてのあなたの不案内さ。

5.部分的な永遠の観点さえつかめないあなたの不能さ。

6. 単に7超宇宙の進化の展開の現代に関するだけではなく、全宇宙時代に関する宇宙進化と未来の目標について表現できないこと。

7. いかなる創造物も、前-実存的、あるいは後-経験的なもの—始まりの前と未来の目標後に横たわるもの—が、本当に意味するということを把握できないこと。

現実の成長は、一連の宇宙時代の情況に条件づけられる。中央宇宙は、ハヴォーナ時代に何の進化的変化もなかったが、超宇宙時代の現在に、それは、進化的超宇宙との連携により誘発されるある種の漸進的変化を被っている。現在進化している7超宇宙は、いつか光と命の定着状態に達するであろう、すなわち、現在の宇宙時代にむけての成長限界に達するであろう。しかし、疑う余地もなく、次の時代には、最初の外部空間段階の時代には、超宇宙を現代の未来の目標制限から自由にするであろう。充満は、絶えず完成の上に重ねられている。

これらは、事物、意味、価値の宇宙規模の成長と現実の絶えず上昇する段階におけるかれらの統合の宇宙規模の成長についての統一概念を提示しようとする際に、我々が遭遇する制限のいくつかである。

1. 有限機能の第一のつながり

有限現実の第一の局面、あるいは精霊-起源の局面は、被創造物段階では完全な人格として、宇宙段階ではハヴォーナの完全な創造として直接現れる。経験的神性でさえこのようにハヴォーナの崇高なる神の精霊に表現される。しかし、有限の二次的、進化的な時間と物質を条件とする局面は、単に成長と到達の結果として宇宙的に統合するようになる。結局、すべての二次か、完成しつつある無限者は、第一次の完全性のものと等しい段階に達することになるのであるが、そのような未来の目標は、中央の創造では本来的にはない時間の遅れ、超宇宙の本質的特徴を前提としている。(我々は、第三の無限者の存在を知ってはいるが、その統合方法は、まだ明かされていない。)

この超宇宙の時間的ずれは、すなわち完全性到達へのこの障害は、進化的成長における創造物の参加に備えている。それは、このように創造物が、その同一の創造物の発展において創造者との連携を可能にする。そして、これらの展開する成長期間、不完全なるものは七重の神の活動を介して完全なるものに関わる。

七重の神は、空間の進化的宇宙における楽園の神性による時間の障壁の認識を意味する。物質的生存人格というものが、楽園からいかに隔たり、空間的に深く起源があろうとも、七重の神は、不完全で、苦闘し、進化しているそのような被創造物への愛と慈悲深い真実、美、善の働きに従事してそこにいるとわかるであろう。七重の神性の聖職活動は、永遠なる息子を通して内部に向かい楽園の父へと、高齢者達を通して外に向かって宇宙の父—創造者たる息子—へと達する。

人格的であり、精神の進行により上昇する人間は、七重の神格の個人的で精神的な神性を見つける。しかし、人格の進行に関わらない七重の他の局面がある。この神格の組分けに関係する神性の局面は、現在のところ、主たる七精霊と連合結合者との連携で統合しているが、彼らは、崇高なものの出現しつつある人格で永遠に統一される運命にある。七重の神性の他局面は、現在の宇宙時代にさまざまに統合してされているが、すべては、同様に崇高なるものに統一される運命にある。七重者は、全局面において、現在の壮大な宇宙の機能的な現実の相対的統一の源である。

2. 二次的最高有限者の統合

七重の神が、機能的に有限の進化を調整するように、崇高なるものも、やがては未来の目標到達を統合する。崇高なるものは、壮大な宇宙発展の神格の頂点—精霊の核の周りの物理的進化と、そして包囲し、旋回している物理的進化の領域のうえの精霊の核の最終的優勢—である。そして、このすべてが人格からの指令に基づいて起こる。最高の意味における楽園の人格、宇宙の意味における創造者の人格、人間の意味における人間の人格、頂点を極める、あるいは経験的総合的意味における崇高な人格。

崇高なものの概念は、精霊的な人、進化の力、力-人格統合—精霊の人格との進化の力の統一、また、精霊の人格によるその支配—の異なる認識に譲らなければならない。

精霊は、要するに、楽園からハヴォーナを経て来る。エネルギー - 物質は、外見上は空間の深層で進化し、神の創造者たる息子と連携して無限なる精霊の子供により力として組織化される。そしてこのすべてが、経験的である。それは、創造者の神性と進化する被創造物をさえ含む広範囲の生きている存在体にかかわる時間と空間における出来事である。壮大な宇宙における創造者の神性からの支配力は、時-空間の創造の進化的定着化と固定化を取り囲むために緩やかに広げており、これは、七重の神の経験的な力の開花である。それは、宇宙なる父の調整者の贈与から楽園の息子の命の贈与までの時間と空間における神性到達の全域を包み込む。これが、獲得された力、示された力、経験的力である。それは、楽園の神格の永遠の力、計り知れない力、実存的な力と対照を成している。

七重の神の神性到達から生ずるこの経験的な力それ自身は、進化的創造の成し遂げられた経験的支配の全能の力としての統合—統括—により神性の密接した特質を表す。そして、この全能の力は、次には、ハヴォーナ臨場の崇高なる神の精霊人格と一体となっているハヴォーナ界の外郭地帯の水先案内の領域における精霊-人格を見つける。こうして経験的な神格は、精霊臨場と中央の創造の場に居住する神性人格を時空間の力の所産に注ぎ込むことにより長い進化の戦いを完結させる。

こうして、崇高なるものは、結局はこれらの特質に精霊の人格を注ぎ込みながら、時間と空間で進化しているすべての包括に至るのである。創造物は、人間でさえ、この厳然たる営みにおける人格の関係者であるので、そこで、彼らは、確かに、そのような進化する神格の真の子供として崇高なるものを知り、崇高なるものを認識する能力を獲得するのである。

ネバドンのマイケルは、楽園の父の楽園の完全性を共有するので、楽園の父のようなものである。このように、人間は、崇高なるものの進化的完全性を共有するので、進化する人間は、いつかは、経験的な崇高なるものとの親族関係に達するのである。

崇高なる神は経験的である。したがって、崇高なる神は、完全に経験可能である。7絶対者の実存的な現実は、経験の手段による知覚はできない。祈り-崇拝の態度における有限の被創造物の人格だけが、父、息子、精霊の人格現実を理解することができるのである。

崇高なるものの完成された力-人格統合の範囲内では関連することのできた幾つかの三人組みの絶対性のすべては、関連させられるであろうし、進化のこの厳然たる人格は、すべての有限の人格によって経験上達成することができ、理解できるであろう。上昇者が、精霊存在体の仮定された第7段階に到達するとき、そこで絶対性の新しい意味-価値の実現を経験し、三人組みの無限のそういうものとして、経験可能である崇高なるものにおいて準絶対的な段階で明らかにされる。しかし、最大の発展のこれらの段階への到達は、おそらく光と命の壮大な宇宙全体の協調的定着を待ち受けるであろう。

3. 超絶的な第三の現実のつながり

準絶対有限の建築者は、計画を執行する。崇高な創造者は、それを存在に至らせる。崇高なるものは、それが、やがては崇高な創造者によって創造されるように、それが、主たる建築者によって空間の時代に予測されるように、その豊かさを極点まで高めるであろう。

現在の宇宙時代の間、主たる宇宙の管理調整は、主たる宇宙の建築者の機能である。だが、現在の宇宙時代終了時の全能の崇高なるものの出現は、進化する有限者が、経験的な未来の目標の第一段階に達したということを意味する。この出来事は、確かに、最初の経験的な三位一体—崇高な創造者、崇高なるもの、そして主たる宇宙の建築者の結合—の完成された機能につながるであろう。この三位一体は、主たる創造の一層の進化的統合に作用するよう目標づけられている。

楽園の三位一体は、真に無限の1つであり、この本来の三位一体を有しない三位一体というものはあり得ない。しかし、最初の三位一体は、絶対神格の独占的なつながりの必然性である。準絶対的なものは、この第一のつながりとは無関係であった。後に登場の、経験的な三位一体は、被創造物の人格の貢献をさえ受け入れる。確かにこれは、そこでの崇高な創造者の顔ぶれの間の主たる創造者の息子のそこでのほかならぬ臨場が、そしてこの三位一体のつながりの中で実際の、正真正銘の、創造物経験のそこからの同時の臨場を意味する三位一体の究極についての真実である。

最初の経験的三位一体は、究極の結果の集団達成に備える。集団のつながりは、個々の能力を見込む、また、超えさえすることが可能にされる。またこれは、有限段階を超えてさえ本当である。来る時代には、つまり7超宇宙の光と命に定着後には、終局者の部隊は、三位一体の究極者に指示されるように、また崇高なるものの中で力-人格に統一されるように、疑いなく楽園神格の目的を広めていくであろう。

過去と未来の永遠のすべての巨大な宇宙情勢を通して、我々は、宇宙なる父の理解可能な要素の拡大を見つける。私はあるとして、我々は、完全な無限のその浸透性を哲学的に仮定するが、いかなる被創造物もそのような仮定を経験的に包含することはできない。宇宙が拡大し、また、重力と愛が、時間-組織化の空間へ届くにつれ、我々は、第一根源と中枢についてますます多くを理解することができる。我々は、重力の作用が、無特質絶対者の空間臨場に浸透しているのを観測するし、精霊の被創造物が、神格絶対者の神性臨場の中で発展し拡大しているのを探知する。宇宙と空間の進化の双方が、崇高なるものとして有限神格段階において心と経験により統一しており、究極の三位一体なるものとして先験的段階で調整している。

4. 究極の第四段階の統合

楽園の三位一体は、確かに究極段階の意味において統合するが、自己-特性の絶対的なものとしてのこの点において機能する。経験的三位一体の究極なるものは、先験的なものとして先験的段階を統合調整する。永遠の未来において、この経験の三位一体は、統一を増大させることで、究極なる神格のもたらしつつある臨場をより起動させるであろう。

三位一体の究極なるものは、主たる創造を調整する運命にあるが、究極な神は、主たる宇宙全体の方向づけの先験的な力-人格化である。究極なるものの完成された存在に至ることは、主たる創造の完成を含意し、またこの先験的な神格の完全な出現を暗示する。

我々は、究極なるものの完全な出現により何が変化するのかは知らない。しかし、現在、崇高なるものが、ハヴォーナに精神的に人格的に存在しているように、究極なるものもまた、準絶対有限と超人格に存在している。あなたは、究極なるものの有資格の代表の現在の行方や機能について知らされてはいないが、その存在については知らされてきた。

究極なる神格の出現に伴う行政の影響はともかくとして、その先験的神性の人格的価値は、この神格段階の実現における関係者であるすべての人格により経験可能になるであろう。有限の超越は、究極の到達へのみ通じ得る。究極なる神は、時と空間を超越して存在しているが、それでもなお絶対的なものとの機能的の関係の固有の能力にもかかわらず、準絶対的である。

5. 共同絶対のつながり、すなわち第5局面のつながり

究極なるものは、まさに崇高なるものが、進化的-経験的現実の頂点であるように先験的現実の頂点である。そして、これらの2者の経験的神格の実際の出現が、第2の経験的三位一体のための基礎を築く。これが、三位一体絶対者、崇高な神の統合、究極な神、そして明らかにされていない宇宙目標の完成者である。そして、この三位一体には、可能性の絶対、—神格、宇宙、無条件、—を動かす理論上の可能性がある。しかし、この三位一体絶対者の完成された形成は、全ての主たる宇宙の進化、つまりハヴォーナから4番目の、そして一番はずれの空間段階までの進化、の完了後にだけ起こる。

これらの経験的三位一体は、経験的神性の人格特質とだけではなく、それぞれが到達した神格統一を特徴づけるすべての人格以外の特質ともまた相関関係にあることが明らかにされるべきである。この発表は、主として宇宙の統一の人格的局面に対処するものであるが、それでもなお、現在崇高なるものの進化との関係において進行中の力-人格統合に例証されているように、宇宙の中の宇宙の非人格的な局面も同様に、統一を経る運命にあるということは本当である。崇高なるものの精霊-人格的特質は、全能なるものの力の特権からは不可分であり、双方ともに崇高なるものの心の未知の可能性によって補足される。人としての究極の神もまた、究極なる神格の人格以外の局面から離れては考えることはできない。また絶対段階における神格と無特質絶対者は、宇宙なる絶対者のいるところでは不可分であり区別がつかない。

三位一体は、それ自体で人格ではないが、人格に背きもしていない。むしろ、三位一体は、それを取り囲み、集合的な意味において、それを非人格的機能において関連させる。その時、三位一体は、常に神格現実であり、決して人格現実ではない。1つの三位一体の人格的局面は、その個々の成員に固有であり、彼らは、個々人として、その三位一体ではない。それらは、単に集合体として三位一体である。それが三位一体というものである。しかし、常に、三位一体は、すべての包含された神格である。三位一体は神格の統一である。

3絶対者—神格絶対者、宇宙絶対者、無特質絶対者—は、すべてが神格ではないので、三位一体ではない。神格化したものだけが三位一体になることができる。他のすべてのつながりは、三統一か三人組みである。

6. 絶対統合、または第6局面の統合

ほぼ究極的ではあるだろうが、主たる宇宙の現在の可能性は、決して絶対ではなく、我々は、準絶対宇宙の域内の絶対の意味-価値の完全な顕示を達成することは不可能であると考える。したがって、我々は、3絶対者の限りない可能性の完全な表現の着想を試みるに当たり、または、神格絶対者の現在の非個人的な段階における神絶対者の経験的人格化の視覚化の試みにおいてさえかなりの苦労に遭遇する。

主たる宇宙の空間-舞台は、崇高なるものの実現化のために、三位一体の究極なるものの形成と完全な機能のために、究極な神の実現化のために、並びに、三位一体絶対者の開始のためにさえ適切であるように思える。しかし、この第2の経験的な三位一体の完全な機能に関する我々の概念は、大きく広がる宇宙を超えてさえ何かを意味しているように思える。

我々が、宇宙-無限—主たる宇宙を超えての何らかの無限の宇宙—を仮定するならば、また我々が、絶対者三位一体の最終的な成果が、行動のそのような超究極的な段階において生じると考えるならば、三位一体絶対者の完成された機能が、無限の創造における最終的表現を達成し、また、すべての可能性の絶対的な実現を完成するという推測が、そこで可能となる。現実の絶えず拡大する断片の統合とつながりは、このように関連する断片の中で、すべての現実の包含と比例した状態の絶対性に接近するであろう。

換言して:その名が暗示するように、三位一体絶対者は、総合機能においていかにも絶対である。我々は、絶対機能が、どのように条件つきであるか、限られ、その他の点では制限された基盤を踏まえて総体的表現を実現することができるかを知らない。したがって、そのような全体機能は、無条件である (可能性を秘めている)と仮定しなければならない。また、我々は、量的関係に関しあまり確信はないが、無条件であるものは、少なくとも質的見地からも無制限であるように見える。

しかしながら、これについて我々は確信している。実存的な楽園の三位一体は、無限であり、経験的な三位一体の究極なるものは、準無限である一方で、三位一体絶対者の分類は、それほど容易ではない。起源と形成上は経験的ではあるが、それは、可能性の実存的な絶対者にたしかに影響を与える。

人間の心が、そのような遠く、超人的な概念を把握しようとすることはほとんど有益ではない一方で、我々は、三位一体の絶対者の永遠の活動が、可能性に関する絶対者の何らかの経験化に至ると考えられるかもしれないと提唱する。これは、宇宙絶対者、さもなければ無特質絶対者に関する合理的な結論であるように思われる。少なくとも我々は、宇宙絶対者は、静的で、潜在的であるだけでなく、総合的神格に関するそれらの言葉の意味においても関連していると承知している。しかし、神性と人格の考え得る価値に関して、これらの推測される出来事は、神格絶対者—3番目と最終の経験的神性—の人格化と絶対者の神の人格完成に固有であるそれらの超人格の価値とそれらの究極人格の意味の登場を含意する。

7. 未来の目標の最後

無限の現実の統合についての概念形成における幾つかの困難は、全てのそのような考えは、宇宙発展の最終的段階、すなわち、それが、これまでにそうあり得た何らかの経験的実現を包含するという事実に本来備わっている。そして、量的無限が、つねに最終に、完全に実現され得たということは想像もつかない。つねに経験的発展の量が、決して使い果たすことのできない3名の可能性絶対者の探査されていない可能性がなければならない。永遠自体は、絶対ではあるが、絶対を越えるものではない。

最終的統合についての一時的な概念は、無特質の永遠の結実からは不可分であり、したがって、想像し得るいかなる未来にも実際には実現不可能である。

未来の目標は、楽園の三位一体を構成する神性の意志行為により打ち立てられる。未来の目標は、絶対性が、すべての未来の発展の可能性を含む3つの重要な可能性の巨大さで確立される。未来の目標は、宇宙目標の完成者の働きによっておそらく完成され、この働きは、絶対者の三位一体の中の崇高なるものと究極なるものとにおそらく関連しているであろう。どんな経験的な未来の目標も、経験している被創造物により少なくとも部分的に理解できる。しかし、無限の実存段階におよぶ未来の目標は、とても理解し難い。最終段階の未来の目標は、神格絶対者を伴うような実存的-経験的到達である。しかし、神格絶対者は、宇宙絶対者の力で無特質絶対者との永遠関係に立つ。そして、可能性において経験的であるこれらの3 名の絶対者は、限りがなく、時間を超越し、空間を超越し、広大無辺で、測り知れないが故に、—誠に無限であるが故に—実際は実存的、またそれ以上である。

しかしながら、目標到達の見込みのなさは、そのような仮定的未来の目標に関する哲学的な理論づけを阻みはしない。到達し得る絶対的な神としての神格絶対者の実現は、実際には実現不可能であるかもしれない。にもかかわらず、そのような最終的結実は、理論上の可能性のままである。何らかの思いもよらない宇宙-無限における無特質絶対者のかかわり合いは、終わりのない永遠の未来の結実においては計り知れないほどに遠く隔たっているかもしれないが、そのような仮説は、それでもなお、有効である。必滅者、モロンチア体、精霊、終局者、超越者には、宇宙自体と現実の他のすべての段階とともに、価値の上で絶対である潜在的に最終的な未来の目標が確かにある。しかし我々は、いかなる存在体、あるいは宇宙も、完全にそのような未来の目標の全局面に到達するということに疑いを抱いている。

あなたが父をいかほどに理解するようになろうとも、あなたの心は、つねに父-私はあるの明かされていない無限により、すなわち永遠のすべての周期を通して常に測りしれない、また理解し難い探査されていない巨大さにより、いつも驚愕するであろう。あなたが、神にどれだけ到達しようとも、いつも神に関するさらに多くのことが残るであろう。残された多くのことに気づきさえしないであろう。そして我々は、それが、有限存在の領域にあるように、これは先験的段階で同じように本当であると信じる。神への探究は無限なのである。

神に至るそのような無能さは、最終的な意味において決して宇宙の被創造物を落胆させるものではない。実際、あなたは、七重、崇高なるもの、および究極なるものの神格段階に達することができるし、達するのである。そしてそれは、永遠存在のそれぞれの絶対状態における永遠なる息子と連合活動者にとっての父たる神が意味するものが、あなたにとって意味するものである。神の無限は、被創造物を悩ませるものであるどころか、上昇人格には、すべての無限の未来を通して、永遠でさえも使い果たせない、また終了させられない人格開発と神格のつながりの可能性が自分の前にあるという最高の保証でなければならない。

壮大な宇宙の有限被創造物にとっての主たる宇宙の概念は、ほとんどで無限であるように思えるが、確かに、そこからの準絶対の建築家は、将来へのその関連性に、また私はあるの中に想像できない展開に気づく。空間自体でさえ、究極の状態、すなわち中央空間の静かな区域の相対的な絶対性の中の特定状態だけである。

主たる宇宙全体の最終的完成の想像し難いほど遠い将来の永遠の瞬間に、間違いなく、我々は皆、その全歴史を単なる始まりとして、すなわち、単純に未知の無限におけるより一層すばらしく、 より魅惑的な変化に向けて特定の有限で先験的な地盤の創造として振り返るであろう。そのような将来の永遠の瞬間に、主たる宇宙は、まだ若々しく見えるであろう。誠に、それは、けっして終わりない永遠の無限ない可能性に直面していつも若いであろう。

無限の未来の目標到達に至りそうもないということは、そのような未来の目標に関する考えを少しも妨げないし、もし3つの絶対的可能性が、完全に実現されることができるならば、我々は、現実全体の最終的統合を思い描くことは可能であるだろうということを躊躇わずに言う。この発展上の実現は、その統合が、私はあるの潜在性を構成する3つの可能性、つまり無特質の絶対者、宇宙の絶対者、神格絶対者の完成された実現に基づいている。この潜在性は、永遠の停止した現実、つまり全未来の出来事の停止状態の可能性、およびそれ以上のものを含む。

そのような不測の事態は、控え目に言ってもとても起こりそうもない。それにもかかわらず、我々は、3つの三位一体の機構、人格、つながりにおける父-私はあるの7つの絶対的局面の再結合の理論上の可能性を感知すると信じる。そして、これが、実存的状態の楽園の三位一体と、経験的な特質と起源をもつやがて現れてくる2つの三位一体とを包含する三重の三位一体の概念へと我々を向かい合わせる。

8. 三位一体中の三位一体

三位一体中の三位一体の本質を人間の心に描くことは困難である。永遠実現の理論上の無限に表されているように、それは、経験的無限の全体に現実の要約である。三位一体中の三位一体において、経験的な無限は、実存的な無限とともに同一性に至り、また双方は、前-経験、すなわち、前-経験の私はあるの中の一名としてある。三位一体中の三位一体は、15の3統一と対応する三人組みに含意されるすべての最終的表現である。実存的であるか、または経験的であるかということにかかわらず、最終的状態は、相対的存在体にとって理解することは難しい。したがって、それらは、関連性としていつも提示されなければならない。

三位一体中の三位一体は、幾つかの位相に存在する。それは、人間段階をはるかに超える存在体の想像を揺るがす可能性、確率、および必然性を含んでいる。その含意は3統一にあり、3統一は、煎じ詰めると、計り知れないが故に、おそらく天の哲学者には疑われていないという含みがある。

三位一体中の三位一体を描くことができる多くの方法がある。我々は、以下の通りの3段階の概念の提示を選択する。

1. 3つの三位一体の段階

2. 経験的な神格の段階

3. 私はあるの段階

これらは、増進的統一の段階である。実際に三位一体中の三位一体は、第1段階であり、第2および第3段階は、第1段階の統一-派生物である。

第一段階:つながりのこの初期段階における3つの三位一体の機能は、識別可能ではあるが、完全に一致した神格人格の集まりであると信じられる。

1. 楽園の三位一体、3人の楽園神格のつながり—父、息子、精霊。楽園の三位一体とは、三重の機能を含意するということが銘記されるべきである—絶対的機能、先験的機能、(究極の三位一体)、および有限的機能(崇高な三位一体)。楽園の三位一体は、いつもこれらのありとあらゆるものである。

2. 究極の三位一体。これは、崇高なる創造者、崇高な神、主たる宇宙の建築者の神格のつながりである。これが、この三位一体の神性面の適切な提示であるのだが、この三位一体には、とはいえ、神性局面と完全に調整しているような他の局面があるということが記録されるべきである。

3. 絶対三位一体。これは、すべての神性価値に関わりのある崇高な神、究極な神、それに宇宙目標の完成者の集まりである。この三位一体の集まりの他のある局面は、広がる宇宙の中における神性以外の価値に関係がある。しかし、これらは、経験的神格の力と人格的局面が経験的な統合の進行中のちょうどそのとき、神性局面と統合している。

三位一体中の三位一体におけるこれらの3組の三位一体のつながりは、現実の可能で無限の統合に向けて準備をする。この集まりは、原因、中間、最終を含んでいる。開始者、実現者、完成者。始まり、生存、未来の目標。父-息子の協力関係は、息子-精霊、次には精霊-崇高なるもの、それから崇高なるもの-究極なるものと究極なるもの-絶対なるもの、さらには絶対なるものと父-無限なるもの—現実の周期の完成になった。同様に、神性と人格にそれほど直接に関係していない他の局面においては、第一の偉大なる根源と中枢は、自己存在の絶対性から自己顕示の永遠を経て、自己実現の最終段階へと—実存の絶対から経験の最終段階へと—自己実現をする。

第2段階:3組の三位一体の調整は、これらの三位一体の起源に関係する経験的神格の連合的結合に必然的に関わっている。この第2段階の性質は、時おり次のように提示されてきた。

1. 最高なるもの。これは、楽園神格の創造者-創造的な子供との経験的連結における楽園の三位一体の統一の神格の結果である。崇高なるものは、有限進化の第一段階の完成の神格具体化である。

2. 究極なるもの。これは、第2の三位一体の結果的統一、つまり先験的、かつ準絶対の神格の有限人格化の結果である。究極なるものは、多くの特性の可変にみなされた統一にあり、それに関する人間の概念は、管理指導をし、人格的に経験可能であり、少なくとも、緊張して統一している究極のそれらの局面を含むことが賢明ではあろうが、終結的神格には他の多くの非啓示の局面がある。究極なるものと崇高なるものは類似するが、それらは同じではなく、また究極なるものは単に崇高なるものの拡大でもない。

3.絶対者。三位一体中の三位一体の第2段階の第3構成員の特徴に関しては多くの理論がある。絶対者の神は、三位一体絶対者の最終的な機能の人格の結果として疑う余地なくこのつながりにかかわっているが、それでも神格絶対者は、永遠状態の実存的な現実である。

この第3構成員に関する概念上の困難は、そのような構成員の資格は、実際にはただ一名の絶対者を含意するという事実にはつきものである。理論上は、そのような出来事が起こり得るならば、我々は、一者としての3絶対者の経験的統一を目撃するであろう。また、我々は1絶対者が、無限の中に、実存的にいるということを教えられる。それが、この第3構成員が誰であり得るのかについては少しも明確ではないが、それは、何らかの想像できない連携と宇宙顕現の形式における神格絶対者、宇宙絶対者、および無特質絶対者から成るかもしれないと、しばばしば仮定される。確かに、三位一体中の三位一体は、3絶対者の完全な統一がなければ完全な機能にほとんど達することができず、また、3絶対者は、ほとんどすべての無限の可能性の完全な実現がなければ統一できない。

この概念は、静的で潜在的であるばかりではなく、結合したものとしても宇宙を思い描くならば、もし三位一体中の三位一体の第3構成員が、宇宙絶対者と考えられるならば、それは、おそらく真実の最小の歪みを意味するであろう。しかし、我々は、まだ神格全体の機能に関わる創造的で発展的局面との関係を把握してはいない。

三位一体中の三位一体の完成された概念の形成は難しくはあるが、限定的概念を形成することはそれほど難しくはない。三位一体中の三位一体の第2段階が、本質的には人格的であると考えられるならば、これらの経験的な神格にとっての先祖の人格の三位一体の結合である人格の結果としての崇高な神、究極な神それに絶対者の神の結合の仮定は、まったく可能になる。我々は、これらの3名の経験的神格が、第一段階を構成する彼らの先祖であり、また原因である三位一体の拡大する統合の直接結果として第2段階で確かに統一するであろうという見解を敢えて言う。

第1段階は3つの三位一体から成る。第2段階は、経験的に発展し、経験的に終結し、経験的に実存する神格の人格の人格のつながりとして存在している。三位一体中の完全な三位一体の理解における概念的ないかなる困難にかかわらず、第2段階のこれらの3人の神性の人格的なつながりは、究極なるものを介して活動し、崇高なるものの初期の創造的な委任に応じて行動する神格絶対者によるこの第2段階で顕在化された威儀仙の神性化の現象において我々自身の宇宙時代に明らかになった。

第3段階:三位一体中の三位一体の第2段階の無特質の仮説においては、今あり、かつてあった、あるいは無限の全体にあり得るあらゆる種類の現実のあらゆる局面の相関関係が含まれる。崇高なるものは、精霊だけではなく、心と、力と経験でもある。究極なるものは、神格絶対者、宇宙絶対者、無特質絶対者の一体の結合された概念において、すべての現実実現の絶対的最終の状態を含むとともに、このすべてであり、これ以上なのである。

崇高なるもの、究極なるもの、完全な絶対者の結合においては、私はあるにより最初に細分化され、無限の七絶対者の出現にいたる無限のそれらの局面の機能的な再組み立てをもたらし得るであろう。宇宙の哲学者らは、これを最も起こりそうにない確率であると考えるが、それでも、我々は、この質問をしばしばする。もし三位一体中の三位一体の第2段階が、三位一体の統一を実現することができるならば、では何が、そのような神格統一の結果として生じるのであろうか。我々には分からないが、我々は、それが、経験的に達成し得るものとして私はあるの実現に直接通じるであろうと確信している。人格的存在の見地から、それは、知り得ない私はあるが父-無限として経験可能になったことを意味したかもしれない。これらの絶対未来の目標が無人格見地から意味するかもしれないものは、別の事柄と。永遠だけが、もしかすると、はっきりさせることができるかもしれないものである。しかし、人格の創造物としてこれらのとても起こりそうにない不測の事態を見るように、我々は、すべての人格の最終的な未来の目標は、これらの同一の人格の宇宙なる父を最終的に知ることであるということを推論する。

我々が、哲学的に私はあるを過去の永遠において思い描くように、私はあるは、単独であり、なにもその横にはない。心待ちにして未来の永遠を考えるとき、私はあるがひょっとして実存的であるとして変化することができるとは考えないが、膨大な経験の差を予測しがちである。私はあるについてのそのような概念は、完全な自己実現を意味する—私はあるの自己顕示における意志に基づく参加者になった、また、絶対的父の最終的な息子である無限全体の絶対意志の部分として永遠に留まる人格者の無限の銀河を含む。

9. 実存的な無限の統一

我々は、三位一体中の三位一体の概念において限りない現実の可能な経験的統一を仮定し、また、この総てが、はるか彼方の永遠の全くの遠隔で起こるかもしれないと時々理論上想定する。しかし、すべての過去、また未来の宇宙時代であったように、まさしくこの時代に実際の、かつ現在の無限の統一が、それにもかかわらず、存在する。そのような統一は、楽園の三位一体で実存する。経験的現実としての無限統一は、想像を絶するほどに遠くにあるが、無限の無特質の統一は、宇宙存在の現在の瞬間を、いま支配しており、すべての現実の分岐を絶対である実存的威厳で結合させている。

有限の被創造物が、完成された永遠の最終的段階における無限の統一の想像を試みるとき、それらの有限生存に固有な知性の限界に直面する。時間、空間、経験は、被創造物の概念にとって障害である。にもかかわらず、時間なくして、空間から離れ、そして経験を除いては、いかなる被創造物も、宇宙現実の限定的理解にさえ到達し得ないであろう。時間の意識なくして、いかなる進化的創造物も、系列の関係を知覚できないであろう。空間の知覚なくして、いかなる創造物も、同時性の関係を測り得ないであろう。経験なくして、いかなる進化的創造物も、存在することさえできないであろう。無限の七絶対者のみは、ほんとうに経験を越え、またこれらさえ、特定の局面において経験的であり得る場合がある。

時間、空間、経験は、相対的な現実知覚への人の最大の援助であるにもかかわらず、完全な現実知覚への最も侮りがたい障害である。人間と他の多くの宇宙被創造物は、空間で実現され、時間で成果を進化すると可能性を考えることが必要であると分かるが、この全過程は、楽園と永遠で実際には起こらない時間-空間現象である。絶対段階においては、時間も空間もない。すべての可能性は、現実として知覚され、そこにあるかもしれない。

全現実の統一の概念は、この宇宙時代であろうとも、あるいは、いかなる他の宇宙時代であろうとも、基本的に二要素である。実存的であり、経験的である。そのような統一が、三位一体中の三位一体において経験的な実現の過程にあるが、この三重の三位一体の明らかな実現の度合いは、宇宙の中の制限の消滅と現実の不完全に正比例している。しかし、現実の総統合は、無特性に、永遠に、その上実存的に楽園の三位一体の中に臨場しており、そこでは、まさしくこの宇宙の瞬間に、無限の現実が確実に統一される。

経験的かつ実存的観点によって生じる矛盾は、回避不能であり、楽園の三位一体と三位一体の中の三位一体それぞれは、死すべき者が、時間-空間の関連性としてのみ知覚できる永遠関係にあるという事実にもとづいている。三位一体の中の三位一体の段階的経験の実現についての人間の概念—時間の観点—は、これは既に現実化—永遠性からの観点—であるという付加的仮定によって補われなければならない。しかし、どのようにこれらの2つの観点は、折り合いさせ得るのか。我々は、楽園の三位一体は、無限の実存的統一であるということ、また三位一体の経験的三位一体の実際の存在と完了された顕現を認められないということは、一つには次のような相互的な歪みのせいであるという真実の受け入れを有限の人間に勧める。

1. 人間の限られた観点、無特質の永遠の概念をつかむことができないこと。

2. 人間の不完全な状態、経験の絶対段階からの遠さ。

3. 人間の一生の目的、人類が経験の手段により進化するようになっており、したがって、生まれながらに、また本質的に、構成的に、経験に頼らなければならないという事実。絶対者だけが実存的であり、かつ経験的であり得る。

楽園の三位一体の中の宇宙なる父は、三位一体の中の三位一体の私はあるであり、無限としての父を経験できないということは、有限の限界のせいである。実存的で、孤独で、達成し得ない前-三位一体の私はあるの概念と三位一体の経験的な後-三位一体と到達し得る私はあるの仮定とは、全く同一の仮説である。いかなる実際の変化も無限には起こらなかった。明らかなすべての発展は、現実受け入れと宇宙への感謝に向けての高まる能力によるものである。

私はあるは、詰まるところ、全実存前と全経験後に、存在しなければならない。これらの考えが、人間の心で永遠と無限の矛盾をはっきりさせはしないかもしれないと同時に、それらは、そのような有限識者が、これらの決して終わらない問題に、すなわちサルヴィントンと、後には終局者として、広く開けた宇宙におけるあなたの永遠の経歴の途方もない未来に渡り、あなたが、好奇心をそそり続けるであろういう問題に、少なくとも新たに取り組むように刺激すべきである。

遅かれ早かれ、すべての宇宙人格は、永遠の最終的探求は、無限の終わりなき探検、すなわち第一根源と中枢の絶対性への発見の果てしない航海、であると気づき始める。遅かれ早かれ、我々は皆、全創造物の成長は、父識別に比例している。神の意志を生きるということは、無限それ自体の無限の可能性への永遠の通行証であるという理解に我々は到達する。人間は、無限の探求における成功は、父に似ることへの達成に正比例しているということ、またこの宇宙時代において父の現実は、神性の特質の中で明らかにされるということにいつか、気づくであろう。そして、神性のこれらの特質は、神のように生きる経験において宇宙の創造物により直接に充当され、また、神のように生きるということは、実際に神の意志に基づいて生きることを意味する。

物質の、進化の、有限の被創造者にとり、父の意志に基づいて生きる生活は、直接に人格の活動領域における精霊の崇高性への到達に導き、そのような被創造者を父-無限の理解へとさらに一歩連れて行く。そのような父との生活は、真実に基づき、美に敏感で、善により支配されるものである。神を知るそのような人は、これらのすべての生活の特質が、宇宙の知恵、自己実現、神-発見、および父崇拝の絶えず上昇する段階において進化する人格に統一されると同時に、内面的には崇拝により照らされ、外面的には全人格の宇宙の兄弟愛の心からの奉仕に、つまり慈悲に溢れ愛に動機づけられる奉仕活動に専念している。

[ネバドンのメルキゼデクによる提示]